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2014.02.13 Thursday

「科学と禅」その4

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「科学と禅」その4

丸川春潭

 小生が人間禅に入門したのは、岡山市の中国支部で、師家は耕雲庵立田英山老師でした。摂心会中、老師は毎朝ご自分でお茶を点てられ、いつも2,3人がお相伴していました。

 老師のお好みのお菓子は、いくつかありますが、一つは岡山市の芭蕉庵の落雁である旭川でした。香りが良い美味しいお菓子でした。

 

 後年、松江の風流堂の山川を食べてみてよく似ているのに驚きました。山川は松江の殿様である不昧公好みで、発祥は200年以上前であり、芭蕉庵は明治の創業ですので、山川を模倣したのかもです。いずれも小生の好きなそして思い出深い菓子です。

 

 甘い香りの落雁のお菓子から、味もすっぽも無い科学と禅のお話しになります。

 今日のお話しは、「各宗教各宗派の宗教としての根源は、本質的に皆同じである。」ということです。

 

 老子が、孔子が、釈迦牟尼が、キリストがつかんだ宗教存立の根源は一つであり、相違するものではない。これが禅の宗教観です。

 

 ただし、宗教的本質が同じであったとしても、その呼び方、布教の方便は千差万別です。すなわち、老子の道教では大道と云い、孔子の儒教は明体と呼び、釈迦牟尼は仏と云い、キリストは神と云い、神道では天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)と云っています。

 

 要は、各宗教各派がお互いにその呼び方のみならず救済の仕方や儀式の違いがあっても、宗教の根源「そのもの」に変わりはないということをお互いに認め合うということが大切なのです。

 

 禅の宗教観が何故こういう見解になるかについて以下に簡単に説明します。禅の宗教的根本は、釈迦牟尼の悟り(東洋的無)に根源があり、「山川草木悉皆成仏」であり、「衆生本来仏なり」なのです。

 

 釈迦牟尼世尊の掴んだ宗教の根源(悟り)は、言葉で表現できるものではなく、言葉を超えたものです。すなわち相対的なものではなく絶対的なものです。前に出した図をもう一度出しますが、悟りは相対樹(科学)の領域ではなく、絶対樹(宗教)の領域のことです。

 

 相対樹から、二念を継がず一念を生じさせない、を徹底して絶対樹に入って行かねば悟りの場に入ることはできません。根元に数息観法と書いてありますが、この数息観法を徹底して行取すると、相対樹から絶対樹へ移行できます。すなわち科学の領域から宗教の領域に入れます。この宗教の領域に入らなければ、悟りを掴むことも人間形成を進めることもできません。

 

 悟りは言葉で説明することも教えることもできません。自分で冷暖自知(自分で熱いか冷たいかを実践的に掴まねばどうしようもない)するしかないのです。ただ教えることはできないが、正脈の師家は学人が掴んだものが正しいものを掴んでいるかどうかははっきりと見抜くことはできます。

 

 釈迦牟尼が掴んだと同じ悟りを摩迦訶葉尊者が掴んだように、師から弟子に一器の水を一器に移すように伝え伝えて28代目が菩提達磨であり、インドから中国へ生きた人間の悟りが伝わりました。6世紀です。そして達磨の悟りが二祖慧可へと、インドと同じように中国の中で伝法され、中国で27代目の虚堂智愚禅師から日本から中国に法を求めてやって来た南浦紹明(後の大応国師)へ印可され、日本に生粋の禅が伝わりました。13世紀です。

 

 釈迦牟尼が悟りを開かれた紀元前5世紀から2500年後の今日まで、生きた人間の悟りを連綿として伝法してきているのが正脈の禅(祖師禅)です。その伝法している禅の悟りの見地から世界の宗教を見ると、老子が孔子がキリストがつかんだであろうそれぞれの宗教的根源は、決して二つあるものではなく、間違いなく同じものであると見えるのです。

 

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