古くて新しい「座禅」、易しそうで深い「座禅」(6)

JUGEMテーマ:

 

――古くて新しい「座禅」、易しそうで深い「座禅」―(6)―

丸川春潭

 台風26号の被害はありませんでしたか?

 名古屋参禅会の帰途、昨晩から千葉県市川市の本部道場の隠寮に来て泊まっておりましたが、今朝6時過ぎに玄関の分厚い窓ガラスが、太い枯れ枝でぶち破られ、たたき起こされました。

 大島の方では、痛ましい災害があったとか、何が起こるか判らない無常の世界に生きていることを改めて感じさせられます。

 

 前回の続きの「三昧」の説明の二回目です。

 三昧の二番目の意味は、「心境一如・物我不二」であります。心境の「心」とは、自己・主体であり、「境」とは、自己以外のもの・客体を指すもので、主観と客観が一枚になることであります。

 

 心境一如とは、万物と我(自己)が一体という意味です。 物我不二とは、これを言い換えたものですが、万物と我(自己)が別々ではなく、不二であるという意味です。これが、釈迦牟尼が悟りを開かれた境地であり、仏教(宗教)が誕生した根源になります。

 

 お釈迦様の悟りの時に作られた有名な投機の偈として「山川草木悉皆成仏」「天地と我と同根、万物と我と一体」とあるように、まさに「見性」(悟りを開く)には、この「心境一如・物我不二」の三昧に至ること無しにはできません。

 科学や常識の合理的思索を越えた領域の場面であり、字面で、「心境一如、物我不二」を解釈し理解できても、全く届きません。本当の宗教の独壇場の場であり、この透徹した深い三昧の座禅なくして悟りは成立しないものであります。

 

 この三昧は、仏教だけの特徴ではありません。世界宗教のような本当の宗教には、すべてこの三昧に到る何らかの方法を持っております。

 祈り、礼拝、読経、座禅、賛美歌、祈祷等々どんな方法でも良いのですが、心境一如、物我不二の境地に深く透徹する方法を実際に行じて初めて、宗教の入り口に入って行くことが出来るのであります。

 

 座禅の数息三昧に即していいますと、息を数えている我と数える対象の息とが一体になり、不二にまでなった数息観であり、数息観法の中期以降の高いレベルのものであります。すなわち1から10までを一念不生で、ちらっとした念慮も差し挟ませず数息し切る数息三昧の座禅観法です。

 

 臨済宗系の禅門の修行においては、見性入理、見性悟道、見性了々と境涯に従っての公案がありますが、このいずれの公案においても最も大切なことは、公案と一体になる座禅の行が必須なのであります。

 逆にいいますと、座禅による行によって公案に一体に成らずして真正の見解は得られないし、境涯の進展はあり得ません。得てして類推とか字義についてまわっての解釈をしたりして、堂々巡りをしがちなわけですが、それは禅学であって本格の祖師禅の修行にはならないのであります。常に、公案と不二一如になることが修行の仕方として何より大切であり、不可欠なのであります。

 

 茶道においては、忘筅の境涯といい、茶筅を振っていて茶筅をあたかも忘れたように茶筅振り三昧をやって到る境涯であります。

 剣道においては、刀を持っていて刀を忘れるほど、無心に相手に立ち向かっている三昧状態で、山岡鉄舟居士の剣道は、無刀流と名付けられています。

 

 今日はここまでで、何か疑問なことがあったらご質問下さい。外の風も急に収まってきたようです。ご安全に!

 

コメント