社会人のための坐禅(座禅)道場【人間禅】

 

2020.06.30 Tuesday

立石寺(りっしゃくじ)

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立石寺(りっしゃくじ)

杉山呼龍

 

 芭蕉がかの有名な俳句を詠んだところは、どんな場所だったのかを知りたくて立石寺に行ってきた。仙台駅から山形方面に向かって仙山線に乗って小一時間、途中から山奥の深山幽谷といった風景になり、列車は溪谷を過ぎてトンネルを抜けると山寺という駅につく。ここは地名も山寺で「山形市山寺」という。お寺の正式名称は天台宗宝珠山立石寺、慈覚大師円仁によって貞観2年(860)開かれたという。山全体に伽藍が建てられていて歴史と深い信仰心を感ずる。麓の山門から頂上の奥の院まで石段が1015段あり、この日は神経痛も調子がよかったので何とか登りきった。コロナ禍の影響もあるのか、少ないながら登山者を散見した。

 芭蕉一行は、立石寺に至る前、仙台、松島、平泉と来て尾花沢で鈴木清風という人物を訪ねた。彼は地元の紅花問屋の富商で談林派の俳人であり、時々江戸へも出かけ芭蕉とは旧知の仲であった。彼は富裕の人であったが、志が高く人の情けを知り、長旅の芭蕉らをいたわり、さまざまにもてなしてくれた。芭蕉はたいへんくつろいで俳句を作った。

 

涼しさを我宿にしてねまるなり

 

 芭蕉らはそこで数日を過し、地元の何人かの俳人と交わった。誰に言われたかは分らないが、山形領に立石寺という山寺があり、平安時代からのお寺で慈覚大師の開基で、幽邃で清閑、すばらしところだと聞き、予定を変更して南下すること28キロ(七里)、館岡、天童などを通り日暮れの前に着いた。麓の宿坊に宿を借りて山上の堂に登った。現在の麓は観光地化していて、そば屋なども多いが当時は江戸初期の元禄2年、山道は鬱蒼とした昼なを暗き森林であったろう。芭蕉は書いている。「岩に巌を重ねて山となし、松柏 年旧(ふ)り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉じて、物音きこえず。岸(崖のこと)をめぐり、岩を這(は)いて、仏閣を拝し、佳景寂莫(かけいじゃくまく)として心すみ行くのみおぼゆ。」

 

閑さや 岩にしみ ( いる )  蝉の声

 

(写真は芭蕉像と立石寺全景)

 

 

 

2020.06.29 Monday

鹿児島支部の紹介(2)

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鹿児島支部の紹介(2)

佐賀 諦観

 前回のブログで熊本支部の南進行事として鹿児島市市民文化ホールで2008年6月に第1回の静座会を開催することが出来ました。静座会の名称は「鹿児島市民座禅講座」として翌年の3月まで同じ会場で月1回の静座会を開き、毎回スタッフ以外に12、3名の参加者があり盛況でした。

 2009年の4月からは、熊本支部の行事と日程調整がうまくいくように鹿児島中央駅に近い市の施設サンエール鹿児島を主会場に移し、市民文化ホールと両方使いながら安定した月1回の市民座禅会を続けることができました。

 このころ福岡市では同年5月に福岡禅会が誕生し、7月から筑紫野市の長野邸で葆光庵春潭老師を拝請して参禅会がすでに始まりました。

 また、熊本支部はこの年の11月14~21日に第165回創立60周年記念摂心会を厳修し22日に創立記念式典を行うことになりました。各支部員は記念式の準備、県内各地区静座会の実施、そして鹿児島座禅講座と最も充実した1年でした。

 鹿児島座禅講座も数人の定着者もあり少しは機運も盛り上がってきた2010年度の春季本部会議で鹿児島静座会が認められ、2011年2月18日~19日鹿児島参禅会、20日講演会を行うことが決定されたと思います。

 参禅会会場を改めて調べなおし霧島山麓の県の施設鹿児島自然ふれあいセンター(旧国の青年の家)に相談しましたところ、幸い2月の時期は子供たちの合宿教育も無い時期ですぐに予約出来ました。ただ、教育施設ですので朝の朝礼、国旗掲揚、ラジオ体操、食事時間、夕べの集いはセンターの規則に従うことになりますが、静座、参禅、作務と充分日課を組むことが出来ました。余談ですが、この後、本部摂心会の日課にラジオ体操が組み込まれたように思います。

 開催日の一月前から霧島山系の新燃岳が噴火を始め2月になって爆発的噴火を起こしました。2月11日に最終打ち合わせに伺いましたところ、打ち合わせ中にいきなり建物の振動と窓のキシム音が響きわたりました。爆発ですよ!の声に外に飛び出すと高だかと噴煙が上がり、噴石の落ちる様子が見えました。(写真の黒点は噴石)その後も噴火を繰り返しましたが、参禅会中は静かにしてくれました。

 会場は霧島山系の麓で名前の通り大自然の中に広々した施設です。宿泊施設の中間の和室21畳の二間続きを禅堂として、廊下伝いの二部屋先のベッド寝室を隠寮としました。参加者総勢35名、鹿児島静座会定着メンバー6名、当時茶道部責任者の林大道居士の紹介で地元霧島市から4名、熊本支部会員14名、鎮西支部3名、豊前支部3名、千鈞庵老居士、慧日庵老禅子、林大道居士、それに総裁老師、妙青庵老師、芳雲庵老師でした。

 前回述べましたように、2008年1月の九州互礼会で総裁より「南進!」の号令がかかり、翌年4月には鎮西支部が福岡禅会を立ち上げました。総裁の熱意と総務長による支援体制による力強い後押しを九州各支部会員がひしひしと感じることができ「九州は一つ!」と燃え上がっていたように思えます。鹿児島の次は沖縄だ!という掛け声もありました。そんな機運のなかで、九州各支部の主だった会員が「鹿児島に拠点を!」の合言葉に参集してくれたのです。このおかげで4名の方が後の鹿児島禅会結成時の会員となってくれたのでした。このようにして、19日に2泊3日の参禅会を無事に終え記念写真を撮り参加者各位に謝意を申し上げ、火山灰(よな)を被った車を洗って翌日の講演会の準備のため鹿児島市内へ向かったのでした。 

 新燃岳の爆発的噴火は3月1まで続き、1月27日初回爆発から合計13回発生したようでした。

・・・ では、この後のことはまた次の機会に。それでは皆様、お元気で・・!

第1回鹿児島参禅会記念写真(2020年2月19日)

 

2020.06.28 Sunday

座禅と徒然(つれづれ)(4)〜〜座禅時の線香について〜〜

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座禅と 徒然 ( つれづれ ) (4)

〜〜座禅時の線香について〜〜

丸川春潭

  1. はじめに
  2. 耕雲庵英山老師と線香
  3. 磨甎庵劫石老師と線香
  4. 参禅用の線香
  5. いろいろな線香と出会い
  6. おわりに

 

1. はじめに

 線香には大きく分けて匂い線香と杉線香の二種類があります。匂い線香は、椨(タブ)の木の樹皮を粉末にしたものに、白檀(びゃくだん)や伽羅(きゃら)といった香木の粉末や他の香料、炭の粉末を加えて練り、線状に成型・乾燥させたものであり、我々が日常の座禅時に使っているものです。杉線香は、杉の葉の粉末にしたものにノリを加えて練り、線状に成型・乾燥させたもので、香木や香料を使用した匂い線香と違い香りはないけれど安価であり、ヤニにより大量の煙(煤)を出すため、外での墓参や宗教的な慣例として煙に意味を持たせる場合に使っています。

 人間禅における線香は匂い線香ですが、その使い方は、静座会や摂心会における静座時と参禅時とにそれぞれ異なった目的で使われております。会員が自宅において一人で座る時はその前者とほぼ同じ目的であり(少し違った要素も入ってきますが)、大部分の人は自宅でも線香を焚いて坐っています。ただこの匂い線香といってもピンからキリまでありなかなか奥深いものがあります。

 香は邪気を払うと云う意味や尊きものを敬い信を献ずる意を込めて古くから祭礼とか法事によく使われています。また眠気を覚ますこととか精神を高揚させるということでも宗教行事に使われてきたと云う説もあります。

 また線香は時を計るために使うと云うことが寺院のみならず庶民的な生活の場でも古くからあります。

 

2. 耕雲庵英山老師と線香

 耕雲庵英山老師の著書『数息観のすすめ』には、線香の長さは22cmで、一炷香(1本の線香がともっている間)の時間は44分となっています。そしてその線香は多分菊世界(写真:孔官堂製)だったと思います。小生が入門しそして本部の摂心会に参加し始めた昭和30年代はどの摂心会でも菊世界を通常は使っていました。老大師がこのご著書を書かれた昭和20年代においても同様だったと推定します。

 菊世界は原料に白檀とか伽羅を使用せず、いわゆる良い香りを嗅ぐためのお香ではなく安価な大衆的な線香です。この菊世界の一炷の燃え尽きる時間が44分だったと云うことで、まさに時間を計るという意味が生かされて使われているのです。

 

3. 磨甎庵劫石老師と線香

 小生が学生時代に中国支部摂心会(現岡山支部、耕雲庵英山老師主宰)に参加し、開枕(22時)後に岡山大学の学生(絶学、無為、小林ら)との夜座において、参禅の時の献香に使う高級線香(後述)の残り(短くなって残った線香)をかき集めて夜座の真ん中で焚いて夜の12時過ぎまで坐った時期がありました。

 このことを数年経って磨甎庵劫石老師に話したところ大変興味を持たれ、それ以後線香の銘柄の検討を命ぜられることになりました。その当時はネット検索もできず、仏具屋さんをいろいろ回って調べるしかありませんでした。

 最初は松栄堂の京自慢を磨甎庵老師は好まれて使われ、

次に春陽に行き、最後は同じ松栄堂の微笑にまでレベルが上がって行かれました。

 また後年老師が80歳前後のころ、小生が進級お礼に同じ松栄堂の最高レベルの正覚を差し上げたところ大変喜ばれ、大事に使われていたようで最後に数本ですが遺されておられます。

 磨甎庵老師は座禅時の線香を、本来のお香として厳密に扱われておられました。小生が30代のころ人間禅では線香を焚かないで時計で坐る人がかなり居られましたが、磨甎庵老師は「春潭!坐る時は線香を焚いて坐るのが良いぞ!」と語気を強めておっしゃったこともありました。単なる時間ではなく線香一本の命と一緒に坐るということかなと密かに自分でその意味を工夫などしたことを思い出します。特に線香の最後の燃え尽きる時の有様はまさに人間の死と同じであると。燃え尽きる時の匂いは線香の匂いとは異なる灰の匂いがし、最後にポット明るく耀いてすっと消えるのです。

 

4. 参禅用の線香

 参禅時に献香用に使う線香は仏に供えるという第一義の目的があり、人間禅では最高の線香が選ばれて使われる伝統になっています。したがって禅堂で使う線香が菊世界の時代でも、すなわち耕雲庵老師の時代においても最高級の線香(天司香)を使っていました。昭和30年代の中国支部でも天司香でした。赤いラベルの箱で太く短い黄色みを帯びた豊かな香りの線香でした。高価なものでしたので、参禅が終わったら必ず残りを侍者が回収して直日に返すことが習わしになっており、夜座で学生達が頂いて使っていたのはこの参禅の時の焚き残った短い天司香です。

 その天司香を本部でも永年使っていましたが、20年?ほど前に天司香の製造が中止になり、急遽その代替を決めなければならなくなり、千鈞庵老師といろいろ検討した覚えがあります。従って天司香はまさに幻の名香で語り草でしかありません。

 

5. いろいろな線香と出会い

 小生の20才代から30才半ばまでの自宅での線香は一番安くて手に入りやすい菊世界でした。その後、磨甎庵老師とのやり取りの中で、京自慢とか春陽とかを使った時もありました。東京支部の祖鏡居士から箱入り線香(聚香国)を3回も頂きましたし、萬耀庵閑徹老居士からは高級な長尺の微笑を一箱頂いたこともあり、つい最近では荻窪支部長の中川香水禅子から白檀線香を頂きました。

 線香の香りの原料は白檀と沈香が代表的なもので、この香木の入る量によって値段が決まってきます。沈香は沈水香を短縮したもので、木なのですが水に沈むほど比重の重いのでこの名前がついているのでしょう。伽羅というのは沈香の一種で、沈香の中でも特別に貴重で高級なものです。これら白檀、沈香、伽羅がどのくらい入っているかによって価格が決まっており、こういう香木を使わない線香(菊世界、蘭月)に比べて一桁二桁も価格が高くなります。

 最近気が付いたのは、香木の入った高級線香に沈香(伽羅)系統と白檀系統の二種類あるようで、香りの質が大きく異なっています。一般的には沈香(伽羅)系の方が人気があり庶民では手の届かないような高価なものもあります。好きずきだと思いますが、どうも小生は白檀系に馴染みがあり好みが合うようです。価格はその資源の存在量によって決まり、伽羅が資源的に少なくダントツに高く年々高騰しているようです。

 朝晩線香を焚いてその前で坐るということを考えると、健康についても配慮する必要があります。健康の観点から考えると線香の煙も煙草の煙の害と同じで、煙は吸わないに越したことはありません。線香の銘柄によっても害に差はあると思います。黒い煙が多く出るとか刺激臭があるとか咳き込むとかは特に遠ざけた方が良いでしょう。一般的に香木が入り高級になるほど害は少なく、安価なものほど注意しなければならないと考えられます。燃えた後の灰の色が黒いと炭素(煤スス)が多いと判断できます。医学的な根拠はありませんが、白檀系は香りもソフトで炭素系の煤も少なく健康的だと小生は考えています。

 

6. 終わりに

 坐る前に線香に火を付けますが、その時に不思議にこの線香との出会いの所以やご縁を思い出します。

 そしてその火を付けた最初の線香の香りが一番印象深く、そこから数息観が開始されることになります。三昧になれば線香の香りも全く意識から消えてしまいます。実際にも嗅覚は最初だけが強く知覚しますが、直ぐ馴れて鈍感に感じなくなるものです。他の視覚、聴覚、味覚等の感覚よりも一番早く順応して知覚が急速に低下するように思います。しかし臭覚は五感の中の一つですが、一番精神性に近いと思います。臭覚に集中するあるいは臭覚を大事にすることは人間性を深めることになると思います。

 毎日座禅する部屋が決まって居れば何年か経つとその部屋に香りが沈積して残り、外から帰ってその部屋に入った一歩のところで微かに残香が香りホッと安らぎを感ずるものです。

 線香は香りのみならず煙も雰囲気があり、煙の流れには三昧への誘いが観ぜられます。すなわち煙の揺らぎには人間の知性を超えるものがあり、香りと相まって感性の世界に引き入れてくれる働きがあるように思います。数息観三昧を深める道具立てを斯くの如く線香はいろいろ備えており、だから歴代の祖師方も線香を常に愛用されてきたのでしょう。

 残りの人生の一日一日 線香の深さを味わって生きて行きたいものであります。合掌

 

2020.06.22 Monday

人生の指針ハウツウ(how to)と禅

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人生の指針ハウツウ(how to)と禅

丸川春潭

 6月21日の読売新聞に本の広告(幻冬舎新書『自分のことは話すな』)があり目にとまりました。この手のハウツウ物は八重洲のブックセンターに行けばワンサと並んでいます。この本もその中の一つですが、最近特に会議とか会話において自己主張が目立ち、昔から比べてコミュニケーションレベル(会話能力レベル)が低下しているのではないかと思っていたので、この本に目がとまったのかも知れません。この広告には、「自分に甘いほど話が長い。」「自分をわかって欲しいという傲慢が多い」「私も!といって話題を奪うな」等々が列記されており、さもありなんであり現状を良くうがって見ているなと思いました。これらは処世術としてはまことに結構な話ばかりです。

 この広告のキャッチコピーとして出している「仕事と人間関係を劇的に良くする技術」が物語っているように、まさに世渡りの「技術」の披瀝なのです。現代の多くのサラリーマンがこうした技術を欲しがっているから、こういうハウツー書が書かれそして売れるのでしょう。しかし実際にもこの「技術」が実践されれば有効だと思いますが、読んだからと云って、知ったからと云って、自分で日常の社会活動の中でその知ったことが書かれているように実践できるかというとそれは自分の経験からも別物であり、実践となると大変難しいところです。何故なら、こういう「技術」はおいそれと身に付くものではないのです。所詮知識として判っても、その人の人格が変わらなければその「技術」はいざというときに出て来ないものです。現代のインテリは知っただけで満足して他人を正しく批判はできますが自分はからっきしできないという頭でっかちの類いの人が多いのです。斯く云う小生も若いころはそうであったようにも思います。多くの恥をかき人に迷惑をかけてきたということです。

 これに対して禅は、全く考え方と攻め方がこれらのハウツー書とは真逆であります。すなわち禅は本体の人間を変える、人間形成によって全ての活動の根源を改革するのです。改革と云っても知識を入れ直すことではなく、座禅修行を通じてちっぽけな我を殺し尽くす人間改革を実践するのです。先の広告の「技術」は、禅によっての人間改革をしてちっぽけな我を殺す(空ずる)ことができれば、こういう本を読まなくて知らなくてももそこに指摘されている「技術」は本人の自然の振る舞いの中で既に実践できるのです。それはもう単なる「技術」ではなくその人の「人となりの発露」として自然に振る舞える行為になって来るのです。

 現代社会人はどうしても表面に現れた枝葉(技術)にのみ目を奪われそれが出てくる根源に注目することがないのです。ハウツー書の書き手もそれを買い求める読者も両者ともに枝葉末節にこだわりそれが出てくる人間の本体に注目すしないのです。これでは国レベルでの人間社会の向上は望むべくもありません。

 今人間禅は、人間禅の持っている人格改造にかかわるポテンシャル(ノウハウ)を社会に還元するべく新しい企業研修をやろうとしています。これは一般の研修会社がやっているような処世技術を研修するのではなく、それが出てくる根源を究め、身に付ける研修を目指しているのです。本物の人物育成を希求する経営者には必ず受け入れられるものと考えています。単に技術ではなく創造性豊かな発想がでてくる人材育成、単なるコミュニケーション技術でない有能な組織人育成をめざしているからです。これが行き渡れば世界楽土の建設(正しく楽しく仲の良い地域社会づくり)に近づくというものでしょう。

 

2020.06.18 Thursday

座禅と徒然(つれづれ)(3)〜〜数息観座禅時の呼吸について〜〜

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座禅と 徒然 ( つれづれ ) (3)

〜〜数息観座禅時の呼吸について〜〜

 

  1. はじめに−吸う呼吸に意識を置くか、吐く呼吸に意識を置くか−
  2. マインドフルネスのティクナットハン先生の呼吸は吸う呼吸法
  3. 関西支部の方々との論争−呼吸の長さ論議−
  4. 人間禅の先輩老師方の呼吸法−耕雲庵老師、澄徹庵老師、他の老師−
  5. 道元禅師の欠気一息(かんきいっそく)の意味するところ
  6. おわりに−いろいろな呼吸法の変遷を経て−

 

1. はじめに−吸う呼吸に意識を置くか、吐く呼吸に意識を置くか−

 中国支部(現岡山支部)にご縁があって座禅を始めたころの数息観の呼吸は、吐く息が主体でした。すなわち息を吐くところが長く、吸う息は一度に吸って短い呼吸法でした。吐く息に集中して数息三昧を深めるやり方です。
爾来30数年、吐く息主体でやっていましたが、数息観が深くなればなるほど吸う呼吸が疎かになり苦しくなる感じがして、自分の工夫で吸う呼吸をゆっくり注意深くして一気にフッと吐くやり方の吸う息主体の数息観に変えました。この吸う息主体の数息観になって20数年になりますが、こちらのほうが呼吸に邪魔されることなく数息観を深められると今は考えています。

 

2. マインドフルネスのティクナットハン先生の呼吸は吸う呼吸法

 10年ほど前に、世界的にマインドフルネスが有名になり、NHKがその提唱者であるベトナムの臨済禅師ティクナットハン先生にインタビューをし、その録画を見る機会がありました。この録画で驚いたことにハン先生は明確に吸う息主体の数息観であると云うことでした。吸う息を長く3秒かけて吸い、短時間に一気に吐き出すやり方で、まさに小生が独自に工夫して現在もやっている吸う息主体でした。吸う息に注意深く意識を鋭敏にし、吐く息は雑念が入るので急いで吐き出すと云うニュアンスの話でした。

 

3. 関西支部の方々との論争−呼吸の長さ論議−

 今から40年ほど前、関西支部の若手(広瀬浄照、三木浄光、広内常明)が中心になって、数息観に熱心に取り組まれており、関西では長息が大いにはやっていました。一分間に2、3呼吸しかしないと豪語していました。これに対して、小生は自然の呼吸(一分間に10回弱)が良いという意見で新到者の指導をしておりましたので、やり方が異なると云うことを彼らは気にしていたようで、関西支部の若手連中が本部道場とか擇木道場に当時はよく出てきていましたが、その折、長息が良いのか自然呼吸が良いのかの論議にもなりました。

 この話が、関西支部の大先輩であり重鎮である、きんでんの社長(阪神支部の創立者)の高橋芦舟さん(後に滴水庵老居士)の耳に入り、大阪から潮来の拙宅に「長息でないと駄目だよ!」と云う説得の電話が掛かってきました。そこで電話では論議が着かないと云うことで、小生は「数息観は自然そのものでありロマンである」と云う小論を封書で送りました。数日後、芦舟先輩から小論を読んだ結果として「よく判った。君は長息でなくても良し!」という電話がありました。

 

4. 人間禅の老師方の呼吸法−耕雲庵老師、澄徹庵老師、他の老師方−

 小生の座禅の手引き書は最初から耕雲庵英山老師著『数息観のすすめ』であり、坐相も呼吸法も数息法も全てこの本から始まっております。(実は小生の座禅の最後の学びもこの本だと思っています。)

 この呼吸法は、長息とも書いていないし、吸う息にも吐く息にも偏っていません。ただ段々深くなってゆき、通常の呼吸よりもゆったりしている(44分間で330回)くらいの記述しかありません。

 これに対して耕雲庵英山老師の直弟子の嗣法者である澄徹庵月桂老師は、吐く息主体の長息派でした。また同じ直弟子の熊本の一行庵義堂老師は、自然呼吸派でした。人間禅の年に一度の東京講演会で講演をされましたが、呼吸の仕方を自然にというお話しでした。函館の徳猶庵信堂老師は、坂東道場(現潮来禅道場)にもよく来られ摂心会に参加されていましたが、周りに響き渡るような吐く息主体の長息派でした。

 

5. 道元禅師の欠気一息(かんきいっそく)の意味するところ

 先も述べましたが、小生は座禅及び数息観は全て『数息観のすすめ』に依拠していまして、道元禅師の『普勧坐禅儀』を読んだのはずっと後になってのことであり、有名な「欠気一息(かんきいっそく)」(座禅の始めに先ず息を吐ききり、そして吐ききったままでややしばしそのままで苦しくなってから大きく息を吸ってから座禅に入るやり方)もしていませんでした。豊前の芳雲庵真覚老師は若いころから欠気一息をやられていたようです。 
最近になって、吸う息主体の数息観の工夫の中で、欠気一息を取り入れると吸う息主体の数息観の軌道に早く乗れることに気が付き、時々やるようになっています。これは取りも直さず道元禅師の坐禅も吸う息主体ではないかと推測しています。

 しかも道元禅師は、数息をしない座禅すなわち無念無想にひたすら成り切る座禅であり、臨済禅に対して只管打坐を特徴としています。ただこれも耕雲庵英山老師の『数息観のすすめ』の後期数息観と同じです。在家禅者は通常一人で一日一炷香を行ずるのですが、これには数息観が適しているのは間違いないと思っています。

 

6. おわりに−いろいろな呼吸法の変遷を経て−

 座禅の呼吸の仕方には長息とか吐く息主体とか吸う息主体とかいろいろあります。いろいろ試してみることは必要ですが、肝心なことは自分流を何でも良いから徹底してやり続けることです。そして数息観の三昧が深くなるとまた自然に呼吸の仕方が変わることもありです。
小生の今の呼吸の仕方は、いきなり数息観中期(1〜10)に入り、ゆっくりと吸う息に注意して吸いフッと短時間に吐くやり方であり、これがキチッとできたら次のステップとして息を数えないで十息する間を雑念なしに徹底する座禅です。これは三息を三回と最後に締めくくりの一息という十息の間、息を数えないで坐るやり方です(数息観と数息しない正息観との中間の座禅観法)。そして第三ステップとしては後期数息観に入り、正息観(只管打坐)に徹して坐る。最後に仕上げとして、呼吸から離れるためにひと呼吸息を止めたまま雑念を入れないひと時を坐り、静かに呼吸に戻るがその時には呼吸を意識しない息から離れた離息観(宝鏡三昧)の座禅になっています。
座り始めは呼吸も定まらず念慮もざわざわと出ていますが、以上のステップを通ると三昧が身に付いた状態になります。その始めと終わりの自分の精神状態の差が如何にも大きく、理屈抜きにただ坐るだけでこれだけの精神状態のレベルが上がるのかと日々驚き、こういう行を伝承された仏祖方の報恩をしみじみと感ずると共に、坐らないままのレベルで一日過ごすことはみんなに申し訳ないから坐らざるを得ないとなるのです。従って朝の座禅はみんなのために、夜寝る前の座禅は自分のためにとなるのです。 


丸川春潭
 

2020.06.16 Tuesday

“お天道様” の はなし

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"お天道様" の はなし

廣内常明

 

 慣れ親しんだパソコン(Windows7)が未だ使えるのに、Windows10に代えねばならぬという。"もったいない、もったいない"という時代に育った小生には、何とも気が進まないが、パソコン無しには日常の仕事ができない。仕方なく昨年(R1年)末、安いWindows10を購入した。が使い始めるに丸で、他人の家に放置された如くで、" 何がなにやら、さっぱり分からん、ワテほんまによう言わんワ" と、唸る日が続く。

 

 Windows7で使っていたワードやエクセル(オープン オフィス)もメール(ウインドウズライブメール)もうまく使えない。Windows10とWindows7の二つのパソコンを、ケーブルを外したり繋いだりしながら当座を凌いでいく。

 

 パソコンのメーカー元に購入したWindows10の使用方法を尋ねるうちに、このパソコンでワード等を使用するためには別途新しいオフイスが必要であり、M社の(オフイス2016)を勧められる。

 

 勧められるままに、大手IT通販A社が紹介する中古品店から、M社の(オフイス2016)を購入した。 中古品店の(B)から、プロダクトキー(PD・アルファベットと数字が混ざる25の文字群)がメールで届き、指示通りにパソコンを操作し、得たインストール ID(63の数字群)を返送する。中古出品店の(B)からは、送ったそのインストール IDは時間切れで使用不可だったというメール返答が来る。

 

 これを繰り返すこと3回。

 

 新Windows10への(オフイス2016)のインストールは完了しているのだが、オフイス元であるM社からの認証修得がなかなか完了しないと云う、何故なのか?

 

 この段階でまた、唸る日が続く。

 

 認証がうまくいかないのは、霞む目で行う小生の入力ミス(多くの文字や数字の)が原因に違いないと思い込む。<後から思うに、この段階で諦める人も多いだろう>


 M社のカスタマーサービスに事情を伝え、M社の(オフイス2016)の認証修得について問い合わせた。"通常は3回もプロダクトキーが提供されることはない。しかも提供されたプロダクトキーは国内では通用しないものであり、インストールIDは全て正しくないものである。故にM社としては(オフイス2016) の認証をサポートすることはできない"という説明である。

 

 これらのことを中古出品店の(B)に伝えると、"当店の商品は国内用だ"と云い張る。M社と(B)の言い分が食い違う。中古出品店の商品への疑いが生じ出した。

 

 パソコンに詳しい道友、H居士にも意見を請う。

 

 そうこうする内に、パソコンのワード画面に【あと( )日間内に認証が完了しなければ、新たにインストールした(オフイス2016)が使えなくなる】と云う警告表示が繰り返し現れる事に気が付く。( )の数字は、日を追う毎に減っていく。

 

 A社のカスタマーサービスに、A社の仲介する中古商品(オフイス2016)に疑いが生じている事や今後は(B)を追い込むことになる事を伝え、善処を依頼する。が、そのような(B)への気遣いは無用で、出品店と購入者の間の協議が行き詰まった場合には調停に入るという返事である。

 

 望まないが進むしかないと肚を決め、中古出品店の(B) に、「商品の真偽を明らかにする為に、M社と連絡を取るように」と迫る。<小生と中古出品店(B)とのメールのやり取りは全て、A社のカスタマーサービスにも届いている>

 

 小生が迫ったその日、A社内では(B)も含めて対応策が練られたものと推察する。
 と云うのは、小生が迫ったその日の夜に(B)から、「全額返金する」というメールが、続いて翌日早朝(0時過ぎ)にA社のカスタマーサービスから、「返金の手続きをした」というメールが届いていた。どうも幕引きを急いでいる感じが受け取れた。

 

 A社のカスタマーサービスと(B)宛に、以下の主旨のメールを返信した。
 『今朝までの御社の対応は、小生の期待する「信頼」に沿うものではない。返金の理由に「Refused to accept delivery」とあるが<この英文、「配達物受付拒否」の意か?>、何の事か? 御社に対する「信頼」を、裏切らないで欲しい。合掌』と。
 「商品に対する疑いを晴らして欲しい」という要望に対して、返金という形での応答である。 信頼を裏切られた思いで諦めていた。

 

 ところがである。
 それから数日経って、ワードの画面に、再三 表示されてきた例の警告表示が消えていることに気が付いた。しかもプロダクトID<Office認証済みのしるしか?>も付記されているではないか。これはどういうこと?

 

 カスタマーサービス係り(M社、A社共)には、「購入した(オフイス2016)が使えるようにして欲しいだけだ」ということを繰り返し伝えてきた。小生、幸いにも巡錫期間と重ならず緩まず対応を続けることができたが、もし重なっておれば早々に断念したに違いない。
 要望が叶ったのだから<内情は知る由もないが>、個人的には有難いと言うべきだが・・・。

 

 片田舎に於けるささやかな奮闘であるが、接触し得た多数の皆さんは、生き馬の目を抜く業界の中で厳しい日々を余儀なくされているに違いなく、ご苦労様と申し上げたい。
 それはそうなのだが、そしてIT業界のみならずどんな分野であってもだが・・・、アコギの度が過ぎると "「お天道様」が見てござる" の社会であって欲しいと願う。

 

 翻って我々は、大道の研鑽を行っている祖師禅の修行仲間である。 
 「正しく・楽しく・仲よく」を合言葉に、その実践を目指している。
 その「正しく」とは、天地乾坤を照らし抜く底の「お天道様」であり、これを見失っては修行の根底が崩れてしまう。
 個人の大安心だけではない、人類が拠って立つ大安心への基盤でもある。

 

 誠に有り難きご縁を得ていることに感謝し誇りとすると共に、一人でも多くの方に、この「お天道様」に触れて頂くようにしたいものである。

常明

 

 <国内外の各界で活躍されている道友の皆さんへの影響を案じ、読み辛くなるのは承知の上で、実名は伏せました>
 

2020.06.09 Tuesday

座禅と徒然(つれづれ)(2)〜〜座禅時の足の痛さ〜〜

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座禅と 徒然 ( つれづれ ) (2)

〜〜座禅時の足の痛さ〜〜

丸川春潭

 大学1年生の秋に岡山で耕雲庵英山老師に入門しました。大学に入ると同時にサッカー部に入り、ひたすら走らされたりして太腿はまさに乗馬ズボンのように太く、普通の海水パンツが腿のところで入りにくいような有様でした。足が太いだけでは無いのでしょうが、座禅時の足の痛さは人並み以上だと自覚し自ら慰めてもいましたが、爾来少なくとも15年くらいは座禅の最大の苦痛は足の痛さでした。両足を上げて組む結跏趺坐は足が上がらなくて最初から無理であり、片足だけを上げる半跏趺坐しかしていなかったので、楽なはずなのですが兎に角摂心会の提唱の時を中心に坐禅をする度に痛かったのです。 

 尻に敷く座布団の厚さを色々変えるとか、足の組み方を少しずつ変えてみたり、いろいろやりましたが痛さは変わりませんでした。岡山の大先輩方は、涼しい顔して皆坐っておられたし、どうしたら痛さを回避できるかと問うても、しばらくしたら慣れていたくなくなるものだと云って取り合ってくれませんでした。

 岡山から始まって、耕雲庵老師の道中侍者として、鎮西支部とか熊本支部へも行き摂心会にも参加しました。また本部(市川)道場での学生摂心会などにも出るようになり、同じ年代の道友と懇意になっていろいろ話していると、みんな足の痛さには苦労しているようでした。ただ少し違って感じたのは、中央支部の若い連中は我慢をすることを徹底してたたき込まれていたようで、小生のように年配の修行歴のある方ばかりの中国支部(岡山)に、珍しく入って来た新到の若者であった小生は、座禅中に足を替えることを優しく認められていましたし、小生自身も開き直って足が痛いのを我慢して坐っていても数息観の工夫も公案の工夫もできないので、スパッと足を組み替え、工夫することに集中するんだと考え、一炷香(約45分間)の間に、3,4回も足を替えて涼しい顔して坐っていました。それに対して、中央支部の同年代の道友(佐瀬巨巌、金井古鏡、岸本粛然、柳田絲禽)からは、よく笑われていました。しかしよく見ると、例えば佐瀬家の長男の佐瀬巨巌(小生と同じ歳)は小柄で足が短く太かったのですが、半跏の上げた足を下に外してうまいこと袴で隠しながら坐って足を替えることなく坐っていました。みんな足を組み替えると云うことをしないでも済むように足の痛さに対していろいろ工夫していたのです。

 しかし、事生ぜり!小生が座禅中に足をしばしば組み替えると云うことがしばらくして磨甎庵劫石老師の耳に入ってしまったようです。若い者数人で老師のお宅にお邪魔したときにしっかり絞られました。足が痛いのは座り方が足りないからだ!三炷香くらいぶっ続けて坐ったら後は全く痛くはならない!と。老師は長身で痩身で足が長く細いから手を使わなくても結跏趺坐ができるようなお人でしたから、小生に云わせたらこの足の苦痛は判らないのだと肚で思いつつ、平身低頭で退散して帰りました。

 20代から30代に掛けて、坐禅はしたいが足の痛さで苦労していた小生は、坐相以外の対策として、食べ盛りの時代に常にダイエットを日常の生活の中で工夫していました。満腹感を満たすために味噌汁などの汁物を最初に沢山取って炭水化物をできるだけ減らすなど現在に到るまで、60年間足痛対策としてのダイエットが健康維持に期せずして貢献してきているのは確かでしょう。

 31才の時にそれまでの和歌山から茨城県にある住金の新しい鹿島製鉄所に転勤になり、その当時の最寄りの支部である房総支部へ阪神支部から移籍をしました。それから数年経ってからのことですが、若い新到の平山芳華禅子の坐相をみて驚きました。結跏趺坐を綺麗に坐っているのです。結跏趺坐で両足を膝に上げているのですが、平ったく無理のない自然な坐相に引きつけられました。見よう見まねでいろいろ工夫する中で、一旦きちっと結跏趺坐をして、そのあと前後左右に体を揺らせる(揺身する)と両足が跳ね上がるような結跏趺坐が崩れて足首が太腿から少しズレ落ちて安定して止まるところがあり、芳華さんのような綺麗な結跏では無いのですが、太い足なりに坐相が平たくなりほとんど痛くない自分なりの自然な坐相が出来上がりました。この坐相に馴れこの形が固まってくると、二炷香ぶっ続け(90分)で坐っても大丈夫になりました。30代後半だったと思います。爾来30年近くこの結跏趺坐崩しの自分流の坐相で通しました。これでこのお話しが終わりだと格好が良いのですが、まだ落ちがあります。30年近くと云うことは、60数才であり、15年ほど前になります。60代前半に左足が階段の上がり下りで痛くなり、整形外科に行ってレントゲンで見ると膝の関節の一部が黒ずんでおりました。医師曰わく膝に無理なテンションが掛かり続けて骨の一部がスカスカになっていると。貴方の職業は何ですか?と。

 結跏趺坐では右足を左足の腿に乗せた後すなわち右足首で左足の腿を押さえたまま左足の膝から下を右足に捻るように乗せるのですが、この最後の所で左膝の関節にかなりなテンションが架かるのです。日に何回かを30年続けて経年疲労したようです。それからはまさにドクターストップにより結跏趺坐は止めて、右足を上げるだけの半跏趺坐にしました。60才を超えてからは足も細くなったためか、朝夜の坐禅では足痛を忘れて坐っています。

 

2020.06.03 Wednesday

「夢窓国師出生の周辺」 夢中問答集より(四)

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「夢窓国師出生の周辺」
夢中問答集より(四)


粕谷要道

 「日本における書籍蒐集の歴史」(1999年)「よみなおす日本史」(2019年)「夢窓国師・禅と庭園」(昭和43年)「夢中問答集」(2000年)校註・現代語訳などの著作のある昭和の日本文化史研究の碩学川瀬一馬先生(1999年没)が解説・「夢窓国師の生涯」で、、、、国師は後宇多天皇の建治元年(1275年)、伊勢国三宅村で出生、父は源氏(佐々木氏)、母は平氏、一族の争いから4歳の時、甲斐国へ移住、その八月生母を喪った。父が甲州へ移ったのは、同じ源氏姓の由縁(ゆえん)、武田源氏を頼ってのことであろうと思われる。幼より温和で資質すぐれ、仏典の他孔孟老荘その他世間の技芸才能に至るまであらゆる方面を学んだ。幼少の頃の逸話も種々伝えられている。九歳の時、平塩山の空阿につき出家を志す。顕密の教学とともに樹下石上で坐禅修行をし、少年のころから乾徳山によじのぼり、独坐澄(調?)心、その際、徳和の八右衛門に介抱された(八衛門の子孫は今も続いており、国師は恵林寺を営む際、本堂の内に八右衛門座敷というのを設けて報恩している)。十八歳で南都へ赴き、慈観律師より受戒。戻って平塩寺にいたが、受講の天台の学僧の臨終の覚悟の乱れを見て、たとい多聞博学でも、仏法の悟りは得られない、禅で教外別伝(きょうげべつでん)というのはもっともであると反省し、、、、。
 この下りの前半で、著者の川瀬先生は「国師の人物内容についてははなはだ見方が足りないように思はれるので、国師のまことの姿をあきらかにしたいと考えて、関係資料を探索し、国師の足跡を全国に踏査して研究したのが、上述の拙著である。」とも書いておられる。

 

 乾徳山(標高2031m)徳和村より山頂迄徒歩約3時間強
 

  
 
平頼綱と北条貞時(いずれもWikipediaより)


 川瀬先生の文中の「(国師の)母は平氏。」とは、前回のブログで紹介した「(父は近江源氏・佐々木朝綱、母は北条政村の娘」のことで、時々刻々研究成果が更新される電子百科事典では、「北条政村の娘」の嫁ぎ先は国師の父・近江源氏佐々木朝綱の他、北条実時(1224〜1276)、北条宗政(1253〜1281)28歳又は29歳没、安達顕盛(1245〜1280)泰盛の子。北条時茂(ときもち・ときしげ)(1240〜1270)同姓同名の人物があり、この生没年の人物が当人である。及び北条業時(1241〜1287)とある。いづれも後期鎌倉幕府の若きエース、ホープ達で、その嫡男からは謎に包まれ早すぎる最期を遂げた悲劇の執権北条師時なども輩出している。
 その一方、女子の表記は「政村の娘」のみで、数人いた女子の名前はいずれも不詳で、明かされていない。事実であれば鎌倉幕府執権北条得宗家の驚くべき政略結婚の内実である、さらに奇妙なことに「佐々木朝綱の室」というあるべき記述が無く、「その他」の項目に含まれている。つまり氏名抹消である。後に述べるがこれは裏に北条家の政治的意図があったと考えられる。これらの記録の出処はいずれも幕末の政所(まんどころ)で、正安2年(1300年)頃編纂された鎌倉幕府の公的記録「吾妻鏡」故で、誤植あり、或る時代部分欠落も有りで、現在も続く事績の年代考証、幕府研究の主たる唯一の手掛かりとなっている。

 

 北条義時と北条政村の系図


 
 北条実時の嫡男は前回のブログで紹介した、北条顕時(記録の上では国師の20数歳上の従兄)である。
 顕時は妻が霜月騒動(弘安8年・1285年12月14日)で内官領平頼綱により粛清された安達泰盛の娘・千代野であったため、幕政から失脚させられていたが、1278年より伊勢国守護職につぃていた経緯から任地の伊勢国に居ることが多かったのではないだろうか。1279年頃?幕府外戚の御家人安達一族と内管領の対立が深まるなかで顕時に連座して、災いが及ぶのを避けようとしたのか、4歳の国師と一家は旧知の甲斐源氏(甲斐守護職?)を頼って甲斐国(乾徳山の麓、徳和村か?)へ移住するのである。
 国師の父、近江源氏の佐々木朝綱一家がなぜ伊勢国に居たのかは、祖父佐々木経泰が近江源氏の嫡流から廃嫡されていたことと関係があるようである。
 鎌倉では霜月騒動の後、勝者の平頼綱が執権を凌ぐ勢威を誇り、恐怖政治を敷いていた。これに不安を覚えた第9代執権・北条貞時は永仁元年(1293年)平禅門(へいぜんもん)の乱で平一族を一掃して、頼綱を自刃に追い込む。その後北条顕時は北条貞時の信頼を回復して復権する。(つづく)

 

2020.05.30 Saturday

鹿児島支部の紹介(1)

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鹿児島支部の紹介(1)

佐賀 諦観

 鹿児島支部を担当しています、熊本の佐賀 諦観です。人間禅最南端の鹿児島支部の生い立ちなどお話してみることにします。
 平成20年(2008年)の1月の九州互礼会だったと思います。第五世総裁の葆光庵春潭老師から熊本支部は南に向かって道を進めよ、と垂示がありました。つまりは鹿児島へ社会人のための禅の普及をすすめよとの提案でありました。
 当時、熊本支部はやがて創立60年となる歴史を積んでいましたので、熊本支部から福岡に就職した道友の開いた大宰府静座会、そこから発展して春日市の静座会へと福岡市への足掛かりを広めようと展開していたところで既に入門者もありましたが、南進せよとの号令で福岡市周辺の静座会を北九州市の鎮西支部にお願いして鹿児島への進路をとったのでした。南進とはうまい表現でしたが鹿児島県から熊本道場に通ってきている会員が一人もいなく情報源が何もないのです。当たって砕けろ! それだけでした。

 

 南進に率先して動いてくれたのが、熊本県の南部に住んでいた、宇土市の三光庵老居士と先隣の宇城市で現在の薩空庵道芳支部長の二人。三光庵老居士は故第四世総裁の創設された「くまもと診療病院」の初代事務長を務め定年退職し、薩空庵道芳老居士は3代目の事務長を勤めていました。仕事と修行で同じ釜の飯を毎日食っていた仲といえます。
 二人が鹿児島へ熊本支部の行事と仕事の合間を縫って情報収集に通いはじめました。ある時は臨済宗南林寺の早朝静座会に参加したりして、末寺を紹介されたりもしましたが意にかないませんでした。ある時から小生も参加し鹿児島県内の施設やキャンプ場の建物など見て回り、摂心会会場として可能なところを見つけ廻ったものでした。また、この地に人間禅の根を下ろすことが出来るだろうかとの思いもあり名所施設もめぐりました。市内の一角に西郷さんが座ったという座禅石の小さな名所スポットを訪れた時、禅寺跡に腰掛みたいな石だけがチョコナンとあっただけですが、妙に自信をもったものでした。
 先ずは静座会をはじめようと、静座会が出来る場所をとネットで検索し、鹿児島市民文化ホールの20畳和室を借りることが出来ました。
 第1回は南進の号令から半年後の6月1日鹿児島市座静座会を鹿児島市民文化ホールの5階和室で開催することになりました。この会場の窓は海に向かった全開のガラス張り。正面には錦江湾に桜島がそびえ、青々とした海面を割くように屋久島にむかって高速艇の走る景色は何とも素晴らしい鹿児島の象徴的風景でした。
 この日から熊本支部鹿児島座禅会として、月1回の静座会を開催することになり、ワゴン車に座具を積み込んで3時間かけて南進し、鹿児島の地に人間禅の一歩を踏み出しました。

 

 
 市民文化ホール5階 座禅会場から錦江湾を眺める


 ここに到るもう一つ大変だったのは広報を如何にするかでした。ポスターを市内に貼ろうと市の公設掲示板の抽選会に出かけてくじを引き、開催前1週間の掲示版を確保するのです。くじに当たらなければ3時間かけて帰るだけでした。当たれば土地勘のない市内の掲示板を探しながら、鹿児島市内の掲示板60ヶ所にポスターを張りめぐらします。数回続けました。2回ほどは薄謝で私の知人にお願いしましたが、ポスターの反響はほとんどありませんでした。
 鹿児島県内に最大の発行部数を持つ南日本新聞に「南のカレンダー」という頁があり、県内のイベントを毎日掲載しているのを知り、開催日2週間前ほどに掲載依頼を送ってみました。熊本に居ますため何時掲載になったか確認できなかったのですが、新聞の反響はおおきく、第1回に25名を超す参加希望が直前まで携帯電話にはいり和室の会場満杯でとなりました。熊本では未経験の驚きでした。
 直日は現薩空庵老居士、三光庵老居士が助警、小生は受付と休息時のお茶をだす接待係です。こうして鹿児島市で市民座禅会がスタートし、素晴らしい南進第1日目を終えることが出来たのでした。
 次回からその後のこと、鹿児島のことなど少しずつお話してみたいと思います。
 それでは、みなさまお元気で・・・。 合掌

 

2020.05.27 Wednesday

夢窓国師と鎌倉幕府滅亡への時代 夢中問答集より(三)

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夢窓国師と鎌倉幕府滅亡への時代

夢中問答集より(三)

粕谷要道

 時の最高権力者足利直義の要請で康永三年(1334年)に編集出版された仮名法語「夢中問答集」の作者臨済宗の禅僧・夢窓国師疎石(そせき)の現在伝えられている30歳頃までの略歴である。

 法号は夢窓、法緯は疎石、建治元年(1275年)生まれ〜観応2年(1351)没。鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗禅僧。

 生まれは伊勢国、(一部の資料には)三宅村。

 父は佐々木朝綱、母は北条(平)政村の娘。佐々木(六角)頼綱の兄・経泰の孫とある。幼少時に出家し、母方の一族の争い(霜月騒動)で甲斐国(山梨県)に移住する。1283年(8歳)に甲斐(現在の甲斐市)河荘内の天台宗寺院平塩寺(現在は廃寺)に入門して空阿に師事し、真言宗や天台宗などを学ぶ。1292年(17歳)に奈良の東大寺で受戒、京都建仁寺の無隠円範に禅入門。その後鎌倉へ赴き、円覚寺の桃渓徳悟、1299年(24歳)には建長寺の一山一寧のもとで首座を勤める、1303年(28歳)鎌倉万寿寺の高峰顕日に入門、1305年(30歳)に浄智寺で嗣法、印可を受ける。

 以上が夢窓国師が30歳で高峰顕日の印可証明を受けるまでのよく知られた略歴である。ただ、生まれてから8歳で空阿に師事するまでの略歴は資料が乏しく諸説あるようであるが、国師活躍の時代背景を知るうえで興味深いので、検索して調べてみることにする。

 生まれは伊勢国(現在の三重県の中央部にほぼ相当する)で、母は北条(平)政村の娘だとする説。名前は不明。ただ、後述するように北条顕時(1248〜1301)の略歴に、父;北条実時、母;北条政村の娘との記述がある。また、北条政村の略歴の子供;の項にも、北条実時室。の記述があり、「鎌倉、室町人名事典」「吾妻鏡」より。とある。

 

近江国と伊勢国を結ぶ鈴鹿山脈越えの千種街道

 

 三宅村については当時の地名に該当する場所、資料もなく、三重県鈴鹿市に三宅神社が現存するのみで、その近辺とも考えられるが確証はない。

 北条政村(1205〜1273)は鎌倉幕府2代執権北条義時(尼将軍と呼ばれていた政子の実弟)の五男である。平氏姓は初代執権頼政が名乗っていたようであるが、元来伊豆国の土豪であったとの説がもっとも有力である。

 政村の母は伊賀の方で、政村はまた3代執権泰時の異母兄。12代熙時、13代基時の曾孫でもある。

 政村のネット検索での資料、略歴には子供の項に北条時村、政義、政頼。はあるが、娘の名前の記載はないが上述の如く、北条実時室とあり、夢窓国師と北条顕時とはともに北条政村の母方の孫となるが、「鎌倉、室町人名事典」「吾妻鏡」ともに誤植、記載ミス、事実誤認はザラにあるようで、今後の研究課題であろうか。

 霜月騒動とは鎌倉後期、弘安8年(1285年12月14日)に鎌倉で起きた鎌倉幕府の政変である。8代執権時宗の死後、9代貞時の時代、有力御家人安達泰盛と内管領平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃により泰盛一族与党が滅亡した。弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介の乱ともいう。

 伊勢国歴代守護一覧には鎌倉幕府の項に次の箇所がある。

 〇 1221〜1238 北条時房(北条時政の子、政子、義時の異母弟。)

 〇 1278〜1301 北条顕時(文永2年、1265年以前より左近将監として伊勢守護となるとの別資料もある)

 〇 1301〜1330 北条貞顕(顕時の子)

 〇 1331〜1333 北条貞冬(貞顕の子)

 既述のように、北条顕時(1248〜1301)の父・実時の室は政村の娘であり、顕時の母であるので、夢窓国師の母とは、姉妹関係になり、顕時が伊勢国守護の任期中母親と同居し、国師母子も伊勢国に住居したことを示す資料はないが、十分考えられることである。

 顕時は鎌倉時代中期から後期にかけての武将で北条氏の一門・金沢(かねさわ・かなざわ)流(ながれ)北条氏の第3代当主であり、金沢顕時とも称される。父実時は第2代当主で鎌倉幕府の重職を歴任したが、金沢文庫の創設者でもある。

 1285年12月14日の霜月騒動では顕時の正室が安達泰盛の娘・千代野であったため、 安達泰盛が霜月騒動で粛清されたことにより顕時は逼塞を余儀なくされたが、10歳前後であった国師と両親も騒動の影響を受けて。甲斐国へ移住することとなったのであろう。

 顕時はその後、第9代執権・北条貞時の信頼を回復して復権したのであった。(つづく)

 

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