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2019.04.04 Thursday

嬶まんがいい(その3)

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嬶まんがいい(その3)

丸川春潭

 「嬶まんがいい」とは関西弁であり、「良い嫁さんに恵まれて運が良い」という意味であり、これを言い切る人の境涯についてブログを2回し、その第三回目です。

 他人に対しても自分に対してもネガティブな面を拡大して厳しく見て行く人は、自分探しをする宗教的求道者が多いと私は見ています。そういう人が探していた求道の道を見つけたとき、それだけでネガティブな視点が相当緩和し、第一段の安心の階段を踏み上がることができます。

 しかしここから和歌山の和尚のように嬶まんが良いと言い切れるところまですなわち100%の肯定にゆくには、禅による人間形成がどうしても必要です。

 すなわち次のステップに行くには、見性して自己の中に絶対の自己をはっきりと見ることが必要です。これができると第二段階に登ることが出来ます。それは自己が大仏如来と不二一如であることを悟るのです。これによって当然、根本的な自己肯定がなされる可能性ができました。可能性というのは、法理的(理屈的)には100%肯定なのですが、現実にはその境地になっている期間が短い。すなわち100%肯定感の期間は一般的にはそれほど長続きしないのが実態です。

 その理由は、この段階が見性入理の段階であって未だ見性の境涯が身についていないのです。すなわち見性した直後は、文字通り自己が大日如来になりきっており天地と我と同根を確信しており、その間は自分の未熟なことなど目に入らない状態です。そして山川草木禽獣虫魚悉皆成仏ですから、一見ですが100%嬶まんがいい状態です。この状態は三昧を通じて絶対の境地にどっぷりと浸かって居て、差別の世界が見えていない状態です。すなわち見性入理の段階は極めて偏狭な立場でしかないのです。これは自分一人では気がつきません。ここに正脈で明眼の師が必要になります。生命科学者の柳沢桂子さんも見性だけは独自の研鑽でなされましたが、そこから先へは誰もがそうなのですが自分だけでは自分の不十分さが判らないものですからそれ以上の向上は無理です。

 臨済宗の正脈の師家の下に人間形成の修行をしている者には、師家がその偏狭さを改め修正するための公案を学人に与えて、少しずつ差別の妙所を徹見させて導くという次の第三段階へ向かって進むということになるのです。(つづく)

 

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