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2020.08.26 Wednesday

8月15日に思う

 

8月15日に思う

笹良風操

  1. 玉音放送
  2. 価値観の大転換
  3. 肩書きの空しさ
  4. 出征の日
  5. 父切腹す。
  6. 終戦すぐには父は帰らなかった。
  7. チャンギイ刑務所の生活
  8. 父帰る
  9. マッカーサーの呪いからの脱却
  10. 禅との縁

 

 終戦から75年も経った。戦争を語れる世代はどんどん減っているので、私も語り部としての役をはたさねばと思って記憶を辿って書いてみました。

1. 玉音放送

 天皇陛下の玉音放送は疎開先の大分県中津旧制中学で拝聴した。雑音がひどく「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」だけが聞こえてあとは雑音で分からなかった。でもこれで日本は負けたのだということが分かった。

 玉音放送をさせてはならないと考える陸軍の若手将校の椎崎中佐、畑中少佐等は近衛師団長室に乱入し、これを阻止しようとする師団長森赳中将をピストルで射殺し、玉音レコードを探したがとうとう発見できなかった。其の為無事玉音放送が実現し終戦が決定した。椎崎中佐、畑中少佐等は後に宮城前広場で自決した。この経緯は小説「日本の一番長い日」に詳しい。映画にもなった。

 殺された森赳中将のお嬢様とは姉岡部千鶴子の縁で知り合いとなり拙宅にもおいで頂いたが、森中将は立派な軍人で高村光雲作の観音菩薩像の前で毎朝座禅をしておられたということだった。

2. 価値観の大転換

 この日を境に価値観が全くひっくり返った。昨日まで正しかったことが今日は間違っているという価値観の大転換がおこった。

 従って我々の世代は共通して世の中のキマリとか国と国との力関係とかはいつ変わるか分からない。100%信用してはならないという用心深い考えを持っている。

3. 肩書きの空しさ

 位階勲等、肩書、名誉等は空しいもので世の中が変わったら尻拭き紙同然になるのでこんなものに執着してはならないという教訓を身に染みて体験した。

 私の父の従五位功六級勲3等陸軍中佐連隊長という肩書はあっという間に剥げ落ち世渡り下手の馬鹿正直な普通人になってしまった。この体験は後に臨済禅師のいう眞人しか認めない禅思想を受け入れる精神的土壌となった。

4. 出征の日

 昭和15年(1940年)私が小学4年の時父は陸軍少佐予科士官学校教官から北支に出征した。

 東京駅には校長の牟田口中将(シンガポール攻略では猛将とうたわれたが、無謀なインパール作戦で8万の将兵を死なせ、史上最低の将軍という評価を得た)が副官と共に見送りに来た、士官学校同僚は少し離れて見送っていた。

 反対側のホームでは中国の戦線に出征する師団を見送る白いエプロン姿に愛国婦人会のたすきを掛けた婦人たちが万歳!万歳!と振る日の丸の小旗の波波だった。今でもあの日の光景はいやな思い出である。

5. 父切腹す。

 中支である作戦が計画された。父はその作戦では部下も沢山死ぬし、住民も人的にも物的にも被害が大きいので止めるべきだと強く主張した。しかし上層部から天皇陛下のご命令に逆らうのかと言われ、もう一人の同じ考えの将校と共に切腹して止めようとした。くわしいことは姉から止められているのでこれ以上書けないが部下が気がついて救出したので、一命はとりとめたが、腹に一文字の傷跡と腰から下の大火傷のあとが残った。

 その作戦の名前は当然教えて貰ってないが父の入院の時期と重なることで想像がつく。やはり無理だったようで、師団長の幕舎も襲撃され、師団長の私物の行李を奪われるほどの激戦だったようだ。撤収する時負傷者を運ぶ担架の列が延々と長蛇の列で続いたことでも有名な作戦だった。父の命掛けの抗議は正解だったのである。

 父は80才過ぎた頃腸閉塞を患い入院した。医師は原因はこの一文字の傷にあると言ったが父は何も言わなかった。この傷が真実切腹の痕だということが分かったのは姉が75年の沈黙を破って話してくれた今日のことである。

 野戦病院入院中の父から刀が送られてきたことがある。焼け身で真っ黒だった。一部分に明らかに血の痕があった。人を切ってない父の刀に何故血の痕があるのか当時不思議だった。今やっと分かったのは、父はこの刀で腹を切ったのだろうということ、それで永年の血の痕の謎が解けた。

 父は悪くとられるのを避けてか、姉以外の誰にも作戦に反対して切腹したことを話そうとしなかった。私は今回初めてこの話を聞き「父は自分の命を捨ててまで部下の命を守ろうとした凄い勇者だったんだ」と深く感動した。そして父を誇りに思った。もっと早く知っていたらもっと親孝行していたのにと思ったことだった。

6. 終戦すぐには父は帰らなかった。

 戦争末期父はヒリッピンのルソン島にいたが、マニラに対する本格的攻撃が始まる直前、山下奉文大将からマレー半島への転任を命ぜられ、ルソン島を脱出したがその数日後、米軍の猛攻によりマニラは陥落した。父は奇跡的に玉砕を免れる幸運を得た。

 終戦により師団長以下「長」と名の付く高級将校は皆英軍に逮捕連行された。父も工兵連隊長だったので飛行場建設の際の住民虐待の容疑で英軍に逮捕された。

 副官が同行を申し出たが父は部下全員を日本に無事連れて帰る様頼んで同行を断った。副官はこれを多とし、帰国後リンゴ園を経営し毎年リンゴを送ってくれた。

 裁判を受けるためシンガポールに行くことになったが、朝8時から夕がた4時まで徒歩で歩かされた。ヒリッピンのバターン死の行軍の報復である。4時になると後ろについてきていたトラックに乗車させ次の目的地まで行かせた。到着まで何日もかかった。

 シンガポールではチャンギイ刑務所に収容された。

 裁判の結果は前任者の作業者に対する待遇が悪いため死者がでたもので父は着任後待遇改善に努力したことが認められ無罪となった。しかし無罪となっても報復の爲1年半ひきつづき刑務所に入れられた。

 水曜日の朝は英軍の監視兵がコツコツと靴音をたてながらやってきて死刑判決を受けた獄中の同僚将校に死刑執行を受けさせるために連れて行く。そのときは、その将校に向かって挙手の敬礼をし、皆で「万歳!万歳!」で見送ったという。

 そして刑が執行されると遺書や辞世の句が回ってきたという。

 無罪判決を得ているとはいえ、勝者の気まぐれで死刑執行されるかもしれないという恐怖感があり、独房の前をコツコツという監視兵の靴音が通り過ぎた時、今日も死なずに済んだとホットしたという。

7. チャンギイ刑務所の生活

 チャンギイ刑務所で父は過酷な生活に耐え抜いた。一日の食糧は高さの低いイワシのカンズメの空き缶7分ていどの米粒が5,6粒浮かんだ薄い薄い雑炊だった。空腹との戦いが1年半続いた。

 空腹の爲カタツムリは勿論木についているカイガラムシやミミズなどの小動物を食べた。ゴムの実は青酸化合物を含んでいるのでそのまま食べると死んでしまう。その実を粉末にして水で漉すと毒は水溶性なので溶けて無毒化する。それは上等の食糧だった。

 何故英軍はそんなひどい待遇を日本軍将校にしたのかと父に聴くと、父はこう説明してくれた。

 シンガポール陥落後日本軍は捕虜の英軍兵士を使って戦闘で破壊された瓦礫の除去作業を行ったが、その時英軍の尉官級の将校も使役に動員した。将校は捕虜になっても使役に使ってはならないという国際条約があるそうで、日本軍は知らなかったのかまたは勝者の驕りで無視したのか将校を使役に使った。

 誇り高き英軍の参謀長は日本軍に対し断固抗議をしたが、哀しいかな日本軍がこれに応じなかった為断食をもって更に抗議し、それでも応じなかった為終に参謀長は断食死してしまった。この恨みの報復として勝者となった英軍が敗者となった日本軍将校に飢餓をあじわわせていたのだということだった。

8. 父帰る

 ある日父の兄にあたる伯父が慌ただしく姉のところに来て「喜べ!照(父)から電報がきたぞ。時に八幡駅に着くぞ」姉が舞鶴の引き上げ援護局に出したハガキを見て広島の宇品港から打電してきたらしい。

 一家総出で八幡駅で待っていると父が汽車からおりてきた。

 くしゃくしゃの戦闘帽にぼろぼろの外套を着た一兵卒の姿で片手にラードの入った飯盒を下げ汚いリュックサックを背負い、出発の時のあの高級将校の凛とした姿とは打って変わったぼろぼろヨレヨレの姿だった。

 それでも父が生きて帰ったお陰で我が家に再び春が訪れた。この後のことは姉岡部千鶴子の著書「少女と父と戦争と」に詳しい。

 復員船では元上司の牟田口中将と一緒だった、父は「この野郎、勲章欲しさに無謀なインパール作戦を起案し、8万の将兵を死なせた。海に叩き込んでやりたい。」と思ったという。

9. マッカーサーの呪いからの脱却

 硫黄島の激戦で日本軍の戦死者より米軍の戦死者の方が多いという事実はマッカーサー元帥を驚愕させた。その結果日本人から大和魂を抜いて戦争に弱い日本人を作ることにマッカーサーは全力を注いだ。

 その結果戦争はいや、戦争はしてはならない。日本は侵略国家だ、日本は悪い国だった。日本は過ちを犯した。という考えが世間にまかり通っている。

 今のところアメリカが安保条約のお陰で日本を守ってくれているけれども、この情勢がいつひっくり返るか分からないと疑い深い私は懸念する。過去にニクソン訪中という予想外の出来事もあったではないか?アメリカが手を引いてよその国が日本に入ろうとした時、あるいはアメリカが日本を守る熱意を失ったとき、「戦争はいや、戦争はしない」で現実の問題として済ますことができるのだろうか?

 日本の国民が父が体験したあのチャンギイ刑務所の飢えに苦しむ生活をしないですませれるのだろうか?

 戦後75年、もうそろそろマッカーサーの呪いを解いて、普通の国になるべきではないだろうか?と8月15日に思う事だった。

10. 禅との縁

 父帰還して10数年。我が家の戦後の復興がようやく終わった頃私は一介のサラリーマンとなっていた。

 昨日正しかったことが今日正しくない価値観の大転換を体験した私は絶対の真実を求める気持ち切なるものがあり、禅に関心を抱いた。

 正義感から会社の上司と衝突し悩みを抱えたこともある。今思えば「血」のせいかもしれない。そういう時期に先輩から臨済宗系の居士禅の会の人間禅を紹介され、入門し今日に至っている。

 人生には浮き沈みがあるのが当たり前で、それを乗り切る正しい道を見つけることが最も肝要だ。この拙文が参考になることを祈って筆を擱きます。

 

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