「次を考える」(その4)

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「次を考える」(その4)

丸川春潭

 脚下のスリッパの脱ぎ方においての「次を考える」から、禅における伝法の壮大なドラマにおいても、更に国を超え人種を越えての地球の持続においても、全く同じ「次を考える」ということであり、「次を考える」ということは人類においての一気通貫な人間の高次の所作である。ではこの高次の所作を出せる人間になるには一体どうすれば良いのであろうか?これはゆるがせに出来ない大切な課題である。

 「次を考える」にはいろいろある、自分のために、他人のために、次世代のために等々、それぞれ考える視点は異なるが、これは誰にでも出来るというものではない。これが出来る人間の素養はどうなのかは大きな疑問であり興味ある課題である。いろいろな角度からいろいろな要素が浮かび上がってくるが、ここでは二つに絞って考えて見た。

 一つは「今に囚われない」である。

 今に真正面から対峙して取り組んでいながら、その今に埋没することなく、来し方行く末が冷静に見えている精神状態がこれである。今にのめり込みすぎて次まで見えないということでも駄目であり、次を気にして今が疎かになっても駄目であり、今と次が完璧に両立できなければ、「次を考える」にはならない。

 もう一つは「自我に囚われない」である。

 自我(エゴ)というものはどうしようもないものであり、どんなに注意していても出ないようにとか無くするとかはできない。人間は生きている限り自我(エゴ)が働くものであり、これが人間の自然なのである。逆に言うと自我は嫌うべきものではなく必要なものでもある。ただ人間形成が積まれていないとこの自我に振り回されてしまって自他を傷つけることになる。自己中心というものはその振り回されている一つの典型である。自我に振り回されているレベルでは決して次は考えられない。この自我の出てくるのをいち早く察知してこの自我を常に空じなくては次はしっかりと見えてこない。

 少なくとものこれら二つ「今に囚われない」と「自我に囚われない」は、人間形成の素養としてしっかり備わっていなければ、高次の人間の所作としての「次を考える」ことは出来ない。

 振り返ってこの二つの素養は、人間形成の禅の目標と云っても良いものであり、容易なことでは我が物とすることは出来ない。例え弐百則の公案を見尽くした罷参底の上士といえどもこれを毎時毎分毎秒において実践することは容易ではない。永年の真剣な座禅の積み重ねで如何に深く三昧が身に付いているかどうかである。

 更に、在家禅者として次を考える場合には、なにがしかの社会性が大なり小なり付いてくる。そのためには人間形成の素養だけでは正しく考えるという点では不十分になる。すなわち素養としての二つの必要条件に加えて十分条件がなければ、これを正しい所作として実践することは出来ない。その十分条件とは、人間禅の創始者の耕雲庵英山老師が常々述べられていた世界観・歴史観をしっかり持たなくてはいけないということである。こういう勉強が必須なのである。この知識がなくては地球環境の問題にしても、政治的な判断(例えば憲法改正の問題)において、一市民として正しく次を考えた一票を投ずることが出来ない。投票のみならず、脱俗出家者ではない在家禅者は常に、生活において、仕事において、脚下から次世代まで、小から大まで、短期から長期まで責任を持って次を正しく考え対処しなければならない。これができなければ在家禅者とは云えない。

 次を考えること一つを取って見ても、在家禅者の道は究め続け求め続けるべき道である。この道を一人でも多くの人と把手供行できれば、この道はだんだんと太く大きくなり、その先に世界楽土が見えてくると云うものであろう。(完)

 

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