定年後の人生の模範 東海道一の大親分 清水次郎長と禅 第五章
定年後の人生の模範 東海道一の大親分 清水次郎長と禅
笹良風操
第五章 咸臨丸事件と壮士の墓
1868年5月徳川家の後継者徳川家達に新政府より駿河府中藩70万石の下賜があり旧幕臣が続々と静岡に移転してきました。
8月に新政府に従うのを潔しとしない榎本武揚は幕府軍鑑8隻を率いて停泊中の品川沖から脱走、北海道にむかいます。この時暴風雨に遭遇し老朽鑑咸臨丸は清水港に漂着します。
咸臨丸と言えば日本人の操艦で初めて太平洋を横断し、アメリカを訪問した船として有名です。この船で福沢諭吉はアメリカの文明を見て、日本の産業や教育の指導をすることになったのです。
漂着した咸臨丸を発見した官軍側の軍艦3隻が咸臨丸が白旗を掲げ、戦闘の意思のないことを表示したにもかかわらず猛烈な砲撃を加え、さらに刀を振るって咸臨丸に切り込みました。その結果乗組員全員切り殺され遺体は海に投げ込まれました。夏のことですから遺体はすぐに腐敗し、悪臭甚だしく清水港はその機能を失います。
徳川家達の駿河府中藩はこの官軍から見た賊軍の遺体を引き上げれば、同じ賊軍に与するものだと疑われ折角下賜された70万石を失うことになりかねないと遺体の引き上げを逡巡し、事態を見守るばかりでした。
その時任侠の人次郎長が立ち上がります。人々の困っていることを黙って見ることが出来ない人なんです。子分とともに3隻の船を出して悪臭ふんぷんたる遺体を収容し、これを向島に埋葬いたしました。これは次郎長にとって官軍から殺されても仕方ない命掛けの仕事でした。
徳川家達の駿河府中藩では明治政府との関係悪化を惧れ遺体を引き上げた次郎長の処分に苦しみます。その処分を担当したのが山岡鉄舟の子分のような松岡萬でした。松岡萬は山岡鉄舟に心酔し、腰巾着のようにいつも鉄舟にくっついていた人物で、これはまず親分の鉄舟に次郎長を会わせようとします。
鉄舟は次郎長に対し「かりそめにも朝廷に対し奉り賊名を負うた者の死骸をどういう料簡で始末したのか」
「賊軍か官軍か知らねえが、それは生きている間のことでござんしょう。死んでしまえば同じ仏様じゃござんせんか?仏に敵も味方もごぜえますまい。仏には罪はないはず。それに死骸で港を塞がれちゃ、港の奴らの稼業にだって差し障ります。港の爲、仏の爲と思ってやったことですが若しいけねえとおっしゃるなら、この次郎長どうにでもお咎めをうけやしょう。」
「そうか、よく分かった。能く葬ってやった。実に奇特のことだ。」
「ではお咎めはございませんか?」
「咎めるどころか!仏に敵も味方もないというその一言気に入った。」
「有難うごぜえやす。そう承れば俺も安心。仏もさぞ浮かばれることでしょう。序でに先生咸臨丸の兵士の墓碑に揮毫をお願い出来ねえかなあ?」
「良し、分かった。書こう!」
こうして山岡鉄舟は「壮士の墓」を揮毫いたします。
明治3年9月埋葬地で3回忌法要が盛大に行われ墓碑「壮士の墓」の左側面に山本長五郎之を立つと刻まれています。この日の法要には鉄舟、咸臨丸遺族、清水港の旦那衆、町民、僧侶が多数参列したと伝えられています。
この咸臨丸事件により次郎長は山岡鉄舟と強い絆で結ばれることになります。
山岡鉄舟は明治8年高橋泥舟、中江兆民等と計らい寺院中心の仏教の殻を破り、在家禅を振興し、国家社会に有意な人材を養成しようと当時の円覚寺の蒼龍窟今北洪川老師を東京に拝請し、禅の摂心会両忘会を発足させました。この両忘会の後身が人間禅であります。従って山岡鉄舟は人間禅にとってひい爺さんに当る方であります。
江戸城無血開城の交渉で西郷隆盛に惚れられて鉄舟は旧賊軍である幕府の人間であるにかかわらず、明治新政府に登用され後に明治天皇の侍従になり、若い明治天皇の教育にあたります。
侍従を10年して引退しようとすると更に引き止められ、終生宮内省出仕役としてお給料を頂いたそうですが、鉄舟は頂いた俸給は旧幕臣で困っているものにばらまいて自分はいつも貧乏だったといいます。揮毫は物凄い数を書いたようで本人は3500万枚だろうといったそうです。そのお礼のお金は全部困っている人に分け与え鉄舟自身は貧乏だったといいます。
有名な書家の長三州があれだけ沢山の書を書けるとは信じられないといったそうですが、鉄舟は「長三州は字を書くから沢山書けんのじゃ。わしは墨を塗るだけじゃからいくらでも書けるのじゃ」といったそうです。鉄舟の書は入木道という独特の書で大森曾玄老師がその筆法を伝えていますが、雄渾で他の真似できないものです。
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