自利と利他

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自利と利他

丸川春潭

 令和2年2月の東京支部摂心会の講演として「自利と利他」について話して欲しいという要望がありお話ししました。このブログはその要約のつもりで認めます。

 先ず自利というものは、自分の人格形成・人間形成を図る行為であり、利他は他人の人格形成・人間形成を図るのを助ける行為と定義しておきましょう。

 自分が食べたものが美味しいと感動したら、これを周りの人に食べさせてあげたいと思うのは人間としての本能だと思います。自利の実践した結果を振り返って良かったと感動したら、自然と周りの人にこの感動体験を勧めるのが本能であり、この行為が利他になるのです。

 したがって、利他は自利と繋がっているという考えが、この話の骨子になります。すなわち、自利と繋がっていない他に対する働きかけは利他とは云えないと考えています。自利と繋がらない他人への働きかけは、お節介とか押しつけであり、またそれが上から目線の場合は指導・教導と呼ばれるべきと考えます。 もちろん指導を受けたりお節介をしていただいたお陰で、人間形成への道にご縁が出来たり、行き詰まりを打開できたりすることは良くあることであり、利他でなければならないと云うことではありません。

 ただ云えることは、利他行をしなさいと勧めるのは本来的に云えば筋違いなことです。利他行は、あくまで自利から自然に湧き出てくるものです。

 客観的に、利他行が全く出来ていない人がいますが、こういう人は自利で本当に良かったという感動が少なく弱い場合ではないかと思います。人間形成というものは、自分の殻を破り目から鱗が落ちるもので、それが破られる前には師家に参じても振られるだけで苦しいものです。しかしそこの百尺の竿頭の先に一歩踏み出すことによって愕然と殻を破るものであり、このときの快哉はこの修行をしてきて良かったと人によって強弱はありますが例外なく思うものです。したがって強弱はありますが、人間形成の禅の修行を継続している人は遅かれ早かれ何度かはこの自利の喜びが必ずあるものであり、したがって例外なくそこから利他心が生じ利他行が出てくるものです。

 ただこれは公式図式であり実際にはいろいろな形があると思います。小生の場合の自利と利他の事例を参考までに申し上げますと、入門したのが大学1年の秋、見性したのが翌年の3月末でいずれも中国支部(現岡山支部)耕雲庵英山老師でした。大学の同級生の三上栄子さん(現、家内の鶯林庵玉淵)を阪神支部の例会に誘ったのが2年生の秋?で、彼女が入門したのが大学3年の夏休み、見性したのが4年の夏休みで場所はいずれも房総支部主催の長野県飯田市長久寺で磨甎庵劫石老師でした。これが小生の最初の利他行でしょう。

 次は、昭和38年4月住金和歌山製鉄所に入社してからで、1年くらい経ってから社宅に同期の友人や職場の同僚を誘って座禅を一緒にしました。自分の一日一炷香を確実にする効果は間違いなくあります。この輪が広がり2、3年くらいしたら座禅会になり、いろいろな場所を借りて座禅会を月例でするようになりました。5,6年した時点で座禅会の仲間と一緒に和歌山市内のお寺を中心に座禅会場探しを20数カ所やり、窓誉寺にたどり着き、和尚と意気投合して週例静座会がやれるようになりました。会場確保の後に磨甎庵劫石老師にお願いして参禅会(内参会)をやりつつ入門者が増えてきた時点で、阪神支部の和歌山分会(南海禅会)となり、昭和45年には修禅会を開催し、その後の南海支部創立の起点となりました。これが一連になりますが結果として第二の利他行になったと思います。三番目が和歌山在住9年で茨城県の鹿島製鉄所への転勤となり、社宅での身の回の同僚や後輩を誘っての座禅の友づくりが始り、これが坂東支部に発展して行くのですが、詳細は割愛します。

 これらは要するに、自利の感動を周りの人に勧めるというよりは、自利の感動を長く続けより大きくするために周りの人に声を掛けたという感じがします。もちろんその人のために勧めるという気持ちも間違いなくありますが、自利のつづきに利他がくっついているというのが小生の場合の実態であったと振り返って反省しています。自利を離れて利他はないのですが、利他行は百人百様の形があると思われます。合掌

 

坐禅を志す君に

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坐禅を志す君に「一日一炷香」を!

井本光蓮

 坐禅の修行は、とにかく、数息観(※註1)の時は数息観に成りきれ、公案(※註2)工夫の時は公案に成りきれと云われる。しかも「一日一炷香」と云って、毎日線香1本分(約45分間)を坐れと云われる。つまり「成り切る」ことと、「続ける」ことは、車の両輪なのだ。一つでもむつかしいことを、二つ同時に要求される。だが、この二つの事は、それぞれ別の事だろうか?

 先ず、「続ける」ということが如何に大切であるかは、多少とも剣道や茶道などを稽古した人なら誰でも知っているだろう。その「続ける」ということを煎じ詰めると、結局は一念一念を相続(持続)するということになる。

 「念々正念」という言葉があり、その深い意味に今は触れないが、この言葉には「成り切る」という意味と「続ける」という両方の意味がある。成り切れなければ続かないし、続けなければ成り切れないのだ。

 折角坐禅に志したのだ。頑張って石にかじりついても、「一日一炷香」を続けよう!そうすれば、三昧(※註3)(成り切る)の境地は、君の骨折りに正比例して必ずや君のものとなるだろう。そして遂には転迷開悟の実を挙げて、僕らの理想である「念々正念」の境地に、一歩でも半歩でも近づこうではないか。心の底からそう願っている。

 

 註1 数息観:坐禅を組んで静かに自分の息を数える。印度で古くから行われた観法で、それが仏教と共に中国へ日本へと伝えられた心身の鍛錬法。

 註2 公 案:入門して師家から修行者に授けられる転迷開悟のための問題。

 註3 三 昧:三昧には、第一に心を一事に集中してみだりに散乱させぬ働き、第二に病気の我が子を看病する母親のように、自と他が一枚になる働き、第三に「風疎竹に来る、風去って竹声をとどめず」の句のように、外界の刺激を正しく受納し、しかもその刺激が去れば後にいささかの痕跡もとどめぬ働きがある。

 

惟精です。

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令和2年2月13日 毎週木曜日 18時30分〜19時30分 柔道場 

内原静座会 5名(会員3、名誉1、学生1)

ちょっと暖かくなりました。偕楽園の南崖は梅が咲いて「梅まつり」にいます。

内原静座会は21年目になります。責任者は惟精から、ここ2年は日本農業学園学園長籾山先生になり、籾山先生は入会しました。静座後に法定の形をやりますので、そちらが目的の人も来て静座をします。学園の生徒、他学校の研修生が時々参加します。

 

2月14日

水戸静座会 4名(会員1、女性2、女性新到1)

毎週金曜日15時〜16時30分(休止はHPをご覧ください) 神応寺本堂

水戸静座会は42年目になります。亡くなりましたが慈香庵梅屋老居士、稲葉青嵐居士が始めたものです。慈香庵老居士と神応寺のご住職が友達であったので、今でも本堂を拝借しております。私が高校教員でしたので、受験をひかえた生徒がぞくぞくと静座をして帰りました。今は生徒との接触がないので、学生は来ません。

現在は時間を短くし、座布団と椅子の静座と両方をやって、家で続けられるようにと思っています。静座後立ち話などをしましたが、無言でシーンとして終わっても人間のつながりができませんので、裏千家 盆略手前で私がお茶をたてております。お茶で身体が温まり、おいしいと喜ばれています。

 

益子(栃木県)静座会

当地の人が外国に長期研修ですので、帰国次第「静座とお茶の勉強会」を再開します。

またね。 

 

人間禅栃木道場

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人間禅栃木道場

     堀井 無縄

 

令和元年11月、人間禅栃木道場が完成し、各地より多くの関係者や来賓の方々にお越し頂きました。宇都宮駅から車で5分、徒歩20分、バス停より徒歩2−3分という立地に恵まれた閑静な住宅街に位置します。有志の方々のご参加をお待ちしております。

禅は、坐禅によって心の平安を得、本当の自分を自覚し、人として充実した人生を味わうことを目標にしています。これにより日々生きる力が湧き上がり、平和な心で楽しい人生を生きられる素晴らしい修行であります。

どなたでも参加でき、門が大きく開いています。

 指導 人間禅師家 了空庵堀井無縄

副担当師家 卯月庵杉山呼龍

お問合せ 臼杵宗呉應(090‐5432‐3027)

所在地 宇都宮市今泉町411

 

「次を考える」(その4)

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「次を考える」(その4)

丸川春潭

 脚下のスリッパの脱ぎ方においての「次を考える」から、禅における伝法の壮大なドラマにおいても、更に国を超え人種を越えての地球の持続においても、全く同じ「次を考える」ということであり、「次を考える」ということは人類においての一気通貫な人間の高次の所作である。ではこの高次の所作を出せる人間になるには一体どうすれば良いのであろうか?これはゆるがせに出来ない大切な課題である。

 「次を考える」にはいろいろある、自分のために、他人のために、次世代のために等々、それぞれ考える視点は異なるが、これは誰にでも出来るというものではない。これが出来る人間の素養はどうなのかは大きな疑問であり興味ある課題である。いろいろな角度からいろいろな要素が浮かび上がってくるが、ここでは二つに絞って考えて見た。

 一つは「今に囚われない」である。

 今に真正面から対峙して取り組んでいながら、その今に埋没することなく、来し方行く末が冷静に見えている精神状態がこれである。今にのめり込みすぎて次まで見えないということでも駄目であり、次を気にして今が疎かになっても駄目であり、今と次が完璧に両立できなければ、「次を考える」にはならない。

 もう一つは「自我に囚われない」である。

 自我(エゴ)というものはどうしようもないものであり、どんなに注意していても出ないようにとか無くするとかはできない。人間は生きている限り自我(エゴ)が働くものであり、これが人間の自然なのである。逆に言うと自我は嫌うべきものではなく必要なものでもある。ただ人間形成が積まれていないとこの自我に振り回されてしまって自他を傷つけることになる。自己中心というものはその振り回されている一つの典型である。自我に振り回されているレベルでは決して次は考えられない。この自我の出てくるのをいち早く察知してこの自我を常に空じなくては次はしっかりと見えてこない。

 少なくとものこれら二つ「今に囚われない」と「自我に囚われない」は、人間形成の素養としてしっかり備わっていなければ、高次の人間の所作としての「次を考える」ことは出来ない。

 振り返ってこの二つの素養は、人間形成の禅の目標と云っても良いものであり、容易なことでは我が物とすることは出来ない。例え弐百則の公案を見尽くした罷参底の上士といえどもこれを毎時毎分毎秒において実践することは容易ではない。永年の真剣な座禅の積み重ねで如何に深く三昧が身に付いているかどうかである。

 更に、在家禅者として次を考える場合には、なにがしかの社会性が大なり小なり付いてくる。そのためには人間形成の素養だけでは正しく考えるという点では不十分になる。すなわち素養としての二つの必要条件に加えて十分条件がなければ、これを正しい所作として実践することは出来ない。その十分条件とは、人間禅の創始者の耕雲庵英山老師が常々述べられていた世界観・歴史観をしっかり持たなくてはいけないということである。こういう勉強が必須なのである。この知識がなくては地球環境の問題にしても、政治的な判断(例えば憲法改正の問題)において、一市民として正しく次を考えた一票を投ずることが出来ない。投票のみならず、脱俗出家者ではない在家禅者は常に、生活において、仕事において、脚下から次世代まで、小から大まで、短期から長期まで責任を持って次を正しく考え対処しなければならない。これができなければ在家禅者とは云えない。

 次を考えること一つを取って見ても、在家禅者の道は究め続け求め続けるべき道である。この道を一人でも多くの人と把手供行できれば、この道はだんだんと太く大きくなり、その先に世界楽土が見えてくると云うものであろう。(完)

 

那須の雲岩寺訪問

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那須の雲岩寺訪問

杉山呼龍

 

 那須の雲岩寺に行った。今、芭蕉の研究をしている。研究には現地調査が不可欠である。芭蕉の研究は、なにせ三百年以上の歴史がある。その研究史を調べただけだって一冊の本ができる。しかし、まだ解ってないことも多い。神田川のそばに関口芭蕉庵がある。深川の芭蕉庵の前に住んでいたといわれる。その関口芭蕉庵について書かれている伝記は殆んどない。彼が亡くなったのは1694年、元禄七年だ。芭蕉は「奥の細道」の旅の途中で雲岩寺を訪れている。彼の師匠である仏頂和尚が修行し、亡くなった寺であるからだ。その雲岩寺へは、新幹線の那須塩原の駅からバスで1時間、田舎道を通って幽邃な山奥に入る。行く人はたいてい車であり、寺の入り口には2,3台の車が駐車していた。そこに清らかな川が流れていて、その川に朱塗りの橋が掛かっている。渡ると長い石段を登る。途中門があり、門の右側に「碧巌録提唱」という看板が掛かっている。とても古くて字がかすれている。階段を登り切って更に奥に入ると、建物があって「受付け」と書いてある。中に入ってみると誰も居なくて、そこには参禅の時に使うような喚鐘が置いてあった。そばに説明書きがある。

 

 「御朱印をほしい方は喚鐘を叩かないで下さい。用事のある方は喚鐘を叩いてください」。

 

 ご住職に聞きたいことがあり、可能ならば面会をお願いしたいと思っていたので、喚鐘を2回叩いた。返事がないのでまた2回叩いた。それでも返事がないので5、6分位散歩して、こんどは力まかせに2回叩いた。それでも全く返事がない。不満だったが仕方なく諦めてその辺を少し散策して、先ほど登った石段を下りた。途中観光客を2,3人見かけたが、雲水に逢うことはなかった。帰りのバスに乗った。バスの運転手は地元の人であったので、この寺に雲水は何人いるのか聞いてみた。そしたら一人だという。この山奥の広いお寺に老師と雲水一人。どうりで喚鐘を叩いても返事がないわけだ。そういえば、駅に置いてあったパンフレットに雲岩寺が載っていたが、その電話番号が線で消されていた。雲水一人では電話の対応もできないのだろう。雲水が一人とは驚いた。雲岩寺は12世紀、平安時代創建の妙心寺派の古刹である。雲水は掛塔自由であるので、明日どこかに行ってしまうことだってある。この広大な寺の作務はどうなるのだろう。寺の経営はどうなるだろう、人ごとながら心配になった。

 

「次を考える」(その3)

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「次を考える」(その3)

丸川春潭

 西郷南洲遺訓の第5条に「子孫に美田を買わず」という語があり、最初これを聞いた高校生の頃には不審に思ったものである。自分は倹約しつましい生活をしていて少しでも子供達のために残したいと一生懸命な両親の後ろ姿を見て育っている若者には、子孫に美田を買ってやるのが本当の親ではないかと思うのは当然であろう。

 南州翁は、 ( わたくし ) を優先した人生ではなく世のため人のための ( おおやけ ) を第一義としてそれに命を捨てる気概を込められてこの詩を作られた、と見るのが一般的識者の見方であるが、小生は更に美田とは名誉・金銭・家財・学歴等の現世の飾り物を指し、南州翁はそういう世俗の飾り物を遺すのではなく自分の生き様・志を遺したいと思われていたのではないかと考える。南州翁はそのように次を考えられたのではないかと。

 考えてみれば、「次を考える」ということは、他の動物には無い人間特有の所作である。したがって次を考えた所作ができると云うことは人間らしいと云っても良いものである。しかし世の中を見渡してこれをやることが容易ではないことは明白である。資源の枯渇・地球環境問題においてもそうであるし、身近では、人間禅しか出来ない在家禅の法灯の伝承においてもそうである。「次を考える」がどれだけしっかり出来るかどうかは極めて厳しい課題である。容易なことでは無い。

 数日前に住友17代吉左衛門さんと二人で昼食をご一緒する機会があった。住友家17代とは400年近くの長きにわたって家系が続いていると云うことであり、世界に類を見ない凄いことである。歴代の家長の志がその時々の時流も踏まえて正しく、しかも次を考え続けられてきたからこその400年であると考える。当然当代も次を真剣に考えられておられるのは勿論のことである。自分の人生は高々100年であり、その限りある人生を全うすることと同時に17代が粛々と次を考え次を考えして家系が継がれてゆく。短い一代一代が継がれて振り返ってみればあたかも太い縄の如くに歴史となって残ってゆく。まさに「次を考える」の継続の形である。

 人間禅の現総裁千鈞庵霞山老師は、日本の初祖である大応国師(南浦紹明)から数えて第31世であり、中国の初祖である達摩大師から数えて第58世であり、釈迦牟尼世尊の法を継いだ摩訶迦葉尊者から数えると第86世になる。まさにこれは、「美田を買わず」の精神で次に志(法)を継ぐことに命をかけた壮絶なドラマである。すなわち次を考えるが積み重なった結果としての奇跡である。(つづく)

 

「次を考える」(その2)

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「次を考える」(その2)

丸川春潭

 学校を卒業し住友金属工場和歌山製鉄所に入社し和歌山に9年間居る間に聞いた話ですが、紀ノ川の上流に位置する高野山のお寺(真言宗の本山)の周囲には檜(柱に最適の建材)の山が100ほどもあり、その山の檜を1年でひと山づつ伐採し販売してお寺の食輪(財源)を賄っているそうである。そして伐採した山には常に檜の苗を植える。すなわち百年物の檜を一年一山販売し続けることが永遠にできるようになっている。見事な次を考える知恵である。

 また以前にも引用したことがあるが、古くから北米原住民のインデアンに伝わっている言い伝えに、「この現在の土地・森・川・空の自然は先祖からの贈り物であると云う考え方を我々はしていない。我々の考え方は、この豊かな自然は未来の子孫より先に使わせて貰っているだけであり、それを我々は預かっているだけなのだ。」というのである。今のこの豊かな自然を損なうことは勿論のこと、できれば少しでも良い状態にして次の世代に送りたいという考え方である。世代を超えた「次を考える」知恵に感動を禁じ得ない。

 それに対して、国際的温暖化協定から脱退して自国の目先の繁栄だけのために炭酸ガスを出し放題にしたはばからない現代の政治家達の次を考えない他を考えない人間としてのレベルの低さを痛感する次第である。

 先のブログでは自分のための先を考える、あるいは家族とか仲間のために先を考えるであるが、ここでは世代を超えた先を考えるまで考えるスパンが長くまた対象も不特定にまで拡大した次を考えるになっている。(つづく)

 

「次を考える」(その1)

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「次を考える」(その1)

丸川春潭

 お茶のお点前において、気続立てを試みて気づかされるのは、動作の一つ一つが次の動作を考えて設定されていることである。一つ一つの動作に集中していることが自然に次の動作の準備にもなっている。長年繰り返し工夫し研鑽を積まれる中で無駄が削られると共に、一つ一つの動作への集中と準備がよどみのない一連の流れになっているのに感心する。日本文化の奥深さである。

 和服の角帯は片方が半分に折られており、その折られている方から帯を巻き始めることになる。角帯は結構長いのでその折れた端を探すのが一仕事になる。そこで最近はその折れた先端が目に付きやすくそしてそれを引っ張れば直ぐ帯を巻き始められるように、着物を脱ぎ帯を取ったときにその状態にして掛けておくようにしている。些細なことであるが、次を考えた工夫である。

 人間禅にご縁が出来た当初に戸惑ったことは、履き物の脱いだ後の揃え方が独特であったことである。玄関などの上がり縁に平行にそろえて脱ぎ、それを常態化させることである。トイレにスリッパがあるときにも同様に出船、入り船様式ではなく平衡に脱ぐやり方である。これは普通では玄関から脱いで上がるときには上がる方向に揃えて上がる入り船の形になり、降りるときは手で逆に向け出船の形にしてから靴を履くということになる。これに対して、人間禅のやり方は台に対して横向きになって上がり下りをするため、向きを変える手間が省ける。トイレのスリッパではなおさら手で向きを変えることないことは衛生上にもなる。すなわち脱ぐときに次の履く時を考えた動作になっている。人間禅が始めたものか、法系を遡る円覚寺僧堂からの伝承なのか定かではないが、よく工夫された作法である。

 トイレついでに、トイレでトイレットペーパーがなくなったときハッとして周りの手の届く範囲に予備がおかれていてホッとした経験をお持ちの方も多いでしょう。近くにあってホッとした後に、自分が助かって良かっただけではなく、今度は自分がその補充を直ぐするかどうか?これが次が考えられているかどうかに掛かってくる。次が考えられるかどうかはかなり高次な人間形成のレベルである。

 そして最初に書いたお茶の動作とか角帯の始末の仕方は、自分だけのための次を考えるであったが、大勢の中での履き物の脱ぎ方とかトイレットペーパーの気配りは、他者のためへの次を考えるであり、この他者のための次を考えるがその集まる人たちに共有されれば、人々の集まりとして組織としての成熟度が上がるということになる。(つづく)

 

白居易

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令春を迎えて

令和二年の冬は偏西風が北に偏っているようで、例年にない暖冬が進行中です。全国スキー場からは雪不足の悲鳴が聞こえて来そうで、令和元年当初の各地大災害、地球温暖化の異常気象の波もここに極まれりということでしょうか。

このまま雪の殆ど無い日本列島が推移してゆくのは、いずれ列島沈没に向かう予兆なのか、枕草子には下記の一節があります。

中宮定子は、清少納言の知識を試そうとして、の日に、白居易の詩を引用して、「香炉峰は、どうなってるか。」 と問いかけた。 清少納言は白居易の詩句のとおりに、簾を高く巻き上げて、中宮を満足させた。と。


日高睡足猶慵起
小閣重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聽
香爐峰雪撥簾看

白居益

 

「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」の出典、白居易の七言対句の詩の前半です。

読みは、日高く睡り足るも、なお起くるにものうし
小閣にしとねを重ねて寒さをおそれず
遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聴き
香爐峰の雪は簾をかかげてみる

匡廬(きょうろ)はすなわちこれ名を逃るるの地
司馬はなお老を送るの官たり
心やすく身やすきは是帰処
故郷何ぞ独り長安にのみ在らんや

匡廬は廬山の異称、司馬は軍事を司る役職。

香炉峰は、中国江西省九江の南西、廬山にある山で、形が香炉に似ている。
廬山中の景勝の一つ。

 

さて、小生現在、三重県津市久居、人間禅津久居道場の隣接地の平屋に住居しております。東隣は日本キリスト教団新生久居教会で、朝目覚めて、簾をかかげて看ると、教会の屋根には朝日に輝く白銀の十字架、遺愛寺の鐘ならぬ、大阪奈良至四日市線国道156号と伊勢・名古屋線県道が交差して、刻々車列の轟音がとどろく、けんまごくせきの十字街頭地区で、農耕放置地区も散在するため、繁殖中の畑ネズミの侵入を防いでくれる猫三匹と番犬の雄柴犬1頭と起居を共にしております。有難いことには、西方十数キロの標高500メートルの布引山地麓には清少納言所縁の榊原温泉が湧き出ており、齢八十の身やすきは是帰処故郷何ぞ独り長安にのみ在らんやであります。

粕谷要道

 

令和2年年頭の垂示

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令和2年年頭の垂示

佐瀬霞山

 全国の道友ならびにご家族、人間禅関係者の各位に対して、令和2年の年頭にあたり、謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

 『明けましておめでとうございます

 本日は、傘寿を迎えられました名誉総裁老師にはご健勝にてご臨席を賜りまして誠に有難く、法喜禅悦の極みで御座います。

 さて、私が総裁に就任して初めての新年互礼会の垂示となります。そこでまずは、私が総裁として目指したい人間禅についてお話をして、その後に今年の目標と施策についてお話させていただきます。

 まず初めに、私が目指したい人間禅について申し上げます。それは一言で申しますと、我々は「信」をもとにして成り立っている僧伽であるということです。「信」とは、法を信ずる、歴代の仏祖方を信ずる、伝法嗣法の師家を信ずる、道友を信ずる、自分自身を信ずる。この「信」です。

 人間禅は、先ほど拝読した『立教の主旨』のとおり、世界楽土の建設を目的としております。実社会に目を向ければ、多くの自然災害や悲惨な事故や事件が報道されております。この困難な現実のなかで、世界楽土の建設という果てしない目的を実現するためには、人間禅は一丸となって邁進していかなければならないのです。そして一丸となるためには、まずは会員ひとりひとりが、本当の「信」をしっかりと持っていただくことが必要なのです。私は人間禅をこうした「信」をもとにした僧伽でありたいと考えております。

 この「信」は、深い三昧の行によって培われていくものであり、本当にこの信を深めて行くには三昧を深めることが必要なのです、深い三昧が人間禅の基盤となるのです。

 2020年の今年に皆様にお願いしたいことは、ご自身が所属する支部・禅会の充実です。まず自らの支部・禅会を充実させることを、各会員の目標としていただきたいと思います。人間禅は、結局支部・禅会の集まりです。支部・禅会の充実が何よりも重要だと考えております。そして、すべての支部・禅会が正しく楽しく仲よく、目標に向ってひとつになり、本当の意味で充実すれば、結果的に人間禅全体が進展することになると私は思っております。

 充実という意味を、どのようにとらえるかは人によってさまざまと思いますが、私はすべての支部員、禅会員が、摂心会をはじめとするすべての行事に出来るだけ率先垂範して参画し、皆で力を合わせて一丸となることだと考えております。全員が自らの支部・禅会について自分のこととしてしっかり考えて、お互いに話し合って、一歩一歩進めていっていただきたいと思います。

 私は昨年11月の常任法務会・支部長会議で、会計人員について、今年度425名から8年後の創立80周年には500名とすることを目標にしたいと申し上げました。

 この会計人員500名という目標の達成には、私は、その何倍もの人々に人間禅の賛同者となって頂く事が必要だと考えております。例えば、名誉会員や静座会員といった方々です。人間禅について丁寧に説明することでご理解いただき、その輪を広げていく必要があると考えています。どのように賛同の輪を広げていくか、今後の法務会等で討議、相談をしながら進めてまいりたいと思います。

 支部・禅会の充実に会員全員が腰を据えて取り組み、かつ、名誉会員、静坐会員という人間禅の賛同者が増えれば、会計人員500名という目標は自然と達成できると信じております。

 そして、2020年度の布教活動として、総務の方々と相談しながら主に3つの施策を実行していきたいと思います。

 1つ目は、人間禅のホームページを刷新させます。昨年の年度末にほぼ出来上がって、新しいホームページがこちらに移行されておると聞いております。これは道を求める新しいかたに、人間禅があることを知っていただくために必要です。すでに広報部が中心となって人間禅本部のホームページを立ち上げました。従来はHPを支部・禅会毎に持って支部・禅会毎に運営していましたが、これでは人間禅を日本の隅々にまた更に世界に向けて人間禅の精神を発信してゆくことはなかなか難しい。今後は人間禅全体でこの新しいHPを管理し盛り上げて行きたいと思いますのでよろしく皆様のご協力をお願いします。

 2つ目は、企業研修です。これまで企業研修プロジェクトチームが準備を進めてきましたが、今年は実行に移すことができると考えています。

 3つ目は、茶道部とか青年部という横糸の部の体制を見直します。これは時代に則した体制に改めようという考えによるものです。なお、今から10年前の2010年から開始した擇木禅セミナーも、今年からは禅フロンティアに焦点を合わせて、内容を充実させる予定です。いずれの施策も、支部・禅会の充実という2020年度の目標に沿った運用をして行きたいと思います。

 以上で新年の挨拶とさせて戴きます。 合掌

 

三要件(3)

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三要件(3)

東 絶海

三つには「実参実証」

 吾々は公案を使った修行をしている。公案は謎解きではない。公案に成り切ることが肝要である。そのためには、「てにをは」を含めて一言半句もおろそかにしないで憶えることだ。特に年齢の若い方に申し上げるが、若い時に完全に憶えるようにして欲しい。若い時に完全に憶えたものは、一生忘れないものだから。ろくに公案を憶えないうちに参ずるようなことでは駄目である。次に、せめて摂心会中だけは、結制から円了まで現在参じている公案を念頭から離すなということだ。これは実に難中の難ではあるが、これに心掛けなければ公案修行の意味はない。

 また、最近気になるのは、小生が小鳥の参禅と称することをする者が増えてはいないかということだ。小鳥の参禅とは、小鳥が木の枝に来て止まって、ちょんちょんと小便か糞かをしてまた飛んで行くように、参禅前の準備のための小休憩中に禅堂へ来て、喚鐘がなったら参禅をする者のことだ。こういう者は昔からおったと見えて、『清規』にも【入室前後には、必ず禅堂で坐禅をせねばならない。】とある。参禅はじっくり坐禅をしてからにしていただきたい。こういうことを繰り返して行く中で「実証」というものが現前するものである。

 以上、これら三つの要件は、小生が常日頃折にふれて会下の者に云っていることであるが、何かお気にさわるようなことがありましたらお許し願いたい。

合掌九拝

 

三要件(2)

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三要件(2)

東 絶海

二つには「坐禅(静坐)」

 小生は、坐り方が足りないという思いがずっとあった。吾々は一日一炷香ということをいって、その実行を目標にして、それはどうにかクリアしていたのであるが、どうも坐り足りないという思いは師家になってからも残った。それで坐禅する時間の絶対量を増やすようにした。相撲取りは土俵に宝が埋まっていることを信じて、土俵に上がって稽古をする。それと同じで、坐禅の中に仏の宝があることを信じて坐禅の量を増やすことにした。時間が無駄ではないかという人がおるが、高い山になればなるほどすそ野は広い、そのすそ野は無駄ではない。擁壁などを作る時に、ステコン(捨てコンクリート)をしっかりと打ってから型枠にコンクリートを流し込む。このステコンは無駄ではない。それと同じで無駄な坐禅はない。ということで、絶対量を増やすようにした。坐り不足という思いは、いつの間にか消えていた。いつ消えたか判然としないが3〜4年位前ではなかろうか。

 吾々は在家禅者であるから、社会人として勤めている間は、付き合いやらなんやらでなかなか坐禅する時間が取れないが、定年退職したら時間はある筈だから時間の許す限り坐禅することを勧めている。そうしたら、道元禅師が云う修証一如が判るし、それが帰結するところの只管打坐が判然とし、威儀即仏法・行持綿密の曹洞の宗風も理解でき細行を慎むようになる。そうであるから、摂心会では、時間を見つけて坐禅する時間を増やすように指示しているが、それを実行するのは本人である。(つづく)

 

三要件(1)

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三要件

東 絶海

 古来より禅修行の要は「大信根」「大疑団」「大勇猛心」と言われていますが、これらの三つの件については、それなりの方が説かれると思いますので、小生は、会下の者にいつも注意しているごく身近な三つの要件を申し述べることとします。

一つには「作務」   

 禅寺では、一に作務、二に勤行といわれ、なによりも作務を大事にしているそうだ。小生は人間禅にご縁ができる以前、小さな禅寺に居候していたことがある。そこの和尚さんは、戦前に僧堂生活をし、戦争にも行ったそうだ。その方は、誠に作務をする方であった。まさに一に作務である。どこの禅寺に行っても何かしら清々しい感じがするのは、やはり作務が行き届いているせいであろう。翻って吾々の道場はどうであろうか。小生は、常々〔道場は修行者の顔である。道場の草が伸び放題になっていたり、落ち葉が落ちっぱなしで放置されたりしていることでは、そこで修行している者の修行の質を問われるから、ちゃんと作務をするように。〕と注意している。吾々は、在家禅者であるから、普段の日は道場へ行くことは出来ないかも知れないが、最近は週休二日もある。その一日を道場の作務に当てることもできるのではないか。心掛けの問題である。

 次に作務するときの態度である。ペチャクチャしゃべりながら作務をする者がおるが、もっての外であり、黙って目の前の仕事に集中しなければ、作務とはいえない。吾々は労働者として草引きなどの仕事をしているのではない。禅修行の一環としての作務を行っているのだ。草引きで思い出すことは、「草引きとは、草を根から取るのであって、草をむしるのではない。」これは二世総裁から小生が学生の頃注意された言葉である。以後、小生は肝に銘じておる。また、やはりこれも小生の若い頃のことだが、生意気にも〔その人の作務を見れば、その人の修行の程度が判る。〕というような話をしていたら、たまたまそこを通りかかった、ある老師が「お主、怖ろしいことを言うなぁ。」とたしなめられたのを思い出すが、その気持ちは今でも変わっていない。そして、またこれも小生の若い頃のことだが、鎮西道場の松永堅峰道場長(後の齊月庵老居士)が昼休みに便所掃除をして陰徳を積まれていたことを思い出す。最近、このようなよいお手本となるような方が少なくなってきたのではないかと思う。(つづく)

 

「衆生本来仏なり」

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「衆生本来仏なり」

丸川春潭

 「衆生本来仏なり」は、白隠禅師の「座禅和讃」の最初の書き出しにあるフレーズ(語)であり、禅庭に少しでも触れたことのある人では誰知らぬ人はいないというほどの有名な句であります。

 衆生すなわち老若男女貴賤を問わず人種を問わずみな同じ衆生であり、出来の良い者も出来の悪い者も、修行の進んだ者も全く修行をしていない者も、一切関係なしに全く同じ仏が一人一人に本来宿っていると云うのです。

 小生はこの句は仏教の究極を表現した絶妙の句であると思っています。そしてまた簡潔にして全てを包含した言葉を超えた言葉であり、極めて禅的な語であると思っています。

 そしてこれはまた、日本人である白隠禅師(AC1689−AC1769)の創作語であると云うことが誇らしくもあるものです。

 釈迦牟尼世尊がBC5世紀に見性し仏教を啓かれてから2200年経て、また達摩大師が中国に渡って禅を興されてから1150年にして、そして大応国師によって13世紀に初めて日本に禅の嗣法がもたらされ、江戸中期にいたってこの究極の語が日本で誕生したのです。それまでに誰も創り得なかった語が出来たのです。すなわち仏教も禅も発展し続けて江戸中期(1700年ころ)に至って、この「衆生本来仏なり」の語にまで登り来たということです。

 人間禅の公案集である『瓦筌集』には、低きから高きに向かって200則の公案が並べられ収録されています。この200則は仏教が啓かれてからのエキスが収納されており、人類の最高の精神文化が凝縮されていると言って過言では無いものです。

 そして初則の「父母未生以前における本来の面目」を透過することによって初めてこの「衆生本来仏なり」に納得することができるものです。そして200則の公案の最後の末期向上数則を透過して後、またこの語の意味するところに納得し直すことができるのです。すなわち、この語は200則の最初から最後までを包含している言葉であり、この語の全貌は200則を全て見尽くさなければ判らない大きく深いものです。

 ただ200則を全て見尽くして判ると云ってもそれは理の上の段階です。すなわち理の上での判り納得するということと、事の上で判り納得すると云うこととはまた別問題であり、それには大きな隔たりがあるのです。

 すなわち事の上でこの語を我が物とし得るかというと、200則の公案を全て透過してもこの語の深さは見切れないのです。

 毎日この語を拳々服膺することによって、この語の味わいは素晴らしく、そして深くなって行きます。

 自利につけ、利他につけ、この語は優しくそして自信を我々に持たせてくれるものです。そして一生掛かってもこの語の味わいは汲み尽くせないものと思われますが、少しでも深く少しでも長く味わいたいものであり、それが無上の楽しみであります。

 

―― 令和2年1月のつぶやき ――

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―― 令和2年1月のつぶやき ――   布野翠雲

 

 私は札幌郊外に住んでおりますが、1月12日現在の札幌の積雪量は0です。こんなに雪の少ない新年ははじめてであります。

 どうも地球環境がおかしくなっています。

 昨年は大型の台風・大雨に襲われて被害が続出した年でありました。9月には台風15号によって、千葉では大規模停電が発生し大きな被害が出ました。10月に入りますと、台風19号が日本列島を襲い、各地で土砂崩れが発生しまして90人以上の方が亡くなられました。続いた台風21号では、記録的大雨で各地の河川が氾濫し、これまた大きな被害を出しました。こんなことは今までなかったのではないでしょうか?

 この気象変動を何とかしないと明るい未来はないようです。

 2030年までの、この10年間の取り組みしだいで、私たち人類の未来が大きく変わってしまうようです。

 現在、産業革命前から地球の平均気温は1度上昇しており各地の氷が溶けだしているのはご承知のとおりですが、溶けないといわれていた南極の氷までが溶けだしているそうです。  

 それが1.5度まで上昇すると、地球温暖化は加速し暴走しだしてしまう。いわゆる負の連鎖が起こってくる、手が付けられなくなる。その分岐点が10年後の2030年なのだそうです。

 こうなることは前から分かっており、言われ続けてきたことのように思いますが、各国が利害の対立、損得勘定で、小手先の対策に終始し、地球温暖化に対する抜本的な対策がなされてこなかったのです。

 夏休みの宿題を先延ばしにしてきて、いよいよ夏休みが終わる直前になって「ヤバイ!」と慌てている、そんな状況に似ています。

 遅ればせながらやりきるのか!! このまま放置するのか?!

 一刻も早く各国が協力し地球規模で、温室効果ガスCO2を減らす施策に真剣に取り組まなければならないはずです。

 

 さて、この地球温暖化の問題をはじめとして、北朝鮮の核の問題、イギリスのEU離脱の問題、シリア難民の問題、イランとアメリカの対立などの難問が山積しております。

 さらに今後数十年の世界秩序のカギを握る米中関係は、ハイテク覇権を巡り先鋭的に対立しており、いまだ打開の糸口がみえない状態であります。

 まさに、世界の情勢は混沌としております。

 テクノロジーの方でも、あらゆるモノがネットにつながる「IoT」や人工知能「AI」の活用、そして現在の100倍のスピードで情報がやりとりできる「5G」もスタートしたようであります。

 まさに、世界はめまぐるしい変化の渦中にあります。

 しかし、こういう変化の激しい時こそ、私たちは「かわらないもの」、流行に対していえば「不易」なるものに眼を向けなければなりません。

 この「不易」なるものをしっかり掴むのが、禅修行の第一歩です。

 

 禅修行を通して、「不易」なるものを掴み、不動の自己を確立し、変化に主体的に対応し、軽快に生きていきたいものであります。

 

「今」とは?――今は不可思議なものである――

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「今」とは?

――今は不可思議なものである――

丸川春潭

 人間の知能のはたらきによって、過去から現在そして未来へと連続していることを想定しており、また経験の記憶でもこの連続性は何度も確認され習慣化している。

 若者は未来を頼りに現在を生きている。老人は過去を頼りに現在を生きている。若者は人生に終わりがあると云うことは知ってはいるが、自分の死は他人事である。老人は常に人生の終末を意識し、余命が日一日と短くなっていることを実感している。

 しかし考えてみれば、過去は記憶でしかなく、また未来は想定でしかない。どちらも観念上のものでしかないのである。リアルな実在は過去と未来の接点である「今」にしかないのである。

 しかし唯一存在している今には時間の長さはなく、今は過去と未来の接点でしかない。今は瞬時に古くなり瞬時に新しくなっている。今しかリアルな実在はないが、その今は留まることなく流れている。

 われわれが如実に生きているのは今だけであり、一瞬先はないかも知れないのである。ウクライナの旅客機のようにミサイル二発で機体ごと屑になるのである。先ほどまで機内食のワインを傾けて談笑していたのが、一瞬の間にである。

 われわれがアクションを取れるのは今だけである。過去はどうあがいてもやり直すことは出来ないし、未来はどんなに準備万端でも思い通りにならないものである。

 禅者は今を常に意識し、今の掛け替えのない重さを知り、今を大切にし、今において全生命を燃焼させるのである。禅は常に今に焦点を当てており、今をテーマにした公案もあるし、禅語にも今を謳っている言葉や詩が沢山ある。

 【十世古今、始終当念を離れず】

 【撥草三玄は只見性を図る。即今、上人の性いづれの処にか在る?】

 今は不可思議なものである。

 すなわち思議することが不可なものである。思議することは外野席から評論しているに過ぎない。

 不可思議に徹して「今に生きる!」となると、これはもう禅者である。その極めつけが「念々正念 歩々如是」である。

 過去と未来の狭間の幅のない接点が流れている「今」。この「今に生きている!」ところの境涯を表現するとすればこの句になる。人間形成の完成した境涯であり、耕雲庵立田英山老師の境涯であり、老師が初めて創られ遺された人間形成究極の言葉である。

 われわれは恵まれている。目標とすべき境涯が明確に示されているのである。

焚香 九拝

 

ローマ教皇と人間禅

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ローマ教皇と人間禅

丸川春潭

 みなさん明けましてお目出度とうございます。

 人間禅は今まで札幌から鹿児島までの支部・禅会毎に、トータル20以上のHome Pageを持っていましたが、新しい令和二年の幕開けを期して、人間禅は一つのHPに集約することにしました。従来のHPからこの新しい人間禅のHPへの移行には多少日時が掛かりますが、できるだけ早く新しいHPに移行を完了させ、従来のHPをクローズしたいと思っています。

 この新しい人間禅HPには、ブログを三つに分けており、師家ブログ、道友ブログ、行事報告ブログの三つです。そしてこのブログは師家ブログの最初になります。

 昨年の11月下旬のローマ教皇の長崎での演説は、最近記憶にないくらい感動した演説でした。核兵器が二度とこの地球上で使われないための厳しい警告であり、国のエゴを押さえ戦争のない地球平和実現へ向けたメッセージでした。現在の世界のどの政治家よりも高い見地で世界情勢を正しく捉え、何の束縛もなく正論を述べられました。これは13億人のキリスト者へのみならず全地球人に対する「教え」であり、人類愛に深く根ざしたものです。

 小生が感動したのは、フランシスコ教皇の演説に全く私心がないということが第一であり、次に13億人のキリスト教徒のトップでありながら、こういう世事をよく勉強されていることに対する驚きであったと思います。  

 年末から年始に掛けて、このローマ教皇の素晴らしい発信を反芻しつつ、人間禅の現代の地球に対する発信・貢献をどう始めるべきかを考えておりました。 

 われわれの人間形成の禅は、立教の主旨の第一項「人間禅は、自利利他の願輪を廻らせて本当の人生を味わいつつ世界楽土を建設するのを目的とする。」であり、われわれの目指すべき方向性がこれで明確に表明されています。

 これはまさに、ローマ教皇が示唆された方向性と軌を一にするものであります。もちろん発信の仕方も目的に向かって進むやりかたもいろいろ異なるとは思いますが、最終目的は一緒なんだということは確かであります。

 しかし方向性とか理念の正しさだけでは実績を残すことは出来ません。われわれの実地にやることは、まさに足元からの実践になります。すなわち人間形成の禅を通じて立教の主旨の第一項を具体的に一歩どう踏み出すかと云うことが大切なのです。その事例の一つとして、数日前に出版された【禅】誌新春号の巻頭言に、「A I 時代における企業研修(人材育成)」を載せております。すなわち最終目標はローマ教皇と同じ「戦争のない平和な地球」すなわち「正しく楽しく仲の良い社会づくり」でありますが、それを先に見据えながら、社会で役に立つ人材育成がわれわれの人間禅の世界楽土建設の一つの具体的な第一歩であると考えております。今年は人間禅の総力を挙げて、この第一歩を踏み出したいと考えております。

 【禅】誌新年号を是非ご一読頂き、ご意見やコメントを賜りたいと思います。

 

「科学と禅」その12

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「科学と禅」その12

丸川春潭

 今回で、「科学と禅」の講話は終わりになります。

 最後のお菓子は、人間禅本部道場のある市川市真間の「手児奈の里」という和菓子です。

 

 このお菓子は、昔から伝えられている「手児奈姫」の悲しい伝説に基づいた古くからの地元の銘菓です。

 

 小生がこのお菓子を知ったのは、同じ郷里の岡山の大先輩であり、小生が人間禅にご縁を頂いた頃に大変お世話になり、後に老師になられた澄徹庵大重月桂老師(岡山慈恵病院院長)から、本部道場へ行ったら土産は、手児奈の里が一番だと教えられてからでした。50年程前のことです。

 

 ふわふわの餅にサイコロ状の羊羹が散りばめられており、あまり甘くなくソフトに癒やされるお菓子です。

 

 甘いソフトなお菓子の後は、ピリ辛のハードなお話しですが、「科学者と禅」についての考察と総まとめです。

 最後ですので、もう少しのご辛抱で、最後までお付き合い下さい。

 

 このお話しは、最初に科学と宗教の係わり合いの基本的考え方についてお話し、具体的事例として資源の枯渇および地球環境の今日的問題を挙げて説明をしました。

 

 その結論は、科学者と宗教者がもっと近づき、一緒に考え一緒に働くことが必要であり、それができなければ、人類が持続するための人間社会の仕組みと人間の価値観を根本的に変革する事ができず、地球と人類が、新しい22世紀を迎えることがきわめて難しいということになるとお話しました。

 

 すなわち、科学者と宗教者の協同作業と相互補完を、社会のあらゆる局面において実現することが必要であり、科学は宗教によってはじめて正しい方向付けと新たな勇気を持つことができ、地球と人類の持続に向かって真の発展をすることができるとし、また宗教によってはじめて科学の成果を正しく地球と人類に生かすことができると申し上げました。

 

 また宗教は科学者の支えと先導によって、21世紀にまで持ち越された人類の大きな宿題である各宗教宗派の共存と協調を実現し、世界の恒久平和に道をつけねばならないと考えます。

 

 また科学の進歩によって明らかになって行く真実に即応して、新しい時代の新しい救済のあり方の革新をはかりつつ、宗教の根源を日々に新たにして伝承して行かねばならないと思います。

 

 そして、科学者と宗教者の協同作業と相互補完の理想型が在家禅であると考えています。

 

 科学技術の場だけに限らず、脱俗出家することなく、あらゆる職業人、主婦、学生を含めた社会人でいて、しかも同時に禅の修行をしている人を在家禅者と云います。

 

 在家禅者は、頭頂連合野を充実させ且つ前頭葉も常にしっかり機能させるために、行として一日一炷香の座禅を生活のリズムに組み込んでいます。

 

 在家禅者は、自分自身の中で知性と感性、科学性と宗教性を自然に理想的にコラボレートができる現代人の「形」であり、在家禅(在家禅者)は、これからの新しい宗教のあり方と同時に、これからの地球人の生き方のスタンダードを示すものと考えます。

 

 科学者も弁護士も教師も芸術家も俳優もサラリーマンも主婦も学生も、日本人のみならず地球人全てに当てはまる新しい「形」が在家禅者です。

 

 科学ももっともっと発展しなければなりませんが、宗教(禅)ももっともっと深め広めなければなりません。

 

 禅は宗教の本質を「見、極める」ための方法論を持っています。

過去、現在、未来に一貫している「流れ」が何であるかを掴む方法論です。

 

何故 自分と、他人のみならず山川草木が「同根」なるかを、思想・哲学レベルではなく、はっきりと体得し確信せしめる方法論とそれを確証する生きた伝法が、人間形成の禅として21世紀の今日に伝わり現存しています。

 

 禅はまた、時代の変化に即応し、そして常に新しい社会の精神的価値基準の拠り所にならなければなりません。

 すなわち、自然の摂理を見、極める見性悟道の道は、もっともっと多くの現代人の拠り所にならなければならないと考えます。

 

 我々は、人類の、地球の持続発展を新しい22世紀に向けて物理的にも精神的にも確実にしなければなりません。

 これが、先人に対する恩返しであり、子孫に対する責任であると考えます。

 

 長い間、お付き合い頂き有り難うございました。

 何かコメントでも頂ければ、幸甚です。合掌

 

Marukawa_k@sky.bbexcite.jp 丸川春潭 拝

 

「科学と禅」その11

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「科学と禅」その11

丸川春潭

 前三回のお菓子のお話しは、伊豆網代の間瀬菓子舗でしたが、今回は四国愛媛県、旧川之江市(現四国中央市)の柴田モナカをご紹介します。

 

 この土地のご縁は、人間禅創立の昭和二十四年から間もなくの時に、この旧川之江で四国支部が結成されており、人間禅には所縁の土地です。

 

 ここの柴田モナカ本舗は、江戸中期創業であり、四国支部ご巡錫の耕雲庵老師が好まれたため、人間禅では有名なお菓子になりました。

 特徴は、モナカの皮がしっかりしていることと、小豆餡が美味です。お抹茶のお菓子としても結構ですので、ぜひお試しください。

 

 

 お菓子の後の甘くないお話しは、 前回は、テーマとしては今日的課題である「原子力発電(原発)」を取り上げ、その背景すなわち三年前の3.11以前の認識についてお話ししました。

 

 今回は、一歩踏み込んで、3.11以降の経験を踏まえて、変更すべきこと、変更すべきでないことを整理してお話しします。勿論小生が、科学者であり且つ禅者であるという観点での私見であります。

 

1.東京電力福島第一原子力発電所被災後の見直しと課題

 2011年(平成23年)3月11日(金)に発生した東日本大震災は、日本史始まって以来の大災害をもたらしました。

 そして、まことに痛恨のことは、人為的な原発トラブルによる二次災害の発生であります。

 

(1)想定外トラブル存在下における原発のフィジビリティ

 世界的に見て日本の原発の安全対策はトップクラスにあったと考えられますが、想定を超えた大津波であったとは云え、完全にこの技術と政策が失敗策であったことを歴史的に証明してしまいました。

 

 考えてみれば、原発の敷地直下での大地震が生じないという補償はなく、テロとかテロ的国からの攻撃の標的にならない補償もないことを考えると、地球温暖化のための切り札として、原発で良いのかと云うことを、結果論になってしまいましたが反省をし、改めなければならないと考えています。

 

 すなわち核燃料終末処理が未解決であるということで、原発が未完成プロセスであるという以前の問題として、地震国日本で、またいろいろなテロの不安が存在する現代においては、あまりにもリスクが大きすぎる原発施策と考えざるを得ないという認識です。

 

(2)地球環境問題は脱原発と地球温暖化対策の両立

 しかし現在、経済的にまた政治的に、地球温暖化問題抜きに原発是非論を展開している論陣がほとんどであります。

 これは3.11以前の原発政策が、地球温暖化という現代人に突きつけられた大命題にたいしての苦渋の選択であったという歴史認識を忘れてしまった場当たり発言でしかないということです。

 

 すなわち脱原発は原発そのものの是非論ではなく、地球温暖化課題に対する対応変更であって、したがって脱原発には必ず、温暖化に対する対応変更の代案を示さなければならないのです。

 

 そして当然でありますが、日本社会で明日から直ぐ電力供給を落とすことはできないのですから、リスクはあるがしばらく原発を稼働させなければならないのも仕方がないことでありますが、しばらくの間を如何に短くするかが問われているのです。

 

 まさに3.11以降は、脱原発へのそして地球温暖化対応変更への移行期であります。

 

 脱原発の対応策とその変換時期をどう設定するかを冷静に、そして早急に見極めなければならないのです。勿論ですが、原発の新規建設は論外であり、再稼働も如何に少なく抑えることが出来るかであります。

 

 代替案を提示さず、移行時期を云わず、感情的に脱原発を唱えることは、科学に背を向けた無責任な人であり、また選挙とか政治力学にこの人類的課題を利用しようとしているだけの人と云わざるを得ません。

 

 また逆に、発電コストを上げないためにというコンセンサスを利用して、電力会社の経営に荷担した政治行政は、絶対に許されないことです。

 

(3)地球の自然と人間の自然のSustainability(持続)を可能にする人間の叡智

 物、自然、地球は、現代人にのみある物ではありません。

 それらは全て、未来の人類より先に使わせてもらっているという認識が必要であります。

 したがって使った後は、出来るだけ元通りにして次の世代に返すのは当たり前のことであります。

 

 もっと大きく目を開いてみれば、地球は人類のためのみにあるのではなく、動物植物全ての種が地球上に生存し続けているのであります。

 人類が、地球の資源や環境の限界を弁えないで、我がままなに活動して、多くの種が現在も絶滅していることも見過ごしてはならないのです。

 

 科学は未だ自然のほんの一部しか解明できていません。

 人類の文化・文明も未だ途中段階です。

 自然の摂理に学ばなければならないことは、科学の領域においても宗教の領域においても、まだまだ沢山あります。

 

 禅によって見、極める道は、科学者が純粋に科学の道に則って、自然に迫ることを正しくサポートします。

 また価値観の転換は、釈迦牟尼の悟りまでさかのぼって、それを現代人が納得して受け入れることが必要不可欠です。

 地球の持続(サステナビリティ)のために。

 

 次回は、「科学と禅」の総括を話させて頂きます。

 

「科学と禅」その10

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「科学と禅」その10

丸川春潭

 前二回のお菓子のお話しは、伊豆網代の間瀬菓子舗の「黒きんつば」、「伊豆の踊子」、焼き菓子「焼き万寿」をご紹介してきましたが、間瀬さんのお菓子の紹介は、三回目の今回で取りあえず終わりにしますが、高級和菓子「福寿柿」の紹介です。

 

 このお菓子は、珍しく果物(柿)を和菓子に取り入れたもので、お抹茶用の和菓子としても素晴らしいものです。生干し柿の果肉を表面にして中に白豆こしあんを入れたお菓子で、柿と白あんが絶妙のコラボレーションとなっています。最初頂いたときはびっくりでした。当にサプライズな高級和菓子です。

 

 お菓子の後の甘くないお話しは、前回の「レンタルが地球の資源枯渇に有効であり、このレンタルの考え方(レンタル思想)と仏教・禅の精神に共通項があり、レンタル思想を普及させるためには、仏教・禅の精神が不可欠であるというお話しでした。

 

 今回から、抽象的な「科学と宗教」あるいは「科学者と禅」の話から、具体的なお話しを事例的に取り上げたいと思います。テーマとしては今日的課題である「原子力発電(原発)」を取り上げます。

 

 いろいろ意見が分かれるところですが、科学者として、禅者としてこの難しい課題をどう捉えているかというお話しです。勿論、小生の私見であります。反論やコメントをお寄せ下さい。

 

 現在の日本に於ける原発をどうするのかという課題は、3年前の東日本大震災によってもたらされた課題であります。

 しかし問題性を整理するために、先ず3年前の大震災以前における原発の位置づけ(共通認識)を申し上げておかねばなりません。

 

 東日本大震災以前の原発の位置づけには、地球環境問題としての炭酸ガス濃化による地球温暖化の切り札として原発は容認されていたのでした。

 

 チェルノブイリ事故とかスリーマイル事故とかを教訓に、欧米からは後進国的な位置づけで、良いとこ取りと考えられる弱点補強をして、炭酸ガス放出の少ないエネルギー源として、国主導のもとに、日本のエネルギー政策の中核を担う原子力発電でした。

 

 地球温暖化問題は、過去40万年間の地球の気温が、産業革命以来 急激に上昇していることを直視し、その恐ろしい問題性を認識しなければならない、21世紀の人類に突きつけられた最大課題であります。

 

 この認識を受けての国際社会の対応は、当初自国のエゴの主張でなかなかまとまらず、温暖化に歯止めがきかない状況でありましたが、1997年12月に京都市の国立京都国際会館で開かれた第3回気候変動枠組条約締約国会議は、いくつもの大きな宿題を残してはいるが一応、先進国のまとまりを見せた最初でありました。

 

 長期的に見た場合の地球人類が抱える最大の課題は、あらゆるものに優先して、地球温暖化であります。

 地域での戦争とか、世界的不況だとかは、地球温暖化問題に比べたら、些末な課題と位置づけられるくらい、地球温暖化問題は大きく、そして困難な課題です。

 

 原子力発電は危険性もあり、核燃料廃棄物課題等、いろいろな難しい課題を持ちながらも、膨大なエネルギーを炭酸ガス排出なしに引き出すことができるパンドラの箱であります。

 すなわち産業革命以来の人類の文明をそのまま発展させつつ、炭酸ガス排出を抑える切り札であったわけです。

 

 しかし、3年前の大震災での東京電力福島第一発電所の事故が発生したわけですが、この事故を踏まえて、原発をどう考えるかを次回に申し上げます。

 

「科学と禅」その9

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「科学と禅」その9

丸川春潭

 前回のお菓子のお話しは、伊豆網代の間瀬菓子舗の黒きんつばと伊豆の踊子でした。

 今回は同じ間瀬菓子舗の中から珍しい焼き菓子「焼き万寿」をご紹介します。

 お抹茶用の和菓子として、焼き菓子は珍しいもので、ほんのり焼いた香りが絶妙であります。

 

 蛇足ですが、間瀬菓子舗の主人は3代にわたり人間禅で禅の修行をされておられます。

 そして現社長は人間禅岳南支部の道場長ですが、お父さんもお爺さんも岳南道場長を歴任されており、人間禅でも他に例を見ない三代が道場長をされています。

 

 そして現在社長を筆頭に数名の社員さんも人間禅の正会員で、菓子製造販売と同時に人間禅の修行をされています。間瀬のお菓子が本物であり続ける一端がここにあると思っています。

 

 

 お菓子の後の甘くないお話しは、前回の「レンタルが地球の資源枯渇に有効である。」の続きであります。

 

 そして今回はそれを受けて、レンタルの考え方(レンタル思想)と仏教・禅の精神に共通項があり、レンタル思想を普及させるためには、仏教・禅の精神が不可欠であるというお話しです。

 

 お釈迦様が啓かれた仏教の原点は、「天地と吾と同根、万物と吾と一体」にあります。

 ここから出てくる思想には、「吾」が何かを所有するという観点が本来無いないのであります。まさにレンタル思想は、ここに根拠を置くのであります。

 

 物を個人的に所有することに価値を置くのではなく、物を使用することに価値を置き、所有にお金を払うことから、使用にお金を払うことへの転換であります。

 これは単に社会的制度だけにとどまらず、「誰も地球上の物を自分勝手に私有しない」という仏教・禅の根本的価値観に裏付けられていないと、レンタル思想は実効を発揮できないと考えます。

 

 レンタル思想には、ものの大切さの根源的認識と個人(エゴ)の所有欲の打破が大前提となるのであります。

 まさに科学と宗教が融合しないとできない人間社会の思想革命です。

 

 お釈迦様の悟りの「山川草木悉皆成仏」「天地と我と同根、万物と我と一体」は、「地球に優しく」「物を大切に」「物をみだりに私しない」「生きとし生けるもの全て共生」になってくるのです。

 

 道元禅師の一柄杓の水を大切にする「杓底水」の思想や、天龍寺滴水和尚の一滴の水にいのちを看る「一滴水」の精神が、地球の危機を食い止める根本思想になると考えます。

 

 山川草木が自分と同じ命を持ち、同じように仏であることを根源的に悟得するのが禅であります。

 二千五百年前のお釈迦様の悟りが、今までのいつの時代よりも切実に、21世紀の今、人類にとって地球にとって必要と考えるのであります。

 

 ご意見をお待ちしています。

 

「科学と禅」その8

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「科学と禅」その8

丸川春潭

 前回は春を呼ぶ桜餅にしましたが、今回は季節とは関係なしに、小生一押しのつくり菓子屋さんの品物を何回かの連載になるかも知れませんが、ご紹介します。

 

 お菓子屋さんは、静岡県伊豆網代の間瀬菓子舗です。この間瀬菓子舗とのご縁は、次回に詳しくお話しするとして、最初のお菓子は黒きんつばです。小豆、黒米、黒豆、黒ごま、黒松のみ等を原料にしたもので、いろいろなきんつばがある中での小生の一押しです。お抹茶のお菓子にも良いです。

 

 お抹茶のお菓子には一寸向きませんが、この間瀬菓子舗の代表商品は、「伊豆の踊子」です。このお菓子は、新幹線でも販売されている全国区のお菓子です。紅茶などに合う洋風と和風のミックスされた現代風のお菓子です。

 

 お菓子の後のお話しは、前回予告の「地球の持続発展を可能にする道はあるのか?」であります。

 正(資源)の枯渇、負(環境汚染物質)の蓄積は、年々急速に進行しており、今 手を着けなければ取り返しが効かない緊急課題として、現代人ひとり一人に突きつけられています。

 

 しかし、政治家も経済界も目先の景気動向などの短期的な日常的な課題に軸足があり、長期的なマクロ的なしかし今の時代の人間が責務として考え実行しなければならない課題には、口先だけで本気な取り組みはなされていないのが現状であります。

 

 この課題に関して先ず、「リサイクル(循環)社会の必要性と限界」について考えてみましょう。

 

 この資源の枯渇と地球環境を解決するための一つの方策として、リサイクル(循環)社会(廃棄したものをもう一度製造元に返して再資源循環する社会)の実現が必要であることは、多くの人から提言されています。

 

 これは正しい施策でありますが、大量生産・大量消費の継続のまま闇雲にリサイクルを進めることは、リサイクルのためのエネルギー消費の増大を招きかねない別の問題を引き起こすことになります。

 

 そこでリサイクルの中でもできるだけ部品を生かしたリユース(廃棄までせず、使えるものは部品として元に返して使う)の促進により、リサイクルの効率化を図る方策が求められることになります。

 

 そこで次の課題として「究極のリサイクルとしてのレンタル(貸し出し)方式」を提案したいと思います。

 

 先のリユース(部品再利用)方式を最大限に進める究極のリサイクル方式が、レンタル(賃貸し)方式であります。

 

 このレンタルが最も先進的に進んでいる代表例として、リコーの複写機と富士フィルムのレンズ付きカメラがあげられます。

 

 これらは、その製品の所有を売るのではなく、それぞれの機能の利用を使用者(消費者とは呼ばない)に売っているのであります。

 

 レンタルでは、メーカーは、自分の処に還ってくる商品の長寿命化に真剣に取り組むことになります。すなわち大量消費に歯止めが掛かります。

 

 使う方も、レンタルで借り物であるから、便利に使わせて貰うが、大事に使い、使わなくなったらすぐに返すことになります。すなわち大量生産にも歯止めが掛かります。また、所有せず、使用料のみの価格は当然低価格になり、使用者一般にも好都合になります。

 

 このレンタルを、複写機やレンズ付きカメラのみならず、冷蔵庫も、パソコンも、自動車も、家も全ての商品をレンタルにしてしまうと、廃棄するものは激減し、利用価値が残っているものの廃棄はなくなり、資源の効率的利用につながると考えるのです。

 

 世の中の大量生産・大量消費を根本的に覆し、長寿命を狙って造り、大事に使用する価値観を有する社会構造に転換できると考えます。

 

 しかし、レンタル方式を社会の全体に広げて行くには、生産する側においても、使用するユーザー側においても、長年にわたって染みこんだ価値観・文明観を根本的に変革する必要があります。

 

 この変革に仏教思想・禅が有効であることを次回お話しします。

 

「科学と禅」その7

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「科学と禅」その7

丸川春潭

 3月になりました。未だ奈良のお水取りまでは寒い日々ですが、月末には桜が咲き始めます。

 

 桜を呼ぶために、桜餅をウィキペディアで調べてみました。

 

 関東風の代表として長命寺があります。小麦粉などの生地を焼いた皮で餡を巻いた、クレープ状のお餅。享保2年(1717年)、隅田川沿い長命寺の門番・山本新六が、桜の落葉掃除に悩まされて考案し売り出されたことから、「長命寺」または「長命寺餅」と呼ばれています。関東ではこちらが主流。

 

 関西風の桜餅は道明寺と云います。道明寺粉(もち米を蒸して乾燥させ粗挽きしたもの。大阪の道明寺で作られたため道明寺粉という)で皮を作り餡を包んだ、まんじゅう状のお餅。道明寺粉のつぶつぶした食感が特徴で、「道明寺」または「道明寺餅」と呼ばれています。関西ではこちらが主流。

 

 平和を象徴するような、桜餅の写真の後は、無粋にも、「人口爆発と資源枯渇によって、地球は物理的に危機に瀕しています。!」というショッキングなお話しです。

 

 全ての地球環境の問題提起、資源枯渇の課題提起の起点は、1971年にローマクラブが地球全体の行く末を科学的に解析しその成果報告が「成長の限界」として発表された時であります

 

 世界の人口の増加推移は、1950年の25億人から1990年の40年間で人口は倍増以上になり、その増加傾向は変わっておらず、21世紀の前半にも4倍増の100億人の到達が確実視されています。

 

 この人口増加と科学技術の発達とが相乗して、地球資源の消費量の増大と資源の枯渇が加速度的に進行しています。

 人類が地球のエネルギーを消費し始めた40万年前から18世紀の産業革命までは、地球からのエネルギー資源の減少は、微々たるものであります。

 それが、産業革命以降19世紀、20世紀へと時代が進むにつれて、地球のエネルギーの消費が進み、50億年の地球の蓄積財産であります。

 

 化石燃料は、線香花火が一瞬にして燃え尽きるように、21世紀にはほとんどは枯渇してしまうでありましょう。

 

 そしてこれは、自国のエゴを主張しあう国際的な政治経済のレベルではなく、地球的視点に立って考えなければならない現代の人類的最重要課題であります。

 

 それには政治とか科学とかの思考や施策のみではなく、人間の生き方の価値観を見直し、転換をはからなければ対処できない人類の本質的命題が含まれています。

 

 次回は、「地球の持続発展を可能にする道はあるのか?」として、具体的な対処の方法についてお話しします。

 

「科学と禅」その6

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「科学と禅」その6

丸川春潭

 2月下旬は関東地方で最も寒さの厳しい頃であります。今年は雪も多かったですが、房総道場(四街道市)や坂東道場(潮来市)では、霜柱が苔を押し上げて枯らしてしまうので、本部道場(市川市)の苔山のように、冬季は落ち葉で覆うのが賢明であります。

 この霜柱に因んだ、「霜ばしら」というお菓子が、仙台にあります。見栄えと云い、食べた感触と云い、ファンタスティックな銘菓です。丁度季節柄ご紹介しておきます。お抹茶のお菓子にもなります。

 

 前回の続きは、「科学・技術の進歩と仏教思想・禅」であります。

 科学・技術の進歩はめざましいものがありますが、ややもすればその進歩は、人類的視点や地球的視点での検証なしに、科学・技術ジャンルの内側だけに通用する独善的なそして近視眼的な判断で科学・技術を発展させる危険性を常に持っています。

 歴史的に見ても、生物化学兵器の研究、原子爆弾の研究、人間クローンの研究などを初めとして、科学・技術の進歩は必ずしも人類の平和とか幸せと相反するものも少なくないのです。

 したがって科学・技術の進歩に対する倫理は、科学・技術の中ではなく、外部のたとえば宗教サイドからの検証が不可欠になるのです。

 

 しかし、残念ながらそれに対する宗教家を含めた識者の提言が、科学・技術の本質を理解しないままの無責任な放談になってしまいがちであると云うことも事実であり、これは正しい科学・技術の進歩発展を大きく阻害するものになります。

 現代では科学・技術の進歩発展が、専門的にまた社会との結びつきも多面的になっているために、宗教家などの科学・技術批判が、幼稚で的を得ていないケースが多くなってきているのです。

 まさにガリレオの宗教裁判を現代においてもやりかねない危険が常にあるのです。

 全日本仏教会の会長が「いのちを犠牲にする原発はやめよう!」と談話を発信された。原発とか臓器移植が“いのち”と関わるから、これは宗教の領域であるとの見地からの発言ですが、そんな単純な発想からの批判は、如何なものでしょうか?

 科学技術の発展に対して、科学技術の中だけの判断ではなく、宗教サイドの考えも入れて科学・技術の発展を考えなければならないと云うことは、総論として正しいことであります。

 しかし実際には、宗教者が批判をする対象の科学技術のバックグラウンドやその歴史についてしっかりと勉強しておかなければ、現代版ガリレオ裁判をやってしまうことになります。

 命に関わるから宗教者がもの申すのではなく、原発の歴史とその長所短所とを総合判断してから批判すると云うことでなければならないのです。

 次回以降は、現在の科学・技術に関わる資源枯渇の問題と地球環境の課題を原発問題にも関連させながら、居士禅者として私見を述べたいと思います。

 

「科学と禅」その5

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「科学と禅」その5

丸川春潭

 松江のお菓子が出たら「若草」について語らない訳にはいけないでしょう。松江の三大銘菓の一つで、山川に勝るとも劣らない銘菓「若草」があります。

 彩雲堂とか風流堂が有名ですが、山陰のようなところに、このような和風文化の粋のような格調の高い銘菓が伝統として継承されている日本文化の奥深さの素晴らしさを感じます。

 

 

 最近の脳科学の知見から、科学と宗教の差異について見てみたいと思います。

 有田秀穂(東邦大学医学部統合生理学教授)と、本庄巌(京都大学医学部耳鼻咽喉科名誉教授、人間禅名誉会員)による著書や情報を要約しますと、

 

 科学技術のようなロジカル思考は、脳の頭頂連合野の部位で行われます。

 これに対して感性を司り、宗教的洞察を行う脳の部位は前頭葉になります。

 

 いつもの相対樹・絶対樹で云いますと、相対樹が頭頂連合野であり、絶対樹が前頭葉に該当します。

 

 本庄慈眼先生から紹介頂いたアメリカの医学雑誌に掲載された最新の脳科学の実験レポートは非常に興味深い内容です。

 

 チベットの瞑想僧数人を使って調べた脳機能の研究結果は、瞑想に入ると常に活発に活動していた頭頂連合野が活動を停止し(サイレントになり)、それと入れ替わりに、前頭葉前端の前頭前野が活性化するという興味深い結果です。

 

 慈眼先生の解説では、頭頂連合野は、デジタルコンピューター機能であるとともに、その特徴は、自己の位置を他・他人との比較において常に明確にしようと働くのを特徴とします。

 

 これに対して、前頭前野は人格・感性を司り、他との差異を意識するのではなく同一性・一体感を感じ取る働きを特徴とします。

 

 これらの知見を総括すると、通常の社会生活においては、相対樹に該当する頭頂連合野の科学脳が活性に活躍して仕事をしており、そこから何らかの三昧行を行じて三昧境に入ると絶対樹に該当する前頭前野の宗教脳が活性になり宗教的洞察ができたり、感性あふれる働きが出てきます。

 

 人間形成は、絶対樹・前頭前野を鍛え充実することになり、禅における悟りを初め、宗教的感応は、この前頭前野の活性に全て依拠することになります。

 

 そしてその活性化には、先程の脳科学の研究レポートにもあるように、何らかの方法で三昧に到ることが必須となります。

 まさに、全ての宗教はそれぞれ独自の方法ですが、三昧に到る方途を必ず持っています。

 

 すなわち、その宗教宗派の本質に近づく方途には、三昧になる行が必ず付随しています。

 キリスト教の礼拝、イスラムのアラーに対する祈り、浄土宗の南無阿弥陀仏の唱名三昧、浄土真宗の念仏三昧、そして坐禅における数息観三昧の実践行は、全て三昧行という切り口で全く同じであり、そして三昧によって到達する境地も全く同じであります。

 

 更に最近はやりの滝行とか、あるいはアスリートとかミュージシャンの行為のある部分は、同じ三昧行として同様に評価するのが人間形成の禅の見方であります。

 

 禅の悟りのような宗教的境地は、この前頭葉が活性化されてはじめて拓かれ磨かれ深まるのであります。

 

 このように最近の脳科学は、脳の部位が科学的思考部位と宗教的感得部位に分かれていることを実証的に明らかにするとともに、この科学の進歩は、長い歴史の中で経験的に積み重ねてきた人間形成の手段とその進め方が妥当であると云うことを見事に証明してきています。

 ここに現代の新しい科学と宗教の関係が見られます。

 

「科学と禅」その4

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「科学と禅」その4

丸川春潭

 小生が人間禅に入門したのは、岡山市の中国支部で、師家は耕雲庵立田英山老師でした。摂心会中、老師は毎朝ご自分でお茶を点てられ、いつも2,3人がお相伴していました。

 老師のお好みのお菓子は、いくつかありますが、一つは岡山市の芭蕉庵の落雁である旭川でした。香りが良い美味しいお菓子でした。

 

 後年、松江の風流堂の山川を食べてみてよく似ているのに驚きました。山川は松江の殿様である不昧公好みで、発祥は200年以上前であり、芭蕉庵は明治の創業ですので、山川を模倣したのかもです。いずれも小生の好きなそして思い出深い菓子です。

 

 甘い香りの落雁のお菓子から、味もすっぽも無い科学と禅のお話しになります。

 今日のお話しは、「各宗教各宗派の宗教としての根源は、本質的に皆同じである。」ということです。

 

 老子が、孔子が、釈迦牟尼が、キリストがつかんだ宗教存立の根源は一つであり、相違するものではない。これが禅の宗教観です。

 

 ただし、宗教的本質が同じであったとしても、その呼び方、布教の方便は千差万別です。すなわち、老子の道教では大道と云い、孔子の儒教は明体と呼び、釈迦牟尼は仏と云い、キリストは神と云い、神道では天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)と云っています。

 

 要は、各宗教各派がお互いにその呼び方のみならず救済の仕方や儀式の違いがあっても、宗教の根源「そのもの」に変わりはないということをお互いに認め合うということが大切なのです。

 

 禅の宗教観が何故こういう見解になるかについて以下に簡単に説明します。禅の宗教的根本は、釈迦牟尼の悟り(東洋的無)に根源があり、「山川草木悉皆成仏」であり、「衆生本来仏なり」なのです。

 

 釈迦牟尼世尊の掴んだ宗教の根源(悟り)は、言葉で表現できるものではなく、言葉を超えたものです。すなわち相対的なものではなく絶対的なものです。前に出した図をもう一度出しますが、悟りは相対樹(科学)の領域ではなく、絶対樹(宗教)の領域のことです。

 

 相対樹から、二念を継がず一念を生じさせない、を徹底して絶対樹に入って行かねば悟りの場に入ることはできません。根元に数息観法と書いてありますが、この数息観法を徹底して行取すると、相対樹から絶対樹へ移行できます。すなわち科学の領域から宗教の領域に入れます。この宗教の領域に入らなければ、悟りを掴むことも人間形成を進めることもできません。

 

 悟りは言葉で説明することも教えることもできません。自分で冷暖自知(自分で熱いか冷たいかを実践的に掴まねばどうしようもない)するしかないのです。ただ教えることはできないが、正脈の師家は学人が掴んだものが正しいものを掴んでいるかどうかははっきりと見抜くことはできます。

 

 釈迦牟尼が掴んだと同じ悟りを摩迦訶葉尊者が掴んだように、師から弟子に一器の水を一器に移すように伝え伝えて28代目が菩提達磨であり、インドから中国へ生きた人間の悟りが伝わりました。6世紀です。そして達磨の悟りが二祖慧可へと、インドと同じように中国の中で伝法され、中国で27代目の虚堂智愚禅師から日本から中国に法を求めてやって来た南浦紹明(後の大応国師)へ印可され、日本に生粋の禅が伝わりました。13世紀です。

 

 釈迦牟尼が悟りを開かれた紀元前5世紀から2500年後の今日まで、生きた人間の悟りを連綿として伝法してきているのが正脈の禅(祖師禅)です。その伝法している禅の悟りの見地から世界の宗教を見ると、老子が孔子がキリストがつかんだであろうそれぞれの宗教的根源は、決して二つあるものではなく、間違いなく同じものであると見えるのです。

 

「科学と禅」その3​

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「科学と禅」その3

丸川春潭

 今日のお菓子は、外郎(ういろう)です。外郎は名古屋だけと思っていたのは大間違いでした。山口参禅会の折り、山口市内の瑠璃光寺五重塔<国宝>の脇で、山口ならではのお菓子は是れだ!と云われて買ったのが外郎?!でした。

 

 ウィキペディアで調べると、名古屋、山口、小田原、伊勢、京都、神戸、徳島、宮崎の8カ所で土地の銘菓として昔から外郎があるようです。小生は、名古屋と山口のものしか食べたことがないのでそれ以外についてはコメントできませんが、一度は一口ずつでも食べてみたいものです。

 

 名古屋のものと山口のものはかなりな相違があり、それは原料の違いから来ているようです。名古屋のものは米粉が主原料であり、山口のものは葛粉が主原料のようです。どちらもそれぞれの個性を持って美味しい和菓子です。

 

 ぷりぷりした美味しいお菓子の後は、がちがちの難しいお話しです。

 今日は、科学と宗教は異なる領域であるが、本質的には相反しない、ということについてお話しします。

 

 科学と宗教の領域の違いは、二回前の時に、相対樹と絶対樹の図面を示しながらお話ししました。あの図の左がScience・科学の領域であり、右がSpirit・宗教の領域です。

 

 ところが世の中には、この科学の領域と宗教の領域の異なった領域であることを無視して、ものを考えたり発言したりしている場合が結構多いのです。

 

 そうなると、両者が互いに片方を誹謗したり、その価値を認めなかったり、論旨が通らず、お互いの足の引っ張り合いをすることになります。

 

 すなわち科学の領域で宗教を解釈・尺度したり、宗教の領域で科学を解釈・尺度してしまうわけです。

 前者は、宗教は反科学的であると決めつけ、宗教など無くて良いんだと宗教無用の論陣を張ります。そして科学万能の信仰者になります。

 

 後者は、古くはガリレオの宗教裁判であり、最近で云えば後述の原発や臓器移植に対する宗教家のとんちんかんな発言になります。また科学で明らかになった真実に相反することを宗教的行事や教義の中にいつまでも残し続けると云うことになります。

 

 また科学の領域と宗教の領域はまったく違うと云うことを認識していないと、よくあることですが、科学の領域で未知なるものを宗教的に解釈して変な非科学的な迷信を言い出したりすることになります。

 

 逆に、宗教の本質、教義を科学の領域で解釈したり、科学で尺度したり、その是非を論じたりすると、とんでもない誤解を巻き起こすことになります。言葉は悪いですが、味噌と糞と一緒にすると云うことですが、これは過去にも現在にも沢山あり、それがために傷つけ合ったり非難し合ったりして、結局は人類の進歩発展に大きくブレーキを掛けて来ているのです。

 

 大切なことは、事実を基礎として普遍性の法則を客観的に把握しようとする科学と、永遠なる真理に合掌し一体化しようとする宗教とは、本来矛盾するものではないのです。これが人間形成の禅の見解であります。

 

 更に、お互いが相手を尊重すると云うことにとどまらず、範疇・領域が違っていることを明確にしておいた上で、もっと積極的にお互いが相補っていかなければならないと考えます。これは居士禅者(脱俗出家した僧籍ではなく、一般社会人でありながら禅を学び修行している者)の立場からの見解であり発信であります。

 

 そうならなければ、これからの新しい地球人類の持続は極めて厳しいものになると云うことを、次回からお話ししたいと思います。

 

「科学と禅」その2

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「科学と禅」その2

丸川春潭

 人間禅 択木道場のHPに「古くて新しい座禅、易しくて深い座禅」シリーズのブログを平成25年10月初めから平成26年1月初めまで21回書きました。それが1月初めで中断し、そのブログの書き出しに、お菓子の話などを書いておりました。その部分の続きをこの「科学と禅」シリーズに引き継いで書かせて頂きます。

 

 前回の1月はじめは、お正月に因んだ花びら餅のお話しでした。

 このシリーズで先ず書きたいお菓子は、岐阜県中津川の栗きんとんです。この栗きんとんに初めて出会ったのは30年くらい前の先師磨甎庵老師のお宅にお伺いしたときに頂いた時で、その後もこの栗きんとんに出会うたびに、磨甎庵老師を追憶することになりました。

 

 本物の栗より、栗らしい!栗の風味とうまみと甘みが絶妙です。自然を生かす日本文化の粋のようなものです。ごちそうさん!!

 

 さて甘いお話しの続きは、難しい固いお話しです。

 前回、科学は万能ではなく、宗教の領域の必要性についてお話ししました。

 今回は、科学技術の進歩は、諸刃の剣である、と言う観点でお話しします。

 

 科学技術の進歩には、人類にとって素晴らしい成果をもたらしています。宇宙科学や、生命科学等の基礎科学の発展を基盤にして、医学や工学の発展で、寿命は延び、交通・通信技術は目覚ましい発展を遂げて、人類の文明を向上させてきております。

 

 しかし同じ科学技術が、原子爆弾も作り、大量殺戮兵器も開発してきています。都市化が進み、環境破壊が進み、人間が作り出したものによって人間が支配されるという典型的な人間疎外も、科学技術の進歩が残したものです。

 

 科学の進歩には、人類にとってプラスもあるがマイナスもあるのです。この両面があることを客観的に正しく評価しなければならない。

 

 すなわち、科学技術者も科学技術者の前に人間でなければならない。すなわち、科学者は先ずもって人類的視点に立たなければならない。これが21世紀の科学技術者の必須条件であります。

 

 例えば、生物利用殺人兵器の研究開発やクローン人間を指向する生命科学の進展には、科学者技術者だけの判断ではなく、人類的視点に立って進めてはならないと考えます。

 

 科学技術は進めば進むほど、専門分野に細分化され、全体像が見えにくくなり、進む方向を正しく見定めることが難しくなってきます。

 これは科学の発展における自己矛盾のようなもので、科学が高度に発展すればするほど広い人類的視点で科学技術に取り組まなければならない。

 

 すなわち科学の領域だけでは科学は正しい発展はできないと銘記すべきであります。

 これに対して、人類的視点と云っても、宗教の領域からの見方も入れてと云っても、抽象的で判然としない。そういう観点を少しでも禅の見方で少しでも明らかにしてみたいと思います。

 

「科学と座禅」その1

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「科学と座禅」その1

丸川春潭

 今日から「科学と禅」について、少しずつお話しします。

 科学は万能ではありません。

 人間禅を戦後作られた耕雲庵立田英山老師に小生は、19歳の時に岡山の中国道場で入門しました。

 老師は、東大で生物を勉強され、中央大学の教授をされた科学者でもありました。

 老師は、ご著書の『人間形成と禅』の中で、次のようなことを云われています。

 “死に対する恐怖”からの根本的解決は、科学では出来ない。”

 また、20年前の頃、世界的に読まれた、Gaarder著『ソフィーの世界』という分厚い本があります。

 その書き出しの中で、少女ソフィーが、“私は誰?”“私はどこから来たの?”と言うことを問いかけています。

 この問いに対する根本的回答は、科学では出来ません。

 科学の発達は目覚ましいものがあります。宇宙科学も生命科学も、IT技術の発展も全て目覚ましい科学の産物です。

 しかし、科学がどんなに発展しても、科学ではどうしようもないことも人間にはあるのです。

 科学の領域とは別に、宗教の領域・宗教の切り口が、人間および人間社会にとっては、必要不可欠であります。

 この認識をまずしっかりと受け止めなければなりません。

 座禅も宗教の中のひとつですが、社会の中で、人間にとって、宗教を、そして座禅をどう位置づけるかを、マクロから段々フォーカスして見ることも大切です。

 すなわち、科学と座禅を対比し、どう関わるのかを考えてみたいと思います。

 下記の図を見て頂きたいと思います。
 これの左側が科学の領域の相対樹であり、左側が宗教の絶対樹です。
 相対樹の共通するところが思考であり、脳科学から云えば頭頂葉が関わる領域です。

 これに対して、絶対樹の方は、武道があり技芸道があり宗教各派があり、そして共通する幹のところが「三昧」となっています。
 脳科学で云えば、前頭葉が関わる領域です。

 全体を一人の人間としますと、左側の相対樹は知恵の知・知性であり、言葉で全て表現できる領域です。

 それに対して、右側の絶対樹は知恵の慧・感性であり、深く入れば入るほど、言葉を超えた領域になります。

 

 

 仕事は、この両方がコラボレーションして、はじめて良い仕事が出来ます。心の教育とか、人間形成は、右の絶対樹の領域を充実させることです。端的に言えば、三昧を身につけることだと言えます。

 戦後の日本および日本人の問題として、嘗て日本および日本人の強みであった右の絶対樹の充実が、偏差値教育とか高度成長時のエコノミックアニマル化の中でだんだんと弱くなってきたと考えます。

 この右の絶対樹の充実を図るひとつの有効な手段が、座禅であります。
 この座禅をどう有効に使って、右側を充実させるかということや、右を充実させると左とのコラボレーションがどう改善され、どういう成果に発展するかを少しずつ次回からお話しします。