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2019.06.25 Tuesday

「道眼(胆識)を付けるには」(その3)

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「道眼(胆識)を付けるには」(その3)

丸川春潭

 見性という言葉は6世紀に達磨大師が「直指人心見性成仏」と言う言葉を残されたのがはじめてと言われています。見性入理とは初則の公案を手がかりにオンリーワンな存在である自分に絶対の自己(永遠の命・普遍的な命・本当の自分)が不二一如に備わっていることを徹見することであります。悟りは境地であり見性は紛れもなくはっきりしているのですが、言葉で表現することはこの程度が限界です。そして人によってはズバリと徹底した見性をする人からじわじわと見性する人とか百人百様であり、長い目で見るとどちらが良いとか云々することではありません。

 この初則による見性は色即是空をさとることであり、これだけに限って云えば生命科学者の柳沢桂子氏も長年の闘病の中で独自に見性されています。また一流のアスリートあるいは秀でた芸術家で禅師に師事することなく独自に見性しているなと思われる方は結構おられます。それらの人は独自の方法で三昧に入り見性されており色即是空を悟られているのですが、空即是色まで見性しているなと思われる人は希有であります。すなわち臨済宗の師家の下でないと見性入理も完成し得ないと思います。ましてや見性悟道・見性了了の境涯へはどうしても臨済宗の公案と明眼の師家に長年師事するということがなければ不可能です。

 最後に見性した後の大切なことを申しておきます。見性し道号を授与された一年くらいの期間が公案修行で最も危ない時期です。参禅した室内で師家が初関透過を許したときは紛れもなく三昧に入り前頭葉で悟っているのですが、摂心会が終わって家に帰って日常生活に戻った日から三昧は急激に落ちて行き、前頭葉で悟った本来の面目の感性の境地はみるみる薄れてしまい、それは頭頂葉の知性の記憶に移行してしまいます。そうすると見性の感激も納得も夢から覚めたように消えて行き、取り戻し再現することは大変難しくなります。下手をすると公案修行がつまらなく思えて人間形成の修行を継続するモチベーションも下がる危機となります。またそこまで行かない人においても、数ヶ月後の次の摂心会が始まっても前の摂心会の見性直前の三昧の境地までなかなか戻りにくいということになり、次に師家から授与された公案に大変苦労することになります。こうなる理由は公案修行に入る前の道力(胆力)が未だ貧弱であるということが第一原因であり、第二原因としては摂心会後の生活の中での一日一炷香が精彩を欠いていることです。こういう場合は見性した三昧の境地を長くキープできないのです。

 私は見性したときにまた道号を授与したときに、一日一炷香で本来の面目(注1)を毎日呼び起こすようにと強く指導しているのですが、なかなか難しいようです。

 擇木道場ではこれを埋める一つの施策として、入門から道号授与一年未満の人を対象に「初関会」を開催しています。兎に角見性直後こそしっかり座れ!と申し上げたいのです。(つづく)

(注1)人間禅の公案集『瓦筌集』第一則「本来面目」:父母未生以前における本来の面目如何?」

 

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