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2020.05.09 Saturday

「友情と呻き」

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「友情と呻き」

夢中問答集より

粕谷要道

 室町幕府を開いた足利尊氏の弟で、初期の二頭政治を支えていた副将軍足利直義が在家の女性や道に志す者の為に、また自身の為にも参禅の師夢窓国師に通算九十三項目にわたる問を発した。

 その一、「衆生の苦を抜きて楽をあたふる事は、仏の大慈大悲なり。しかるを仏教の中に、人の福を求むるを制する事は何故ぞや。」(原文のまま)と。

 「衆生の苦を抜き楽を与える」ということは菩薩の遊戯三昧の境涯から衆生済度する禅の師家の役目でもある、修行者の側からいえば自己の転迷開悟(迷いを転じて悟りを開く)の実を挙げ、仏祖の慧命を永遠に進展せしめる事である。

 衆生のために抜苦与楽する「仏の大慈大悲」とは、まず語句の意味としては、慈はサンスクリットのマイトリー(友情)の訳で仏典では「楽を与えること」、悲はカルナ―(呻き)の訳、同じく「他人の苦しみを自らの苦しみとすること、また苦を取り去ること」である。

 つまり仏の大慈大悲とは仏境涯より発せられる衆生済度の慈悲心で、古来より水の高きより低きにつくが如く、招かずともやってきて真の友のように積極的に無縁の大慈悲心をもって衆生を教化する「不請の勝友」のことである。禅仏教では「無辺の慈悲」といわれる。

 

 「無縁の慈悲」

 しかし一方で、佛教では「人の福を求むるを制する事」が説かれているが、これは一体どういうことなのでしょうか?という直義の問いである。

 福といえば禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し、幸福と不幸はより合わせた縄のように交互にやって来る。(史記―南越伝)とか、禍福門なし唯人の招く所、幸福と不幸は、やってくる門があらかじめ決まっている。(春秋左伝)ともいう。つまり直義が採り上げた「福」は禍福の福である、もちろん福には裏に「禍」が潜んでいる。

 余談ながら、新自由主義、強欲資本主義、グローバリズム、最先端技術の悪用で猫も杓子も化石燃料を燃やし続けた挙句の一極集中三密世界が数日にして未知のウイルスのパンデミックに暗転してしまう。二千年の歴史を誇る日出ずる天子の国・我国もこの際、災い転じて正に福となさなければならない。

 直義のいう福とは、現代では幸福乃至福を求める心である。類語に災難と幸福、不運と幸運、吉兆、慶弔。などが挙げられるように。結局明暗、表裏、迷悟の片方の一面である。辞書には文例として「禍福を壇(ほしいまま)にする」がある、意味は権威を濫用して、勝手に人を賞したり、退けたり引き上げたりすることであるとか、洋の東西古今、相も変わらない上役のパワハラであるが、人の禍福、人事がその手段ともなるようではこれは良くも悪くも他人事ではない。最悪である。

 とにかく人が幸福を追求するのは現代でもその権利は憲法で保証されているところである。それを制する、抑え押しとどめよというのである。

(つづく)

 

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