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2019.06.15 Saturday

「道力(胆力)を付けるには」(その4)

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「道力(胆力)を付けるには」(その4)

丸川春潭

 前報で、数息観の評点について説明をしました。今回はいよいよ「道力(胆力)を付ける」核心に迫る、道元禅師の只管打坐(無念無想の観法)について、数息観法と比較しながら説明します。

 只管打坐(無念無想の観法)は、数息することもなくまた何かをイメージすることもなく唯ひたすらに雑念を切る(頭頂葉の動きを止める)座禅行であり、日本の曹洞宗の開祖である道元禅師の提唱された座禅観法です。これはダイレクトに頭頂葉を止めにかかるだけに、長年にわたって瞑想とか数息観を修した人でないと全く歯が立たないツールです。瞑想なり数息観を数年やった程度の瞑想の経験年数が短いと、この只管打坐のやり方を試みたとしても形だけはできても内実は雑念が絶えることなく三昧には到らず、只管打坐の妙味を味わうことはできません。

 数息観法で云えば、中級以上(厳密な基準で1から10が雑念無しに完璧に数息できる70点が常にクリヤーになるだけのレベル)にならないとその素晴らしさは判らないでしょう。小生の現在の実践においても、一炷香の中でも最初は数息観によって集中力を高めて(75点以上)から、はじめて只管打坐(離息観)に移行するようにしています。そしてこれを耕雲庵英山老師の『数息観のすすめ』に当てはめますと後期数息観法に該当し、この後期数息観に呼吸を数えないが呼吸を意識する正息観と全く呼吸を意識しない離息観があります。耕雲庵英山老師老自身で白状されておられるような「人間として生まれてきた甲斐があったワイ!」という素晴らしい妙境がそこにあります。

 臨済宗は数息観で曹洞宗は只管打坐だというような枠は人間形成の禅にはありません。人間形成も最終的にはこの只管打坐の奥の院まで到りそしてこれを何度も何度も繰り返すことによって人間形成が仕上がると言ってもいいもので、人間禅での200則の公案修行が一通り終わってからの聖胎長養の時に打って付けの観法であると思います。

 ことほど左様に、「道力(胆力)を付けるには」ある意味どんな道でも良いから安易なやり方ではなく文字通り克己して長年にわたり継続すれば振り返って自ずと道力(胆力)が付いて来ると言うことです。

 蒼龍窟今北洪川禅師曰く、「修行は数息観で始まり、数息観で終わる!」と云われておられます。瞑想法もテーラ・ワーダもおそらくしかり、どんな方法でも良いのですが、頂点を目指すには一生をかけてなだらかな麓から徐々に力を付けて最後の急峻な頂きに挑戦する、その戦略性と謙虚さと直向きさが必要であります。

 このタイトルでは今回の4回で終わりですが、荻窪摂心会でのもう一つの法話「道眼(胆識)を付ける」で見性とか公案修行について次にブログしたいと考えています。合掌

 

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