古くて新しい「座禅」、易しそうで深い「座禅」(9)

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――古くて新しい「座禅」、易しそうで深い「座禅」―(9)―

丸川春潭

 先週の金曜日の夜から、山口県宇部市の小野湖のほとりアクトビレッジ小野(宇部市市営設備)で参禅会をしておりました。

 小野湖はダム湖で7,8キロもある細長い湖で、素晴らしい景観を四季折々展開しているようです。今は背高泡立草(セイタカアワダチソウ - Wikipediaで写真があります)が主役です。背高泡立草は、かって喘息の原因だと濡れ衣を着せられたこともあって、雑草の典型のように思われている節もありますが、ウィキペディアの写真をご覧ください、近くで見ると大変きれいな花です。

 植物には雑草というものはないのです。人間だってそうです。

 

 前回から、3日経って、もうお忘れかも知れませんが、数息観についての小生の20年以上前の文章を半分くらい紹介したところでした。残りを続けさせて頂きます。

 

 実はわたくしも長年長息をしていました。1分間に3呼吸くらいであり、吐く息を長くゆっくりとし苦しくなり始めるとすっと息を吸い込むやり方である。

 ペースもかなり安定で正確であり、駅とか病院の待合いで15呼吸なら5分、30呼吸なら10分であまり狂わないくらいになっていました。そしてこれは、雑念を切りやすい方法であると云えるかも知れません。何故なら、これは「自然」の息を数えるというよりは、数を数えるのに呼吸を合わせる方へずれてきているからである。しかし、これは本物の数息観ではない。どちらかというと

凝念(ぎょうねん)に近いものである。

 

 安静に健康に眠っている状態の呼吸は自然の呼吸ということができるであろう。少なくとも意識した頭脳に支配されたものではない。また、公案三昧になり切れている状態の呼吸のペースを振り返ってみると、これが眠っている時の

呼吸数に近いことがわかった。

 

 そして、呼吸していることさえ忘れて真剣に公案三昧に打ち込んでいる時の呼吸と、数息観の時の呼吸とが大きく異なるのはおかしいと気がついた。これが『数息観のすすめ』に再び帰るきっかけであった。

 

 長息が腹式呼吸で胃腸の血行に良かったりすることは大いにあり得ることであろう。健康法の一つとしてはあってもいい。しかし、数を数えて没頭しやすい呼吸法というのは数息観の醍醐味を味わうべくもなく、禅学的数息観であったと思っている。あえて云えば、これは「数数観」である。すなわち、人間形成のための禅の基盤ともいうべき本物の数息観にはなり得ない。

 

 耕雲庵老大師の『数息観のすすめ』には、自然の呼吸を強調されている。「1炷香44分は330くらいであるが、呼吸数にはこだわるな」と説かれている。

 一行庵義堂老居士は、教団講演会での数息観についてご講演時の会場からの質問に対して、腹式呼吸のような故意の数息観をはっきりと否定されておられました。

 

 数えるという意識的所作によって自然の呼吸を保つことも厳密に検証してみると難しく、『数息観のすすめ』の中期である1から10までの数息をパーフェクトにやりきるのは極めて骨の折れることである。正念相続の難しさとそれを達成するための血みどろの骨折りの不可避なことも見えてくる。ここが本当の修行の中心的な場であり、腰を据えて真正面からトコトン取り組まなければならない。

 

 意識下において管理されるということではない「自然」の息を、そのままに数えてゆく数息観を積み重ねてゆくと新しい景色が見えてくる。そして、たとえ短くてもそれが噛みしめ味わえるともう止められない。          

 

 数えるという意識的所作も限りなく透明に近くなる。ちっぽけな小自我の呼吸が大自然の呼吸に融合し、不二となる。数息観が「自然そのもの」になるときである。

 

 『数息観のすすめ』の後期の場になってくる。ここが宗教的救済の原点、本当の大安心の原点である。すなわち、本当の自信と本当のやさしさの源である。

 そしてまたそれは、真善美の発現する拠点でもある。

 数息観はロマンである! 更に参ぜよ30年 !

 

 恥ずかしながらの小生の若かりし頃の文章です。如何でしたか?

 

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