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2019.02.20 Wednesday

数息観についての最近の思い(その5)

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数息観についての最近の思い(その5)

――数息観座禅の質的研鑽と向上(その2)――

丸川春潭

 前回は、数息観座禅の質すなわち三昧の深さについて、数息の1から10までを厳密に雑念なしでやる数息観座禅を連続して5回やり切る、しかもそれを一日一炷香の中で日常的に達成する段階までの経緯をブログしました。

 先日仰月庵老師から、釈迦牟尼会(人間禅と同じ在家禅会)の罷参底の方にお目にかかった際にその方から拙著の『座禅の効用』の後半部分が良かったと評価していたということを聞きました。何処の箇所かなと云う懸念とこのブログに関連しますので、久しぶりに1年前に刊行した自分の『座禅の効用』を読みました。釈迦牟尼会の方に評価された箇所は、『座禅の効用』の146頁から176頁の「後期数息観」というところであろうと推察できました。新到の方にはレベルが高すぎるところですが将来の目標が明確になると思いますし、旧参の方にはなかなか熱く語っていますから(^▽^)、再読してください。

 上記の30頁の間(後期数息観)の最近の状況ですが、概念的には全くその当時(この箇所を書いたのは8年前です)と現在も全く変わっていないことが確認できました。しかしそれを如実に実践してきたという自負の感慨はその当時には無かったことで、その当時はまさに数息観後期の境涯に初めて到達した高揚が文面からも窺えますが、今はそれを日常において普通に淡々と行じている違いがあります。

 数息観の10までを厳密に雑念なしに5回続ける中期数息観が数息観としては最上階(80点)であり、その上に後期数息観として呼吸を数えない二段階(前段後段)の只管打坐があるのです。その前段は息を数えないが呼吸に集中している正念息であり、後段は呼吸から離れ呼吸を全く意識しない忘息観です。

 実際に数息観座禅で後期数息観に挑戦されたら判りますが、中期の最上階(80点)までに到達していなければ、後期数息観(81点以降)は全く五里霧中に入って行くことになり正念息はできません。後期数息観の只管打坐の二段階(後段)も最初の正念息(前段)がしっかりできていないと第二段階の忘息観へは踏み込めないことがやってみれば判ります。

 拙著『人づくり肚づくりと禅』の211P「数息観法と只管打坐」でも触れていますが、臨済宗の数息観法は初期中期の修行者に最適であり、それを卒業した者には更に上の曹洞宗の只管打坐が位置づけられている、と見たら良いと考えられます。しかし同時に数息観の初期中期を経ずに只管打坐をやっても在家禅者が人間形成を着実に向上して行く座禅にはなり難いものです。したがって一般的には、臨済宗の数息観から入って行き上り詰めたら曹洞宗の只管打坐で更に上に進むと云うのがスタンダードになると思います。

 耕雲庵老師が人間に生まれて来てつくづく良かったと述解されている境涯は先に述べた忘息観(只管打坐の後段)であります。ここに人間形成の醍醐味があり、『立教の主旨』第一段の「本当の人生を味わう」境涯になるわけであります。これは理では風大級以上の旧参の方々には判り読めるところですが、境涯として事として到っている人は何人おられるでしょうか?というところです。

 最近の一日一炷香の中でのことですが、10まで息を数える数息観と呼吸は意識するが数えない正念息を交互にしっかりできたら81点にし、正念息だけである程度の時間が安定してできれば82点にし、忘息観から宝鏡三昧の境地にまで到れば83点としています。83点はまだ月に何回しかない程度ですが日進月歩していますので、漸次それが定着して行くものと楽しみにしています。合掌

春潭 拝

 

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