老師通信

人間禅の老師による禅の境涯からの便りです。
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2020.09.11 Friday

夢窓国師出生の周辺(四)宇多源氏について

 

夢窓国師出生の周辺(四)宇多源氏について

粕谷要道

 伝記で夢窓国師(の父)は宇多源氏(佐々木氏)とされている。宇多源氏とは宇多(うだ)天皇の第八皇子、敦実親王(あつみしんのう)が臣籍降下(皇族が臣下の籍に下る)した際に「源」の賜姓(しせい)を受けたことにより、敦実親王の子息、従一位、左大臣源雅信(まさざね)(920〜993)が宇多源氏の始祖とされることに由来する。
 宇多源氏から近江源氏佐々木氏へたどる前に、まず源氏とは?について叙述することにしたい。「源氏姓」の由来、歴史については、下記のようなことがいわれている。
源氏姓の由来について;    
 源氏姓とは皇族が臣下の籍に降りる臣籍降下の際に「源」の賜姓を受けたもので、第52代嵯峨天皇(786〜842)(第50代桓武天皇の第二皇子、母は皇后藤原乙牟漏、皇后は橘嘉智子(檀林皇后)、同母兄に第51代平城天皇、異母弟に第56代清和天皇他)から分かれた嵯峨源氏や清和天皇から分かれた清和源氏、さらに第58代光孝天皇は藤原基経の後援を受けて即位した際、斎王として内親王宣下した皇女を除く全ての子女に源氏姓を賜姓したが、源定省とその子源維城は復帰して、宇多天皇(第59代)、醍醐天皇(第60代)として即位した。
 第59代宇多天皇から宇多源氏(近江源氏・佐々木氏)が分かれ、また江戸時代に成立した正親町源氏に至るまで数百年間にかけて二十一の系統(流れ)があるとされている。姓(かばね)は代表的なものとして、平氏・藤原氏・橘氏、とともに「源平藤橘」(四姓)と総称されている。
 多くの源氏は一代・二代のうちに朝廷で高位を占めることはなくなったが、村上源氏の子孫である源師房流(中院流)は上流貴族の地位を占め続け、建久七年の政変で摂関家を越える権力を手にした源通親や、後醍醐天皇第一の側近として南朝を指揮した北畠親房、明治政府の岩倉具視などがでている。
 最も歴史に名を残したのは、通親と藤原伊子との間に生まれた六男で、幼くして両親の死に遭遇したその少年は出家して道元と名乗る。南宋から帰国して「曹洞宗」を開くのは通親の死から24年後の事である。ただし、道元禅師の両親が誰であるかについては諸説あり、通親と伊子を両親とする江戸中期の面山瑞方(曹洞宗)による訂補本『建撕記(けんぜいき道元禅師伝記)』の記述には平成年代の研究者より疑義が呈されている。それらの説では、通親の子である、公卿で歌人、村上源氏久我家分流堀川家、堀川通具(1171〜1227)が道元禅師の実父としている。ただ、久我家分流堀川家は室町期に途絶えている。
 また、源通親の養子、証空は法然上人に弟子入りし、浄土宗西山三派の初祖となった。
 さらに宇多源氏・清和源氏・花山源氏など一部の家系も堂上家として存続している。
 また源氏の子孫の一部は諸国の受領(ずりょう・じゅりょう)の長官 (かみ)を務め、任地におもむかない遥任国司(ようにんこくし)に対し,任国に行って実務をとる国司をも務めた。平安時代中期以降,中央政界に進出しえない中小貴族が受領となり,その徴税権によって富をたくわえ,任期が終ると土着するものもあり,また富力により院政の中心勢力となるものもあった。南北朝時代以降,国司制度がくずれて、国務と無関係な名ばかりの国司が多くなり,やがてそれらのものをも受領と呼ぶようになった。



ささりんどうと紋章、嵯峨天皇宸翰

 

 これらの受領・在庁官人の多くが土着して武士化したのである。
 特に清和源氏・源経基流れ河内源氏は、鎌倉幕府を開いた源頼朝を輩出したことで武家の棟梁と認識されるようになり、その流れを汲む有力氏族足利氏の足利尊氏は室町幕府を開く。江戸幕府を開いた徳川家康を出した三河松平氏なども河内源氏後裔を称している。皇族からの臣籍降下そのものは、は律令(りつりょう)制度(律は刑法、令は行政法、民事法などを含むもの)成立以前から存在しており、古くは公の姓(カバネ)を与えられた諸氏や、天武天皇の時代に真人のカバネを与えられた諸氏、奈良時代の橘氏や、光仁天皇、桓武天皇、平城天皇の子孫なども存在する。
 弘仁5年(814年)に嵯峨天皇の皇子女8人を臣籍降下し、源姓を与えられたのが最初の源氏で、これらの賜姓は、一定の年以降に生まれた子女のうち、生母の家格が低いものに一括して行われた。この賜姓は「嵯峨の詔」が述べているように、朝廷歳費の節約が理由とされる説が大勢を占めていたが、上級貴族として皇室の藩塀(はんぺい―垣根)とすることが目的であるという説もある。しかし一部の氏族を除いては没落していく例が多く、藩屏としての役割を十分に果たしたものではなかった。「源氏」つまり「源−みなもと」は皇室と祖(源流)を同じくするという意味である。
 源氏の代表的な家紋「笹竜胆ささりんどう」は日本最古の家紋と言われている。多くの秋草が枯れ、野山が寂れかかったころ、楚々とした紫の姿をあらわす「ささりんどう」は中国原産の竜胆(リュータン)が訛り、和名・りんどうとなり、葉が笹に似ているところから「ささりんどう」となった。という。
 家紋として用いたのは村上源氏の久我・六条・中院などの諸家、宇多源氏などで、現代では鎌倉市の花ともなっている。

 

2020.09.09 Wednesday

続「AI時代と禅」〜〜自分らしさを出せ!〜〜

 

続「AI時代と禅」

〜〜自分らしさを出せ!〜〜

丸川春潭

 スポーツの世界では試合の結果を左右する”心理学"の研究が進んでいるようです。必ず勝つ人と負ける人が存在するスポーツの世界においては、同じ様な技術・能力を持った選手同士の勝敗を別ける要素として「心」が大きく関わっていることが関係者に認識され、勝つための「心」を追求し始めたということです。
 スポーツ心理学を踏まえてのアスリートを一流にする一流の指導者のキーワードがサブタイトルの「自分らしさを出せ!」と云うことのようです。この自分らしさは、単に「人と違ったことをすることではない」のは勿論です。しかし、ではどうしたら自分らしさを出すことができるのかということについての明確な応えは、まだスポーツ心理学の方でも出てきていないようです。
 スポーツにおける必勝のための「心」追求は、ビジネスの世界でも全く同じことがテーマになっており、書店のビジネスコーナーでは、このテーマに関わらない本はないくらいにいろいろな角度から論ぜられています。
 人間禅としても社会的ニーズに応えると云うことから企業研修を通じて社会貢献をしようと三年前から進めてきているところです。したがって我々もまさにこの「心」追求から「自分らしさを出す」ことを企業研修の中心に据えることになります。
 「自分らしさの追求」は、今に始まったことではなく小生が製鉄会社の管理職だった1980年頃からも既にビジネスマンにとっての最大の課題が個性の発揮でした。すなわち40年以上に亘って継続したテーマであるばかりでなく、今後間違いなく到来してくるAI時代においてますますこの課題がビジネスマンのみならず全ての人に共通する課題となると考えます。
 「自分らしさは、人と違ったことをすることではない。」に対して、先にも述べた40年間売られ読まれた膨大なビジネス書は様々に回答しているのですが、小生は全部枝葉末節の回答でしかないと見ておりました。すなわち自分らしさが相対的に他人と比較しての自分らしさの域を脱していないということと自分らしさを発揮させる術がまさに手先の術でしかないのです。
 これからの将来を考えると、今までの延長線ではない時代すなわち人工知能(AI)時代が想定されます。AI時代のサラリーマンは今以上に「自分らしさ」が求められるのは間違いありません。もっと厳しく求められて来るでしょう。それは「人と違ったことをするのではない」だけでなく、更に「AIと同じことをすることではない」に自分らしさが発展してくるからです。AIがDeep learningのできる時代における「自分らしさ」は、「AIと違ったことをすることではない」だけではなく、もっと「人間らしさの範疇」の中での自分らしさが求められてくるのです。AIの出現によって「人間らしさの範疇」が浮かび上がり、その価値が際立つことになるのです。
 臨済禅の特徴は、お釈迦様の悟りを現代人にしっかり追体験させる方法を伝えてきているところにあります。お釈迦様の悟りの原点は、生きている自分の中に永遠の命とも云える絶対の自己をしっかり悟るところにあります。他人との比較(相対的)でない絶対的な自己のCharacter(個性)を発揮するためにはこの絶対の自己(本当の自分)を先ずもってしっかり掴む必要があります。これは人間らしさの範疇にのみ存在し、これをしっかり自覚することが自分らしさを出す必要条件になるのです。
 この必要条件に対して十分条件も必要です。変化の激しいそして多様性のある現代社会において自分らしさ(個性)を発揮する十分条件は、掴んだ悟りを日常生活の中で常に生き生きとさせ続けることです。これはなかなか難しい。本当の自分(主人公)をしっかり掴むと云うことは臨済禅の正脈の師家に師事することができれば、それほど難しいことではない。しかしその悟りの境地を社会活動の中で持続することは難しいのです。脱俗出家して喧噪の世縁と断絶した山奥の僧堂で静かに修行専一に生活できる修行僧であれば未だしも、生き馬の目を抜く十字街頭のまっただ中での社会生活において、この悟りの境地すなわち自己の主人公を常に目覚めさせておくことは至難の業なのです。しかしこれが在家禅の意義深さであり真骨頂がここにあるのです。主人公を常に目覚めさせるのに先人は非常な努力を払い様々なやり方を編み出してこられました。そのための一つの先人の教示が、「一日一炷香」(毎日線香一本が燃え尽きるまでの30〜50分間 座禅を組んで数息観三昧に打ち込む行)の実践です。数息観三昧に打ち込むことによって、毎日主人公を呼び起すのです。この主人公は知性の領域にはいません。すなわち知性を司る頭脳(頭頂葉)の中の記憶には主人公は存在していません。したがって見性し悟りを掴んだとしてもそれを知識的に記憶して保持することは出来ないのです。悟りの居場所は感性を司る前頭葉であり、前頭葉が座禅行によって活性になっているときだけ、お釈迦様の悟りが活性になって出て来るのです。座禅行によって前頭葉が活性になると悟りの境地が蘇えり自己の主人公は生き生きとしてくるのです。
 この必要条件(主人公を掴むこと)と十分条件(主人公を目覚めさせておくこと)が揃って初めてその人の自分らしさ(個性)が発露されるのです。自分らしさはコチッとしたものではなく、環境の変化に応じて柔軟にそして鮮やかに発揮されるものです。どんな天賦の質に恵まれていてもこの二つの条件が揃わなかったら自分らしさを発揮することは出来ません。普通の平均的な人間でも、臨済禅の人間形成育成システムに則って努力すれば、それぞれの器に応じた自分らしさを開花させ一生一回しかない人生を目一杯生ききることができるのです。
 勝つためのスポーツ心理学も本当に実効を上げるためには、表現はどうであれ既述の必要条件・十分条件を揃えなければ一流にはなれない。何らかの方法に則ってそれに近づいて行く実践行を確立しなければならないのです。
 日本において一流のトップアスリートのメンタル(心)を強くするには来年の東京オリンピックは絶好のチャンスと考えます。勝つための心を養成する施策を国の施策として取り上げ実施すれば良いと考えます。一度そういう施策をして実効が確認できれば、永続的な施策にもなるというものでしょう。
 スポーツのみならず最も自分らしさ・個性の発揮を望んでいるのは、国際競争で戦っている企業経営者でしょう。前述の禅的企業研修が日本の国際競争力を付けるためにますます必要になってきていると考えます。自分らしさの発揮は新入社員から社長までに必要であり、それぞれの研修コンテンツを臨済禅の教育システムに則って工夫し作り込まなければなりません。このノウハウは臨済の法を継ぐ在家禅である人間禅に蓄積され集約されており、それをしかるべきパートナーと把手供行して社会に還元していくことが時代の要求であると考えています。これが有力な企業で実効を上げれば、社会のあらゆるポジションでこの自分らしさ発揮の教育システムは自然に浸透して行くことになるでしょう。これこそが明日の日本の国づくりに繋がると思います。

 

2020.08.31 Monday

鹿児島支部の紹介(4)

 

鹿児島支部の紹介(4)

佐賀 諦観

 霧島自然ふれあいセンターでの第1回参禅会及び鹿児島市内での講演会を終えることができ、鹿児島に人間禅の拠点が出来る可能性を感じとる事が出来ました。問題は参禅会 、摂心会が開催できる会場を探すことでした。

 鹿児島支中心部に近い合宿施設を見に行ったり、ネットで探したりしていましたら、道芳居士(薩空庵道芳老居士)がネットで探し当てました。鹿児島中央駅から西へ15キロほどの鹿児島市上谷口町(旧松元町)の平野岡健康づくり公園内の茶山房(さざんぼう)という建物でした。H23年5月28日に現地調査に向かいました。
 中央駅から12分の鹿児島本線上り三つ目の薩摩松元駅から歩いて30分ほどの岡の全体が大きな施設となっていて、松元体育館、温泉センター、テニスコートドーム、野外テニスコート、野球グランド、陸上競技トラック、パットパットゴルフ場などが設備されて、春は1000本の桜がきれいな岡です。その岡の頂上に茶山房という鉄筋コンクリートの大きな建物がありました。旧松元町はお茶の生産が盛んで、茶もみの講習会などを行う、お茶の里のシンボルとして平成7年に建築されたもので、1階に茶もみ講習会を行う150畳ほどの板張りの中体育館みたいな会場と茶室、炊事場、トイレ、受付カウンター、2回に30畳と50畳の和室、10畳ほどの洋間、男女別の洗濯機つき洗面場、入浴は体育館併設の温泉センターでと申し分ない会場でした。 
 体育館にある総合事務所に伺うと、借りる場合は抽選になるが一棟一団体のみ。使用料は一人昼が100円、夜が200円。冷暖房つき光熱費込みのすばらしい会場でした。

 


 

 この公園の松元体育館は鹿児島県の卓球のメッカとなっていて、土日祭日は県内各地から貸し切りバスが来て、卓球大会が開催されていました。同じ公園内の茶山房会場はあまり知られていなく、しばらくは、こちらの日程でほとんど借りることが出来ました。妙青庵老師をご案内し会場をみていただいて、静座会を行い、7月に第2回の鹿児島静座会参禅会を行い、12月まで4回の参禅会を開催しました。この間、霧島での第1回参禅会からの入門者の変化はありましたが7名ほどが何とか定着して参禅会に通って来ました。といっても三光庵老居士、道芳居士、碧山居士など熊本支部員によるおんぶに抱っこの運営で、座具座布団など必要道具は熊本からの搬入でしたが、この会場が使えるのは実に幸運でした。とにかく、会場を優先的に借りられるよう作務を重点的に行うことにしました。

 

 翌年のH24年2月17~19日に茶道部との合同第6回参禅会が総裁老師を担当師家にお招きして開催されました。開催内容は以下の通りでした。
日 程 平成24年2月17日(金)  〜 19日(日) 
場 所 鹿児島市吉野町9700-1 島津家別邸 仙巌園 電話099-247-1551 茶山房 電話099-278-5100 
主 催 茶禅一味の会鹿児島仙巌園大会実行委員会  後援  京大心茶会
行 事

。卸遑隠憩(金)

〈参禅会〉18:30 受付〜 22:00オリエンテーションと 法 話・静坐・参禅
〈法 話〉19:50〜20:20 大休庵諦観老居士「両忘庵釈宗活老師『亀鑑』」
◆〕癸隠呼(土)

〈参禅会〉09:00 受付〜 12:00オリエンテーションと 静坐・参禅 
〈講演会〉16:30〜18:00 講師 笠倉玉渓先生  演題「利休の切腹と禅」
〈交流会〉18:00〜19:30
 ※以上の行事は、鹿児島市 松元平野岡健康づくり公園内「茶山房」
2月19日(日)〈茶会並びに講演会〉(島津家磯別邸 仙巌園) 受付 (午前9時)
 茶席 (午前9時半 〜 午後12時半 ) ※各茶席で静坐と「茶禅一味」群読
 ※茶席5席・香席1席・ 点心席 (午前9時半 〜 午後12時半)
 講演会 (午後1時 〜 午後3時)
  挨拶:島津 修久 島津家32代当主・島津興業会長・淡交会支部長
     諏訪 秀治 鹿児島商工会議所会頭・表千家同門会支部長
  講師:熊倉 功夫  静岡県立文化芸術大学学長
     本庄 慈眼 京都大学医学部名誉教授

 

〇この茶禅一味参禅会の模様を鹿児島禅の会の参加者用に発行していました会報「一隻眼」8号に写真入りで次のように報告しています。

 

茶禅一味の会参禅会及び大茶会概況

 平成20年に茶道各流派の有志が集い、古来言われ目指されてきた茶禅一味の現成を目指す「茶禅一味の会」が設立され、同年に「第1回茶禅一味の会 記念茶会」を千葉の人間禅道場で開催しました。その後、札幌大会を裏千家茶道会館で、新潟大会を北方文化博物館等で開催し、この度は、松元健康づくり公園内の茶山房で参禅会を2月17日夕方から19日早朝まで参禅会を行い、その後仙巌園にて午前9時から午後3時まで茶会と講演会が開催されました。
 参禅会は、人間禅の葆光庵丸川春潭老師を師家に拝請し2泊3日で、九州各県からの参加があり45名ほどとなりました。最後の日には、笠倉玉渓先生による「利休の切腹と禅」の講演を拝聴し、参禅会終了後は公園内の食房「う ま 吉」で、鹿児島県の副知事はじめ茶道の先生方など交えての和やかな交流会がもたれました。

 

交流会 副知事挨拶

 

茶山房茶もみ会場での記念写真

 

 翌日の茶会は仙厳園で、鹿児島茶道界の裏千家・表千家、そして北九州市の裏千家、熊本の肥後古流、千葉と岐阜から有楽流の各茶席に御家流聖香会の香席が設けられていました。約250名の茶道界関係者が茶席での5分間の禅の呼吸法「数息観」を体験された後、お茶を楽しまれました。午後には、仙巌園秀成荘東の間で、京都大学名誉教授の本庄慈眼先生による講演「お釈迦様の脳」、そして、静岡県立芸術文化大学学長の熊倉功夫先生の「茶の湯」ついての講演会が催されました。
 この日は、桜島が一日中くっきりと姿を見せて、麗かですばらしい初春の大茶会となりました。

 

茶 席

 

講演会 仙巌園秀成荘

 

茶会後の総裁老師・笠倉玉渓先生とかごしま禅の会のみなさん

 

 以上当時の会報「一隻眼」から文章からでした。
 このように総裁はじめ総務長、茶道部、九州各県の会員の皆様のおかげで鹿児島茶道関係者の方々などに人間禅鹿児島禅の会の紹介をしていただき茶禅一味参禅会を終えることが出来ました。そしてこの年5月の春季本務記念式に於いて「鹿児島禅会」設立許可をいただきました。一人の会員も居ない鹿児島に「南進」という言葉に動かされ出張って来て、曲りなりに小さな根を下ろすことができました。この後のことは次の機会に、では
お元気でお過ごしください。

 

2020.08.27 Thursday

座禅をする人をどうやって集めるか?に対する返事

 

座禅をする人をどうやって集めるか?に対する返事

丸川春潭

 グロービス経営大学院という社会人のためのビジネススクールの学生との縁があって、荻窪支部長の中川香水禅子が座禅の指導を昨年の夏頃から定期的にしており、小生の講演(「チェンジユー」)も聞きに来たりして面識ができた。その中の一人のO君から標題のような質問をされた。彼らは30代から40代くらいの若者達であり、有志で「感性を磨く」ことを売りにする会社を起業しようとしており、その一環として座禅もしているのである。
 標題の質問は、懇親会の席上で突然にされとっさに答えたので、帰ってから云い足りない思いがあり、文章にまとめて彼に送付しようと書き始め、ついでに人間禅のブログにしようと思い立ちました。
 とっさの応えは、「座禅の効用をいくらPRしても対象の人に求める気持ちがなければ馬耳東風になるだけです。このことを先ず認識しておかねばいけない。自分は座禅をやってみて感性を豊かにすることが出来ると確信してきたのは良いのですが、そしてその思いを他者と共有しようとすることは良いのですが、ダイレクトにそれを力説することは、それは自分の思い込みを対象者に押しつけることになり共感は得られないと思います。相手が何を求めているかも含めて相手の方にもう少し重心を移して考えて下さい。」と云うようなことを話しました。また「世の中には感性を磨きたいとか座禅をしてみたいとか云う人は、ネット検索の数を見ただけでも大変な人数のまさに君達のユーザーがいることは確かであり、ニーズを感じている人と提供したい(提供できる)人ともマッチングが出来ていないのは確かであり、どう働きかけたら良いかは大切なそして重要な課題です。」と云う返事をしておわりましたが、少し舌足らずだったと云うことです。
 先ずO君が、自分たちの同じ大学院の仲間に呼びかけるのか、これから起業化した後に、社会一般のユーザーに呼びかけるのかを確かめなかったのはまずかったと反省しています。と云うのもそのどちらかによってアプローチの方法も変わってくるからです。
 社会一般を対象にする場合は相手がどういう人か判らないので、その時代に何が一番社会で求められているのかの洞察からしなければいけません。社会一般となると範囲が広すぎるのでもう少し対象を限定すると、例えばサラリーマンの若者を対象に考えるとするならば、彼らが今何に関心があり何に悩んでいるのかをもう少し絞り込んで考えることができます。例えば「人間関係で悩んでいる」「自分を変えたい」「ぶれない自分になりたい」「兎に角落ち着きたい」等の彼らが興味を持ちそうなキャッチフレーズを出して、それらが座禅によってどう解決するのかの「座禅の効用」を説くのも有効でしょう。しかしその前に、多くの若者が目に触れるSNS(FB、Twitter、インスタグラム、HPなど)を持っているかどうかが必要です。
 一方、O君の学友だとか職場の仲間とか相手と自分が相互に知り合えている場合は、対応の仕方はガラッと変わってくるでしょう。
 日頃の付き合いで座禅に興味を示しそうな人には、ダイレクトに座禅を勧めたら良いでしょうが、学友とか知人といっても多くの人は、座禅?何それ、棒で叩かれるやつ?と云う反応になり、座禅に誘いにくいものです。一般的には座禅を知らなくても座禅をしたら良いのにと云う人は沢山いるのです。だからこういう人には相互の会話の中から、本人に座禅をして見たいという気持ちを起こさせる手続きが必要になります。
 どんな人でも本人が自覚していなくても精神的未熟さや精神的課題は持っているものです。それを先ず自覚させることが必要です。すなわち人間関係で悩んでいるとか、今やっていることに満足せず何かに挑戦しようとしているとか、現状の自分に満足せず自分を高めたいと思っているとか何かあるはずです。こういう時に一番肝心なことは、自分の云いたいこと「座禅の仲間に入れたい」等を先に出すのではなく、先ず相手に「自分」を語らせることです。そしてそれに応じてそれをフォローしつつ、相手の課題と座禅との関連を考えて、相手の課題に座禅を結びつけてその課題が進むとか解決するとかの可能性を示唆するのです。そして最も説得力のある決め手は、O君自身の人となり(人間形成を積んだ風格)が説明の信憑性を左右するのです。禅の方でも昔から人の香りが布教になると云います。この人に付いていきたいと自然に思う人の香りであり、口ではなく背中で語ると云うことです。
 座禅の修行は、義理では長く続きません。座禅は長く続けて初めて値打ちが出てくるものです。本人が主体的に能動的にその気にならなければできないことです。できることは如何に本人がやってみたいという気にならせるかどうかです。教えると云うよりは気を付かせると云うことです。
 人間禅の場合の良くあるケースは、人間禅のHPを見て道場に連絡してくるあるいはやって来る人が多いのですが、こういう人は自分で座禅やりたいからネット検索をして人間禅のHPにたどり着き、ここは信頼おけそうだと判断してやって来ているので、このやる気を起させるという課程は既に通り過ぎているので、後は師家に引き合わせ面談するという課程に進めば良いことです。
 O君の場合では、働きかける対象を明確にすること、そしてその対象に応じた手順をきちっととること。最後は自分も未だ未だだけど頑張っていこうとしているんだということが伝われば、一番の説得力になると思います。君自身がしっかり座禅することをお忘れなく。ご精進下さい。合掌

 

2020.08.26 Wednesday

8月15日に思う

 

8月15日に思う

笹良風操

  1. 玉音放送
  2. 価値観の大転換
  3. 肩書きの空しさ
  4. 出征の日
  5. 父切腹す。
  6. 終戦すぐには父は帰らなかった。
  7. チャンギイ刑務所の生活
  8. 父帰る
  9. マッカーサーの呪いからの脱却
  10. 禅との縁

 

 終戦から75年も経った。戦争を語れる世代はどんどん減っているので、私も語り部としての役をはたさねばと思って記憶を辿って書いてみました。

1. 玉音放送

 天皇陛下の玉音放送は疎開先の大分県中津旧制中学で拝聴した。雑音がひどく「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」だけが聞こえてあとは雑音で分からなかった。でもこれで日本は負けたのだということが分かった。

 玉音放送をさせてはならないと考える陸軍の若手将校の椎崎中佐、畑中少佐等は近衛師団長室に乱入し、これを阻止しようとする師団長森赳中将をピストルで射殺し、玉音レコードを探したがとうとう発見できなかった。其の為無事玉音放送が実現し終戦が決定した。椎崎中佐、畑中少佐等は後に宮城前広場で自決した。この経緯は小説「日本の一番長い日」に詳しい。映画にもなった。

 殺された森赳中将のお嬢様とは姉岡部千鶴子の縁で知り合いとなり拙宅にもおいで頂いたが、森中将は立派な軍人で高村光雲作の観音菩薩像の前で毎朝座禅をしておられたということだった。

2. 価値観の大転換

 この日を境に価値観が全くひっくり返った。昨日まで正しかったことが今日は間違っているという価値観の大転換がおこった。

 従って我々の世代は共通して世の中のキマリとか国と国との力関係とかはいつ変わるか分からない。100%信用してはならないという用心深い考えを持っている。

3. 肩書きの空しさ

 位階勲等、肩書、名誉等は空しいもので世の中が変わったら尻拭き紙同然になるのでこんなものに執着してはならないという教訓を身に染みて体験した。

 私の父の従五位功六級勲3等陸軍中佐連隊長という肩書はあっという間に剥げ落ち世渡り下手の馬鹿正直な普通人になってしまった。この体験は後に臨済禅師のいう眞人しか認めない禅思想を受け入れる精神的土壌となった。

4. 出征の日

 昭和15年(1940年)私が小学4年の時父は陸軍少佐予科士官学校教官から北支に出征した。

 東京駅には校長の牟田口中将(シンガポール攻略では猛将とうたわれたが、無謀なインパール作戦で8万の将兵を死なせ、史上最低の将軍という評価を得た)が副官と共に見送りに来た、士官学校同僚は少し離れて見送っていた。

 反対側のホームでは中国の戦線に出征する師団を見送る白いエプロン姿に愛国婦人会のたすきを掛けた婦人たちが万歳!万歳!と振る日の丸の小旗の波波だった。今でもあの日の光景はいやな思い出である。

5. 父切腹す。

 中支である作戦が計画された。父はその作戦では部下も沢山死ぬし、住民も人的にも物的にも被害が大きいので止めるべきだと強く主張した。しかし上層部から天皇陛下のご命令に逆らうのかと言われ、もう一人の同じ考えの将校と共に切腹して止めようとした。くわしいことは姉から止められているのでこれ以上書けないが部下が気がついて救出したので、一命はとりとめたが、腹に一文字の傷跡と腰から下の大火傷のあとが残った。

 その作戦の名前は当然教えて貰ってないが父の入院の時期と重なることで想像がつく。やはり無理だったようで、師団長の幕舎も襲撃され、師団長の私物の行李を奪われるほどの激戦だったようだ。撤収する時負傷者を運ぶ担架の列が延々と長蛇の列で続いたことでも有名な作戦だった。父の命掛けの抗議は正解だったのである。

 父は80才過ぎた頃腸閉塞を患い入院した。医師は原因はこの一文字の傷にあると言ったが父は何も言わなかった。この傷が真実切腹の痕だということが分かったのは姉が75年の沈黙を破って話してくれた今日のことである。

 野戦病院入院中の父から刀が送られてきたことがある。焼け身で真っ黒だった。一部分に明らかに血の痕があった。人を切ってない父の刀に何故血の痕があるのか当時不思議だった。今やっと分かったのは、父はこの刀で腹を切ったのだろうということ、それで永年の血の痕の謎が解けた。

 父は悪くとられるのを避けてか、姉以外の誰にも作戦に反対して切腹したことを話そうとしなかった。私は今回初めてこの話を聞き「父は自分の命を捨ててまで部下の命を守ろうとした凄い勇者だったんだ」と深く感動した。そして父を誇りに思った。もっと早く知っていたらもっと親孝行していたのにと思ったことだった。

6. 終戦すぐには父は帰らなかった。

 戦争末期父はヒリッピンのルソン島にいたが、マニラに対する本格的攻撃が始まる直前、山下奉文大将からマレー半島への転任を命ぜられ、ルソン島を脱出したがその数日後、米軍の猛攻によりマニラは陥落した。父は奇跡的に玉砕を免れる幸運を得た。

 終戦により師団長以下「長」と名の付く高級将校は皆英軍に逮捕連行された。父も工兵連隊長だったので飛行場建設の際の住民虐待の容疑で英軍に逮捕された。

 副官が同行を申し出たが父は部下全員を日本に無事連れて帰る様頼んで同行を断った。副官はこれを多とし、帰国後リンゴ園を経営し毎年リンゴを送ってくれた。

 裁判を受けるためシンガポールに行くことになったが、朝8時から夕がた4時まで徒歩で歩かされた。ヒリッピンのバターン死の行軍の報復である。4時になると後ろについてきていたトラックに乗車させ次の目的地まで行かせた。到着まで何日もかかった。

 シンガポールではチャンギイ刑務所に収容された。

 裁判の結果は前任者の作業者に対する待遇が悪いため死者がでたもので父は着任後待遇改善に努力したことが認められ無罪となった。しかし無罪となっても報復の爲1年半ひきつづき刑務所に入れられた。

 水曜日の朝は英軍の監視兵がコツコツと靴音をたてながらやってきて死刑判決を受けた獄中の同僚将校に死刑執行を受けさせるために連れて行く。そのときは、その将校に向かって挙手の敬礼をし、皆で「万歳!万歳!」で見送ったという。

 そして刑が執行されると遺書や辞世の句が回ってきたという。

 無罪判決を得ているとはいえ、勝者の気まぐれで死刑執行されるかもしれないという恐怖感があり、独房の前をコツコツという監視兵の靴音が通り過ぎた時、今日も死なずに済んだとホットしたという。

7. チャンギイ刑務所の生活

 チャンギイ刑務所で父は過酷な生活に耐え抜いた。一日の食糧は高さの低いイワシのカンズメの空き缶7分ていどの米粒が5,6粒浮かんだ薄い薄い雑炊だった。空腹との戦いが1年半続いた。

 空腹の爲カタツムリは勿論木についているカイガラムシやミミズなどの小動物を食べた。ゴムの実は青酸化合物を含んでいるのでそのまま食べると死んでしまう。その実を粉末にして水で漉すと毒は水溶性なので溶けて無毒化する。それは上等の食糧だった。

 何故英軍はそんなひどい待遇を日本軍将校にしたのかと父に聴くと、父はこう説明してくれた。

 シンガポール陥落後日本軍は捕虜の英軍兵士を使って戦闘で破壊された瓦礫の除去作業を行ったが、その時英軍の尉官級の将校も使役に動員した。将校は捕虜になっても使役に使ってはならないという国際条約があるそうで、日本軍は知らなかったのかまたは勝者の驕りで無視したのか将校を使役に使った。

 誇り高き英軍の参謀長は日本軍に対し断固抗議をしたが、哀しいかな日本軍がこれに応じなかった為断食をもって更に抗議し、それでも応じなかった為終に参謀長は断食死してしまった。この恨みの報復として勝者となった英軍が敗者となった日本軍将校に飢餓をあじわわせていたのだということだった。

8. 父帰る

 ある日父の兄にあたる伯父が慌ただしく姉のところに来て「喜べ!照(父)から電報がきたぞ。時に八幡駅に着くぞ」姉が舞鶴の引き上げ援護局に出したハガキを見て広島の宇品港から打電してきたらしい。

 一家総出で八幡駅で待っていると父が汽車からおりてきた。

 くしゃくしゃの戦闘帽にぼろぼろの外套を着た一兵卒の姿で片手にラードの入った飯盒を下げ汚いリュックサックを背負い、出発の時のあの高級将校の凛とした姿とは打って変わったぼろぼろヨレヨレの姿だった。

 それでも父が生きて帰ったお陰で我が家に再び春が訪れた。この後のことは姉岡部千鶴子の著書「少女と父と戦争と」に詳しい。

 復員船では元上司の牟田口中将と一緒だった、父は「この野郎、勲章欲しさに無謀なインパール作戦を起案し、8万の将兵を死なせた。海に叩き込んでやりたい。」と思ったという。

9. マッカーサーの呪いからの脱却

 硫黄島の激戦で日本軍の戦死者より米軍の戦死者の方が多いという事実はマッカーサー元帥を驚愕させた。その結果日本人から大和魂を抜いて戦争に弱い日本人を作ることにマッカーサーは全力を注いだ。

 その結果戦争はいや、戦争はしてはならない。日本は侵略国家だ、日本は悪い国だった。日本は過ちを犯した。という考えが世間にまかり通っている。

 今のところアメリカが安保条約のお陰で日本を守ってくれているけれども、この情勢がいつひっくり返るか分からないと疑い深い私は懸念する。過去にニクソン訪中という予想外の出来事もあったではないか?アメリカが手を引いてよその国が日本に入ろうとした時、あるいはアメリカが日本を守る熱意を失ったとき、「戦争はいや、戦争はしない」で現実の問題として済ますことができるのだろうか?

 日本の国民が父が体験したあのチャンギイ刑務所の飢えに苦しむ生活をしないですませれるのだろうか?

 戦後75年、もうそろそろマッカーサーの呪いを解いて、普通の国になるべきではないだろうか?と8月15日に思う事だった。

10. 禅との縁

 父帰還して10数年。我が家の戦後の復興がようやく終わった頃私は一介のサラリーマンとなっていた。

 昨日正しかったことが今日正しくない価値観の大転換を体験した私は絶対の真実を求める気持ち切なるものがあり、禅に関心を抱いた。

 正義感から会社の上司と衝突し悩みを抱えたこともある。今思えば「血」のせいかもしれない。そういう時期に先輩から臨済宗系の居士禅の会の人間禅を紹介され、入門し今日に至っている。

 人生には浮き沈みがあるのが当たり前で、それを乗り切る正しい道を見つけることが最も肝要だ。この拙文が参考になることを祈って筆を擱きます。

 

2020.08.19 Wednesday

夢窓国師出生の周辺(三)父方のルーツ佐々木氏とは

 

夢窓国師出生の周辺(三)父方のルーツ佐々木氏とは

粕谷要道

 夢窓国師の父は近江源氏佐々木朝綱とされている。伊勢国で生まれた国師は4歳の時に「母方一族の争い」(9代執権北条貞時−当時13歳、の時代に鎌倉で起きた政変・霜月騒動・貞時の乳母の夫である内管領の平頼綱に北条氏の外戚で頼朝以来の御家人であった安達一族与党が滅ぼされた−当主泰盛の元寇後の経済政策に関わる幕政上の対立が直接の原因とされている)から甲斐の国へ武田源氏(甲斐源氏)をたよって移住したが、同年八月母を喪った。と伝記に記載があるが、当時の父については伝記にはその後一切触れられていない。

 ただ、国師が「九歳の時、平塩山の空阿につき出家を志す。」とある。

 平塩山(平塩寺)は戦国時代に信長の兵火に遭い焼失し、それ以後廃寺となっている。

 現在は甲府盆地西南端に位置する山梨県三郷町(旧市川大門町)で、地元では「平塩の岡」と呼ばれている地域である、広大な丘陵地の大部分は、「やまなし名所古跡文化公園」となっている、土地の伝承では、鎌倉時代中期、夢窓国師一家が伊勢国より移住して、平塩の岡辺りに住み、はじめ平塩寺をおとずれた際には父親に連れられて山門を潜ったと伝えられている。20歳まで平塩寺で過ごすが、その後一時期親許(父の住居?)に帰ったとの一部記述もあるが詳しくは生没年とも不明である。

 甲斐源氏や平塩山については、後述するが、国師の父方のルーツも国師の人間形成において大きく影響したであろうことは大いに考えられることである。

 系図など記録によると国師の曾祖父佐々木泰綱の祖父、佐々木定綱(1142〜1205)は近江の国佐々木荘を地盤とする佐々木氏の棟梁佐々木秀義の嫡男である。

 平治元年(1159年)の「平治の乱」で源義朝に従い平氏と戦った父の敗北により、親子共に関東へと落ち延びる。その後、弟達と諸国を流浪していたが、以仁王の令旨が発せられると、伊豆国に流罪となっていた源頼朝の側近として仕え、弟経高、高綱と共に偶偶頼朝の舅北条時政、孫(後の3代執権泰時)子(嫡男宗時、2代執権義時)らとその挙兵を助けることになった。

 近江源氏佐々木氏は平家追討後は戦功により旧領を安堵され近江守護に復帰する。

 国師の曽祖父・佐々木泰綱(1213〜1276)の時代になると、源氏の血統である鎌倉幕府御家人佐々木氏や足利氏にとっても戦慄が走る事件・宝治合戦が起きる。当時の年代は;

1219年 鎌倉幕府3代将軍源実朝没。

1221年 「承久の乱」勃発・1ケ月後、幕府側総大将北条泰時勝利。

1224年 2代執権北条義時急死(51歳)。

      3代執権北条泰時就任(41歳)。

1225年 北条政子死去(69歳)。

 

永福寺、再現写真、下は寺跡地(ウィキぺディアより引用)

 

 

 永福寺跡(ようふくじあと)は、神奈川県鎌倉市二階堂「旧二階堂村」にある史跡。永福寺は鎌倉時代初期、源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。二階建てであった事から二階堂とも称された。寺跡は国の史跡に指定されている。世界遺産候補となっている武家の古都・鎌倉の構成資産のひとつ。

 

 この時代、北条氏と肩を並べていたのが三浦氏である。三浦氏は、代々源氏に仕え、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵時にも大きな役割を果たした。

 頼朝死没後、北条氏は有力御家人の梶原景時、阿野全成、比企能員、畠山重忠を滅ぼし、二代将軍頼家を伊豆修善寺に幽閉して暗殺した。二代執権義時の時代には和田義盛が滅ぼされ、三代将軍実朝が暗殺されている。北条氏にとって残る有力御家人は三浦氏のみとなっていた。

 1242年(仁治3年)、「御成敗式目(貞永式目)」を制定するなど北条氏中興の祖と謳われた三代執権北条泰時の没後、4代執権となったのは孫の北条経時である。経時の時代は、4代将軍藤原頼経をとりまく御家人が存在し、北条得宗家に代わって幕府の実権を握ろうとする大きな政治勢力となっていた。
 これに危機を感じた経時は、1244年(還元2年)、藤原頼経(初代将軍頼朝の縁戚・2歳より尼将軍北条政子が実朝将軍を嗣ぐ傀儡将軍として擁立、補佐していた。)を辞任させ、その子の頼嗣を5代将軍に据えた。
 ただ、頼経は将軍職を追われた後も鎌倉にとどまり「大殿」(おおいどの)と呼ばれ、なおも勢力を持ち続けていた。
 1246年(還元4年)3月、経時が重病に陥ると、得宗家の私的会議「深秘の御沙汰」により弟の時頼(19歳)が5代執権となる。
 時頼の執権就任後間もない5月、名越(なごえ)光時が前将軍の頼経と結んで時頼を討とうと企てるが、時頼はその陰謀をうち破り、光時は伊豆江間(義時旧領地・出身地)に流され、頼経(28歳)は鎌倉追放となり京都に送還される「宮騒動」が起こる。

 そんな中、外様御家人の最大勢力、三浦泰村(42歳)の存在は大きかった。
 『吾妻鏡』によると、時頼が執権に次ぐ地位、連署に3代執権泰時の異母兄で、時頼自身の舅ともなる北条重時を迎えたい旨を相談した折、「然るべからず」という泰村の一言で凍結されてしまった(1246年(寛元4年)9月1日の条)。

 また、泰村の弟光村は、宮騒動によって京都に送還される前将軍に供奉(ぐぶ)し、 「今一度相構えて、鎌倉中に入れ奉らんと欲す」 と話していたのだと記している。(1246年(寛元4年)8月12日の条)。
 以前より前将軍藤原頼経を中心とする反執権勢力に近づくなど不穏な動きをみせていた三浦泰村を危険視していた時頼は泰村の弟光村が、頼経をとりまく陰謀に加担していたことを捉えて、三浦氏を追い込んでいく。
 一方で、御家人の中には勢力を増した三浦氏へ反感を持つ者も多かった。その急先鋒が時頼の外祖父・安達景盛である。(景盛は頼朝の乳母比企尼の長女・丹後の内侍の子であるが、その一方、景盛は源頼朝のご落胤だとする説も囁かれていたが、このことが後の霜月騒動の一因になったともいわれている。)

 また、景盛は早くから熱心な佛道修行者で、承久の乱後には総大将泰時を伴って、京都、栂尾高山寺の明恵上人に参禅し、和歌の贈答などもしている、実朝没後には政子に随い、実朝供養の金剛三昧院を高野山に建て、政子も没すると出家して高野山に籠もっていたが、鎌倉の事情は常に把握していて、高齢にかかわらず鎌倉に戻り、子義景と孫泰盛(後年の霜月騒動の当事者で内管領らに一族ともに粛清、討伐された)に三浦氏を警戒するよう促している。

 そのような情勢の中の1247年(宝治元年)5月21日、鶴岡八幡宮の鳥居前に「三浦泰村は近日誅罰されるので謹慎するように」との立て札がたてられた。誰の仕業かは不明であったが、これによって三浦泰村も武器、武具、食料を由比ヶ浜につけ、三浦邸に運ばせる。
 そして、1247年(宝治元年)6月5日、安達景盛が、子の義景、孫の泰盛に命じて三浦邸を襲撃させる。
 この期に及んで時頼(ときに20才、前年執権に就任したばかり)も三浦邸襲撃を決定したため、一気に合戦の火ぶたが切られた。
 『吾妻鏡』には、時頼が事前に三浦邸に赴き和平交渉にあたっていたという記事が載せられているが、果たしてその真相はどうだったのか。『吾妻鏡』の記録と実際の北条氏の政略、戦略の乖離、意図的齟齬、合理化、表面糊塗は初祖時政以来のもので、常に眉唾ものである。

 筋違い橋の三浦邸は現在の横浜国立小学校の敷地の一部である。ここで773年前に宝治合戦の戦端が開かれたのである。

 邸に火をかけられた三浦泰村は、頼朝公の法華堂に籠った。

 永福寺(ようふくじ)で陣を構えていた弟の光村は、永福寺に合流することを勧めたが、何故か泰村に戦う気がないことを知ると急遽、法華堂へ向かったという。

 法華堂で泰村と光村は一族500余名とともに自刃して果てた。

 泰村の妹を妻としていた毛利季光(大江広元の子)は、「兄を見捨てる事は、武士のする事ではない」と説得され三浦氏とともに自刃したという。

 後日、この合戦の追討軍によって千葉秀胤も滅ぼされている。

 

 三浦泰村の人物については承久の乱や儀礼の場での武術(弓馬に通じていた)は達者であったが、非常時、切迫した状況では判断力が鈍くなるようで、武者としては一流であるが武将としての才能には恵まれていなかったとの後世の評価が一般である。

 藤原定家は『明月記』で「八難六奇の謀略、不可思議の者か。」と記している。『古今著聞集』は「(或る時、)将軍御所の侍の間の上座を占めていた泰村は、さらに上座に若い下総(しもふさ)国の豪族・千葉胤綱が着座しているのを不快に思った泰村が【下総の犬めは寝場所を知らぬな】とつぶやくと、胤綱は【三浦の犬は友を食らうぞ】と切り返し、かつて同じ御家人の和田義盛を裏切って、専制権力を強める北条得宗家に讒言して、和田氏一族を滅亡させる和田合戦の端緒になった生き様を批判した逸話が記されている。

 

駿河の豪族三浦氏の邸宅があった筋違い橋と法華堂跡

 

2020.08.17 Monday

「究極の支え」

 

「究極の支え」

廣内常明

 

 人間禅「立教の主旨」の第一番目は【人間禅は、自利利他の願輪を廻らして、本当の人生を味わいつつ、世界楽土を建設するのを目的とする】であるが、素晴らしい人生観であり世界観であると思っている。

 そしてその内の、自利を「個々人が大安心を得て天寿を全うする」、利他を「他の人々(人類)が大安心を得てその天寿を全うする」と心得て工夫している。

 

 「天寿を全うする」には、小生の個人的な思いが含まれているかも知れない。

 

 実は、小生の母親は70才後半から徐々に体が不自由となり、H8年に92才で亡くなるまでの数ケ月間は臥しきりの身となった。 自宅で死にたいという強い希望があり、それに従った結果となった。

 

 母親の介護には、家内には特に世話になった。

 気丈夫な母は死ぬまでシャンとしていて、他に迷惑を掛けてまで生きることを望まなかったと思う。自殺(自死)を如何に防ぐか、“天寿を全うするんやで”と、母親にはっきり分かるように言ったものだ。

 

 家内は日常の介護の他に、母親の好きな三橋美智也の曲などの入ったエンドレステープを作り流し続けることを工夫してくれた。随分と癒しになったに違いない。

 

 “死ぬ時は、そばに居ってな” と頼んでいたその孫娘に手を握られて、母は息を引き取った。その末期に小生も居合わすことが出来た。天寿を全うできたのではないかと思う。

 

 序に、母親の思い出を少しだけ。

 四国は土佐の高知で明治生まれ、大学出(国文専攻)は丹波の片田舎では珍しい。引き揚げ家族で戦後の貧しい時代、生き残った小生を含む4人の子供(男ばかり)を育て上げ、自分の責務とばかり皆、大学を卒業させた。

 

 何かの折に、臥している仏間の鴨居に掛けてある くずした4文字の額に目がとまり、“あれ何と書いてあるんや”と聞いたことがある。“「心無罣礙(しんむけいげ)」と読むんや”と言って、説明してくれたと思う。

 

 臥しながら、ずっとその額を見ながら、「心無罣礙」を目指し、母なりに安心を得ていたに違いないと思う。その額は、今も同じ場所に掛けてある。

 

 額といえば、磨甎庵老師のご本からの引用であるが、小生が下手な字で半紙に書付け、額に収めたものがある。次のようなものである。

 

 【自然が持っている本来の理法・・・人間としての最后の究極の支えというものは、この自然の理法を離れはしない。

 これは人間の造ったもの、人為的なものではない。人間がそれを知ろうが知るまいがそういうことには関わりなく厳然として実在し不生不滅である。

 人間の道というのは、その理法を自分自身と不二一如として読み取ってそして人間としての姿においてそれを表現するということである。昭和63年10月2日 常明 謹書】

 

 この一文、「究極の支え」とでも名称したいが、「これだ!!」と感じ入り、毛筆で認めた記憶がある。生物学を専門としていた小生にとって、科学と禅修行の接点ともいえる一文である。

 

 大脳を発達させた人類は、その持つ特性を活かし、お陰様で、快適な文明生活を味わえる時代となった。現代は、禅が発達した唐や宋の時代に比して、地球はグローバル化し断然小さくなり、今や一国だけがどんなに頑張っても安全な豊かさを維持できる時代ではなくなった。

 

 人類全体が、同乗している「惑星地球号」の認識が不可欠である。

 

 また、生存し続け得た生物は一種もなく、ホモ・サピエンスもいずれは絶滅するに違いない。

 が、今 指摘されているのは、隕石の落下といった自然災害に因るのではなく、人類が発達させた文明故に自滅すると云う。故に現代は、ホモ・サピエンスという頭脳が発達した愚かな生物が繁栄し<そして自滅した?!・・・>時代として、「人新世」として区分すべきだと提唱し、警鐘を鳴らしている。

 

 この自滅は、その原因を作った人類ならば、避けられる筈である。自然な絶滅は致し方がないとしても、自滅と云うのは、ホモ・サピエンスの名において、避けねばならない。

 

 

 人類の大安心、人類の天寿を達成させるための、拠って立つ基盤をどこに見出せばいいのか。先に挙げた、一文「究極の支え」の中の、‘人間’を‘人類’と置き換えるだけで十分であると思うがどうであろうか。

 

 「個々人が大安心を得て天寿を全うする」、そして同時に、「他の人々(人類)が大安心を得てその天寿を全うする。」その為の禅の修行と心得ている。

 

 と言って何も特別なことはない。

 一人一人が小さな自我の殻を削ぎ落し、本来の宇宙的実相に目覚める、只 それだけである。

 

 【自利利他の願輪を廻らして、本当の人生を味わいつつ、世界楽土を建設する。】

 

 甚だ遣り甲斐のある業ではないか。

 

2020.08.11 Tuesday

定年後の人生の模範 東海道一の大親分 清水次郎長と禅 第十章

 

定年後の人生の模範 東海道一の大親分 清水次郎長と禅

笹良風操

第十章 夢のあと

 一代の英傑山岡鉄舟は胃癌を病み明治21年胃穿孔の爲急性腹膜炎を起こし亡くなります。享年53才でした。

 「腹張りて苦しき中に明けガラス」が辞世です。

 鉄舟の葬儀は会葬者5000人だったといいます。次郎長は子分50人ほどに手っ甲、脚絆、三度笠、に道中合羽というばくち打ちの制服で参列させたといいます。

 鉄舟死後次郎長はがくっと衰え5年後明治26年に74才で亡くなります。

 その最後のころ

 「わしが畳の上で死ねるということは、そうだなあ、酒を断ったこと、女に淡泊だったこと、それに何たって山岡先生にお会い出来たことだ。山岡先生のお陰だ。もうじきに山岡先生にお会い出来るってことだなあ。」と言ったそうです。

 次郎長の辞世の句は

 「ろく(六)でなきしご(四五)ともいまはあきはてて先立つ妻に遭うぞ嬉しき」でした。

 次郎長の葬儀には親分衆の他元幕臣、政府高官など2000人もの人が参列したそうです。

 

 坐禅の修行でばくち打ちの垢をこすり落とし世の爲人の爲尽くした次郎長の生涯は私達に大きな教訓を与えてくれました。定年まぢかの皆さま、定年過ぎた皆さま、そして若い皆さま、この話を参考に山岡鉄舟の遺した禅、人間禅に参じて心磨きをしようではありませんか!

仁空庵笹良風操しるす

 

2020.08.10 Monday

定年後の人生の模範 東海道一の大親分 清水次郎長と禅 第九章

 

定年後の人生の模範 東海道一の大親分 清水次郎長と禅

笹良風操

第九章 次郎長入牢す。

 明治16年次郎長を愛した大迫県令は東京警視総監になり、後任として薩摩の奈良原繁が着任します。奈良原繁は侍のなかの侍で剛直な人でした。1862年4月の寺田屋事件では藩主島津久光の命を受け薩摩の過激派有馬新七等のいる寺田屋に切り込み親友有馬新七を切り殺し鎮圧した男です。8月には島津の大名行列を横切った廉でイギリス人リチャードソンを切り殺し薩英戦争にいたらしめた武術の達人です。

 奈良原が着任した直後明治17年1月賭博犯処分規則が公布され、日本各地でばくち打ちの一斉検挙がはじまります。いわゆる「ばくち打ち大刈込」です。

 次郎長はこれに引っかかって2月に逮捕されます。この時の家宅捜索で自宅から刀80本、槍1本、薙刀2本、長巻3本、和筒砲2門、ゲーベル銃23丁が押収されたといいます。

 当時自由民権運動が盛んになり、リーダーにばくち打ちの親分がなることが多かったので、自由民権運動を抑えるために行われたものらしい。

 次郎長は「とうの昔に足を洗って堅気になりお国の爲になる仕事をして褒められている人間だ。それを牢に入れるとは怪しからん。今に見ていろ、俺が出たら県令のヤツブチ殺してくれる」と言ったと伝えられています。

 しかし牢内では模範囚として刑に服したそうです。

 

 次郎長逮捕以来天田五郎は減刑嘆願運動をし、鉄舟も政府要人に会って釈放運動をするけどうまくゆきません。そこで天田五郎は次郎長の人柄の良さを書いた「東海遊侠傳」を出版、鉄舟は是を中央政界の有力者に配り次郎長への理解と支持をたかめます。

 そして鉄舟は親しかった同志、(西郷と会いに行くとき自分の刀が粗末だったのでこの人から刀大小を借りて差して云った仲)関口隆吉、当時元老院議官という偉い人になっていたのですが格下の静岡県令になってくれるよう頼みます。

 明治18年9月在任9か月で奈良原繁は栄転し、関口隆吉が新静岡県令に就任します。これはひとえに鉄舟の裏からの働きかけによるものでした。

 関口は咸臨丸事件の次郎長の働きに深く恩義を感じていたといいます。

 「東海遊侠傳」配布の効果で中央政界でも次郎長への同情と過酷な懲役刑への批判が出てきたので、これ等が総合的に働き、明治18年11月特赦による仮釈放で次郎長は1年9か月振りに出所できたのであります。

 鉄舟の人脈に助けられ、次郎長は人生最後の危機を乗り越えることができたのですが、その後は恩人の言うままするままにそのあとを行くことになります。

 出所後次郎長は汽船割烹「末広」を開業します。開業セレモニーに鉄舟は手書きの扇子千八本を引き出物にします。

 「末広」は広瀬中佐(軍神)やのちの小笠原長正中将等の青年海軍士官が数多く訪れ血沸き肉躍る次郎長の話に聴き入り大繁盛したそうです。

 

2020.08.09 Sunday

定年後の人生の模範 東海道一の大親分 清水次郎長と禅 第八章

 

定年後の人生の模範 東海道一の大親分 清水次郎長と禅

笹良風操

第八章 次郎長後半生の事業

 世の爲人の爲になることをしなければと思い立った次郎長は色いろな事業に取り組みます。

 その第一は富士山麓の開墾でした。

 明治4年薩摩出身の大迫貞清が勝海舟の推薦で静岡県令、つまり県知事になります。大迫は赴任する時鉄舟に挨拶に行きますと「清水港には次郎長という男気のある任侠の人がいる。信用できる男だから是非会ってみてくれ」といわれます。大迫は着任するとすぐ次郎長を呼び出し、

 「若しおはんに開墾の志があるなら、おいどんが責任もってその土地を決め申そう」と提案、次郎長はこの提案を受け開墾に乗り出します。

 開墾には人手がいります。次郎長は囚人を使って開墾を行います。次郎長は囚人に大きな自由を与えて開墾させ囚人に感謝されます。

 明治17年に開墾事業は打ち切られますが囚人に対し暖かい態度で臨んだ次郎長の人柄は後々まで語り継がれ、その土地はお茶の栽培地として静岡県民に大きく感謝されています。

 

 明治9年には次郎長は英語塾を開いています。イギリス人のパーマーという人を呼んで塾を開きました。この英語塾の影響でハワイ、カルホルニアに清水から移った移民は3000人を超えたといいます。

 

 明治11年山岡鉄舟は戊辰戦争で両親が行方不明になり懸命に探している天田五郎という青年を次郎長に紹介し清水一家に食客として住み込ませます。彼には文筆の才があり、次郎長に一代記を書かせてくれと頼み、次郎長の話を元に明治12年に「東海遊侠傳」を書きあげます。

 

 江戸時代ばくち打ちの世界は闇の世界ですから文献は何一つ残っていません。この「東海遊侠傳」だけがばくち打ちの世界を伝える唯一の文献であります。これが後に神田伯山や広沢虎造によって面白可笑しく脚色され現在にいたるまで演劇、映画や小説になったのであります。

 

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