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2019.06.03 Monday

見えない修行(その2)

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見えない修行(その2)

丸川春潭

 初関を透過し道号を授与された1年くらいの期間が人間形成の修行において最も大切な時期であり且つ危ない時期であり、見えない修行の必要な時期であることを先のブログで書きました。

 その次には、見性から歩を進めて行くと瓦筌集142則「五蘊皆空」と云う則があります。見性入理では想像もできない細やかな人間の精神構造が明められ、その五蘊の性格を明確に理解するとともに五蘊を空ずる方法を室内の商量において会得するのです。これはインドから中国へそして日本へ伝えられた最も素晴らしい仏教の法財の一つであり、般若心経の柱になっています。この五蘊を毎日毎時毎分毎秒において空じて行くのが見性悟道というのです。そしてこれにも見えない修行が欠かせないのです。いくら室内で透過しても、一日一炷香を含めた見えない修行がなければ五蘊を空ずることはできませんし、見性悟道が練られないということになります。

 ここはまだ見性悟道の段階ですが、次の見性了々底の段階では更に徹底した見えない修行が必要になるのであり、この見性了々底の境涯を我が物にするためには在家禅者といえども僧堂禅と全く同じように、しっかりした聖胎長養が不可欠であります。

 見性了々底において悟了同未悟という言葉があります。少し修行をしていると誰でもが知っている言葉ですが、理で判るということではなく、200則の公案を何度見直そうが、どんなに法理に明白になろうが聖胎長養すなわち見えない修行がきちっとできないかぎり悟了同未後の境涯にならないし、従って人物はできあがらないのです。

 見えない修行ができているかできていないかはその人の行履に正直に出るものです。例えばその人の人間関係を見てみると、利害関係とか会社での上下関係とか師弟関係とかを抜きにした時に、人の繋がりが多いか少ないかに歴然と現れます。世間の肩書きでの繋がりではなく、老若男女貴賤を問わず人種を越えて人としての繋がりの多さ少なさは、人となりを写し出すのです。

 これはわれわれの修行においても同じで、新到者である現代の若者と接して彼らに自己の感動を伝え、彼らの菩提心に火を点ずることができるかどうかはその人の器量に架かっているのです。これは道号授与されたばかりの新参の者から師家まで同様であり、新到者を引きつけ修行に誘うことができる人とできない人とがあります。もっと言えば旧参の者が上から目線でガミガミとやるような支部では人間関係で修行から遠ざかる人が出たり、新到者がリピートしないというケースも散見されます。こういう旧参も結局は見えない修行が出来ていないせいで、独善になってしまっているのです。

 利害関係抜き、上下関係抜きで人に慕われたり、付いて来させられる人間的魅力があるかどうかは、生涯的な長いスパンで見ると歴然として来ます。見えない修行は結果としてはっきりと見えるということになります。それを人徳と言い「人の香り」と呼ぶのです。昔から「徳は孤ならず」という諺がありますがこのことを言っているのです。合掌

 

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