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2015.01.30 Friday

死と禅 〜死後の世界を禅はどう見ているのか〜

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死と禅

〜死後の世界を禅はどう見ているのか〜

丸川春潭

 8年前に流行った歌「千の風」が示している死は、禅的な視点に非常に近いとその当時の法話でお話ししたことを思い出します。

 

千の風になって(作詞:不肖 日本語詞:荒井満)

私のお墓の前で 泣かないでください 

そこに私はいません 眠ってなんかいません

千の風に 千の風になって 

あの大きな空を 吹きわたっています

 

秋には光になって 畑にふりそそぐ 

冬はダイヤのように きらめく雪になる

朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 

夜は星になって あなたを見守る

 

私のお墓の前で 泣かないでください 

そこに私はいません 死んでなんかいません

千の風に 千の風になって 

あの大きな空を 吹きわたっています

 

千の風に 千の風になって 

あの大きな空を 吹きわたっています 

あの大きな空を 吹きわたっています 

 

 生と死は、人類誕生以来 石器時代・縄文時代から今日の21世紀まで、人種を問わず貴賤を問わず、人間としての共通する最大の課題であり続けています。

 そしてまた、全ての宗教は、この難課題解決のために誕生し、2000年以上に亘ってこの不変の最大課題を持ち続けています。

 しからば禅は、死後についてどう考え、生と死の課題に対してどう対応しているのかを、人間禅の観点で述べてみたいと思います。

 

 人間禅は、当初より科学と相反する教義は説くべきではないという考えを持っています。例えば、キリスト教のカソリック教派の一部では未だに進化論を否定し、類人猿(エイプ)が進化して人類(ホモサピエンスという種)が誕生したという科学で明らかにされた真理を否定した教義を21世紀の今日まで持ち続けています。こういう事態が続けば若い人達を宗教嫌いにさせるのは必定です。本当の宗教は、教義を科学の進歩に合わせて柔軟に変えて行くべきです。これが人間禅の宗教観です。

 

 掲題の死後における「あの世」とか「霊魂」があるのかという課題に対する答えとして、先ずは科学的視点から検証し、そして次に人間禅の精神からの見解を述べたいと思います。

 

 科学的に生と死を簡単に見ますと、死の直前と死の直後で、その構成元素もその重量も全く変わらない。したがって、生きている人間が死んでも、死体以外には何もないというのが科学的な見方です。

 60Kgの体重の人の構成元素は、重量の多い順に、酸素, O, 63%, 37.8kg. 炭素, C, 20%, 12.0kg. 水素, H, 10%, 6.0kg. 窒素, N, 3%, 1.8kg. 無機質 (4%), カルシウム, Ca, 2.0%, 1.2kg. リン, P, 1.2%, 720g. 硫黄, S, 0.242%, 145g、他K、Na、Cl、Mg、Fe、F、Zn、Si、Ti、Sr、・・・と超微量元素まで分析すると地球構成元素のほとんどの元素で人間の体は構成されていて、死の直前と死の直後で構成元素とその重量は全く不変です。

 もちろん生前は、同じ元素の60Kgの人体は有機体でありますが、死後は同じ元素の60Kgの無機体になるという違いがありますが、物質存在としては不変であり、質量不変の法則通りです。

 この観点からは、霊魂という存在は全くあり得ないことになります。何故ならば存在という場合は、必ず構成元素とその質量が必要になり、生前と死後で質量は不変なので、それ以外の物体は存在しようがないからであります。

 勿論、人間のイメージの中で作られた霊魂は質量無しでいくらでも存在することはできます。

 結論として、科学的には霊魂の存在はなく、死後の世界もあり得ない。これらは、人間の想像とかイメージの産物であるということになります。

 

 次に、禅の見方、なかんずく人間禅の見地からの死後に関して申し上げたいと思います。

 在家禅である人間禅すなわち人間形成の禅の始まりは、明治8年に創設された在家禅「両忘会」からであり、その後の経緯の中で、戦後直後の昭和23年に名称を改めて「人間禅」が発足し、今年で創立68年目になります。人間禅になっての最初の総裁師家である耕雲庵立田英山老師こそが人間禅の精神を確立された方であり、これが人間禅の見地です。

 先ず、耕雲庵老師のお考えを引用しておきたいと思います。

 「禅誌」創刊号(昭和24年4月1日発行)に掲載されてあります、第一世総裁就任挨拶の中の一部の抜粋ですが、老師は「人間禅の精神」として次の三つをあげられています。

 一つ人間味の豊なること

 二つ各自の個性を重んずること

 三つ神秘性を説かないこと

 そして三番目について、次のように述べられています。

 「最後に、三つ目に数え揚げらるる処のものは、神秘性を説かず、理外の理を語らぬことであります。之は夙に自然科学を研究して来たった私として、年来の主張であります。そして自力の修行を標榜するものとして、私は曾て一度も「仏天の加護」とか「神明の冥助」とかを口にした事がありません。又「仏罰」とか「神罰」とかいう語を最も憎みます。『大法に不可思議なし』之が古今に亘って一貫した真理であります。私は超人間的な神仏や、実在を離れた幽冥界や、所謂肉体を離れた霊魂という様なものを断然否定します。世には、宗教の世界という特別な世界があって、何か「理外の理」と云う様なヴェールに隠れ神秘性でも説かないと宗教では無い様に誤解して居る者が沢山居ります。」

 

 禅の見地からは「幽冥界や、所謂肉体を離れた霊魂」はないと断定されておられます。そして『大法に不可思議なし』の意味することは、科学と相反する教義は駄目だということだけにとどまらず、これは禅の玄旨であり、釈迦牟尼世尊の悟りそのものなのです。

 ただこれだけでは、生と死に関する人類の長年の課題(恐怖・本質的な悩み)に対して、一般社会の多くの人々の救済にはならないので、若干の蛇足の説明を付けたいと思います。

 

 癌の告知を家族が悩む、或いは告知された本人が深刻に苦悩する、というのは死というものが如何に受容でき難いかということです。体の機能が止まって、冷たくなって、生物でなく無機物になって、放っておいたら腐っていく状態になるのが死です。これは明確な事実ですが、なかなか受け入れられない。

 霊魂は死なないという仮説を立てて、死の恐怖を和らげようとする救済法は、これからの新しい時代では、もう通用しない。効き目がない。

 生と死との違いは機能が有機的に活動するかしないかです、そこに、生から死にかけて連続する一貫したものがあるのかないのか?ここが宗教の出発点であり、宗教の原点がここにあります。

 すなわち、生死は、相対の代表であり、相対の次元の中では、生死を解決することも乗り越えることもできないけれども、人間が死の恐怖を自覚し、生死の命題を解決しようとする決意が、相対的には想像さえできない「生と死に共通する切り口」、「生と死に貫通する絶対の切り口」をつかむ根源的ドライビングフォースとなったのです。

 生死の命題を解決しなければ、本当に安心できないとして多くの先人が、難行苦行を厭わず、また年月の久しきを物ともせず、究明に究明し尽くすことによって、生と死に貫通する絶対の切り口を探し当てたのです。20万年前に人類が地球上に誕生した時点を起点として19万7500年の経過ではその解は得られなかったが、この時点(約2500年前)に到って初めて数人の先覚者がそれをつかむことができたのです。その人達が今日、聖人、賢人、教祖と呼ばれている人達であり、紀元前6世紀から紀元零年までの間にこれらの人物が一斉にでてきたのです。

 キリストも老子も孔子も釈迦牟尼も、この生死の問題を根本的に解決する解(生と死に貫通する絶対の切り口、人それぞれの内に宿っている永遠の命)をしっかり掴んだのです。そしてその発見・悟りをもって、死の恐怖に苛まれている多くの人びとの救済に立ち上がり、それぞれのやり方での救済活動がそれぞれの地域での宗教宗派になって今日まで継承してきているのです。

 

 お釈迦様が社会的なしがらみを捨て、女房子供と別れて出家し、生死の結着の道を求めて修行し、今から約2500年前の12月8日の暁の明星を徹見し、自分の中に過去の過去際から尽未来際まで連続し一貫している永遠の命があることをはっきりと見ることができた。そして自分にあるこの永遠の命が目の前の山川草木禽獣虫魚の全てに同じ永遠の命があることをしっかりと見たのです。そして思わず「山川草木悉皆成仏」「天地と我と同根、万物と我と一体」と叫ばれた。自分と山と川は一体であり、同根だったという事をしっかり掴まれた。老若貴賤を問わず全ての人に仏が等しく宿っていることを悟られたのです。

 山川草木、木や石と自分との間の共通項、同一性の切り口をハッキリ判り見ることができれば、生と死に貫通する絶対の切り口もハッキリ見ることができ、「天地と我と同根、万物と我と一体」を本当に悟れば、生死は掌を見るが如しです。これを禅では見性といい、見性こそが生死の問題の真の解であります。

 

 生と死に貫通する絶対の切り口は、相対的に、哲学的に幾ら究明してもこの切り口は見えてこないのです。碩学の大宗教学者と雖も、相対的な言語段階にある限り、説明はできてもそれを得ること見ることはできません。しかし、学問のない人でも一念不生の三昧境に打入することにより、釈迦牟尼が見たと同じもの(孔子が掴み、キリストが掴んだもの)をしっかりと見ることができます。

 生と死に貫通するものは、相対的な追求の科学では見ることができず、絶対的に追求する方法でしかこれをつかむことはできないのです。

 人間の本性である「考える葦」の機能を意識的に停止させて、すなわち相対的な思考を一時棚上げにして、数息観三昧に、公案三昧に、足のつま先から頭の素てっぺんまで成りきる。成りきっていることも忘れた真の三昧に到れば、相対を離れた絶対を感得できるのです。この三昧の道をたどりさえすれば、10人が10人、生と死の連続性をしっかりと認識できるのです。

 敢えて、死後のあの世を設定せずとも、霊魂の存在を設定せずとも、死の恐怖からの根本的救済が、禅の見性によってもたらされるのであります。

 

 ただ人間形成の禅に縁が無く、見性をする機会の無かった人が、既に無くなっている生前親しかった人に死んだら会うことができると想って、死に対する寂しさや恐怖心を和らげることは良く理解できますし、そう考えても良いのではないかと思います。

 禅的には第二義になりますが法理的に、死は涅槃、寂滅、寂静であり、「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」です。したがって生きとし生けるものは皆そこから来てそこに帰って行くと云っても良いし、死んだら生前付き合っていた人に会えるという感覚もこの中に包含される想いとして赦されると考えます。

 

 最後の締めくくりとして、私の好きな耕雲庵老師の語録を次に掲げて終わりにします。「われわれ人間は自らが有限であり相対的でありながら、しかも無限をもとめ絶対をあこがれずにはいられない存在で、そこに人間のもっとも人間らしい点があるのである。そして相対的で有限な自己と絶対的で無限なものとの間に正しい通路を打立て、自己を絶対のなかに位置づけるものが実に宗教なのである。そして自己が絶対のなかに正しく位置づけられたのを発見した時、人々はそこにはじめて真の満足を得るのである。だから人間は宗教によってのみ真の満足を得ることができるといえよう。」

 

 最初に掲げた「千の風になって」の歌詞は、人間形成の禅がいざなおうとしている世界を詩的に示していると思います。

 1月の末になって、東京で今冬初めて雪が積もり、人工的無機的な都市景観を自然のベールの薄化粧で隠し、本来の永遠性の顔をひととき見せてくれました。

 

太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。

(三好達治;1927年)

 

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