「次を考える」(その3)

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「次を考える」(その3)

丸川春潭

 西郷南洲遺訓の第5条に「子孫に美田を買わず」という語があり、最初これを聞いた高校生の頃には不審に思ったものである。自分は倹約しつましい生活をしていて少しでも子供達のために残したいと一生懸命な両親の後ろ姿を見て育っている若者には、子孫に美田を買ってやるのが本当の親ではないかと思うのは当然であろう。

 南州翁は、 ( わたくし ) を優先した人生ではなく世のため人のための ( おおやけ ) を第一義としてそれに命を捨てる気概を込められてこの詩を作られた、と見るのが一般的識者の見方であるが、小生は更に美田とは名誉・金銭・家財・学歴等の現世の飾り物を指し、南州翁はそういう世俗の飾り物を遺すのではなく自分の生き様・志を遺したいと思われていたのではないかと考える。南州翁はそのように次を考えられたのではないかと。

 考えてみれば、「次を考える」ということは、他の動物には無い人間特有の所作である。したがって次を考えた所作ができると云うことは人間らしいと云っても良いものである。しかし世の中を見渡してこれをやることが容易ではないことは明白である。資源の枯渇・地球環境問題においてもそうであるし、身近では、人間禅しか出来ない在家禅の法灯の伝承においてもそうである。「次を考える」がどれだけしっかり出来るかどうかは極めて厳しい課題である。容易なことでは無い。

 数日前に住友17代吉左衛門さんと二人で昼食をご一緒する機会があった。住友家17代とは400年近くの長きにわたって家系が続いていると云うことであり、世界に類を見ない凄いことである。歴代の家長の志がその時々の時流も踏まえて正しく、しかも次を考え続けられてきたからこその400年であると考える。当然当代も次を真剣に考えられておられるのは勿論のことである。自分の人生は高々100年であり、その限りある人生を全うすることと同時に17代が粛々と次を考え次を考えして家系が継がれてゆく。短い一代一代が継がれて振り返ってみればあたかも太い縄の如くに歴史となって残ってゆく。まさに「次を考える」の継続の形である。

 人間禅の現総裁千鈞庵霞山老師は、日本の初祖である大応国師(南浦紹明)から数えて第31世であり、中国の初祖である達摩大師から数えて第58世であり、釈迦牟尼世尊の法を継いだ摩訶迦葉尊者から数えると第86世になる。まさにこれは、「美田を買わず」の精神で次に志(法)を継ぐことに命をかけた壮絶なドラマである。すなわち次を考えるが積み重なった結果としての奇跡である。(つづく)

 

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