古くて新しい「座禅」、易しそうで深い「座禅」(8)

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――古くて新しい「座禅」、易しそうで深い「座禅」―(8)―

丸川春潭

 伊豆大島の台風災害で行方不明になった方の救出作業が未だ続いているときに、更に大きな台風が同じような軌道に乗って来ているというニュースが出ており、心配なことです。

 日本の秋は、素晴らしい季節ではありますが、台風のシーズンでもあるわけで、良いことばかりということは何事にもないということです。今元気で若々しく大活躍をしているといっても、生老病死は必ずつきものであります。

  閑庭や花散る音のまぎれなき 幽石

 

 さて、三昧について三回難しいお話しをしましたが、次はどうしても数息観のお話しに行かざるを得ないと思います。数息観についてのお話しは、法話とか提唱だけでざっと数えても30回はやっています。その最初は、二十年前くらいになりますが、二十年前にどんな話をしていたのか、恥ずかしながら、紹介させて頂きます。

 

数息観は自然そのものであり、ロマンである

 耕雲庵老大師の『数息観のすすめ』は、「坐禅」の規範であり、人間禅の原点であるとつくづく思うこの頃である。

 「息」は心と体の接点であると教えられた。「息」という字は【自】ずからの【心】と書く。

 無意識でも息は続き、意識して止めることも出来る。心臓のように意識して止められないものではない。また、手足のように意識しなければ動かないものでもない。息は体の一部であり、心の続きでもある。

 

 「心」はどうか? 意識して変えることは出来るが、無意識に夢も見る。また意図しない心の働きや思うまいとして止めようもない心の動きもある。間違いなく動いている心があるが、捉えようとして捉えられないものでもある。

 息は心とはやはり異なり、もう少し「自然」である。

 

 したがって息は、肉体と精神(心)の両方の接点であり、その息を整えると云うことは、心身全体を整えることである。数息観というものは、本来的に肝心要なところを押さえている観法なのである。

 

 数息観は坐禅を始めた最初の時からの行であり、そして奥が深く終わりがない。数息観は誰にでもできるが、最も難しいものともいえる。

 

 実際に数息観を行じてゆくとき、自分の呼吸が自然のペースからずれてくることがある。雑念を入れないように数えやすいように、力を入れた息になったりする。また、市販本の呼吸法などには長息を奨めたり、臍下丹田に力をこめることを勧めるものが多く見受けられる。(以下、次回へ続く)

 

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