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2020.07.29 Wednesday

夢窓国師出生の周辺(二)母方一族のルーツ

 

夢窓国師出生の周辺(二)母方一族のルーツ

粕谷要道

 前回紹介した昭和50年に書かれた「夢窓国師の生涯について」(解説・川瀬一馬)、では国師は、後宇多天皇の健治元年(1275年)伊勢国三宅村で出生、父は源氏(佐々木氏)、母は平氏、一族の争いから四才の時、甲斐国へ移住、その八月生母を喪った。父が甲州へ移ったのは、同じ源氏姓の由縁、武田源氏をたよってのことであろうと思われる。とあり。

 その後、9才の時、平塩山の空阿(平塩寺)につき出家を志す。(以下略)

 20歳の時に、顕密の教学、天台の学問を学んだ平塩寺を離れ、京都建仁寺の無隠円範禅師(蘭渓道隆 1213〜1278の弟子)に入門するまでのほぼ16年間を第二のふるさと甲斐国で過ごす。

 『一族の争い』については前回、そのいきさつについて記したが、問題は「母は平氏」とする点である。

 昭和以前の出版物のみならず、最近の電子事典でも「平政村の娘」(「北条氏?」)の記述が散見するが、その混乱の源は初代執権北条時政(1138〜1215)が桓武平氏、平直方流れを称した仮冒(かぼう−偽称)にあるようである。

 時政は伊豆の土豪出身という説が現在最有力である。それも、狩野川流域の1キロ平方余りの領地の土豪の庶家との説である。

 幕府の公的記録『吾妻鏡』−幕末1300年頃幕府中枢の複数者(二階堂氏、三善氏ら)によって編纂された、初代頼朝より6代宗尊親王までの将軍記によると文治5年6月6日、田方郡内には南条、北条、上条、中条、と呼ばれる地域がならんでいた。としている。(平安時代中期以降、律令制の郡は名田または名(みょう)といった徴税単位は細分化され、方位や区分を示す「条」と呼ぶ例が多くみられた。)

 北条氏は桓武平氏高望流れの平直方の子孫と称し、伊豆国田方郡北条(現・伊豆の国市)を拠点とした在地豪族で、時政以前の系譜は系図によりすべて異なり、現代の研究では桓武平氏の流れであることを疑問視乃至否定する研究者が多く、祖父が北条時家、父が時方(又は時兼)という点では諸系図ほぼ一致しており、時家の≪尊卑文脈≫傍注には「伊豆介(いずのすけ)」とあり、土着したのはそれほど古い年代ではなく、鎌倉殿(鎌倉幕府)内では世渡りの巧みさに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にある土豪であったのでは?との推察もなされている。

 『吾妻鏡』では40才を越えた時政に「介(すけ−四等官、国司の第二位、守の次位)や都の官位などを付けず、ただ「北条四郎」「当国の豪傑」とのみ記している。

 平治の乱で戦死した義朝の嫡男・頼朝が伊豆国へ配流されたことにより、平家側の監視役であった時政が、頼朝と政子(この名も、頼朝没後、朝廷より賜った名前である、幼名、実名は不詳)の想定外の婚姻により、頼朝挙兵(内乱)に賭け、加担した「石橋山の戦い」では、頼朝軍の構成をみても、北条時政の保有武力については、突出した戦力を有していたとは言い難いものであった。この時従軍した長男宗時(年齢不詳19才か20才?)は討ち死にし、次男義時は満17才、孫の金剛(後の3代執権泰時)は満7才であった。頼朝軍300騎に対し、平氏側3000騎ともいわれている。

 建仁2年(1202年)6月、時政は宗時の菩提を弔うとして、伊豆国北条に下向している。(夢のお告げだと、吾妻鏡は記している。時政が執権に就任する前年であった。宗時の墓は静岡県田方郡函南町大竹に残っている。)

 

時政の家族構成は;

父;北条時方(または時兼)母;伊豆掾伴為房の娘

妻;伊藤祐親の娘。

 男子;北条宗時(?〜1180)

 女子;阿波の局(?〜1227)(阿野全成妻)

 男子;北条義時(1163〜1224)

妻;足立遠元の娘

 女子;稲毛女房(稲毛重成妻・子に綾小路師季妻)

 男子;北条時房(1175〜1240)

妻;牧の方

 女子;平賀朝雅および源国通妻;滋野井実宣妻(?〜1216)

 女子;宇都宮頼綱妻

 男子;北条政憲(1189〜1204)

生母不明

 女子;政子(1157〜1225)(源頼朝妻)

 女子;時子(?〜1196)(足利義兼妻・政子と同母)

 女子;畠山重忠(子;畠山重保)および足利義純妻

 女子;坊門忠清妻

 女子;河野通信妻

 女子;大岡時親妻

 

 鎌倉幕府、厳密にいえば当時は「鎌倉殿」と呼ばれていたように源頼朝が全国の武士の頂点に立った、という私的意味合いの強い機関で、公的意味合いの強い「鎌倉幕府」という用語は、実際は江戸時代以降より使用されている用語である。

 また、鎌倉時代はいつから始まるのか?という問いについても現在研究者の間でも諸説分れる。

 鎌倉時代とは日本史で武家政権が鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つであるが、朝廷と並んで全国統治の中心となった、「鎌倉殿」と呼ばれた源頼朝に始まる武家政権が相模国鎌倉に所在した時期を言うが、本格的な武家による統治が開始した時代であり、始期については、従来の歴史教科書でも記述されている。隠隠坑嫁の源頼朝征夷代将軍就任説をはじめ諸説あるが、

■隠隠牽廓東国支配権の承認を得た説。

1185年守護・地頭設置権を認められた説が有る。

 

 頼朝挙兵、甲斐源氏とのいきさつを再説すると、治承4年(1180年)8月17日、頼朝軍は伊豆国目代山木兼隆を襲撃して討ち取った。

 この襲撃は時政の館が拠点となり、山木館襲撃には時政自身も加わっていた。

 この襲撃の後、頼朝は伊豆国国衙を掌握した。その後、頼朝は三浦氏との合流を図り、8月20日、伊豆を出て土肥実平の所領の相模国の土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出した。

 北条時政父子もほかの伊豆国武士らと共に頼朝に従軍した。しかしその前に平氏方の大庭景親ら3000余騎が立ち塞がった。

 23日、景親は夜戦を仕掛け、頼朝軍は大敗して四散した(石橋山の戦い)。

 この時、時政の嫡男・宗時が大庭方の軍勢に囲まれて討ち死にしている。

 頼朝、実平らは箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半東へ逃れ、28日、真鶴岬、(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。

 時政はそこまでの途中経過は文献により異なるが、頼朝とは一旦離れ、甲斐国に赴き同地で挙兵した武田信義・一条忠頼ら甲斐源氏と合流することになった。10月13日、甲斐源氏は時政と共に駿河に進攻し(鉢田の戦い)、房総・武蔵を制圧して勢力を盛り返した頼朝軍も黄瀬川に到達した。

 頼朝と甲斐源氏の大軍を見た平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。

 その後、佐竹氏、征伐を経て鎌倉に戻った頼朝は、12月12日、新造の大倉亭に移徙の儀を行い、時政も他の御家人と共に列している

 

『吾妻鏡』の「曲筆」について

 

 『吾妻鏡』によると、時政はいったん安房にわたってから、現地で頼朝と合流した。態勢の立て直しが模索される中、9月8日、時政は甲斐源氏を味方に引き入れる密命を受けて甲斐に赴き、15日、武田信義・一条忠頼、のいる逸見山に到着して「頼朝の仰せの趣」を伝えたという。上総広常を味方につけた頼朝は、9月20日に土屋宗遠を第二の使者として甲斐に送り、24日、宗遠の来訪を受けた甲斐源氏は一族を集めて、頼朝と駿河で参会すべきか評議を重ねている。一方『延慶本平家物語』では、「時政は敗戦後に頼朝とはぐれてそのまま甲斐に逃れた」「頼朝は時政の生死を知らずに、宗遠を甲斐に使者として送った」という記述があり、『吾妻鏡』の記述と齟齬が見られる。時政は単純に甲斐に亡命していただけという解釈も成り立ち、甲斐源氏懐柔のため奔走したという逸話は『吾妻鏡』編者による北条氏顕彰のための曲筆の可能性がある。時政が使者に選ばれた背景として、京都側の対幕府窓口である吉田経房が伊豆守在任中に、在庁官人であった時政と交流があったためという説もある。

 時政は元来、北条氏の当主ではなく傍流で、国衛在庁から排除されていたとの見方がある。ただ、国衛最有力在庁でも太郎・四郎と表記されている例もあり、後年の護良親王令旨や『吉口伝』のように時政を在庁官人とする資料もあり、北条時政の前半生及び頼朝挙兵以前の北条氏は謎に包まれている。

 

 時政がほぼ一代で天下第一の権力者となったにもかかわらず、兄弟や従兄弟が全く歴史に登場してこない、この時代に有りがちの粛清などの記録も一切なく異色で、最後は次男で後継者の義時と尼将軍政子により牧氏事件(将軍実朝暗殺未遂容疑)、畠山氏謀殺などで晩節を汚したとして、継室の牧の方ともども鎌倉から伊豆国北条へ追放され、建保3年(1215年)1月6日、腫瘍のため北条で死去した。享年78。

 

 時政はまた、主君頼朝の奥州討伐の戦勝祈願と称して伊豆国(現伊豆の国市)に建立したといわれている願成就院は、実際にはそれ以前から、北条氏の氏寺建立の計画があり、運慶に現国宝に指定されている阿弥陀如来坐像、不動明王二童子立像、毘沙門天立像などをつくらせていた。その後2代目義時、3代目泰時も整備に手をかけ広大な敷地の寺院であった。この願成就院はその後、北条早雲や秀吉の兵火に遭い、二度焼失の末、江戸期に北条氏の末裔により再建されている。

 写真のこの像も伝承と吾妻鏡の記述をもとにその際に作製されたものと考えられる。なぜか左頬に目立つ黒子、いかついがどこかユーモラス、悪く言えば人が良いのか稍間の抜けた風貌、京武者になることを果たせず、武骨そのまま坂東武者の原型然とした塑像?である。

 

北条時政像(伊豆の国市、願成就院蔵)

 

 得宗家以外にも名越、政村、金沢、大仏、宗政、赤橋などの名で大きく枝葉を広げていく北条一族はすべて時政一人の系統であった。

 

運慶作の仏像5躯(大御堂安置)2013年国宝指定

 

木造阿弥陀如来坐像 「堂々とした体格と彫りの深い衣文が特色。」

鎌倉時代、運慶作。像高 142センチメーター。胸前に両手を挙げる説法印「吾妻鏡」に運慶が阿弥陀如来像を造像した旨の記述があり、現存する眷属の不動明王二童子像と毘沙門天像が、像内納入品等から運慶の真作であると確認されていること等から、阿弥陀如来像も運慶の作とされている。

 

木造不動明王二童子立像 −像高は不動像が136.8cm、制吒迦童子(せいたかどうじ)像が81.8cm、矜羯羅童子(こんがらどうじ)像が77.9cmである。本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。不動明王像と毘沙門天像(後出)の胎内に納められていた塔婆形銘札(めいさつ)には、「文治2年(1186)5月3日、北条時政の発願により運慶が造り始めた」という趣旨の記載がある。この銘札は、江戸時代の修理の際に取り出されていたもので、この銘札と願成就院の諸仏とを結びつけることには慎重な意見も多かった。しかし、神奈川県・浄楽寺にある運慶作の不動明王、毘沙門天像の胎内からも同様の銘札が発見されたこと、さらには願成就院の二童子像の胎内からも新たに銘札が発見されたことから、願成就院の阿弥陀如来像・不動明王二童子像・毘沙門天像は運慶の真作であると認められるようになった。30歳代の運慶の真作と呼べる作品は非常に少ないが、この不動明王二童子像はその時期の作品である。中尊の不動明王像は肉付きのよい逞しい体つきが特色である。平安時代中期以降の不動明王像は、安然の「不動十九観」に基づき、片目で天、片目で地を睨み(天地眼)、口から2本突き出した牙は片方が上向き、もう片方が下向きとなる(牙上下出相)左右非対称の面相で表現されることが多いが、この不動明王像は両目とも真正面を見据え、牙は2本とも下向きとなる、左右対称の面相となっている。目は水晶に瞳を描いてはめ込んだ「玉眼」と呼ばれる技法で制作されており、爛々とした輝きを持つ。戦火を免れ現在に残る。

 

木造毘沙門天立像−本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。不動明王二童子像と同様、胎内に納められていた運慶の名のある塔婆形名札が保存されており、運慶の真作であることが確認されている。鎧をまとい邪鬼を踏みつけて立つ一般的な毘沙門天像のスタイルであるが、不動明王像と同様に体格が堂々とした武道家のような重量感溢れるものであり、厚い胸板と引き締まった腹、しっかりと筋肉のついた腰によって、鎧を着込んだ姿にも関わらず躍動感に溢れている。眼も玉眼を使用して生き生きとした表現が取られている。胎内の塔婆形名札には不動明王二童子と同じ日付で造像開始されたことが記載されており、数多くの戦火を逃れて現在に残る。

 

寿福寺とビャクシン(鎌倉市扇ケ谷−ウィキペディアより)

 

 鎌倉幕府の終期は1333年の元弘の乱の最終段階・鎌倉東勝寺(北条得宗家菩提寺)合戦での得宗家高時(享年31)他4代執権経験者(基時48才、貞顕56才、守時39才)を含む北条氏一族の敗死滅亡である。

 全国の山河幽谷を西走東奔、寺院の築庭など聖胎長養しておられた夢窓国師(当時53歳)は高時から「また是非に」と言われ、嘉歴2年(1327年)2月より、瑞泉院(後の瑞泉寺)の建立などのために浄智寺(鎌倉)に住されていた。嘗て9代執権貞時夫妻(高時の父母−父とは9才で死別)が師の高峰顕日を那須の雲巖寺より鎌倉に度々招いて、参禅していた経緯があり、高時も国師を鎌倉寿福寺(尼将軍北条政子が宋より帰朝した栄西禅師を招いて開山とした)へ招いたりしていたが、かつてはことごとく固辞されていた。

 「幕府の油断と楽観とは、意外に滅亡を早め、五月初めに上野の郷里で兵を興した新田義貞は、二十一日鎌倉に攻め入り、高時以下一族自刃して北条氏は滅亡した。最後の時に鎌倉に居合わせた国師は敗奔遭擒の士卒を救い、高時の母覺海夫人なども無事を得たものと推せられる」(「解説・国師の生涯について」)

 事実国師は当地鎌倉で間近かに迫る幕府滅亡の時を万感の想いで見届けられたのであろう。正中3年(1326年)には高時は病のため24才で執権を辞して出家していた(この時代貴族や武士が度々出家するが大抵現役引退の宣言?や何かの目論見があったり、死去目前の出家もありで、求道専一とは程遠いのが通例のようである)高時に代わって、嘉暦の騒動を経て、11日間のみ執権を務めたと伝えられる貞顕は国師の従兄、金澤流れ北条顕時の嫡男であった。

 

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