ボーボアール著『老い』と禅(その2) ――さまざまな老いの実態――
ボーボアール著『老い』と禅(その2)
――さまざまな老いの実態――
丸川春潭
「われわれの社会について判断を下すためには、それが選択した解決方法を、さまざまな場所や時代において他の社会が採用した解決方法と比較対照する必要がある。この比較によってこそ、老人が持つ不可避的なものを取り出し、どの程度までまたいかなる代価を払えばその困難を和らげることができるかを考え、したがってわれわれがその中で生きている体制の責任がその点いかなるものであるかを明らかにすることができるであろう。」
シモーヌ・ド・ボーヴォワール
生誕 1908年1月9日 フランス、パリ6区
死没 1986年4月14日(78歳没) フランスの旗 フランス、パリ
時代 20世紀哲学 西洋哲学
出身校 パリ大学
学派 実存主義、フェミニズム
研究分野 哲学、フェミニズム、倫理学、現象学、マルクス主義
主な概念 実存主義、実存主義フェミニズム、フェミニズム倫理学
主な著書 『第二の性』(1949:41才)、『レ・マンダラン』(1954)
『老い』(1960:62才)
7月の「NHK100分で名著」の放映は、シモーヌ・ド・ボーヴォワール著『老い』を、講師:上野千鶴子(東京大学名誉教授)で放映しています。これは4回に分けて読み且つ講師の解説があります。この放映に沿い概要を掻い摘まんで紹介しつつ禅的見地からのコメントを試みてきており、このブログはその第二段目です。
今回の第二段目は、最初の引用にあるように各年代、地球規模での各地域、あらゆる職業(24職業:作家、詩人、文学者、思想家・宗教家、歴史学者、哲学者、精神分析学者、育児学者、劇作家、俳優、彫刻家、画家、美術評論家、作曲家、演奏家、歌手、ボクサー、科学者、数学者、発明家、政治家、ジャーナリスト、貴族、軍人)における総勢252人の老いをつぶさに収拾し老いの実態を検証しています。
そのほとんど(95%以上?)が、老いを嘆き悔やみあるいは無自覚に恥を晒している様子をリアリズムに徹して収録しています。ボーボワールと同業の作家が一番多く、ゲーテを筆頭に古今東西の48名の著名な作家の老いの状況文言を集めており、その多くは辛辣を極めているのです。
「一般には高齢は文学的創造に取って好適ではない。」
「年取った人間にとって最も適さないジャンルは小説である。」
「多くの老人は、習慣から、あるいは生活のために、また自分の凋落を認めたくないために、書き続ける。しかしその大部分は・・・・・60才を過ぎて書くものは、先ず二番煎じのお茶ほどの価値もない。」
学者の老い(熱い情熱と精神的自由さに欠け、保守的になる)、政治家の老い(時代の進歩に付いて行けず、新しい時代の理解ができない)に対しては低評価であるが、わずかな例外もあります。画家はその技術の習得に時間がかかるために「傑作を産むのはその最晩年期である」として画家ゴヤを評価しており、また音楽家も「年月と共に進歩する。」としてバッハ、ベートーベンが老いてから傑作を世に遺していると評価しています。
ボーボワールは、作家である自分(62才)の老いを通じて赤裸々に実存を直視しようとして、252名の著名な人物の老いを収録しているのです。したがってその中心には当然自分の老いも含まれており、この老いの実態は一人称での検証結果であります。
サルトルとは21才で契約結婚し最後を看取るまで50年を超えるパートナーでありつづけました。一人称での目は身内にも実存的に向けられ、晩年の盲目のサルトルの老いを赤裸々に世に晒し、そしてサルトルとの死別に際してもその見方は一貫しています。すなわち「彼の死は私たちを引き離す。私の死は私たちを再び結びつけたりはしないだろう。そういうものだ。私たち二人の生がこんなにも長い間共鳴し合えたこと、それだけですでに素晴らしいことなのだ。」と。実存するものに焦点を当てて物事を評価する実存主義の真骨頂を老いの捉え方も死生観にも見ることができます。
前報の「ボーボアール著『老い』と禅(その1)――人類にとって「老い」とは何かーー」でも述べたボーボワールの見地に対する禅的評価は、今回も同じであり相似性と相違性の両面からの評価になります。
サルトルとの死別に対するボーボワールの見解は、まさに耕雲庵英山老師が頷くような死生観であり、実存と禅との相似性が見て取れます。
しかし252人もの老いの検証には自分の老いを通じて見ている点において、偏りがあることを感じざるを得ないのです。彼女は62才でこの『老い』を発刊しており、「60才を過ぎて書くものは、先ず二番煎じのお茶ほどの価値もない。」というベレンソン(米国美術史家)の語りを実際の自分の老いを踏まえて肯定し引用しているのです。すなわち彼女の252人の膨大な老いの調査研究の対象は、自己の実存としての経験範囲内に限定されているように思います。彼女が例外的に評価した画家(ゴッホ)、音楽家(バッハ・ベートウベン)は、自分の経験とその尺度から外れた希有なものであったのでしょう。
実存主義は一人称としての見方の確かさはありますが、その見方の尺度に主観的・個性的な偏りが生じやすいという避けられない弱点があると考えます。彼女の『老い』の偏りは、彼女が作家であり、フェミニズムの指導者であり、思想家であり、教育者であるという典型的なインテリとしての見方に終始しており、彼女の老いの検証は知識人に偏った「老い」の検証になっていると考えます。
身体機能や知性の冴え以上に長い経験の積み重ねが重要になる職種は、画家や音楽家のみならず人間社会には沢山あります。宮大工の棟梁にしても料理人にしても落語家にしても茶人にしても、インテリ非インテリを問わず24職種252人以外にも広く多くあります。こういう人は自分の老いに対して手応えを持って自己認証でき、更に次世代への技術伝承と育成にも生きがいを持っています。しかしその人達の「老い」は、ボーボワールの視野外になっており彼女の研究対象から外れているのです。
「学者の体系的な仕事はたいてい若いときに成され、年を取ってからは新しい発見は少ない。学者のだいたいは、50代が業績や社会的地位のピークであり、それを過ぎると自己模倣の繰り返しになっている。」とボーボワールの指摘を上野先生は総括し同意しています。
確かに日本の現状にしてもそういう人が多い事は事実ですが、その見方がボーボワールの一人称であるだけに、一般的に学者も含めた知識人の中には60代70代80代になっても過去の模倣ではなく自己の研鑽により新しい発見を成し続けている人も多いと云うことが見落とされ、あたかも老いた人の定義として自己模倣するものだと断定しているのに違和感を持ちます。
この理由は、前報でも触れましたが、ボーボワールも上野先生も人間を外から見る視点に重心があり、人間を内からも見る視点すなわち精神性の深まりについての見方が薄弱であるがためと考えます。もちろんそれは実存主義者であるボーボワールがその個性を通して一人称の見方をしているからです。(つづく)(次のテーマは、「老いと性」です。)
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