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2022.05.17 Tuesday

「僧堂禅と在家禅と人間禅」 (その3)「正しく・楽しく・仲よく」

「僧堂禅と在家禅と人間禅」

(その3)「正しく・楽しく・仲よく」

丸川春潭 

 本題「僧堂禅と在家禅と人間禅」として、(その1)「耕雲庵英山老師はオヤジ」(その2)「『数息観のすすめ』と『坐禅儀』」を発信し、それを受けての(その3)「正しく・楽しく・仲よく」であります。
 「正しく・楽しく・仲よく」は、耕雲庵英山老師が創られた言葉です。小学生でも判る平易な言葉ですが、三十年罷参底の上士も窺い知り難い人間形成の禅の最も深く最も高い境涯を表す言葉なのです。しかもそういう高く深い禅の奥義に関わる言葉をかくも平易に親しみやすい言葉として結晶させた耕雲庵英山老師ならではの珠玉のような言葉です。老師が、生涯にわたり在家禅者で通され、大乗仏教の禅の源底を極め尽くされたからこその長く歴史に残るフレーズです。
 達摩大師以来の1500年間にわたる僧堂禅では、「楽しく」も「仲よく」も一度も称揚され唱えられたことはありませんでした。すなわち僧堂禅においては、「正しく」だけで終始してきたのです。そして「楽しく・仲よく」を寄せ付けない僧堂禅レジュームだったのです。
 標題の「僧堂禅と在家禅と人間禅」にそって、このことを考えて見ます。僧堂禅は、1500年間「伝法のための伝法」でした。この「伝法」の意味は、言葉では表現できない釈迦牟尼の悟境(悟りの境涯)を後継者が自ら掴んで後世に伝えていくことであり、釈迦牟尼の直弟子の摩訶迦葉尊者が最初に釈迦牟尼と同じ悟りを掴み、有名な蓮華微笑の因縁で釈迦牟尼がそれを証明したのが伝法の始まりです。伝法の法を伝えるとは、悟りを掴んだ人物をつくり育てて人間の生きた悟境を後世に伝えることです。すなわち釈迦牟尼世尊と同じ悟境を一器の水を次の器に移すように伝え伝えて、インド人の達摩大師がインドにおける第28世の伝法者となり、第27世の般若多羅尊者の命を受けて中国に渡り(6世紀)、中国人の慧可に悟りを掴ませる、すなわち伝法して中国における伝法が始まるのです。そして中国での第27世の伝法嗣法者が有名な虚堂智愚禅師であり、この膝下に弟子入りし修行を積んで嗣法した日本人の南浦紹明(後の大応国師)が日本における正脈の伝法の起点になったのです。ここから日本における伝法が始まる(13世紀)のです。そしてその後日本における伝法は、幕末から明治にかけての日本臨済宗のその当時の代表的な僧侶である蒼龍窟今北洪川禅師へと伝わり、禅師は第24世になります。その後は楞伽窟洪嶽宗演(第25世)、両忘庵輟翁宗活(第26世)から人間禅創始者の耕雲庵立田英山へと伝法は続いてきたのです。耕雲庵英山老師は常々、本物の人物が打出できなかったら(伝法嗣法者ができなかったら)、人間禅をぶっ潰せと常々仰られておられました。ことほど左様に、歴史上では沢山な伝法の断絶があり、細々と正脈の伝法が今日に伝わっているのです。この歴史を見てもいかに伝法が大変なことであるかということが推測されます。すなわち耕雲庵英山老師まで、釈迦牟尼から2100年間で82人、菩提達摩から1500年間で54人、南浦紹明から800年間で27人の嗣法者が途切れずに奇跡的に生きた法がつながって現代まで来ているのです。どこかで伝法が途絶えるとそれまでの伝法嗣法が水泡に帰してしまうことで、嗣法者は何としても命にかけても次の嗣法者を後世へと遺さなければならないと考えて来られたのです。これが僧堂禅は「伝法のための伝法」と言われる由縁です。極めて重いことですし、文字通り有り難いことであります。
 幕末から明治の初めにかけて、僧堂禅から在家禅が派生的に誕生しました。この在家禅は、僧堂禅からの伝法嗣法者(僧侶:脱俗出家者)に一般社会人が脱俗することなく入門し、参禅弁道の修行をする集まりであり、両忘会(後に両忘禅協会になり、戦後の人間禅につながる日本最大の在家禅)や釈迦牟尼会などが今日まで続いています。この在家禅でも、人間禅の前身の両忘禅協会がそうであるように、伝法が第一に謳われています。しかし戦後昭和23年に発足した人間禅の立教の主旨を見ますと、その第一項に「人間禅は、自利利他の願輪を廻らし、本当の人生を味わいつつ世界楽土を建設するのを目的とする。」となっており、伝法に関しては第二項に下がり、「人間禅は、座禅の修行によって転迷開悟の実を上げ、仏祖の慧命を永遠に進展せしめる。」として掲出されています。すなわち人間禅の立教の主旨の第一項(人間形成を通じての世直し)であり、これを進めるために伝法はそれを達成するために必要な手段として第二に位置づけられています。人間禅の第四世総裁青嶂庵古幹老師は、従来の僧堂禅は「伝法のための伝法」であったが、人間禅は僧堂禅と異なり「布教のための伝法」なんだと云われました。それまで耕雲庵英山老師も磨甎庵劫石老師もこの言い方はされていなかったと思います。人間禅も在家禅のひとつではありますが、人間禅にしてはじめて「布教のための伝法」が旗幟鮮明に打ち出されたのです。これが耕雲庵英山老師の人間形成のための禅の方向性であり、「正しく」だけではなく「楽しく・仲よく」が加わっての「正しく・楽しく・仲よく」が人間禅の姿を表すものなのです。
 「正しく」が弱くなれば伝法が続かず、「正しく」だけになって「楽しく・仲よく」が軽視されると僧堂禅に逆戻りして布教・救済が弱くなります。「楽しく・仲よく」が精彩を欠いてくると現代の若者は近づいてこなくなり、「正しく」が弱くなれば、「楽しく・仲よく」が根無し草になり俗に埋没してしまい永続する集まりではなくなります。このバランスをとることが必要であるという言い方は不十分です、そうではなく両方共がしっかりしていないといけないと考えます。どちらかでも弱くなると人間禅の精神が発揮されなくなり、その集まり(支部・禅会)は人間禅の発起の精神から離れてきます。そして同時に古い僧堂禅とともに現代社会の片隅になり、将来的には衰退してゆくと考えます。
 伝法だけでも本当に容易ではないのに、更に布教救済を背負い込むのは大変なことです。伝法も布教・救済も両方共に背負い込んで、且つ永続させなければならないのがわれわれの使命です。耕雲庵英山老師は74年前の立教に際して「宛然自ずから沖天の気あり」であられたと小生は確信しています。
 しかし現実に、人間禅の74年の歴史をつぶさに振り返ってみる必要があります。もちろん「正しく」が貧弱になることは論外であるし、「正しく」だけで良いのだと云う人間禅者はおられなかったと思います。しかしかなりの割合の支部で、「正しく」に軸足を先ずおいて、余裕で「楽しく・仲よく」をやれば良い、ということに成ってしまったと反省します。これは言い換えると、長い歴史を持つ僧堂レジュームが在家禅・人間禅においても根強く残っているということです。すなわち余裕でとなると途端に僧堂レジュームに安住することになり、人間禅が溌剌として現代社会に発信し続けることに陰りがでてき、それが長年続くとその支部は沈滞することになっています。それは人間禅という組織に埋没し伝統に盲従して、「正しく」が形骸化し、生き生きした本当の「正しく」から離れているからです。耕雲庵英山老師の「正しく」には、「楽しく・仲よく」が必ず結びついており、本来この三つは一体なものなのです。
 耕雲庵英山老師はかって熊本支部の提唱の最後に、”わしは大乗仏教の禅の最高峰・最先端に立っているんだ!“と獅子吼されて提唱台を降りられたことがあったようです。僧堂禅がキチッと続いたからこそ人間禅まで正脈の法が伝わったのは確かです。その基盤の上で、在家者である耕雲庵英山老師によって仏教・禅は人間禅へと進化し、地球人の行く方向を「正しく・楽しく・仲よく」の社会構築にあるんだと老師は示されたのです。(未完)

 

 

(その1)耕雲庵老師はオヤジ
(その2)『数息観のすすめ』と『坐禅儀』
(その3)「正しく・楽しく・仲よく」
(その4)師家を複数人擁する僧伽

(その5)師家の家風の多様性と若者に対する布教

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