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2020.05.23 Saturday

芭蕉『笈の小文』より、その2

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芭蕉『笈の小文』より、その2

杉山呼龍

 

 『笈の小文』とは、芭蕉の俳文のうち『奥の細道』とならんで重要なものである。それは「風羅坊」の名乗りがあるからである。芭蕉は仏頂河南禅師の嗣法者である。『笈の小文』の旅の出発は芭蕉44歳の10月である。この「風羅坊」の号はそれ以前には使われておらず、仏頂が芭蕉に嗣法の証として与えたものであろう。この『笈の小文』は、芭蕉にとっては特別のものであり、生前密かに門人の河合乙州(おとくに)に託し、死後15年後に出版されたものである。

 

何の木の花とはしらず匂(にほひ)哉

 

これは『笈の小文』の中にあり、前書きとして簡単に「伊勢山田」としか書いてないが、伊勢神宮に参拝した時の詠である。別の真蹟写しには精しい前書きがあって、貞享五年二月末伊勢に詣でていること、それが五度めであることが書かれている。それに続いて「かの西行の『かたじけなさに』とよみけん涙の跡もなつかしければ」とあり、「かの西行の『かたじけなさに』」とは、西行が神宮に詣でたときの歌

 

何事のおはしますをば知らねども かたじけなさの涙こぼるる

 

を指している。芭蕉はこの歌を思い起こし、西行の涙を偲んで詠んだものである。芭蕉の「何の木の花とはしらず」に対応するのが、西行の「何事のおはしますをば知らねど」の部分である。西行のこの歌は、神宮参拝者としての素朴な感情を表しているが、その感情が涙こぼるるまでとは歌詠みとして、また仏道修行者としてきわめて素直な心情を持っていたことを示すものであろう。芭蕉の俳句の解釈を、西行の歌を参考にして考えると一段と味わいが深くなるので、そのことを次に示そう。

 西行は晩年の63歳から7年余を伊勢に草庵を結んで過ごしている。当時起こった源平の合戦を避けたとも言われている。伊勢神宮ないし神道に関して理解の深さを示す西行の歌に次のものがある。

 

深く入りて神路(かみじ)のおくをたづぬれば また上もなき峰の松風

 

これは「大日如来の御垂跡(おんすいじゃく)をおもひてよみ侍る」と前書きがあり、大日如来の本地垂跡を意識して詠んでいるが、そこには神の道を追求したとき、この上もなく尊い存在を峰の松風に譬えて暗示している。松は「永遠」、風は「空」と考えれば、ここには仏教の本質、絶対性を示していると考えられよう。また、それが「神路のおく」だと言っているので、同時にそれが神道の本質であるとも言っているのである。神仏習合とは形に現れた理論を言っているのであって、西行はこの歌によって神道の本質も仏教の本質も同時に捉えていると言えるだろう。

 また、西行の仏教理解を表すものとして、別の和歌を紹介しよう。

 

何事も空しき法(のり)の心にて 罪ある身とはつゆもおもはじ

 

これは前書きに「心経」とあり、般若心経を和歌に詠んだものである。西行の生きた平安末期は、恵心僧都源信の『往生要集』にある通り、六道輪廻の地獄が強調された。当時の仏教の布教方法は、地獄の恐怖心を強調して、その後に極楽往生を求めさせるやり方であった。西行の和歌に、地獄絵を見て詠んだと思しきものがいくつかある。地獄に行くのは罪人であるが、この和歌では罪人であることを否定している。しかし、西行自身以前にその影響下にあったことを示している。「空しき法の心にて」と初めにある通り、「空しき」とは般若心経の「空」のことであり、それを「何事も」と言っていることから、森羅万象に「空」を捉えていて、かつ罪人として六道に輪廻をすることを否定していることから、

般若心経の本質を適格に捉えていると言えるだろう。

 このように西行の歌は深く大乗仏教の本質に立っているので、芭蕉の俳句もそれに合わせてつくられている。先に示した「何事の・・」の和歌に対して改めて、最初の芭蕉の俳句を見てみると、先に述べたように芭蕉の「何の木の花とはしらず」に対して、西行の「何事のおはしますをば知らねど」が対応している。西行は、伊勢神宮を前にして何とも言いようのない神々しさに打たれて詠んでいるが、尊くて尊くてこれ以上ないほど尊いがその存在が自己にとって、何があるかわからないと言っているが、翻ってそれを自覚的認識的に表現したと考えれば、その本質は「仏性」とか「空」とか、と言い表すしかない。芭蕉もそれを解かって、何らかの「木の花」を「しらず」と言って表したが、それは本来表現できるようなものではない何かを表しているのであり、「匂い」として感官に訴えて存在することは解るが、「しらず」と言いながら、その意味するところは、あらゆる存在、森羅万象をあらしめている「大乗仏教の真理」であると表現しているものなのである。このように芭蕉の句は、改めて西行の歌を考え合わせる時、たいへん深い世界を表していることがわかるのである。

 

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