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2013.11.14 Thursday

信と禅(その3)

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信と禅(その3)

丸川春潭

 お菓子の続き、塩まんじゅうの赤穂から東へ行くと、姫路の白玉椿の生菓子が忘れられません。

 小生と同じ歳だったと思いますが、むかし三木淨光居士というくそ真面目な道友がいました。彼は姫路出身で大きな生家に住んでいましたが、土産によく白玉椿を頂きました。もう久しく頂いていないので、彼を思い出しながらお濃茶と一緒にもう一度味わいたいものです。

 

 坐禅修行の要訣として、大信根が大切で、その信には三つの信があると前回お話ししました。

 

 三帰依文の中に、「信和の人間禅これ我が僧伽なり」という一説があります。

 また、三禁令の一つに、「道友の信を裏切ってはならない」があります。

 

 この二つの信は、僧伽の中での信であります。この信はどういう信であるかは、『立教の主旨』の第三項「わが人間禅は、正しく・楽しく・仲よく 人間味の豊かな人々の家庭である。」と、第四項の「我が人間禅は、禅 本来なる自由と平等とを尊び、各自の人格を尊重する。」の中に謳われている人間禅の精神から発せられる信です。

 

 ここにあります「仲良く」は、お互いに相手の中にある仏性に対して合掌し合うということであり、そういう信を持ち合った人々の家庭が、すなわち人間禅であるということであります。

 それは取りも直さず根源的な意味から「各自の人格を尊重する」ということになります。僧伽内における対人関係での信は、こういう信であります。

 

 ここで前回述べました「信」に対する説明ですが、広辞苑での説明に加えて、信というものには、「自分には認識することができないことを承認するという意味」が付け加えられると申し上げましたが、それに更に別の切り口から、信についての説明を付加します。

 

 一般的な信は、脳科学で云えば「頭頂葉で考えた信である」といえ、これに対して、坐禅修行での大信根や僧伽内での信は、「前頭葉において感得せられる信」であります。

 

 数息観三昧に入ると頭頂葉がsilentになり、入れ替わるように前頭葉がactiveになるということが脳科学の実験で証明されていますが、禅における信には、三昧が付いて初めて信というものになるのであり、三昧が付かず前頭葉が不活性なままでは、信というものは形骸化されてしまい本当の信にならないと云うことです。

 

 そして、三昧が深くなればなるほど、信も深く揺るぎないものになると云うことです。

 

 同様に人間禅の『立教の主旨』も、三昧が深く身に付くにつれて、それを真に理解し認識することができるようになるし、三昧が浅く前頭葉が不活性なままでは、皮相的にしか理解できないものです。

 

 前回、急に寒くなりましたのでお風邪を引かないようにと言いましたが、どうも小生が鼻風邪を引いてしまったようで、くしゃみと鼻水でキーボードを叩くのも容易ではありません。改めてご自愛下さい。合掌 春潭

 

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