老師通信

人間禅の老師による禅の境涯からの便りです。
人間禅のホームページにもお立ち寄りください。

人間禅のホームページはこちら 老師通信一覧はこちら

 

<< 古くて新しい「座禅」、易しそうで深い「座禅」(3) | main | 古くて新しい「座禅」、易しそうで深い「座禅」(5) >>
2013.10.12 Saturday

古くて新しい「座禅」、易しそうで深い「座禅」(4)

JUGEMテーマ:

 

――古くて新しい「座禅」、易しそうで深い「座禅」―(4)―

丸川春潭

 見上げれば通草(あけび)が、腹を見せてぶら下がっています。中身は黒い小さな種を包んだ白い果肉があり、これが意外と癖のない爽やかな甘さで、村の子供たちの好物となる。

 山形の方では、通草の分厚い皮の部分にいろいろな詰め物をして煮物にするんだと、山形出身の如々庵老師にお聞きしたことがある。

 武士は、腹切りを連想して、この通草を嫌い、同じような形をしているが実が割れない郁子(むべ)の方を好むと、蘊蓄屋の福琳居士から聞いたことがある。

 

 しばらく、このタイトルでのブログをお休みしていましたが、「人間禅の使命」が4回で、一応完結したので、このタイトルのブログを再会いたします。

 前回までは、入門のお話しでしたが、今日は「人間形成と座禅」にもどり、人間形成とはどういうことか、それが座禅とどう結びつくのかをお話しします。

 

 結論から簡潔に言いますと、「人間形成とは、三昧を身につけること」であります。このフレーズは、「すっと飲み込めるようなものではなく、何となく判るが、はっきりしない」、というのが一般的な受け止められ方であろうかと思います。実際に長年、座禅を積み重ねて、自分に三昧が身についてこないと、このフレーズは判らないものです。

 

 大燈国師にしても、白隠禅師にしても、三昧が身についたからこその大宗匠・大禅師でありますし、山岡鉄舟にしても勝海舟にしても、三昧が身についたからこその大人物であり、大活躍が出来たのであります。芭蕉にしても利休にしても、三昧が身についたからこそ、侘び・寂びの芸道を創造し得たのであります。

 

 この三昧を身につける方法が、「座禅」であるわけであります。この三昧を身につけるための座禅について、少し詳しく見てみたいと思います。

 

 耕雲庵老大師が『数息観のすすめ』に次のような一節を書かれています。

旧制第二高等学校(仙台)時代に、東北帝国大学総長の奥様(瑞巖窟老師の法を継がれた方)から、一日一炷香の大切さを諭され、「私はそれを正直に実行してきたのです。もし私が心から“今日あることを得たり”ということを許されるなら、全くこの奥さんのお陰である。今に感謝している次第であります。」と述べられている。

 

 人間形成を深く積まれた耕雲庵老師が、今日あることを得たりという根拠として、長年(学生時代から『数息観のすすめ』を書かれるまで約50年)にわたって一日一炷香をやったからなんだと白状されているのです。50年間実践して得られた重い真実であります。

 

 逆に言いますと、三昧が身につくというのは、一朝一夕の座禅では身につかないということであり、人間形成というものは、人生相談などでの処世術上でのハウツウ(言葉で表現できるようなもの)を知っているレベルではなく、精神的な血肉になったものであります。表面にメッキや漆を塗って見栄えを良くすると云うことではなく、生地そのものを鉄から金に変えると云うことであり、すごいことであります。

 

 この三昧を座禅によって身につけるという、「三昧」とはどういうことであるかについて、次回にお話しを続けさせて頂きます。本日はこれにて失礼。合掌

春潭 拝

 

コメント
コメントする








 
Calendar
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< August 2020 >>
Selected Entries
Categories
Archives
Recent Comment
Profile
Search this site.
Others
Mobile
qrcode