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2020.09.29 Tuesday

「二念を継がず」と「一念不生」

 

「二念を継がず」と「一念不生」

丸川春潭

 数息観の評点基準の根本思想は、耕雲庵英山老師著『数息観のすすめ』に依拠しています。定性的な老師の表現に対してそれに沿って定量的な尺度を当てはめて作ったものです。
 数息観評点基準(別紙参照)をマクロ的に見ますと、55点未満が前期数息観(耕雲庵老師の表現であり、小生は数息観初期としていました)であり、55点から79点までが中期数息観であり、80点以上が後期数息観ということになります。
 数息観修行で一番骨が折れまた年月もかかるのが中期数息観です。この中期数息観を耕雲庵老師は「二念を継がず」の一つだけの表現で位置づけられていますが、小生はこの中期数息観を三つの段階に細分化して区分けしています。
 55点から60点までを「二念を継がず」段階とし、61点から70点までを「一念不生」段階とし、71点から79点までを「一念不生の相続」段階として三つに区分しております。
 気を付けなければならないのが標題の「二念を継がず」と「一念不生」をどう区分して分けるかです。評点基準の説明ではこの二つの境である60点の処に「ここから以上は数息観中期の「一念不生」が始まり、数息観のメインは「一念不生」になる。ここから数息観の質は大きく変わることに注意。「二念を継がず」に比べ、「一念不生」は頭燃を救うが如き気合いと集中力がなければできない領域になる。質の点検に留意。」との注釈をしています。小生自身はこの注釈で十分伝わると思っていたのですが、多くの人の評点を拝見していて、銘々各自の定義になっていてそのレベル差が大きいことが段々判ってきました。すなわち多くの人が「二念を継がず」状態で70点までを評点しているようです。その原因は、この「二念を継がず」と「一念不生」の定義が明確でないと云うことに起因していると考え、ここに説明を加えているわけです。
 座禅を組んで数息観をしている時、目の前に蚊が飛んでくる。耳にもブーンと云う音が聞こえる。数息は継続されているが、蚊が来たということは認識した。この認識に引き続いて、数息は続いてはいるけれども刺されたくないという感情が動き(二念)、蚊取り線香を点けようとチラッと思う(三念)。これは二念、三念と念慮が発展しているので、雑念が入ったとして1に戻して数息をやり直すべきです。これは「二念を継がず」が出来なかったと云うことであり、この二念、三念が生ずる前、すなわち蚊が来たことを認識しただけで念慮を留め発展させないことを「二念を継がず」と云います。この「二念を継がず」が三つに分けた中期数息観の最初の区分です。「二念を継がず」で1〜10息まで数息出来れば60点となります。そして蚊などの外部からの外乱要因のみならず、内面的な精神的な内乱要因すなわち、過去の気がかりなことを思い出したり、これからやらなければならないことがチラッと脳裏をかすめたりするのも同じことで、たとえこういう内乱の念慮が起こってもそのままにして留め置き、二念三念にずるずると発展させなかったら、「二念を継がず」ができたことになります。
 これらに対して、蚊が目の前を通り過ぎようとし、ブーンと云う音がしていても、蚊が来たと認識しないで数息観に集中している状態を「一念不生」と云います。子供が漫画本に夢中になって読み耽っている時には、近くのお母さんがおやつが出来たよ!と声をかけてもこの子の耳に入らない。これも同じ「一念不生」です。また「一念不生」においても外界との関係のみならず内面的な念慮も問題です。どちらかというと外乱よりも内乱的な念慮で一念不生が破られることが多いものです。医学的には脳内言語というようですが、数息観と平行してチラッチラッと脳の中に言葉が飛び交うことがままあるものですが、まさに内乱的念慮が生じているのです。こういう脳内言語はもとより脳裏にチラッとした念慮も生ずることなく数息に集中している数息三昧を「一念不生」の数息観といい、1息から10息まで完璧に一回できれば70点ということになります。
 数息観評点における65点から70点に到達するまでの数息観中期の第二段階となる「一念不生」の段階が座禅修行の中での最大の難所であります。数息観座禅で最大の骨折りが長期間必要なところです。祖師方は勿論のこと、山岡鉄舟居士、勝海舟居士、無得庵刀耕老居士など歴史上の大人物と言われている人においても、例外なくここでしっかり骨折って三昧力・人間力を付けられていることは間違いありません。
 次の数息観中期の三番目は、この1息から10息までの「一念不生」を更に連続して続けると云う段階になります。これが次の壁として大きく立ちはだかっており、二回連続(75点)はまた骨折りなくしては到達できないところです。この区分では70点前と同じ「一念不生」の相続としていますが、実は段々とその深さが違ってきています。70点までは一念が生じなかったと云うことだけでしたが(これはこれで大変困難であるしここまで到達したと云うことは凄いことなのですが)、この段階では更に一息一息が充実して来て全身全霊が呼吸に込められてくるのです。70点までより更に深い三昧になって初めて安定して相続できるというものです。ここが出来上がってくるレベルでは数息に集中しようとすることもなくほとんど雑念・念慮が出てこなくなると表現してもいいような盤石の三昧レベルであり、後期数息観の手前の数息観三昧になります。
 宝鏡三昧の最後に、「愚の如く魯の如く 只よく相続することを主中の主となす」とあり、三昧状態の相続の難しさと大切さを歌っているのですが、これが丁度ここにも当てはまります。
 耕雲庵老師が、『数息観のすすめ』の中期数息観の最後近くで述べられている「蚊が過ぎるのはおろか、よしんば雷が眼前に落ちたとしても」というくだりは、数息観三昧が深く盤石になった状態であり、これは「一念不生」の最終段階の境地にいたっていると考えています。雷が眼前に落ちたとしてもビックともしない一念不生の三昧は容易なレベルではありません。数息観の長年の熱心な継続によって得られる深い三昧レベルが身に付いているのであり、ここまで三昧が深くできるようになれば絶大な人間力の発揮も平然と普通に出来るようになると云うものであります。
 以上、「二念を継がず」と「一念不生」の違いを中心に中期数息観について説明させて頂きました。日々の一日一炷香実践と数息観評点付けに何らかのご参考になれば幸いです。合掌

追記:別紙「数息観評点基準(R2.10版)」は次に掲載しますので参照下さい。

 

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