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2013.11.11 Monday

信と禅(1)

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信と禅(1)

丸川春潭

 関西道場の門前には立派な黐(もち)の大木があり、濃い緑の葉っぱの陰に真っ赤な実が点在させています。

木の形と云い、幹の肌の美しさと云い銘木の風格があります。小鳥たちにとっては、冬場の格好のえさ場になるようであります。

 

 今日からしばらく、「信」について考えてみたいと思いますので、お付き合いください。

 

 他力宗と自力宗での信の意味合いの違い、一神教と多神教での信の意味合いの違いにも配慮しながら、禅にとっての信とは?を考えてみたいと思います。

 

 門外漢のそと見でしかありませんが、一神教と他力宗(多神教での)での信には近いものがあるように思いますが、東洋と西洋の文化の違いが信の違いも投影しているようにも感じられます。

 

 仏教(多神教)の中での他力宗の代表は、浄土宗・浄土真宗であり、自力宗の代表は、禅宗であります。

 

 浄土宗の開祖の法然上人についての伝記を見てみますと、15歳の時に比叡山に登られ、父君の遺戒を守って、切磋琢磨の年月を重ねられ、天賦の才と比類ない努力精進により、難信難解の天台教学のみならず、諸宗の教義にも悉く精通された。40歳を迎えられた頃には、叡山に比肩する者なき学識を備えられるに至った。

 

 しかし、上人の心は晴れなかった。すなわちいくら学識を積み名声や地位を得ても、本当に納得のいく大安心に到ることができなかったのである。

 

 そこで、やむなく叡山を降り、膨大な一切経が収められていた黒谷の報恩蔵に入られ、想像を絶する忍耐力で、一切経を何度もひもとかれたが、心の闇は晴れず、絶望の深淵に立たされていた。

 

 そういう時分に、中国の善導大師の著された『観無量寿経疏』の一節に上人の目が止まった。そして「一心に専ら、弥陀の名号を念じ、行住坐臥が、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これ正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に」の文章を読まれた。

 

 ここにおいて法然上人は阿弥陀仏の絶対の救済にあい、煩悶も焦燥も氷解なされたのである。

 

 この善導大師の一節で法然上人は一種の悟りをつかまれ大安心を得られ、そして浄土宗を開くことになった。すなわち阿弥陀佛を本尊とし、「南無阿弥陀仏」をひたすら念仏する浄土宗が始まったのです。

 

 己をむなしくしてひたすら念仏して阿弥陀仏に帰依し、西方浄土へ救われて行くことを信ずるのであり、他力の信はすべてに先だって先ず信ありきです。

 

 法然の弟子の親鸞は、如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。

 

 これは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとしして、絶対他力を強調するのです。

 

 したがって浄土宗よりもより深くより徹底した他力であり、それだけ信というものも純粋に強くなっていると思われます。

 

 『歎異抄』第2章の有名な親鸞の言葉である「たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」も、絶対他力の信を覗わせるものです。

 

 浄土宗・浄土真宗の信は、南無阿弥陀仏を念ずれば、救われ浄土に行けるんだという信であり、典型的な他力の信であります。

 

 次回から、禅の信についてお話しします。

 今日はここまで、さようなら 合掌

 

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