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2019.06.18 Tuesday

「道眼(胆識)を付けるには」(その2)

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「道眼(胆識)を付けるには」(その2)

丸川春潭

 公案修行は、公案の数を多く見るのが目的ではなく、公案を手がかりにしてちっぽけな自分という殻を破り、自意識などで濁った眼の鱗を落とすための修行です。

 公案というものは全て非常識なもので頭頂葉(知性)では理解しがたいものです。この公案に対する真正の見解は知識の引き出しをいくらかき回してもそこにはありません。公案に込められた宗旨や境涯に公案三昧になって近づいてゆき、公案と一体になれば自然と見解は見えてくるものです。これは全て絶対樹の場で行われることであり公案の宗旨も境涯も前頭葉(感性)で悟るのです。世に「公案解答集」の類いが出回っておりますが、何らかの手段で公案の見解を外からの情報で知り得たとしても知識が増えただけであり相対樹は充実しますが、そんなものでは人間形成は一歩も進みません。公案修行は公案に対する見解を知性で言い当てようとするのではなく、公案に込められた祖師方の深く高い境涯に感性として迫ってゆき、その境涯に自分の境涯を高め近づけることに意味があるのです。実はまたそれが取りも直さず公案透過の秘訣というか王道なのです。公案修行は公案透過が目的ではなく、どう公案を透過するかの過程(プロセス)が大切であり、このプロセスを真摯に修行することで人間形成が進むのです。すなわちこの公案透過のプロセスにおいて前頭葉が活性になり道眼(胆識)が開かれるのです。師家はその邪正を判別するだけでそれを悟るのはこのプロセスの中で本人自身が前頭葉を活性にして悟るのです。

 道眼を開くとは初関を透過することを指し、道眼を磨くとは後悟の公案修行によって差別の妙所を一つ一つ明らかに掴んでいくことを指しております。そしてまた公案修行の全貌を見性入理・見性悟道・見性了々とも云っております。

 臨済禅の世界宗教界に冠たるところは見性入理だけに留まらないで更にその後の見性悟道・見性了々まで、人間形成を完成させる行程が完備していることです。

 その全貌を申し上げるにはブログででは紙数が足りませんが(拙著『人づくり肚づくりと禅』に少しは掲載しています)、最初の見性入理についてもう少し次のブログで説明いたします。(つづく)

 

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