丸川春潭
この禅語は、磨甎庵老師も揮毫されたことがありました。最近、お茶人で人間禅の会員の方が、ご自分の茶室の床に掛け軸として掛けられておられたのを見て懐かしく思い、じっくり味わってみたいと思いました。
ネットでググりますと、「臨済禅師の言葉をまとめた語録「臨済録」には「無事是貴人、ただ造作すること莫れ、ただ是れ平常なり」とあります。 どういう意味かの解説は、「どんな境遇にあっても、あたりまえのようにこなしていける人こそが貴ぶべき人である」ということ。」。(2020/11/29)と出ています。これは、執筆者の名前がありませんが、通俗的な解釈であります。
次に、臨済・黄檗 禅の公式サイトの禅語「無事是貴人」:(『白馬蘆花に入る』細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊より)がありましたので、引用します。以下は、細川景一和尚(日本の臨済宗妙心寺派の僧侶。元同派の宗務総長、元学校法人花園学園理事長、花園大学学長、花園大学国際禅学研究所所長(兼任)、財団法人禅文化研究所理事長、所長、東京都世田谷区の龍雲寺住職。)の文章と考えられます。
「『臨済録』にある有名な語です。歳末が近づくと、どこの茶席にもこの語が掛かります。この一年間、たいした災難にも遭遇することなく、無事安泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わすと同時に、師走しわすといわれるほど忙しい年の瀬であっても、決して足もとを乱すことなく、無事に正月を迎えられるようにと祈って、この語を重用します。
しかし、禅語としての「無事是れ貴人」の意は少々違います。無事とは、平穏無事の無事でもなく、また、何もせずにブラブラすることでもありません。無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。貴人とは「貴族」の貴ではなく、貴ぶべき人、すなわち仏であり、悟りであり、安心であり、道の完成を意味します。
私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分違たがわぬ純粋な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性というものがあります。それを発見し、自分のものとすることが禅の修行であり、仏になることであり、悟りを得るということです。私たちは、得てしてそれを外に求めてウロウロするのが現実です。
「求心歇む処、即無事」と、臨済禅師は喝破かっぱします。求める心があるうちは無事ではありません。「放てば手に満てり」という言葉がありますが、「求心歇む処」が無事であるのです。その無事が、そのまま貴人です。
「ただ造作すること莫れ、ただ是れ平常なれ」と、臨済禅師は無事を詳解します。「面倒くさい」「むずかしい」の反対語に「造作なく」という言葉があります。当然のことを造作なく当然にやることが平常であり、無事というわけです。いかなる境界に置かれようとも、見るがまま、聞くがまま、あるがままに、すべてを造作なく処置して行くことができる人が、「無事是れ貴人」というべきです。(以下略)」
次に、臨済宗大本山 円覚寺HP(2011.07.10)として、「無事是貴人 」がありましたので、引用します。
「「管長(横田南嶺禅師)様が日曜説教会で提唱されたことをまとめてみました。 「無事是貴人」これは、臨済語録に出てくる大切な言葉です。では、どういう状況を「無事」というのでしょうか?それは、臨済禅師の言葉で言えば、求める心がやんだとき。もう何も求めない心をいいます。 私たちは、常に何かを求めながらこうして暮らしています。幸せ、財産、知識、仕事、愛情などみなそれぞれ何かを求めているかと思います。臨済禅師が目指すところ、究極の目的は私たちが仏様になることであります。私たちがこうして命ある間に立派な人格を完成させると申し上げましょうかそういうことです。道を求めるとは、仏様になる道を求めることに他なりません。 臨済禅師が「求めるな!」というのは、求めることをやめろというわけでなく、もうあなたは(今のままで)もう求めなくても十分足りているんだよということであります。 それでは、(こんな私たちでも)何が十分足りているんでしょうか?外に向かって、自分の外に仏様がいると思って求め回るその心を断ち切りなさい。それができたなら、あなた方一人一人そのまま仏である! では、仏様とはどういうものであるか? 臨済禅師曰く、今ここで、こうして話を聞いているそれこそが仏であると。 ここで今皆様方が暑い中、話を聞いてくださっている、その聞いているものが仏様ですよ。と。目で見る、耳で聞く、舌で味わう・・・、この働きは、一秒たりともとまったことはない!これこそ仏であると気づく。その人こそ「無事の人」と呼ぶのであります。 命あればこそ、目で見、耳で聞くことができる。その命こそ仏様の命である。それ以上にすばらしいものはない!(以下略)」
最後に、如々庵芳賀洞然老師のご見解を『新編一行物』芳賀幸四郎著淡交社出版より要約して引用します。
「・・・当たり前のことを当たり前にやることである。これは「無造作」に通じ、無造作に法爾自然に行ずること、それがここに云う「無事」の意味である。ただし無造作と云っても、修養もせず場当たりに勝手気ままにやることではない。厳しい修行をして転迷開悟の実を上げ、さらに悟後の修行を積んで悟りの臭みを抜き去り、こうして到りえた迷悟両忘・洒々落々の境涯から、あたかも水の低きにつき、春到って花がおのずから開くように、なんのはからい心もなく自然にはたらきだすことである。・・・「貴人」とは、無作無心の高貴な境涯に体達した人、大解脱をした人を貴人というのである。」
以上ご高名のお三方のご見解を拝見しました。細川景一和尚は、要約しにくいのですが、五蘊を空じている人を無事是貴人とされているのかと推定します。横田南嶺禅師のお説は、即今聴法底の人が無事是貴人と云われていますので、見性した人を指しておられると考えます。これに対して如々庵洞然老師の見解は、迷悟両忘・洒々落々の境涯に到った人を指しておられます。小生には、如々庵老師の解釈が抵抗なくスーと入るように感じました。これはまさに耕雲庵老師の人間禅の法の扱いそのものであります。
禅語の解釈・味わい方は、どれが正しいとかというものではなく、それぞれの見地や見方があって良いのです。公案がそうであるように、深く看る見方とか浅く見る見方とかありますが、深いのが良いというものではないのです。
小生の解釈は、如々庵老師の申される迷悟両忘・洒々落々の境涯に到った人が「正念相続している状態」にあるときに「無事是貴人」であると考えております。このカギ括弧の蛇足をあえて付けたのは、自分の日常での反省からであります。迷悟両忘・洒々楽々の境涯というものは、識大級になったから、師家分上になったからと云って、事の上において常に生き生きとその境涯がキープできているかとなると容易ではないのです。
ことほど左様に、この禅語の真の味わいは、禅者が人間形成の究極として目指すべき境涯を文字にしたものであり、反省してあまりある名句であると小生は味わっておる次第であります。
]]>
丸川春潭
数年前から考えるところがあって、再び大衆と三食とも一緒に食事しています。その理由についてはまた後日触れるとして、一緒に食事をすることにおいて気づいたことがありましたので、そのことについて記しておきたいと思います。
食事の前には、三食とも食前の文を唱えるのですが、以前にはあまり感じなかったのですが、斉唱するということはなかなか難しいというか、面白いというか、修行の一つとしてとらえるべしであると気づきました。
家に居ての小生は朝坐の後に家内と一緒に読経(開経偈、懺悔文、般若心経、観音経、四弘誓願文、三省願文)を唱えています。読経時間は5〜6分ですが、20年前と昨今とで読経中の雑念は激減しましたが、まだ皆無にはなっていません。二人の読経は、斉唱のように合わせるという意識はなく、息継ぎなどの時にはお互いに補完し合っているような感じで唱えています。そして般若心経とか観音経の読経はその意味を考えることなくひたすら唱えるだけです。数息観坐禅の後の読経はなかなか良いものです。
これに対して、「食前の文」はその含意を噛みしめながら唱え、そして『食前の文』には、「一つ・・」が5回あり、「・・云く」が5回あり、「・・・と、」が5回ありますので、余ほど食前の文に集中していないと間違いやすいものです。読経の場合は間違えることはないが雑念は入りやすく、食前の文は間違えやすいが雑念は入りにくいのです。それは食前の文には意味があるから雑念が入りにくいのです。
20代後半のころの昔話になりますが、岳南道場の昼食の食事が一人になり、しかも食堂のふすま越しが隠寮で老師がそちらで食事されているときに、一人で食前の文を唱えなければならなかった時がありました。入門して5年以上たっていましたので、当然食前の文は諳んじていましたが、緊張しました。そして気合を入れて一人で唱えましたが問題なくできました。まだ三昧力があまり身についていない段階でも一人で間違えずに唱えることはできるものです。
しかし、斉唱としてみんなの声を聞きながらみんなに合わせて唱えるとなると、唱え間違いを起こしやすくなります。斉唱を意識すると食前の文の含意を噛みしめることがおろそかになり、先に述べたように「一つ・・」、「・・云く」、「・・・と、」のところで間違えるのです。(横道に知れますが、食前の文や坐禅和讃のように、読経斉唱時の息継ぎは一斉にせず、読経が途切れないようにするようにと先輩から教わりましたが、新しい支部ではブツブツ切れた読経になっているので支部長は指導願います。)
がむしゃらに唯我独尊的に傍若無人な独唱は間違えないのですが、斉唱として他の人の唱声を聞きそれに調和させながら、しかも唱文の含意を噛みしめることもやりながら唱えるとなると、結構難しいことになります。すなわち正しく食前の文を斉唱するには、余ほどしっかりした正念相続がなければならないのです。
昨年夏から吉祥庵ご夫妻にならって、自宅にいるときは朝6時半のラジオ体操をすることにしました。摂心会中は従来からやっていましたので、365日欠かすことなくラジオ体操をすることになりました。このラジオ体操もボケッとしてやっていると、最後の手足の屈伸から深呼吸のところで、第一と第二がこんがらがることになります。体操以外のことを考えることはもとより、ボケッとする精神的空白が原因です。
人間形成は、摂心会とか参禅会の参禅のみならず日頃の一日一炷香が大切であると云うことは言うまでもなく周知のことです。しかし、こういうラジオ体操やスクワットのような日常のルーティンになっているような行動において、また摂心会で一日三回唱える食前の文の斉唱を正念工夫の格好の修行時(どき)と捉えて実践するとどんどん力が付きます。また提唱前の坐禅和讃、入会式、道号授与式等での機会なども同じです。
日常の卑近な繰り返す行事をおろそかにせず、ひとつひとつの行動を正念相続研鑚の場ととらえて真剣に取り組んでいる人はあまり多くないように思います。こういう目に見えない工夫を継続する人は必ず大成します。人間形成の場は、参禅弁道や一日一炷香だけではなく、卑近な行事を真剣に取り組むことの積み重ねが大切なのです。特に在家禅者にとっての人間形成の禅は、卑近な日常の一つ一つが真剣勝負の場に他ならないのです。これは今を大切に生きることでもあります。食前の文は、食事というメインの前の導入行動ではありますが、そこが修行のまっただ中であると同時に、そこが人生のメインなのです。合掌
]]>
丸川春潭
この「掛け替えのない一日」という語句は、世間でもよく使われているフレーズであり、自分でもこれと類語的な「貴重な一日」とか「二度と来ない一日」とかを使って語ったり書いたりしてきました。また「一日過ぎれば、余寿命が一日減ることになる」も同じであり、だから「一日を大切にし、有意義な一日に」と考えるのです。
格言として「ローマは一日にしてならず」というフレーズがありますが、これはスペインの作家セルバンテスが「ドンキホーテ」で書いたものであり、「大ローマ帝国も、一日一日の積み重ねが長年月継続されてできた」というところから、大事業を成すには一日一日の努力の積み重ねが必要だという意味をこめて格言になっているのです。人間形成も一生かかってやる大事業であり、まさに一日一炷香の積み重ねを長年月にわたって継続することによって大成するのです。「人は、一日一炷香せずして成らず」であります。
表題ののフレーズ「掛け替えのない一日」に対する解釈は、上記のような解釈で自分も含めてみなさん異論は無く、それ以上のものでもないと考えていました。しかし、最近の自分自身の反省といいますか感懐として、このフレーズに対する認識が以前と変っていることに気づきました。すなわちこのフレーズの今までの認識は皮相的であったが、最近はこのフレーズにもっと深い含意を感じているのです。
耕雲庵英山老師が晩年、「一日一日がまことに有難い、人間として生まれた甲斐があった。」と述懐されておられたのを思い出します。また磨甎庵老師は、「一日一炷香は、一炷香が一日なんだ!」と提唱されたことを思い出します。いずれも40年50年も昔の小生の若かりし時であり、その当時はそれなりにそういうものかなとあまり深くは掘り下げずに受けとめ、記憶の奥の方に隠れていました。。
しかし最近になって、これら先達の述懐や垂示がまた蘇って身近に感じられるようになってきました。すなわち「ローマは一日にしてならず」を始めとした人口に膾炙されている「一日」に対する認識レベルと先達の申された「一日」の認識レベルに大きな差異があると気づきました。そしてその違いは、次元の違うものであると。この違いの説明は容易ではないのですが、次のいつもの図をもって絵解きしたいと思います。
世間で使われている「一日」の意味する場所は、相対樹の中での一日であり、先達の「一日」は絶対樹の中に位置づけられる一日であります。まさに相対場と絶対場という異次元の違いがあるのです。相対場での一日は、一年365日の中の一日であり、時間の長さとしての一日であり、一年の365分の一(1/365)であります。「貴重な一日」「掛け替えのない一日」などの一日に付く形容詞にいくら想いを込めても、時間すなわち24時間の一日の範疇から大きくは出ていません。
絶対樹の一日は、時間軸という尺度からフリーになった一日であり、永遠の一日と言ってもいいものです。磨甎庵老師の「一日は一炷香である!」における一日は絶対樹の場での一日であります。したがって一日中において一炷香の深い坐禅三昧が継続されているという恐ろしい垂語であります。
耕雲庵老師の「一日一日が有難い。」は、絶対樹に踏み込んでいるばかりではなく、相対樹にも片足が残っており、その絶妙な一日であると推察します。禅的に法理的に云えば正偏回互三昧の一日であります。それを噛みしめて生きていることこそ有難しであり、生まれてきた甲斐があると云われている由縁であります。
小生も来月の三月には満84歳になり、まさに老大師が述懐された年になります。日本人の男性の平均寿命を過ぎたわけですから余寿命としての日数が少なくなってきたことは確かですが、ここでは寿命の残り少ないから一日一日が貴重な一日であると考えているわけではありません。先達の申されたことがまことにその通りだなと納得でき、自分なりに一日一日を「掛け替えのない一日」として噛みしめ味わえるようになってきたのです。
日常のいつもの朝のルーティンが、朝のお茶席が、平生の家族との食事が、天気の日に出かける小一時間の散歩が、夜のルーティンが、また参禅会や摂心会に出かけるいつものことが、その一つ一つどれもが有難い「刻」なのです。
一会一期は人口に膾炙されている語ですが、自分の平凡な日常の一コマ一コマが一会一期なのです。その一コマに 対するべき人が居ようがいまいが、その「刻」その「場」が一期一会です。「掛け替えのない一日」に今日も恵まれ、有難いことであります。合掌
丸川春潭
最近、岡山の英香禅子から「両鏡相照」を掛け軸にしたから、意味を解説して欲しいと依頼されました。少し考え味わってみたいと思います。
小生が、「両鏡相照」で印象深いのは、人間禅本部道場内の剣道場に掲げられている次の写真の人間禅第二世総裁妙峰庵佐瀬孤唱老師の揮毫であります。この剣道場は妙峰庵老師が作られ、初代師範として無得庵小川刀耕老居士が任命されて始まった剣禅一味の歴史的なメッカであります。
この無得庵が、剣道講話の中で「両鏡相照」について触れられています。昭和55年4月『小川忠太郎先生剣道話 第一巻』より、「・・・もうひとつ大事なのが「分担」。【両鏡相照らす】というあれだよ。自分だけじゃない。自分もあれば社会というものもある。二つのものでね、二つのものが一つ。「両鏡」だよ。」
耕雲庵英山著『新編碧巌集講話』第八十二則「老牸牛来」に、「両鏡相照」の語が出てきます。「挙す。劉鉄磨 潙山に到る。山云く、老牸牛 汝 来るや?磨云く、台山に大会齊あり。和尚 却って去るや?山 身を放って臥す。磨すなわち立ち去る。」、に対する圜悟克勤禅師の評が次である。【この老婆 他の潙山の説話を会し、絲来たり 線去り、一放一収 互いに相い酬唱す。両鏡 相照らして影像の観るべき無きがごとし。機々相い副い、句々相い投ず】と。ここに「両鏡相照」の語が出ております。そしてこのやり取りを、耕雲庵老師は「父子唱和」の宗風と評されています。
また、白隠慧鶴禅師が「両鏡相照」を言い残されています。槐安國語「思問希遷」の則における大燈国師の偈頌に対して、白隠禅師が「評」で、「青原父子相見、唱拍鼓舞の間、明頭に暗あり暗相を以て見るべからず、暗頭に明相を以て見るべからず。頭々取捨無く、処々向背なし。鬼神も測ることを得ず、魔外も窺うこと能わず。両鏡相照らして中心影像無きに似たり。」と言い、【両鏡互に相照らす 中心影像無し】と下語しています。
この白隠の下語に対して磨甎庵老師は、「毛一筋もとどめない明鏡と明鏡とが、互いに照らし合って、私念というものによる隔てがない。」と評されています。
以上、三人の達人の「両鏡相照」を引用しましたが、宗旨のニュアンスの違いはありますが、正鵠を射ていると思います。
「両鏡相照」は、相対した二人が共に「宝鏡三昧」に入って対峙している状態と考えます。「宝鏡三昧」は一人でもいたり得る深い三昧鏡ですが、「両鏡相照」は二人で「宝鏡三昧」になっているのです。剣道において名人と名人が真剣を持って相対している時にも両鏡相照といえるし、師弟共に法の淵源を極め尽くした禅者の対峙は、やはり両鏡相照であります。両鏡すなわち相対する二人の三昧が極めて深いと言うところが肝要なところです。まさに宝鏡三昧で二人が相対峙しているのです。この宝鏡三昧は、十牛図でいえば第八「人牛倶忘」に該当すると考えます。またこの三昧の深さを数息観で云えば、老大師定義の後期数息観であり、忘息観(数息観評点で云えば、83点)であります。
「両鏡相照」の解説はこんなところですが、本来この語は説明したり解説したりすることはできないのです。禅の境地を言語で聞いたり読んだりしても、理で判るだけであり、納得には遠して遠しであります。自分で脚実地にその境涯に到らねば真に判るものではありません。数息観坐禅を、年月を厭わず続け深めて行くことによって、初めておんのりとその境涯が判るというものであります。
丸川春潭
この句は、耕雲庵立田英山老師(俳号:幽石、通称老大師)作の『句津籠』に写真入りで収録されており、1966年3月 73歳 中国道場(現岡山道場)と注書きがつけられています。
この写真は、今年の岡山道場での新年互礼会の時にスマホで撮ったものです。この写真の句碑の手前に風呂場があり、風呂場から5,6歩出たところがこの写真です。そしてこの写真の左上の坂を上って行くと隠寮になるという位置関係であります。風呂場までとなっていますが、風呂から出られてこの坂をゆっくり登って行かれたときの句だと考えています。
小生がこの道場に摂心会とか参禅会で来たときは、風呂に入った後に、老大師の足跡をなぞるように隠寮に向かって坂を上って行くのですが、57歩では無理で60歩くらいになります。老大師は、若いときは登山家であり、足腰が強く歩幅が広いのだと思います。
この句の鑑賞ですが、霧のように細やかな春雨の中、風呂から出てゆっくりと隠寮に帰って行く、その距離が歩数で五十七歩あった、ということをそのまま描写されているのです。情景が彷彿とし素晴らしい句であり、老大師の句集『句津籠』の代表作であると私は思います。
俳句の解釈と鑑賞は、それほど難しいものではありませんが、これを禅語・著語として味わおうとすると、これは容易ではありません。なぜならそれは老大師の境涯に迫ることになるからです。
五十七歩と数えられて坂道を帰られるその歩みは、経行そのものであり、動く禅の姿です。一般的な正念不断相続のことを老大師は、念々正念・歩々如是と深めて表現されておられますが、この句はまさに、念々正念・歩々如是を詠われたものであります。すなわち深い大宗匠の境涯を感んじ垣間見る句ではないでしょうか。
思い浮かぶのは、老大師の提唱録である新編『無門関』第四十六則「徳山托鉢」の一則を思い出します。「徳山 一日、托鉢して方丈に下る。雪峰に、箇の老漢 鐘 未だ鳴らず、皷 未だ響かざるに、托鉢して何れの処に向かってか去る? と問われて、山 便ち(無語 低頭して)方丈に帰る。・・・」 老大師は、「徳山が無語低頭して方丈に帰る」のところで、「寒毛卓竪す。」とか「恐れ入った。」とその徳山の境涯を深く承けがわれておられます。
表題の句の「五十七歩」はまさに、無語低頭して方丈に帰られた徳山と同じ深い境涯であると思います。「風呂場まで五十七歩や春の雨」は本当に恐ろしい一句であり、この句碑の前を通る度に身の引きしまる思いがあります。小生の個人的なパワースポットです。そしてこの句碑に対し法恩に報いなければならない念いを新たにする次第であります。(焚香 九拝)
禅語・著語を味わう(その26)
「寒月に研ぎ出されて塔佇てり」幽石
丸川春潭
門松も据えられましたので、新年の句を句津籠(耕雲庵英山老師 俳号幽石)から選び、味合わせていただきます。
この句は、1956年昭和31年正月に老師が詠まれた句です。
この句の添え書きに、耕雲庵老師は次の言葉を添えられておられます。
「両忘塔は、本部道場にあり、両忘老師生前の設計による。我が骨もやがては納められるべき奥津城なり。」
この掲題の句中の舎利塔は当然、両忘塔であります。
両忘塔に対する一般的認識は、秋の摂心会円了後の法要の際に両忘塔において法事が行われる場所との認識だと思いますが、それだけではなくもっと深い意味があると小生は考えています。そしてそれがこの掲題の句に込められていると思っております。
人間禅にある「追憶尋思簿」を見ますと、両忘老師の尋思簿には、耕雲庵老師自らが書かれており、概要は次の内容です。
「両忘庵輟翁 釈宗活 円覚寺派僧 両忘会総裁 師家分上 師家 昭和29年7月6日帰寂 初め蒼竜靴洪川禅師に参じ、後に楞迦窟釈宗演禅師につき剃髪受具、釈宗活と改め遂にその法を継ぐ。居士禅を挙楊し両忘禅協会を創設しその総裁となる。この老師なかりせば英山なく、この協会なかりせば人間禅教団なし。」と直筆でしたためられておられます。
両忘老師帰寂(1954年昭和29年7月6日)に際しての耕雲庵老師の句があります。
「師父逝けり梅雨雷もなきままに」 幽石
そして添え書きがあります。
「両忘庵釈宗活老師は、わが二十三歳の時より参禅し、三十二歳の時印可証書を賜りし恩師なり。七月六日八十五歳の高齢にて帰寂せらる。」
耕雲庵老師は両忘庵輟翁宗活(達磨大師法統第53世の嗣法者)の法嗣であることは周知のことですが、耕雲庵老師が「この老師なかりせば英山なく」と書かれ、更に「この協会(両忘禅協会)なかりせば人間禅教団なし」と明記されておられるということを噛みしめて見ると、現在の人間禅のわれわれにとって、両忘老師がそして老師の設計になる両忘塔がわれわれにとってもっと深く重いものと感じます。
人間形成の禅にとっての命は、云うまでもなく正脈の法であり、その僧伽すなわち人間禅にとっては、それが中心の大黒柱としてなければならないのは云うまでもありません。そしてその正脈の法は印可状でオーソライズされているのですが、それは人目の付かない宝庫の中に大切に保管されめったに日の目を見ることはありません。それに代わる伝法の印として両忘塔があると小生は考えます。
その根拠はこの掲題の句の添え書きであり、「追憶尋思簿」の耕雲庵老師の記載であります。まさに両忘塔は、人間禅の法統の象徴であります。
掲題の句は、1956年昭和31年1月ですので、両忘老師帰寂後約1年半経過での作句であります。
「寒月に研ぎ出されて塔佇てり」 幽石
両忘老師ご設計の両忘塔が寒月に照らされている様です。両忘老師の法恩を偲ぶお気持ちから更に深く広く、達磨大師以来1400年にわたって護持され継承されてきた大法が、ここに(人間禅に)厳然として継承されていることを謳われていると小生は味わさせていただいておりますが、いかがでしょうか。
この句の翌年(1957年昭和32年)の正月に詠まれた句があります。
「舎利塔に老松の影や年の春」 幽石
この句の添え書きは、両忘塔とだけです。
この句はまさに正月元旦の朝の句と思います。
舎利塔の重さについては既述したとおりであり、その上においてやはり「老松の影」を両忘庵老師の法恩として、そして更に深く広く今までの伝法の祖師方の法恩として、この句を味わいたいと思いますが、いかがでしょうか?
諸兄姉のご批判をお待ちいたします。合掌
丸川春潭
今まで「禅語・著語を味わう」が(その23)までになりましたが、その中で短歌は一つ、俳句は一つしかなく、ほとんどは漢語・漢詩であります。短歌とか俳句は、漢語とか漢詩とは違う日本人の作と云うことと、現代の地続きの時代の作であります。それだけにあまり先人の評がないということもあり、掘り下げて味わうには手がかりがないものです。しかし現代人に共感するものも濃く包含していると思われます。そこでこれからは、こういうジャンルにも努めて分け入ってみたいと思います。
家内(玉淵)から、伏龍庵惟精老師から送られてきた師家通信のハガキの中に表題の俳句があり、この句の解釈について問題提起されました。すなわち「狂はねば恋とは言はず寒牡丹」における「狂い」と一般社会における人に迷惑をかけたりまた法に触れる○○狂等とどう違うのかという問題提起です。これを朝茶の会話の中でだされたのですが、直ぐには応えられず、数日が経ちました。
「狂う」を、三省堂のスーパー大辞林で引くと、8項目の意味が出て来ますが、その最初からの四つを記載します。
? 精神の均衡を失う。
? 常軌を逸して熱中し、社会生活に支障を来すほどになる。
? 他の動詞の下に付けて、激しく○○する。
? 予測・予定と現実が一致しなくなる。
掲題の俳句の「狂う」すなわち、恋・恋愛について当てはめて考えてみたいと思います。恋に狂うは、上記の?、?と関係しており、場合によっては?にもなる、と考えます。
これをいつもの相対樹・絶対樹で考えて見ますと、「狂う」というのは、相対樹から外れるすなわち絶対樹に踏み込んでいるということです。恋はまさに絶対樹内のことであり、そうでなかったら恋ではありません。まさに「狂わねば恋とは言わず」であります。本来、恋は知性ではなく感性のはたらきなのであります。小説や漫画では、動物にも恋があるように書かれていますが、それは雄と雌のカップリングというものを擬人化しているだけで、人間と同じ恋をするとは考えていません。すなわち、動物の場合は本能に直結しているものであり、絶対樹(右脳、感性)に踏み込んでいる人間の恋とは似て非なるものと考えます。人間の恋は、本能も関与しますが前頭葉の感性がしっかり関与しており、恋は人間らしい行為であると考えます。
これを深めてゆけば人間探求として面白いテーマですが、「禅語・著語を味わう」から外れますので、ここではテーマ出しに止めておき、別途「恋愛と禅」とでも題してそのうち論じてみたいと思います。
表題の俳句「狂はねば恋とは言はず寒牡丹」に還って、あらためてこの句を味わってみたいと思います。
「狂わねば」がこの句の特徴であり、肝であると思います。そして世間的な狂いではなく、全身全霊をかけたという気持ちがくみ取れます。そしてその気持ちの象徴が「寒牡丹」なのです。すなわち、自分の熱い想いが寒牡丹に凝集されているのです。
寒牡丹を寒さに毅然として対峙していると見、また純真に精一杯にそして儚く美しく生き抜いている自分を投影して見ているのです。自分則寒牡丹・寒牡丹則自分になり切っているのです。それは狂っている(相対樹を超えて絶対樹に入っている)からそうなり切れているのです。
現代は冷めているばかり、相対樹の中ばかり、仕事にしても、付き合いにしても、家庭生活にしても。テレビも軽薄な話題と笑いで一見盛り上がっているだけで感動が置き去りになっています。「狂はねば恋とは言はず寒牡丹」は、現代人に対する警鐘ではないでしょうか?
]]>丸川春潭
コロナ蔓延の時に、血液中の酸素飽和度を測るパルスオキシメーター(以下POM)が普及しました。自分は、遺伝的な喘息持ちであり、かつ気管支狭窄症ですので、平生から赤血球が少なく、このパルスオキシメーターは、常に人より低めに出ます。したがってコロナに罹患すると重篤な肺疾病になる可能性が高いと云うことで、POMを使ってコロナが始まって以来、平生においても色々な生活の場面場面で測定してきました。
特に坐禅時のPOM値(動脈血酸素飽和度)の測定には興味がありました。この坐禅時の脳についての関心は、本庄慈眼慈眼先生の「お釈迦様の脳」の研究に触発されたからであることは云うまでもありません。先生からいただいた情報で絶対樹(前頭葉)と相対樹(頭頂葉)を創って、常に禅と脳の関係について考え、またみなさんにもお話ししてきました。それに加えて小生の性格として、数息観の評点にしてもそうですが、数値化するのに興味があるのが相乗して、このPOMの出現はわんぱく小僧にガンダムをやったようなもので、常に弄んでおり、その一貫として数息観坐禅の前後も含め何度も測定しました。
いくつか想定を超えた事実が判明し驚いています。何度も測ったのは結果が以外であり想定を超えた数値が出るので、本当かどうかを確認するためでした。以下に実験結果について整理し記載します。何度も何度も測定を試みましたが、以外とばらつきは少なくいつも安定した再現性の良い数値を示しました。(先述したように、小生は普通の人よりPOM値が1〜2は低く出ますので、絶対値に注目せずに、値の変動差に注目して見てください。)
朝目覚めて寝たままでほとんど体を動かさない状態での測定:POM値:94
朝起きてから坐禅までの普通の行動(顔を洗ったり、トイレに行ったり、着替えたり)をして坐った直後:POM値:95〜96
座布団の上に静かに坐った状態(坐禅に入る前)、坐禅開始前:POM値:95
数息観坐禅(腹式呼吸)30分経過後:POM値:93
注目すべき点は、坐禅時が睡眠時よりもPOM値(酸素飽和度)が低いことです。これは想定を超えた意外な結果です。この理由の探索ですが、坐禅時は呼吸が長くゆっくりになり、空気の吸入量が少ないのではないかという観点があります。これについては、小生の平時の呼吸数は15回/minに対して坐禅時は12回/min.と2割くらい呼吸数が少ないのですが、腹式呼吸で吸い込む量はアバウトですが平成時より5割は増えていると推定され、1分間あたりの呼吸で吸い込む量(回数✕一回の吸い込み量)を比較すると、坐禅時の方が多くなり、上記観点(懸念)は当たらないと考えられます。
次に呼吸法について詳しく見ますと、平時(食事したり仕事をしたりして呼吸を意識していない時)が胸呼吸であるのに対して、坐禅時の呼吸は小生の場合、完全な腹式呼吸になっています。平時の胸呼吸時は、腹は脹らみも凹みもせず、胸骨が脹らむだけの呼吸であるのに対して、坐禅時は胸骨の脹らみは全くなく、横隔膜を意識的に上げ下げして腹が脹らんだり凹んだりの呼吸になっています。ほとんど肋骨は広がらず、胸呼吸はほとんどしていないと思います。そこで実験的に、意識して数息観坐禅を腹式ではなく胸呼吸に切り替えて数息観をしてPOM測定をしますと、5分くらいでも97〜98まで跳ね上がります。この間における吸う息の量は胸呼吸が主体で腹式呼吸も付随的にしていますので、平時に呼吸を意識しない生活の時より呼吸量は相当(1.5倍くらい)多くなっています。腹式呼吸と胸呼吸の差があるとは思っていましたが、こんなに大きいとはと驚きました。
POM値で整理しますと、坐禅で意識して胸呼吸をする場合は平時の呼吸を意識しない時より高い。坐禅で意識して腹呼吸をする場合は、平時の呼吸を意識しない場合のみならず、通常の睡眠時よりも低くなるということになります。
以上の考察から、腹式呼吸は同じ呼吸量でも酸素の吸収が低いと結論されます。
傍証ですが、以前から坐禅時(腹式呼吸)に、たまに胸呼吸が自律的に入ることがあります。長年の経験ですが何故なのか不思議に思っていましたが、POM測定でこの疑念は氷解しました。すなわち、これは自律神経が血中酸素不足を察知して、自律的に胸呼吸を起こし、酸素の補填をしているのではないかと考えます。
もう一つの傍証ですが、兵児帯を下腹部に強く締めるとか、ゴムのきついパンツを履いて坐禅をすると、通常の量の空気を吸い込もうとしても横隔膜を下げて空気を吸入できないことになります。このときは自動的にその足りない呼気分だけは胸呼吸が自然に少し加わるのです。小生の朝は大体着物で兵児帯になり、このケースになり勝ちです。こういう状態でPOM測定をしますと、93にはならず94〜95になってしまいます。すなわち腹呼吸にすこしでも胸呼吸が加わるとPOM値は直ぐあがり、平時の値になるということです。そして完全な腹式呼吸だけの場合のみ睡眠時よりも低くくなるということです。
胸呼吸と腹呼吸で酸素の吸収が大きく異なるのですが、これはあり得ることなのかどうか、合理的な考えなのかどうか疑問です。肺の専門家に聞かなければ判りませんが、素人の推定をしますと、呼吸で吸い込まれた空気は、肺の中の気胞に入り、毛細血管の壁を通して酸素を吸収し、同時に二酸化炭素を放出します。腹呼吸によって血液中のPOM値(酸素ポテンシャル)が低くなる理由は、腹呼吸の場合には胸呼吸に対して、肺に入った空気中の酸素が吸収効率が悪く、同じ空気量に対する吸収酸素量が少ないと考えざるを得ないのであります。肺の構造は、左肺は上葉と下葉、右肺は上葉、中葉、下葉に分かれており、胸呼吸の場合は全体に平均して胞胚に空気が入り、腹呼吸の場合は下葉の方に偏る(上葉の方には吸った空気が行かない)ことによるからと推定します。屁理屈的ですがいかがでしょうか。
次に別の観点ですが、なぜ酸素の吸収が悪い坐禅になってきているのかの疑問がでてきます。従来から坐禅は腹式呼吸が推奨であり、尻に座具を当てて下腹部を前下に向けて突き出す姿勢自体は、まさに腹呼吸をやりやすくする姿勢そのものです。酸素吸収の悪い坐禅姿勢でかつ酸素吸収しにくい腹式呼吸が長年推奨されてきているのか疑問であります。
数息観坐禅で三昧になると云うことは、本庄先生の示唆にあるように頭頂葉が不活性になり頭頂葉が活性になるということです。頭頂葉は慈眼先生も指摘されているように人間の知性を司る巨大なデジタルコンピューターです。
ここからはまた大胆な推定になりますが、この頭頂葉が活性であれば、相当な酸素を消費すると考えます。これに対して、坐禅をして活性になる前頭葉の方は、あまり酸素消費をしないのではないかと推定します。そうすると、坐禅三昧になるということは酸素消費の少ない状態になると云うことになります。
腹呼吸の坐禅をすると酸素の吸収が減りますが、酸素消費量の多い頭頂葉が不活性になり、前頭葉は活性になっても酸素消費量が少なければ、なにも問題ないということになります。問題がないというか、血液中の酸素濃度が下がると頭頂葉は不活性にならざるを得ないとも考えられます。そうすると腹式呼吸は、頭頂葉を不活性にしやすい呼吸法だと云うことになります。
また大胆な推定ですが、血液中の酸素濃度が低い方が三昧になりやすいということではないかと考えます。人間は考える葦であり、頭頂葉をoffにすることは難しいものです。在家禅者が一日一炷香で数息観をやって頭頂葉をoffにしようと日夜奮闘し文字通りの骨折りをしています。先人方も同じであり、この頭頂葉をoffにするために最も適した呼吸が腹呼吸であり、腹呼吸を容易にする姿勢が尻に座具を敷いて腰骨を起こして腹を出す姿勢に行き着いたのではないかと推定します。
剣道の古流の形に法定の形があり、その中で、腹呼吸を徹底させるところがあり、そのやり方に独自の工夫がなされていますが、これも頭頂葉をoff(押さえる)にするためとも考えられます。
先日岡山道場で慈眼先生にお目にかかり、この考察についてお話ししたとき、とにかく頭頂葉は大変な酸素消費機関であり、ありそうな話だと仰っていました。
人類が絶対樹の感性の文化を深める中で、先人が坐禅観法を取り入れ、腹式呼吸坐禅を工夫し編み出してきた経緯には、こういう生理学的な背景があったと考えるのですが、いかがでしょうか?諸兄姉のご批判をお待ちいたします。合掌
京都大学医学部名誉教授・人間禅名誉会員本庄慈眼先生にこの拙文をお送りしたところ、コメントの返信をいただきましたので、以下に添付させていただきます。
丸川春潬老大師様
論文拝見いたしました。医学論文を見る思いをいたしました。
私も常々呼吸と瞑想との関係に関心を持っておりました。
呼吸は唯一、意識下にコントロールのできる身体機能であり、
呼吸を介して逆に身体機能、ひいては脳機能をコントロールしようとする
先人の経験に基づく深い叡智を感じます。
御説の通り、脳内を低酸素状態に置き、畔を切り、
唯一その影響を受けないように前頭葉を輝かせて禅定に入る知恵を感じます。
お目にかかった折に、お話し伺うのを楽しみにいたしております。
本庄慈眼拝
]]>丸川春潭
この夏に小倉霊亀居士が転居し、そのお祝いに支部長の吉祥庵香水支部長以下が「和光同塵」の掛け軸(写真掲載)を贈りました。字は拙筆ですが、いつ頃になぜ書いたか忘れました。霊亀居士から、この意味を問われて、即座には三十年後には判るよと云っておきましたが、気にかかっていました。なかなか説明が難しいのですが、この際あらためてこの禅語を味わい、そして文字として表し遺しておきたいと思います。
先ずは、『茶席の禅語大辞典』有馬?底老師監修。、交社出版を見ておきます。 「訓読すれば、「光を和らげ塵に同ず」。自らの光を和らげて俗塵に同化する。智慧の光を隠して、煩悩に満ちた世界に身を投じて衆生済度に努めるさまをいう。出典は、『老子』の「其の光を和らげ其の塵に同ず」(みずからのやさいのうを名声はできるだけやわらげて俗世に同化するのがよい)であるが、古来、仏教者がしばしば引用して活用している。」
次に、如々庵洞然老師の『新編一行物』芳賀幸四郎著淡交社出版をしっかり押さえておきたいと思います。 「和光同塵――光を和らげて塵に同ず」というこの句は、『老子』の第四章及び第五十六章に「和其光、同其塵――その光を和らげ、その塵に同ず」とあるのを、仏教の方で活用したものである。・・五世紀のはじめには仏教用語として使用されていたことが知られている。 その意味は、「仏や菩薩が衆生を済度するにあたって、独り自ら浄しとしてお高くとまっておらず、悟りの智慧の光を和らげつつみ、衆生に住んでいる穢れの多い世界の中に入り、凡夫の相を現じ塵埃にまみれながら、衆生を次第に仏法に引き入れること」である。衆生済度の方便を説いたもので、「和泥合水」と同義である。 観世音菩薩が、その相手に応じてさまざまに身を現じて法を説き、済度するというのは、まさにこの「和光同塵」のはたらきの権化というものである。また一向に見栄えのしない風采で街頭をさまよい歩いた布袋和尚や、子供らと鞠つきをしたり、かくれんぼをしたという越後の良寛さんは、この和光同塵を実行した好例である。」
有馬?底老師、芳賀洞然老師のお二人とも「衆生済度の方便を説いたもの」との解釈・解説であり、ごもっともなご見解であります。これに対して、この解釈も確かにありますが、少し違った角度から看た小生の見解を述べます。
まずこの語を、仏教用語として解釈するのではなく、在家禅者にとってこの語がどういう意味になるのかという観点でを検証したいと思います。すなわち「仏や菩薩が衆生を済度するにあたっての方便を説いたもの」と解釈してしまうと、この語はわれわれの日常生活とかけ離れたことになってしまいますので、現代に生きる在家禅者として、この語を解釈し味わいたいと思います。
(この写真は、小倉霊亀居士の新居の坐禅床)
在家禅者の視点から見ると、仏や菩薩は高いところから済度の手を下ろすのではなく、市井の中に居ながら市井の人々を感化し済度するべしであります。そもそも仏祖釈迦牟尼世尊は生きた人間でしたし、この「和光同塵」を語った老子も人間であります。21世紀の現代における在家禅者が、和光同塵であるとはどういうことかと捉え、自分のこととして考えたいと思います。
「自らの光を和らげて俗塵に同化する。」「智慧の光を隠して、煩悩に満ちた世界に身を投じて・・」ですが、この中の「自らの光を和らげ」とか、「智慧の光を隠して」に先ず引っかかります。
釈迦牟尼にしても老子にしても、和らげなければならない光や隠さなければならない智慧があったら、それはおかしい。すなわち人間形成の淵源を究めた境涯は、そういうものは既にとっくに脱落しているはずであります。
次に、「穢れの多い世界の中に入り」「俗塵に同化する」「煩悩に満ちた世界に身を投じて・・」に引っかかります。この世を穢れと見、自分は清浄な世界に居るとの看方は、真の禅的看方とは相容れるものではありません。煩悩のない世界も煩悩のない人間もリアルなこの世にはありません。こういう看方は、悟了同未悟とは相容れない看方です。白隠禅師が申されたように「衆生本来仏なり」であり、煩悩即菩提であります。「穢れ多い世界」、「煩悩に満ちた世界」をそのままに世界楽土にしてゆくことを確信しているのです。自分自身の境涯が和光同塵になりきっていなければならないし、そうなっていないとできないことです。悟了同未悟は、決して上から目線ではありません。しかし何ものにもひるまない芯があり、火裏の蓮であります。
如々庵老師が和光同塵の例として、布袋和尚と良寛さんをあげられましたが、これに全く異議はありませんが、それを昔の偉人とするのではなく、布袋さんや良寛さんが現代に生きる一般社会人だったらどうするかを一歩踏み込んで考えなければならないと思います。すなわち、現代社会の中において和光同塵をしっかり捉え、それに沿ってどう実践すれば良いのかが考えどころであります。
あまり一般化せず自分たちの問題として、すなわち在家禅である人間禅者がこの現代社会においてどう振る舞えば良いのか?人間禅の師家として「和光同塵」をどう捉えどう実践するのか?であります。
従来の僧堂禅の師家であれば、有馬?底老師・芳賀洞然老師のお二方の解釈通りで良いかも知れませんが、在家禅である人間禅では、お二方の解釈では布教も救済も二進も三進もゆきません。僧堂禅的に師家が仏とか菩薩になりかわって上から目線で凡夫の「衆生を次第に仏法に引き入れる」という考え方では駄目だということはこの10年20年の人間禅の状況を見て明白です。自分が師家だという意識が些かでもあれば、現代人は近寄っては来ません。でき上がった組織の上に胡座をかいて待つだけでは在家禅はシュリンクするだけです。
悟了同未悟は理の上においては、しばらく禅庭の飯を食えば誰でも判ります。しかし事の上において悟了同未悟になり切り、実践することは至難のことです。識蘊を空ずるということを知ることはできますが、実践し切ることは至難であります。和光同塵も全く同じであります。まさに大燈国師は嗣法してから五条橋畔20年をされ、六祖慧能の法を継いだ慧忠国師は聖胎長養40年されたのはこのためであります。特にその任についている者は先人の跡をたどるべしであります。和光同塵になり切った実践こそが、現代社会での布教救済に求められているのです。
かって磨甎庵老師のお宅に伺いし、総務長としてオール人間禅の布教の実態を報告をさせていただいたことがありました。その時、磨甎庵老師は、「自分がおやじ(耕雲庵老師)に新聞とかインターネットでの広報についてご説明したら、老師はしばらくして、最後は人の香りだぞ、と仰った。」とお話くださったことを今でもはっきり覚えています。それから20年経ち、ネット広報でのHPが人間禅の玄関であると云われる時代になっていますが、玄関に出て応対する人すなわち担当師家なり支部長が和光同塵になり切っているかいないかが大切なところです。
あらためて、「和光同塵」はすばらしい語だと思います。そして恐ろしい語です。「和光同塵」に自らがなり切っているかどうかを自問し、未熟を恥じ入る次第であります。まさのこの語は嘗胆の語であります。合掌
丸川春潭
]]>丸川春潭
]]>丸川春潭
某居士から「和光同塵」の意味を解説して欲しいと依頼され、これは禅語の中でも最も解説しにくい部類の語なので、一年近く持て余していました。夏休みの一週間で何とか弁をつけてみました。偏った私見ですので、諸兄姉よりご指導をお願いします。
先ず、日本大百科全書(ニッポニカ) から「和光同塵」を引用します。
「光を和らげ塵に同ずること、すなわち、自らの智徳の光を隠して世俗のなかに立ち交じること。『老子』第4章、第56章に「其の光を和し、其の塵に同ず」として出る。それがのちに仏教に取り入れられ、『注維摩詰経』や天台の『摩訶止観』では、仏・菩薩が衆生教化のために、その本身を変じて応化の姿をとることをいうようになった。さらに日本では本地垂迹説に関して用いられるようになり、仏・菩薩が日本の神祇としてかりに姿を現すことをさすようになった。和光垂迹ともいう。
次に、『茶席の禅語大辞典』(臨済宗相国寺派七代管長有馬?底老師監修)を参照してみたいと思います。
「・・・自らの光を和らげて俗塵に同化する。智慧の光を隠して、煩悩に満ちた世界に姿をあらわすこと。仏や菩薩が、自らの優れた力を敢えてあらわすことなく、人間の世界に身を投じて衆生済度に努めるさまをいう。出典は、『老子』(自らの才能や名声はできるだけやわらげて俗世に同化するのがよい)であるが、古来、仏教者がしばしば引用して活用している。」
次に、人間禅師家の如々庵芳賀洞然老師(東京教育大学名誉教授芳賀幸四郎)の書かれた『新編一行物』ではどう解釈されているかをみます。
「和光同塵・・・光を和らげて塵に同ずる」というこの句は、『老子』に出てくるこの語を、五世紀の初めに仏教用語として活用したものである。その意味は、「仏や菩薩が衆生を済度するに当たって、独り自らを浄としてお高くとまっておらず、悟りの智慧の光を和らげつつみ、衆生の住んでいる穢れの多い世俗の世界の中に入り、凡夫の相を現じ塵埃にまみれながら、衆生を次第に仏法に引き入れること」である。衆生済度の方便を説いたもので、「和泥合水」と同義である。観世音菩薩が、その相手に応じてさまざまに身を現じてこれに法を説き、衆生済度するというのは、まさにこの「和光同塵」のはたらきの権化というものである。また一向に見栄えのしない風采で街頭をさまよい歩いた布袋和尚や、子供らと鞠つきをしたり、かくれんぼしたという越後の良寛さんは、この和光同塵を実行した好例である。
次に、この語をどう味わうかについての私見を述べたいと思います。
引用した三つの文献ともまったく同じトーンの法理的解釈です。これらの「和光同塵」に対する解釈は、仏教経典の解釈としては妥当なのですが、ちょっと不満が残ります。それは、この語を日常の社会生活とは関係のない形而上(仏教経典の解釈)に棚上げしてしまっているので、日常生活の中でこの語を味わうということにならないからです。
これに対して、禅語・著語を味わうというのは、形而上ではなくリアルな日常の社会生活に当てはめて解釈し、理解し、行動へつながるものを語からくみ取ろうとするのです。
上述の三つの文献は、『老子』の中の一文を切り取って、仏教者が仏典の中に入れて活用したということで、「和光同塵」の主語をお釈迦様とか菩薩にし、布教とか衆生済度のやり方として解釈しています。
先ずここに引っかかる点を申しますと、老子の真意はそうではないのではと思いますし、お釈迦様にしても、菩薩にしても、これらの解釈には同意されないのではないかと思うのです。
違和感を感ずる箇所を引用した三つの文献からピックアップしますと、「自らの智徳の光を隠して世俗のなかに立ち交じること」、「自らの優れた力を敢えてあらわすことなく、人間の世界に身を投じて・・」、「独り自らを浄としてお高くとまっておらず、悟りの智慧の光を和らげつつみ、衆生の住んでいる穢れの多い世俗の世界の中に入り、凡夫の相を現じ塵埃にまみれながら、衆生を次第に仏法に引き入れること」であります。
小生は、老子は元々こんな意味を込めて書いてはいないし、お釈迦様も菩薩もそんなやり方はしないよと云われるのではないかと思慮するのです。
禅における悟りの深浅すなわち人間形成の高低を点検しますと、何か得たもの(悟ったもの)がある限り、その悟りは浅く、人間形成としては未熟であります。そして自分が悟っているという意識があることも同様に未だ浅く未熟であります。
「和光同塵」の前半の「和光」について、まず検討します。
「自らの智徳の光を隠して」「自らの優れた力を敢えてあらわすことなく」「独り自らを浄としてお高くとまっておらず、悟りの智慧の光を和らげつつみ」と悟り臭さ満載であり、自分が悟っていることを強く意識しているから隠さなければならないと考えるのです。これは人間形成の禅での修行進度でいえば、見性入理から見性悟道のレベルであります。
禅における悟りが深くなると、悟りのサの字もなくなります。人間形成が高くなると、「隠すものなし」ですべてをさらけ出すだけです。「智徳の光を隠す」とか、「優れた力をあらわさない」とか、「悟りの智慧の光を和らげる」とかは、悟りを意識した上で隠そうとしています。
いずれも、お釈迦様とか菩薩の境涯ではありません。
次に後半の「同塵」について検討します。
前掲の三つの文献では、人間社会を「穢れの多い世俗の世界・・・塵埃にまみれ」ていると定義し、その中の人間を「教化」、「衆生済度」、「仏法に引き入れ」るとしています。三つの文献とも人間社会をそんな目で見ており、まったく上から目線であります。「同塵」の解釈としては偏っていると思慮いたします。お釈迦様も菩薩もそんな見方はしていないと思考します。
小生の解釈を以下に披瀝します。
「和光」の解釈は、先ず「光に和す」として、如是法に包まれ如是法三昧の境地と看ます。そして「光を和ませる」として、文殊の知恵の光をキラキラ、チャラチャラしたものからしっとりと包み込んでいると看ます。これは意識して隠すと云うことではなく、まさに「葆光」(「禅語・著語を味わう」ーその17(ブログ2022.8.4))と同じ看方です。
「同塵」の解釈は、「塵に同ずる」として、意識的に清らかなところから穢れの中に敢えて降りてゆくと解釈するのではなく、もともと市井の中に自らが住み込んでいて、俺もお前もおんなじ仲間やないかと肩を組むで生活していると解釈し味わうのです。「他を我が面」と看ているのであり、「自他の畦が切れている」のであります。
引用文献の芳賀幸四郎先生の解釈の最後のところは、小生もまったくそうだと意見が一致する箇所があります。それは、布袋和尚と良寛さんが「和光同塵」の好例だとするところです。
その理由は書かれていませんが、小生の解釈は、この布袋和尚と良寛さんのお二人とも悟りのサの字も全くないところの深く高い悟境から、それを隠す意識もないし、また世間を塵とか穢れとかとは心底思っていなくて、もしそう言うなら俺も塵であり穢れだけど、それがどうした?!となるだけであり、上から目線ではなく、庶民と一緒に遊ぶのが好きで、腹の底からみんなと楽しさを共有していたのだと思考しており、まさにこれこそ「和光同塵」の好例であると思うのであります。
三つの引用文献のように、光を隠して、穢れたところに降りて行って、さあ衆生済度しようとしても、そんな上から目線では誰も寄って来ないでしょう。
それに対して、みんなと一緒に光に和している人物のところは、面白いから楽しいから人が集まってくるし、そういう人と膝つき合わせて混じっておれば、ひとりでに感化され、知らぬ間に救済されていることになるでしょう。
自分もみんなも一緒に、明るい光に和してとなると、思い出されるのが、次の句です。
「枯木山われに小鳥に真日ぬくき」幽石作
小生が、「和光同塵」に著語すれば、この句になります。すなわち「和光同塵」とこの俳句は、まったくおなじ内容であり、同じ味わいがあると考える次第です。
いかがでしょうか?
先輩方の揚げ足を取り、独善的私見を披瀝しました。諸兄姉の叱声を覚悟しております。
立秋とは名ばかりの、残暑厳しい日が続きます。ご自愛ください。合掌
丸川春潭
人間禅HP師家ブログ2022.10.1「正念相続」を、また2023.4.13「数息観法は一念不生だけでは不十分」を人間禅のHPに掲載してきました。本ブログは、前報(2023.4.13)を受けてのブログですが、この前報から100日経過し、小生もまた小生傘下の会員も前報で改訂した新しい評点基準での評点付けが定着した結果が100日間でだんだん出てきました。その状況について書き続報とします。
再確認のために、前報の要約を先ず簡単にしておきます。
「耕雲庵老師の『数息観のすすめ』における数息観の導入は、「雑念が入るとまた一に戻す」という表現であり、雑念が入っているかどうかに焦点をおいた数息観坐禅の指導になっています。特に初心者にとって雑念無しに数息に集中することは大変な難題であり大きな壁です。したがって、初期数息観の段階では、雑念のあるなしだけに注目しての数息観法のすすめで良いのでしょう。・・・・中略・・・・初期数息観はさておき、中期数息観の導きは、「二念を継がず」から「一念不生」を経て、さらに「数息集中」へと進んで、1〜10息を完璧に「数息集中」して初めて真の数息観三昧ということができ、これを真の70点と規定すべしです。」でした。
これは「雑念を入れない」に重心をおいた数息観法の基準を「数息集中」の重心に変えるという大きな方針転換でした。一念不生でも数息集中してないことがあるというのが改訂の切っ掛けになっており、数息集中は一念不生より更により数息観三昧が徹底しているという位置関係になっています。これを反映して改訂したのが、下記に示す新しい評点基準(変更部分のみ)でした。
2023.4.3改訂版(抜粋)
62点:一念不生を1〜5までは達成できるようになった。
65点: 一念不生を1〜10まで、1回は完璧に達成できた。
67点:一念不生で且つ数息集中を1〜5まで達成できるようになった。
70点:一念不生で且つ数息集中を1〜10まで、完璧に達成できた。
この改訂された新基準で4月から7月中旬まで100日間にわたり実践した数息観坐禅を評点した結果(東京中央支部・岡山支部・四国支部の40数名の会員と小生の実績)を次にまとめました。
まず三支部会員の新基準実践状況ですが、その受け止め方は人それぞれであることが数息観評点の報告を見て判ります。軽くから重くまで浅くから深くまで人それぞれの解釈と反応がありました。たとえばその中の一人は、旧基準では75点前後まで評点がかなり進んでいた人ですが、新基準になってからは65点にもどして評点し始めました。この人は「数息集中」を厳密に受け止めて、自分の今までの数息観坐禅修行を根本から見直そうとしたものと見ています。
全般的にも、ほとんどの人がガクッと評点が下がりました。そして点数は下がったが、しかし数息三昧はより深まったとの感想が多くありました。
小生の場合もかなり大きな変化がありました。まず数息観を始めてから70点に到達するまでの時間が長くかかるようになりました。そしてその70点の三昧が以前より深くなった自覚があります。すなわち数息観三昧の質自体がより深くというか上質になったのは間違いなく、そこまでに到達する時間は長くなりました。それは、チラッの雑念が入っていなくても(一念不生ができていても)、数息集中ができていないとして1に戻るということがあるからです。
しかし次のステップである70点から80点までの三昧相続段階は以外とスムーズに進みます。旧基準(一念不生基準)より新基準(数息集中基準)になった方が、相続が安定したのです。それは数息集中基準により数息三昧がより深くより安定したからだと思います。
この三昧継続力で1〜10息の70点レベルの数息観を連続して5回継続して中期数息観の最後の80点に到達し、そして次のステップの81点からの後期数息観に入ります。81点〜82点は数息せずに呼吸に意識を集中する正息観になります。この後期への新基準の適用においても旧基準までとはかなり変りました。従来基準では一念不生だけでこのレベルも通過できていましたが、新基準では「呼吸集中」がしっかりしていないと通過できません。しばらくは戸惑いし、もたもたした時期も半月ほどありましたが、80点に到る三昧レベルがしっかりしているから、呼吸集中がきちっと安定してでき、文字通りの正息観が確立した感じがしています。
小生は、朝起きて直ぐと夜寝る前との二回が一日一炷香ですが、夜はたまに隣の居間のテレビの声が聞こえることがあります。小生はここ10年以上にわたってはこのテレビの声が聞こえていても、ボリュームを下げてくれ等の注文をせず、そのまま夜の座禅を行うことにしています。テレビが聞こえていても数息三昧をやり切る修行の実践と位置づけていたのです。
7月に入ってから直ぐくらいに久しぶりにこの状態になりました。家内が熱心にテレビを見るのは、「ヒューマニエンス」と「100分で名著」の番組ですが、それとたまたまかち合いしかも最近だんだん耳が遠くなったのか興味ある内容だったのかテレビのボリュームが大きく、安普請の拙宅ですからテレビの言葉が明瞭に聞こえる状態に遭遇しました。新基準の数息集中を試す良い機会と思い気合いを入れて坐りました。もちろん80点までも通常よりもかなりハードでしたが、中期の数息段階は未だ数息が盾になり何とか数息三昧が継続できましたが、後期に入るとその盾がなくなりテレビの会話の声との直の戦いになりました。数息という盾がなく、呼吸集中だけで人の声を断ち切るという戦いはまさに刀で斬りかかられるのを素手で相手するようなものです。最初は途切れ途切れですが声の意味が聞こえてしまう状態でしたが、頭燃を救う集中力を最大限に上げることにより、だんだんと呼吸集中力が強くなり、声はしているようだけれどもその内容が分からない状態になりました。これで呼吸集中が頭頂葉の聴覚に勝ち呼吸集中ができたと判定しました。通常の夜の坐禅よりも相当疲れましたが、達成感は格別なものでした。とにかく「頭燃を救う」を徹底したということと、新基準だからこそ達成できたと思います。
これは81〜82点の後期数息観の前半段階のことですが、その上の83点は後期数息観の後段になり宝鏡三昧になるところです。これは集中するものがない次元であり、新旧の基準による差がまったくないはずなのですが、やはり充実度が違いました。それは80点までの中期の深さと安定度から後期に入っても三昧がより深く確かにつながり、83点に到達するその経過がより深く充実し安定しているからです。宝鏡三昧がより深く盤石になったということです。そしてこの盤石な宝鏡三昧からでないと、次に上って行けないというか、これで初めて次のステップアップへの道がしっかり見えてきました。
4月初めから100日間にわたって、従来の一念不生の旧基準から数息集中の新基準に移行し、それを忠実に毎日実践してみて、いままで60年間にわたってやってきた「雑念を入れない」ことを主眼にした数息観座禅修行が、一段と進化したという実感があります。そしてこれにより人間形成の基盤となる一日一炷香がより厳しくより深くなり、深い三昧を身につける数息観座禅修行がより確かになったと思います。
丸川春潭
一生は一回しかなく取り返しがきかないものです。今までも「人間の死」に対する考え方を、人間禅のHPブログに2015.1/30「死と禅」、2019.8/23「死が軽い現代」、2020.3/21「知的障害福祉施設ヤマユリ園植松被告の裁判結果を見て」を掲載し縷々述べてきました。そこでも触れていますが、人間にとっての死は本来的には第一義的なテーマであります。しかるに壮年時代までは誰でも、この本来的な第一義の課題を、日常的には先送りして逃げています。
先日四国支部の会員のお宅(宇和島市)にゆき、久しぶりに農家の仕事の大変さを垣間見てきました。四季に応じ天気に左右されながら、今日やらなければならない目先の仕事に追いまくられる日常の大変さが少し見えました。
また、現代のサラリーマンも日常業務に追いまくられて、その為に家庭破壊にまで到るケースも身近に見聞きします。しかも考えて見ればこれは強度の強弱はありますが現代だけではなく、古今を問わず洋の東西を問わず人間にとっては限りある人生で日々死に向かって近づいていることを棚に上げてしまい、目先の日常に埋没してしまっているのが平均的人間というものです。
既に久しく禅の修行をしている人にとっては、人間にとって本質的な大問題である「死とは?」「生きているとは?」を根本的な見地からしっかりと見極めている自覚があります。だからこそ目先の多忙さの日常の中でも、一日一炷香の数息観坐禅修行と参禅会・摂心会の公案修行の両輪の修行を真剣にやっているのです。これは決して日常から逃避しているわけではありません。むしろ些末な日常生活を真剣に生きようとするからこそ、真剣な人間形成の禅修行の大切さが判っているのです。
あらためて現代社会における禅を考えて見ると、この日常の生に対する死がどういうものかを明確に悟らせる唯一のツールが禅であるということです。そして禅者は生と死を貫通する切り口をはっきりと悟っている見地から、一生一回しかない人生を有意義に主体的に生きているのであります。
しかも禅者と云っても脱俗出家の僧侶とちがい、在家禅者はこの日常社会から逃避して生死を明らめる修行に埋没することはできません。ミクロである日常の些末な仕事の対処もしっかり本気で全力投球しながらマクロの人生そして死にもしっかり本気で取り組んでいるのです。日常的な喜怒哀楽に振り回されることなく、日常の仕事の対処だけに埋没することなく、「自利利他の願輪をめぐらせ、ほんとうの人生を味わいつつ、世界楽土を建設するのを目的とする」ことに本気で取りかかっているのです。
この在家禅者の生き方から、本題の「人は死して何を残すか?」を考えて見たいのであります。
今まで一生懸命やってきたこの瞬間に自分が死んだとして、今まで大事だと思い一生懸命やってきたことを、10年、30年、100年、1000年のふるいに掛けて検証して見るのです。そうするとそれは10年も経たずに消えて無くなるものとか、直ぐには評価されないが長く残って役に立つものとか分別ができます。
磨甎庵老師(千葉大名誉教授)は、明治以来そして特に戦後における価値観が神の尺度から金の尺度に変換したと云われていました。資本主義社会の負の側面での切り口です。たかがお金なのに知らず知らずそのお金の蓄財が目的化してしまい、金儲けのために人生をすべて賭け費やしてしまう社会的現象を老師は指摘されたのだと思います。蓄財をしてそれを遺して死んだら、つかの間身の回りの家族親族は経済的には潤いますが(遺産分譲の醜い取り合いは別にして)、それは数年せいぜい数十年のものです。また蓄財の意味も西郷隆盛の「子孫に美田を残さず」の考えに従えば、それ自体が良いことなのかどうかも判らないようなものです。とにかく蓄財というものは死して何を残すかという大義からは外れるものであることは間違いありません。
現役の一般社会人は、社会的地位に対して大変なリスペクトを感じています。そしてサラリーマンは社長をめざし、政治家は首相をめざし、それが目的化しています。しかし本人がその地位からリタイヤして10年、30年経てば、例え大会社の社長であろうが一国の首相であろうが、みんなその他大勢の一人として忘れてしまいます。そういう名誉や名前を追いかけただけの人生は、これまた死して何を残すかという大義からは外れるものです。
現代の多くの若者が、人間関係を非常に重要視して生活しており、それが無くなることを恐れるまでに人間関係依存症的の状態になっているのが現代の特徴的現象です。この後生大事な人間関係もまた10年のふるいでほとんどの友人関係等は希薄になり、30年たったらほとんどが無くてよいものになるものです。
これに対して、歴史に残る画家の多くが、ピカソもそうですが、生きている間は全く評価されずに死んでからそれが評価され、何百年も何千年も評価され、多くの人類の美的感性を豊かにさせることができます。音楽家も文学者も同じでしょう。文化的な本物は生き残り続け、まさに死して何を残すかに耐える対象だと思います。
したがってこういう道に進む人は、本物を目指して掛け替えのない人生を真っ当に生きていると云えましょう。物理学者アインシュタインの業績も生前から既に評価されましたが、人類の続く限り、その業績は残るものです。しかしこういう芸術、文学、科学などのカテゴリーは、レアな方達であり、子供が将来の夢としてこういう偉人を目標にすることは大切なことですが、現代社会の大多数の方々の人生目標には今更であります。もっと目線を下げて一般社会人を対象に見てみたいと思います。
メジャーではなく社会的にはミクロな一隅を照らすような存在ではありますが、昔から洋の東西を問わず職人(ギルド)が自分の長年積み重ねた経験を次世代に伝えることで、人間の生活も人間の文化も維持され持続しています。これもまた百年千年を超えての伝承で死して何を残すかに耐えるものでしょう。
今朝のテレビで鹿児島の三代目の養蜂家の次世代への伝承が感動的に出ていましたが、狭い職人という概念ではなくもっと広くとらえるとやりがいのある仕事人は身近にもいるものであります。
学校教育も人づくりとしての切り口であれば(実態はさておいて)、本来的には人生をかけるにたる貴重な良い対象です。人づくりはその対象の人が健全に育てば未来に活躍し、更にその人の経験を加味して更に次の世代の人づくりをすることになります。こうなると最初の人づくりは賞味期限がなくなり、永遠につながる素晴らしい対象といえます。
この観点も含めてもう一度すべての生きている人間の所業の価値を見直し、賞味期限を考慮に入れた総点検をしなければならないと考えます。すなわち、人間が死んで何を残すか?を考え、時間軸での観点に耐える観点を再確認することが何よりも大切です。
この観点で、子育てを見直してみると、この子が大きくなって大人になって金を稼いで親孝行をして欲しいと位置づける観点では、賞味期限の短い子育てになります。これに対して、みんなの役に立つ人になって欲しいという願いを持って子育てをすると、賞味期限の長い子育てに大きく変わってきます。同じ子育てにおいてもこちらの方が、親も子供も日常がより「楽しく」になるのではないでしょうか?
会社員も教育従事者も個人事業者も子育て中のお母さんも、やっていることは変らなくてもやっていることの位置づけとねらいが、賞味期限を考慮に入れて取り組むことによってガラッと変ってきます。
先ほどの政治家も大会社の社長もその職・任務が問題ではなく、それを遂行する観点が問題であり、賞味期限を念頭に自分のやっている仕事の観点及び行動を点検してやればいいのです。まったく当たり前のことでありますが、本当に大切なことであります。
「人は死して何を残すか?」を賞味期限の観点で常に検証しながら、自分の生き方を日々反省し、納得し、自信を持って、正しく楽しく仲よく生きたいものであります。
]]>
後期数息観の最後の部分です。
「数息観評点記録のすすめ」(2023.6.29改訂)
丸川春潭
小生の実践経験ですが、数息観評点基準に従って一日一炷香の評点付けをすることにより、従来では踏み込めなかった数息観の質の点検に踏み込むことができ、己の修行レベルに客観的視点を加えることができるようになった。その結果、昨日よりも今日、今日より明日こそはと、日進月歩で自分の数息観を深めてゆくことができ、ややもすればマンネリに陥りやすい一日一炷香に精彩を加えることができるようになった。
それは数息観の一日一炷香という地味な努力の継続という修行が、明確な客観的数値の目標の設定により、その結果を自分で確認できる方式が確立できたからである。その効果には、始めてみなければ、実践してみなければ予想もできなかった驚きがあった。
日常における人間形成の手堅い道がここにあったのである。われわれの人間形成の禅は、公案を用いた道眼を開く参禅弁道と、三昧を身に付け道力を養う数息観法の日常的実践から成り立っており、この両方の柱によって臨済宗の人間形成教育システムは構築されているのである。
しかし従来より、前者の参禅弁道の修行の方は、明眼の大宗匠耕雲庵老大師の瓦筌集によって人間形成の過程に従う明確な目標設定がなされ、それにしたがっての正脈の師家の厳しい指導が実態として確立されていたが、後者の方は、耕雲庵老大師の「英山の今日あるは、一日一炷香を正直に続けてきたからである」との述懐に基づく、「一日一炷香のすすめ」の連呼に終始しており、最初に述べた数息観の質的検証と、そのレベル(目標)の設定がなされないまま今日に到っていたのである。それでは参禅弁道では低きから高くへとの段階を歩めるが、修行の両輪である数息観による道力の進歩については成長過程がつかめない状態におかれることになる。そこに踏み込む試みがこの数息観評点基準と評点付けなのである。
この数息観評点基準は、人間形成の最初から、人間形成を全うする領域までの全行程を網羅したものである。一人でも多くの方が、本当の自分探し(人間形成の禅)の道に入り、全ての人が本当の自分をしっかりつかみ(人間形成を全うし)、正しく楽しく仲の良い社会建設プロジェクト推進が進展する縁(よすが)にこの試みがなることを祈念し筆を擱く。 合掌
【追記:数息観座禅の進め方】
評点は主観評価ですのでともすれば甘く良い点を付けたくなるものですが、できるだけ客観的評価になるように自分に厳しく評点付けをすることが肝要です。そうする厳しい評点の方が大きな目で見て三昧力を付け道力を付ける修行により早くなります。また最初は数ヶ月単位で、しばらく継続すると数年単位で、三昧力の進歩に応じ、主観の評点基準をより厳しい基準に上げて更に向上を図る工夫も適宜されることも大切です。
【注意:参考文献】
次頁の数息観評点基準を見て実践される人は、先に耕雲庵英山著「数息観のすすめ」を読んでおいて下さい。(数息観初期、中期、末期、あるいは「二念を継がず」の該当場所の説明を参照下さい。)
特に、50点以上に進まれた人は、拙話「提唱録:「数息観を深め味わう」人間禅HP「座禅の工夫」、同「道力(胆力)をつけるには」をお読み下さい。60点以上に進まれた人は、拙話「提唱録:「数息観を深め味わう」(中期数息観)をお読み下さい。また70点以上の方は、提唱録:「数息観を深め味わう」(後期数息観)人間禅HPブログ「正念相続」同「数息観は一念不生だけでは不十分」をお読み下さい。これら参考文献は、人間禅HPの人間禅図書館および「師家ブログ」に収録されています。
【数息観評点基準】
2010.8.10設定、2012.1.1.改訂、2017.11改訂、2020.1改訂、2020.10改訂、2023。4改訂
0点:その日数息観をせず。
30点:ちょっとした待ち時間、通勤途中の電車内などで、初期の数息観を実行した(数息の質は問わない)。
40点:始業前、休憩時間など、空いた時間に(椅子に座って)合計15分以上数息観をし、数息観初期の1から100までを実行した。
45点:半炷香(約25分間)以上静坐し、数息観初期の1から100までを
間違えずに数えられた。
50点:一炷香静坐し、数息観初期の1から100までを間違えずに1回は数
えられた。
54点:数息観初期の1から100までを一炷香を通して間違えずに数えられ
た。(45分間では、100までを3から4回数えられる。)
55点:数息観中期の「二念を継がず」を1〜5までは何回か達成できた。
(54点までが、数息観初期、55点からは、数息観中期に入る。)
58点:「二念を継がず」を1〜8まで、1回は達成できた。
60点:「二念を継がず」を1〜10まで1回達成できた。
62点:「一念不生」を1〜5までは達成できるようになった。
65点:「一念不生」を1〜10まで、1回は完璧に達成できた。
67点:「一念不生」で且つ「数息集中」を1〜5までは達成できるようになった。
70点:「一念不生」で且つ「数息集中」を1〜10まで、1回は完璧に達成できた。
75点:「一念不生」で且つ「数息集中」の1〜10までが2回連続も含めて安定し
てできた。
80点:「一念不生」で且つ「数息集中」の1〜10までが5回連続してできるレベ
ルになった。(中期数息観終了)
81点:呼吸を数えないで完璧な10息集中を3回以上達成できた。
82点:正念息(ただ呼吸に集中している)座禅が確実に継続できた。
83点:忘息観(離息観)前期(呼吸を全く意識しないで正念相続している座禅)が、安定して継続できた。*宝鏡三昧の坐禅。純粋に只管打坐になる。
84点:忘息観(離息観)後期。悟了同未悟の境地。
【備考】評点付けの注意点
:5点刻みではなく、1点刻みで評点を記録すること。
:表に記入すること。望ましくは折れ線グラフにしてその推移を反省の糧とするとよい。
:一ヶ月の平均値も出して、月々の励みにすると良い。
:担当師家に毎月提出して、ご指導を仰ぐとより励みになり、ひいては深い三昧を早期に身につけることができる。
――(その7)禅を始める切っ掛けは何でも良い―
丸川春潭
令和5年度の始まりに当たっての法務会と評議委員会が5月4日に開催され、各支部の「布教の成果と目標」が資料で出され支部長が説明されました。福岡支部の松川白堂支部長から「「修行の継続を目指して入門する人物を得なければ道場の発展はない」という信念の元、腰を据えて布教活動に取り組みたい。」という資料に基づき、「志の堅い人物が来参するのをじっくり待ちます。」という主旨の決意が語られました。
この松川白堂支部長のお考えは一つのりっぱな布教に対する見識であります。すなわち、この「僧堂禅と在家禅と人間禅」の中の一つの典型例になると思いご本人にお許しを得て引用させていただきました。
耕雲庵老師は、60数年前の中国支部(現岡山支部)摂心会の提唱で、「最近入門した者に、字をうまく書けるようになりたいから入門させてくれという者があり、ちっぽけな望みだなと言ってやったが入門は許した。禅を始める切っ掛けは、神経衰弱を治したいからでも、字がうまくなりたいからでも、最初の切っ掛けは何でも良いのだ。」と仰いました。
前掲の松川白堂支部長の布教方針をわかりやすく敢えて切り取り的に解釈して当てはめると、この布教方針は耕雲庵老師の人間禅流の対局になる僧堂禅の範疇に入ると考えます。典型的な古来の僧堂禅は一箇半箇の嗣法者をたたき出すことが大きな柱であって、いわゆる布教や救済は付け足しのようなものでした。(したがって白堂支部長は厳密には僧堂禅ではなくそれを超えたものです。)昔の僧堂禅は、入門に際しその人にあらずんば入門させないで門前払いをする庭詰・単過詰があり、志が高く伝法の嗣法者にふさわしい人物だけしか入門させないというのが典型的な僧堂禅のやり方です。したがってこの考えでいけば、年配者は対象外になり、若者だけがしかも男性だけがターゲットということになります。
これに対して現代の在家禅そして人間禅は、老若男女を問わず志のレベルの高さを問わず、その人なりに禅によって人間的成長を図ることを目ざして集まった人たちで構成されています。「自利利他の願輪をめぐらしてほんとうの人生を味わいつつ世界楽土を建設する」には、これらのすべての人が該当し、その総合力で世直し(世界楽土づくり:正しく・楽しく・仲のよい社会づくり)をめざす僧伽(修行する人の集まり)になります。
第四世総裁青嶂庵荒木古幹老師が明言されておられましたが、僧堂禅は「伝法のための伝法」であり、人間禅は「布教のための伝法」であると。
現代においては、ネットなどから道を求めて色々な人が門をたたいて来られています。耕雲庵老師の人間禅でのそういう人達への対応は、玉石混淆すべての人を分けへだて無く受け入れる対応です。こういう対応が「布教のための伝法」であり、昔の僧堂禅にはなかった対応になります。
ただこの人間禅の芯には正脈の嗣法の継承がなければ成り立たないし、伝法がなくなれば人間禅は続かないことは云うまでもないことです。すなわち耕雲庵老師が『立教の主旨』第二項に掲げられているように「座禅の修行によって転迷開悟の実を上げ、仏祖の慧命を永遠に進展せしめる」が無ければ人間禅は続かないのです。耕雲庵老師ご自身も「その人を得なければ人間禅をぶっ潰せ!」とも仰っておられ、仏祖の慧命の嗣法継承あっての人間禅であります。そして、達磨大師以来の800年の歴史を見ると、この仏祖の慧命を断絶させずに伝法し嗣法して行くことがいかに困難かということが判ります。すなわち伝法すなわち一箇半箇の嗣法者を育てることは、祖師方が身命をなげうっても断絶してしまうほどの難しい使命なのです。耕雲庵老師はそのことは百も二百もご承知のうえで、伝法(「仏祖の慧命を永遠に進展せしめる」)の前に、玉石混淆のすべての人間を受け入れ救済する「世界楽土を建設する」を第一項にして『立教の主旨』を創られたのです。典型的な僧堂禅はもとより在家禅の始まりである人間禅の前身の両忘禅協会までは、伝法を常に立教の第一に掲げていたのです。それを初めて耕雲庵老師は第二項に下げられたのです。これは決して伝法を軽く見たのではなく、それを前提としてその伝法の「目的」を第一項として掲げたのです。伝法すればそれで終わりではなく、伝法をした上でその伝法を布教救済に生かすという釈迦牟尼世尊の原点に還って、人間禅の『立教の主旨』を世に宣布したのです。これを青嶂庵荒木古幹老師が「布教のための伝法」と言われた由縁であり、在家禅からさらに進化した人間禅の歴史的な誕生がここのあるのです。
伝法嗣法が続かなければ人間禅がいかに立派な「立教の主旨」を掲げていても人間禅自体がなくなったらおしまいです。これを承知の上で、僧堂禅ではなく在家禅そして人間禅を打ち立てているのです。耕雲庵老師は志の未だ確立していない人も含めすべての人を平等に受け入れても、そうすることが障害にはならず、その中から必ず伝法嗣法者が出てくると信じておられるのです。更に踏み込んでいえば、玉石混交と最初から決めつけずに、最初はすべて石ばかりであって、それを磨いて玉にするのが現代の在家禅・人間禅のあり方だというお考え方だと思います。
小生は、現代の若者は価値観がまさに多様であり、ある意味深く考え抜いて行動を起こすというのではなく、浅くではあるが広く考えて行動するのが特徴だと思います。そして何かに固まることや何にかに縛られるのを非常に嫌い、自由さを妨げるものには近づかない気風であると見ています。したがって道場や支部に来る新到者は、百人が百人すべての人が最初から一生続けたいというような道心堅固な人はいません。最初から継続する志を持つ人間が来るのを待っても無駄です。新到者はすべて志とは遠い些細な引っかかりでの来訪者ばかりです。これが現代の世風であると洞察し、それを是認した上で対応しなければならないのです。
そういう若者に何故ここに来たのかから始まって、困っていることとか興味のあることを聞いた後に、その人に応じた禅の紹介、人間形成の必要性などを説き、『数息観のすすめ』にいざなう面談をします。片っ端から面談しています。結構彼らは純真であり、しかも向上心があるのを発見して驚くことがしばしばあります。現代の若者は禅門にはほど遠い十字街頭の雑踏の中にいるのです。例えるなら茶碗作りの作陶の素材である粘土の塊のようなものです。面談して判りますが、素材としてはほとんどみな合格です。師家との面談や支部長との接触をはじめとして、静座会の真剣な雰囲気とか摂心会の流れに触れることによってはじめて発菩提心が芽生えてくるのです。そして世の中の他ではない得がたい何かを感じ惹かれはじめ、そしてこの人について行きたいとか、この集まりに加わりたいとかに発菩提心の芽が育って行き、そして入門に踏み切ることになるのです。それには日月をかけず熱いうちに打ってそして冷まさせないことが肝心です。冷めるのは本人のせいではなく、師家を筆頭に支部長以下の熱意に架かっているのです。そして入門してからの継続についても、最初の数年はその人のせいではなく、師家の人間力とその集団・支部が「人間味豊かな家庭」であるかどうかに架かっているのです。
繰り返しますが、最初から継続性をその人に求めるのではなく、その支部の方に継続性の責任があると考えるべきです。すなわち本人の継続に対する意識レベルは最初はだれでも低いものなのです。それを継続させるのはこちらの責任であり、その素材に形を作り込んでゆくのはこちらの仕事であり、したがって継続性は後から付いてくるものです。これが布教なのです。ポテンシャルのある素材を待って対応するのは布教ではありません。意識レベルの高い者が来るのを待っているというのはある意味受け身であり安易です。粘土の塊に菩提心の火を点しそれを大きく育てて行くのは師家も支部長も大変であり容易ではありません。しかしそれが現代の布教なのです。
また耕雲庵老師いわく、「師家は学人(修行者)の頭一つだけの高さで学人の相手をすれば良いのだ」と。これは弟子であっても人間形成というものは、上から目線で教えを垂れるような指導をしてはだめだということを示唆されているのです。ただ老大師の頭一つは、相手がいくら境涯が高くても頭一つ上、いくら低くても頭一つ上の高さに、変幻自在で対応するということです。おそろしい程有難い千手観音であります。 これはまさに伝法第一の僧堂禅ではなく、在家禅そして人間禅でなければやれないことです。
「禅を始める切っ掛けは何でも良い」は、大きく手を広げ一人残らず救済する旗印ではありますが、これは難題を背負い込むことであることを認識いただいたと思います。これに比べて僧堂禅は安易なものです。しかしこれが現代の禅であり、これでなければ布教も伝法もできないのです。特に伝法がまさに肝心でありますが、それについての本論ではないので、ここでは余り触れないで別途にさせていただきます。とにかく何としても耕雲庵老師の『立教の主旨』を掲げる人間禅を進展し続けなければならないのであり、本稿がそのための参考に少しでもなれば幸いであります。合掌
――(その6)正脈の師家の人となりに学ぶ―
丸川春潭
2022.4.1から2022.7.21まで「僧堂禅と在家禅と人間禅」シリーズ1〜5報をブログとして掲載してから10ヶ月が経ってしまいましたが、その続きを(その6)として発信します。
小生が人間禅にご縁をいただいてまもなくの頃、小生が深い感化をいただいた人に熊本支部の当時支部長であった浜田圭巖さん(会員番号98番、後に滄溟庵圭巖老居士)という方がおられました。この方は、耕雲庵老師の第一世代の弟子であり、第4世総裁青嶂庵荒木古幹老師、一行庵中村義堂老師さらに妙青庵清島俊峰老師、大休庵佐賀諦観老師を初代熊本支部長として育て輩出させた歴史に残るお方です。圭巖さんは、小生が学生時代に熊本支部摂心会に参加したときのみならず、毎回のように中国支部(現岡山支部)摂心会にお出でになっており、4年間だけでもしばしば詳細にわたりご指導をいただきました。
60年ほど前の話ですが、あるとき岡山で圭巖さんが仰ったことですが、「日常のオヤジ(耕雲庵老師:このシリーズの1.を参照ください)に接する機会が多い者が勝ちだぞ」と。その当時未だ学生であり、ハア?という感じでした。特に、勝ちだと云う言い方がへんだなあと思っていました。主旨としては、日常の老師にお目にかかる時間が長いほど人間形成に良いということなのですが、その時は腑に落ちませんでした。しかし、年数が経過する程にその意味がなるほどと判りだし、最近は特にこの圭巖さんの示唆の深さを噛みしめています。また勝ちだという表現も人との勝ち負けではなく人間形成の上で大切だという意味であり確かにそうだと思えてきています。
圭巖さんを筆頭に、熊本支部は創立(昭和24年)以来もっとも耕雲庵老師の色濃い支部でした。耕雲庵老師が総裁を引退されたあとも熊本には引き続きご巡錫に来られることになって、圭巖さんを中心に泣いて喜んだとあとから聞きました。ことほど左様に、圭巖さんを筆頭に支部員全てが老師に心酔し切っており、老師の仰る事はもとより一挙手一投足まで真似をするように老師に直向きでした。それを集約して上記の小生に対する示唆も出てきたものです。提唱とか参禅のみならずオヤジにぴったりと接し、全てを吸収すべしということなのです。
学生の小生は、そのご示唆が腑落ちもできず、ことさらにそのご示唆に従おうとはしませんでした。しかし結果的にはそうなってしまいました。学生時代の4年間は中国支部の侍者を命じられ、ほとんどの摂心会は詰めきりでしたし、特に放参日には老師と二人きりの小旅行のお供を何度もさせていただきました。広島県の帝釈峡には泊まりがけで二回も出かけました。老師は常に写真機(アサヒペンタックス)を肩に掛けてのお出かけであり、放参日ではない摂心会中の平日でも近くの後楽園などにお供をさせていただきました。更に、岡山での摂心会円了後には鎮西道場経由(鎮西支部の方々と大宴会で一泊)で熊本までも道中侍者を何度もさせていただき、時にはそのまま熊本の摂心会に参加し、老師のお供で阿蘇とか水前寺公園にもお供をさせていただきました。その後、和歌山から鹿島の方へ小生が転勤になり、本部の摂心会でも侍者を拝命しました。本部の狸小屋の風呂で老師のふっくらした背中を流させていただいた光景を鮮明に覚えています。また小生が40歳代前半になっていましたが、小生の車に耕雲庵老師と妙峰庵老師のお二人を乗せて奥秩父の方へ出かけたこともありました。また耕雲庵老師と磨甎庵老師のお供で二泊三日の北茨城旅行を計画させていただいたりもしました。振り返って見ればですが、結果として随分と日常における耕雲庵老師の謦咳に接する機会に恵まれ、圭巖さんのご示唆になにがしか従ったことになったと振り返って思っています。
圭巖さんの示唆に従った結果どうだったのかですが、学生時代にはハアだったことから少しずつ判ってきたことについて整理しておきたいと思います。
それをまず結論的に一言度いえば、「人間形成の禅というものは提唱と参禅弁道の摂心会だけではもちろんのこと一日一炷香の数息観座禅修行がそれに加わっても、正脈の師家の全人格に触れるということが非常に大切であり必須である」ということです。摂心会中での師家と学人は厳しい法戦場での対決であり、師家の人となりに触れることが侍者は別にしてほとんどありません。師家と学人が365日居住を共にする昔の禅僧堂であれば、日常的に師家と学人のコンタクトは十分あるでしょうが、在家禅では師家も学人も仕事を持ち家庭を持っていますのでそれは不可能です。すなわち年に3回の摂心会だけでは30年間修行を積んでも、師家の全人格(日常のありのままの人格を含め)に触れることなく経過してしまい、結局のところ人間形成の禅はこんなもの(摂心会会をしっかりやって居ればそれで良い)となってしまいます。
この「僧堂禅と在家禅と人間禅」シリーズに当てはめて考えると、僧堂禅でできていたことが在家禅になるとできにくいことの一つは数息観坐禅修行が在家禅ではおろそかになりがちであるということが云えます。そしてもう一つは圭巖さんの教えがやれ難いということです。この「6.正脈の師家の人となりに学ぶ」のテーマが、このシリーズに設けられた由縁がここにあるのです。すなわち、在家者の人間形成の禅にとっては、圭巖さんの教えを如何に確保するかが残された課題です。
師家分上までの修行としては、摂心会での参禅弁道の修行と一日一炷香の座禅修行の実践だけでもいけると思います。それは人間禅の立教の主旨の第二項「人間禅は、座禅の修行によって転迷開悟の実を挙げ、仏祖の慧命を永遠に進展せしめる。」ことは可能ということです。しかし人間禅の立教の主旨の第一項「人間禅は、自利利他の願輪をめぐらし、本当の人生を味わいつつ、世界楽土を建設するのを目的とする。」、第三項「人間禅は、正しく楽しく仲よく 人間味の豊かな家庭である。」は極めておぼつかない限りであります。これは、摂心会と座禅修行だけでは、自利しか身につかないということであり、人間味が豊かになるとか人の温かさがあるという人間らしさが身につかないということです。それは本物の人の徳とか人の香りという見本に触れることがないからです。それができるのが圭巖さんの示唆されたことであり、日常での師家の人格がその見本であります。その見本に巡り会えることが難遭遇なのであり、その見本をしっかり見それに触れるということによって、その人間らしさを身につけることが可能になるということなのです。
次に圭巖さんの教えの効果について考えて見たいと思います。正脈の師家の人となりに触れることにより、その人に備わっている徳の香りに触れそれを学ぶということができ、その人に備わっている利他心や慈悲心に触れそれを学ぶということがあります。そして更にこの5、6年くらいでの小生が感じてきていることは、耕雲庵老師を始めとした小生にとっての師家方のさりげない日常の姿から究極の人間形成の見本を感じているのです。それぞれの持ち味を持たれながらの素晴らしい学ぶべき見本であります。60年前の記憶がまざまざと感じられ、そして噛みしめられるのです。圭巖さんに心から合掌です。
これで大体は終わりなのですが、蛇足をもう少し付けておきたいと思います。これを支部活動においてどう取り組んでいったら良いかの工夫についてです。
支部長は、摂心会だけに師家をお迎えするという概念を取っ払うことです。支部員だけの活動ではなく支部活動の要所要所に師家をどう引っ張り込むかの工夫です。たとえば布教に師家をどう活用するかであり、その中で支部員と師家とが共働する機会ができ、これが一番圭巖効果の出るやり方です。そして会員は「摂心会だけが修行である」などという狭い了見を棄てて、摂心会以外の時の師家に目一杯体当たりで絡んでいったら良いのです。
師家の方は、師家面をするのは室内だけにして、頭一つだけ抜きん出ているくらいまで姿勢を低くして(60年前に耕雲庵老師の仰った言葉です)、大衆の中に入り込んで行けば良いのです。結果として学人はひとつの格好の見本を東西南北から見ることができるし、師家は学ぶこと反省すべきことをたくさん見つけて更に師家らしくなれるというものです。
栃木禅会日曜座禅会朝のミニ講話 2023年4月30日
堀井 妙泉
お釈迦様は人間の苦しみを生老病死の四つと言われましたが、今は、生老病の後にもう一つ認知症というものが増えています。いくら長生きしたとしても、認知症になってしまったら、どうしようもありません。認知症の原因はストレスにあると言われています。ストレスが脳細胞にダメージを与えることによって認知症が起こるのだそうです。
人間が生きることにストレスはつきものです。ストレスを全て取り除くことは不可能でしょう。ではどうしたらよいのか? それにはストレスに耐え克服して行く力を養う他ないのです。最近雑誌などで奨励されている植物だけ食べるという食事療法もあるようですが、バランスの良い食事で健康を保ち、目に見えないところの根を養うことも大切ではないかと思います。
愛媛県砥部(とべ)町出身の詩人、坂村真民の詩に「大木」という詩があります。皆さんと一緒に味わってみたいと思います。
【大 木】
大木たちが わたしに教えてくれた 一番忘れられない話は
根の大切さということであった
目に見えない世界と 目に見える世界とがある
美しい葉や 美しい花や 美しい実は見える世界であるが
それらをそうさせる 一番大切なのは
大地に深く根を張り 夜となく昼となく その木を養っている
幾千幾万の 根の働きということであった
私は大木の下に座して そうした話を聞き入り 元気をとりもどしては
また 歩き出して行った
目をつぶると それらの木々たちが 今も私に話かけてくる
私たちは普段、目に見える現象だけを追いかけています。 美しい葉や美しい花や美しい実は目に見える世界です。しかし、それらを養っているのは、大地に深く根を張っている幾千幾万の根の働きです。 根のことでふと思い出しましたが、もう二十五年ほど前のことです。千年以上生き続けた天然記念物の薄墨桜を岐阜の山腹で観たことがあります。古木の根を深く掘り、古い根を切り落とし、若木の根を接ぎ足す手当を樹木医の先生たちがしているところでした。根が弱って花を咲かせる力のない薄墨桜を惜しんで宇野千代らが率先して治療運動をされたと言う事です。根が広がっている部分だけ枝が伸びているのが木の正しい姿なのです。このバランスが崩れて、根が小さいのに枝だけが伸びてしまうと、台風などの時は倒れてしまいます。根腐れしている木も同じように倒れてしまいます。色んな事が根を張ることにつながります。また、植えたばかりの木には添え木が必要です。私たちは一人では生きていくことができません。周囲の人たちの助けがあるから立っていることが出来るのだと考えて、添え木となって支えてくれている方たちがいる間に、一生懸命自分の根を張っていく努力が必要だと思います。 それには表に出ない学びを深めること、また専門分野に直接かかわらないことでも学ぶこと、座禅の継続はもちろんのこと日々の様々な事が根を養い根を張ることにつながると思います。
合掌
]]>――その22「掬水月在手 弄花香満衣」――
丸川春潭
この語は、臨済宗系統の寺院およびそれらの流れをくむ茶道においては有名な禅語のようであります。
最初に、臨済宗妙心寺派大澤山龍雲寺の細川景一和尚の解説を拝見したいと思います。細川 景一老師(1940年 11月〜:小生と同年生まれ)は、臨済宗妙心寺派僧侶であり、宗務総長、学校法人花園学園理事長、花園大学学長、花園大学国際禅学研究所所長を歴任されており、現在は、東京都 世田谷区 の 龍雲寺 住職をされておられる日本臨済宗の正脈の重鎮でいらっしゃるお方です。以下、ネットで調べた記事を転載します。
「「掬水月在手、弄花香満衣(虚堂録)」、この句は唐の詩人干良史作の『春山夜月』の詩より『虚堂録』に引かれているもので、本来は春の夜の優雅さを詠じた句です。「水を掬す」とは、水をすくうこと、「花を弄す」とは、花と戯れること。顔でも洗おうかと思ったのか、ふと水鉢の水を両手で掬うと、両手の掌の中に鮮やかに月が映っているではないか。行きずりの道の傍に咲く花があまりに美しいのでちょっと戯れると、その香りが衣に移って、いつまでもいつまでも花の香りを楽しむことができる、というわけです。
水を掬えば仏法の光が輝き、花を弄すれば仏法の教えに触れる。すなわちいつでも、どこでも、見るもの、聞くもの、在るものすべてが何一つとして仏法の真理から離れたものは無いことを言おうとしています。
ただ私たちは、それに気づかないだけです。否、心がそこにないから、水を掬っても月に気がつかず、花を弄して衣の香りに気がつかずにいるのです。」
以上であり、これはこれで立派な解説と思います。
次の写真は、岳南支部の見台に書かれた耕雲庵老師の揮毫です。小生も10年ほど前に岳南で拝見し、また恐れ多くもこれで提唱もさせていただきました。昭和10年の年号が入っていますので耕雲庵老師が42歳であり、両忘庵釈宗活老師の名代として岳南摂心会をはじめられた頃ではないかと推察いたします。小生が生まれる5年前です。書きにくい台に素晴らしい揮毫であります。
もう一つ、次の写真は澄徹庵大重月桂老師の揮毫であります。年号は不明ですが昭和50年頃だと思います。素晴らしい茶掛けであり、秋にはいつも拙宅では掛けさせていただいています。
次に、芳賀幸四郎著『新編一行物』より、如々庵洞然老師の解説を引用します。
「この句は、唐時代の詩人の「青山夜月」の五言絶句の転結の二句です。
「春山多勝事 賞翫夜忘帰 掬水月在手 弄花香満衣」
大徳寺・妙心寺派直系の祖師である虚堂智愚禅師が、この二句を禅的に使って提唱されたことがあるので、日本の臨済禅ではこの語がまさに禅語になっているのです。」
これを如々庵老師は、4通りの解釈で説明されておられ、小生がこれを簡略に凝縮させて次に列記します。
(1) 朱に交われば赤くなる
(2) 目標を立てて精進努力すれば叶う
(3) 悟りの境地
(4) 物我不二の三昧境
如々庵老師は、「4つの解釈があり、どの解釈でも良いけれども、自分は(3)と(4)の解釈を取る。」と仰っておられます。
また先に挙げた、細川景一老師の説明は、如々庵老師の(3)悟りの境地にあたると小生は考えております。
小生自身の解釈は大体においては(4)に近いのですが、少し違ったニュアンスで味わいたいと思っており、そこのところを以下にご紹介します。
如々庵老師の(4)の説明をもう少し詳しく紹介しますと、「三つの三昧の中の一つである主客不二・物我一如がこの二句なのだ。そして「水を掬すれば、掬する我と掬される水とが不二になり、我がすっかり水になりきって月光をいっぱいにうつし、また花を手折れば、花これ我、我これ花と一枚になりきって、全身に芳香を放っている」という意味であると老師は仰います。
小生の看方と味わい方は、三昧を主客不二・物我一如に限定せず、動きの中での三昧の正念相続における境地としてとらえております。
この写真は、人間禅本部道場北寮一階禅子寮の入り口に掲げられている拙筆です。
『茶味』の著者である奥田正三先生は、お茶のお点前においては、「茶碗に汲み入れる水の音を筧の音にかよわせ、茶筅に谷川のせせらぎを偲ばせ、(茶杓で茶碗の縁をたたくのを)賤山がつの斧のひびき」を醸す、ととらえられています。この奥田正三先生の看方は、やはり正念相続一貫の様子であります。
この掲題の詩の場合も、正念相続がよどみなく続いて居れば、手水の水を掬うときにおいて、また床の花を庭から採ってくるときにおいて、まさに「掬水月在手 弄花香満衣」になると看ており、こういう如是法三昧の深く素晴らしい境地に近づきたいものであると思っております。
悟りの境地を表しているとか、三昧の物我不二とかを全く意識せず、ただ一挙手一投足においての正念相続の詩であり、それをそのまま味わえば良いと思っています。なかなか容易ならざる深い境地であり、そしてこうありたいものであります。(焚香 九拝)
]]>栃木禅会日曜座禅会朝のミニ講話
2023年4月2日
堀井無縄
今朝のミニ講話は、「行は童子の足下を拝す」というお話をさせて頂きたいと思います。
私の座右の銘としている金言でありますが、他にも心に刻んでおきたい金言は50程あります。皆さまもそれぞれの人生において自分を励ましたり、戒めとしたりする言葉をお持ちだと思います。
私は95歳まで生きて来ましたが、山あり谷ありの人生でありました。自分の戒めとなる金言、名言を座右の銘として拳々服膺し生きてきました。しかしまだまだ未在です。
「威は毘廬の頂寧を踏み、行は童子の足下を拝す」は禅林句集にある語でありますが、威は威力のこと、他を恐れさせ従わせる勢いのことで、いかなる困難にも屈しない強い意志、気概のこと。毘廬とは、毘廬紗那仏のことで、奈良東大寺の大仏はその仏を具象化したもので大日如来とも言い最高位の仏像のことであります。頂寧は頭のてっぺんのことです。奈良の大仏さんの頭を草鞋履きで踏んづけて、更にその上を行くような見識、気概を持って天下を闊歩し、しかしそれに留まらず、行いは子供の足下を礼拝する謙虚さを持つという意味です。自らも尊い仏性を信じて、何に対しても恐れたり、萎縮することの無い強い気持ちを持ちながら、常に自らを省みる姿勢を大切にし、人を思いやり鼻たれ小僧や乞食にも合掌し教えを乞うと言う意味であります。
凡そすべての人は本来円満に仏性を備えており、仏にあって増さず、凡夫に合って滅せずで、万人皆平等であり釈迦も人なり我も人なりであります。尊い仏様の頭を草鞋履きで踏んづけて行く気概と勇気で天下を闊歩し、しかもその境涯に留まらず自らを省みるにまだまだ未熟で道眼が暗く道力の低いことに気が付き謙虚に行動することの意であります。
この厳しい現代社会を生きるには、先ず何事にもブレない自分を鍛え上げることです。そうすると、自ずと人を思いやり謙虚な行動になるのです。
あの演歌歌手の大御所である北島三郎さんは、歌手として自分は素人さんの歌から学ぶことが多いと言っています。私は師家を拝命して約30年になりますが、皆さんを指導しているなんて思ったことは一度もありません。常に学人の皆様と共に学んでいます。私にとって皆さまは最高の教師であります。
私が思うに、明治維新、江戸城の無血開城時の西郷隆盛と山岡鉄舟との武士道を極めた、誠一筋の心の応酬。また西郷と勝海舟との折目正しい礼節の対談。西郷は幕府の重臣に対する礼を失せず始終座正して戦勝の威光を持ちながら、少しも敗戦の将を軽蔑することなく謙虚に接し思いやりがありました。また鉄舟,海舟も堂々たる見識を持ち敗戦のまことを尽くしたのであります。
又、日露戦争で日本が勝利し、乃木大将と露将ステッセルとの会見では、乃木大将はステッセルに礼節を尽くして謙虚に迎えたのであります。真に威は毘盧の頂寧を踏み、行は童子の足下を拝すでありました。
しかし第二次大戦の軍人たちはどうであったのでしょうか?軍人たちの中には武士道を貫いた立派な人物もあったでしょうが、大戦の始めシンガポール陥落の時、白旗を掲げて降伏してきたパーシバル将軍に対する山下将軍は、威丈高になって睨みつけテーブルをたたいて恫喝する態度でありました。国民もこれに同調し熱狂したのであります。この当りから日本は武士道の精神を失ってきたとも言えるのです。
最近の日本人は倫理感がない、威風堂々たる気概がない、覇気がないなどと言われますが、心を鍛えることを疎かにしているからであります。心技体。先ず心を鍛えることであります。勝負の世界、武道であれスポーツであれ勝者が敗者に対し、良く頑張ったという賛辞を贈る心遣い、思いやり、謙虚さは美しいものがあります。子供の命を守る母親ほど強い者はいないと言われますが、子の命を守るという優しさの中に、強さが秘められているのです。そしてこの「威は毘廬の頂寧を踏み、行は童子の足下を拝す」には毅然たる気概の中に人を抱擁する力、人の欠点を言わない、ひとの失敗を責めない、自分の功を誇らない、人を救うとか指導しているとかの意識のないこと。そうすることで、人間味の豊かな薫りある実行力の人という姿が秘められている金言であります。どうかこの意を体して頂きたいと願っております。
合掌
丸川春潭
小生の実践経験ですが、数息観評点基準に従って一日一炷香の評点付けをすることにより、従来では踏み込めなかった数息観の質の点検に踏み込むことができ、己の修行レベルに客観的視点を加えることができるようになった。その結果、昨日よりも今日、今日より明日こそはと、日進月歩で自分の数息観を深めてゆくことができ、ややもすればマンネリに陥りやすい一日一炷香に精彩を加えることができるようになった。
それは数息観の一日一炷香という地味な努力の継続という修行が、明確な客観的数値の目標の設定により、その結果を自分で確認できる方式が確立できたからである。その効果には、始めてみなければ、実践してみなければ予想もできなかった驚きがあった。
日常における人間形成の手堅い道がここにあったのである。われわれの人間形成の禅は、公案を用いた道眼を開く参禅弁道と、三昧を身に付け道力を養う数息観法の日常的実践から成り立っており、この両方の柱によって臨済宗の人間形成教育システムは構築されているのである。
しかし従来より、前者の参禅弁道の修行の方は、明眼の大宗匠耕雲庵老大師の瓦筌集によって人間形成の過程に従う明確な目標設定がなされ、それにしたがっての正脈の師家の厳しい指導が実態として確立されていたが、後者の方は、耕雲庵老大師の「英山の今日あるは、一日一炷香を正直に続けてきたからである」との述懐に基づく、「一日一炷香のすすめ」の連呼に終始しており、最初に述べた数息観の質的検証と、そのレベル(目標)の設定がなされないまま今日に到っていたのである。それでは参禅弁道では低きから高くへとの段階を歩めるが、修行の両輪である数息観による道力の進歩については成長過程がつかめない状態におかれることになる。そこに踏み込む試みがこの数息観評点基準と評点付けなのである。
この数息観評点基準は、人間形成の最初から、人間形成を全うする領域までの全行程を網羅したものである。一人でも多くの方が、本当の自分探し(人間形成の禅)の道に入り、全ての人が本当の自分をしっかりつかみ(人間形成を全うし)、正しく楽しく仲の良い社会建設プロジェクト推進が進展する縁(よすが)にこの試みがなることを祈念し筆を擱く。 合掌
【追記:数息観座禅の進め方】
評点は主観評価ですのでともすれば甘く良い点を付けたくなるものですが、できるだけ客観的評価になるように自分に厳しく評点付けをすることが肝要です。そうする厳しい評点の方が大きな目で見て三昧力を付け道力を付ける修行により早くなります。また最初は数ヶ月単位で、しばらく継続すると数年単位で、三昧力の進歩に応じ、主観の評点基準をより厳しい基準に上げて更に向上を図る工夫も適宜されることも大切です。
【注意:参考文献】
次頁の数息観評点基準を見て実践される人は、先に耕雲庵英山著「数息観のすすめ」を読んでおいて下さい。(数息観初期、中期、末期、あるいは「二念を継がず」の該当場所の説明を参照下さい。)
特に、50点以上に進まれた人は、拙話「提唱録:「数息観を深め味わう」人間禅HP「座禅の工夫」、同「道力(胆力)をつけるには」をお読み下さい。60点以上に進まれた人は、拙話「提唱録:「数息観を深め味わう」(中期数息観)をお読み下さい。また70点以上の方は、提唱録:「数息観を深め味わう」(後期数息観)人間禅HPブログ「正念相続」同「数息観は一念不生だけでは不十分」をお読み下さい。これら参考文献は、人間禅HPの人間禅図書館および「師家ブログ」に収録されています。
【数息観評点基準】
2010.8.10設定、2012.1.1.改訂、2017.11改訂、2020.1改訂、2020.10改訂、2023。4改訂
0点:
その日数息観をせず。
30点:
ちょっとした待ち時間、通勤途中の電車内などで、初期の数息観を実行した(数息の質は問わない)。
40点:
始業前、休憩時間など、空いた時間に(椅子に座って)合計15分以上数息観をし、数息観初期の1から100までを実行した。
45点:
半炷香(約25分間)以上静坐し、数息観初期の1から100までを間違えずに数えられた。
50点:
一炷香静坐し、数息観初期の1から100までを間違えずに1回は数えられた。
54点:
数息観初期の1から100までを一炷香を通して間違えずに数えられた。
(45分間では、100までを3から4回数えられる。)
55点:
数息観中期の「二念を継がず」を1〜5までは何回か達成できた。
(54点までが、数息観初期、55点からは、数息観中期に入る。)
58点:
「二念を継がず」を1〜8まで、1回は達成できた。
60点:
「二念を継がず」を1〜10まで1回達成できた。
62点:
「一念不生」を1〜5までは達成できるようになった。
65点:
「一念不生」を1〜10まで、1回は完璧に達成できた。
67点:
「一念不生」で且つ「数息集中」を1〜5までは達成できるようになった。
70点:
「一念不生」で且つ「数息集中」を1〜10まで、1回は完璧に達成できた。
75点:
「一念不生」で且つ「数息集中」の1〜10までが2回連続も含めて安定してできた。
80点:
「一念不生」で且つ「数息集中」の1〜10までが5回連続してできるレベルになった。(中期数息観終了)
81点:
呼吸を数えないで完璧な10息集中を3回以上達成できた。
82点:
正念息(ただ呼吸に集中している)座禅が確実に継続できた。
83点:
忘息観(離息観)(呼吸を全く意識しないで正念相続している座禅)が、安定して継続できた。*宝鏡三昧の坐禅。純粋に只管打坐になる。
84点:
【備考】評点付けの注意点
:5点刻みではなく、1点刻みで評点を記録すること。
:表に記入すること。望ましくは折れ線グラフにしてその推移を反省の糧とするとよい。
:一ヶ月の平均値も出して、月々の励みにすると良い。
:担当師家に毎月提出して、ご指導を仰ぐとより励みになり、ひいては深い三昧を早期に身につけることができる。
丸川春潭
人間禅HP師家ブログ2022.10.1「正念相続」について、数息観において1〜10息までを一念不生でできれば70点であり、これを5回連続して続けることができたら80点としているが、70点までは数息三昧を深める修練であり、70点から80点までは三昧を相続する修練であると書きました。
70点の質を深めるレベルは、主観評価としてなかなか評点が難しいところです。もちろんそれは評点付けの最初から判っていたことですが、無理を承知で始めた経緯ではあります。そしてその難しい評点付けを客観的にするための指針として、「二念を継がず」と「一念不生」という表現を導入し、これでもって、中期数息観(55〜80点)の質レベルを規定してきました。
ご承知の通り、耕雲庵老師の『数息観のすすめ』での中期数息観段階では二念を継がずという表現はありますが一念不生はありません。自分の経験から、「二念を継がず」だけだと主観評価の幅が大きく、ともすれば評点が甘くなり勝ちになります。そこで、敢えて「一念不生」という表現を中期数息観に導入して三昧のレベルを示すことにしました。一念不生は二念を継がずに比し、妥協の余地がない規定ですので、この両方で中期数息観のレベル付けをしたのです。この一念不生の導入は良かったと思っています。
しかし、ここ数年の数息観評点記録を介しての修行者とのやりとりをしていて気づいたのですが、一念不生だけでは真の数息三昧を規定できていないのです。すなわち主観の入る余地がないと思っていた一念不生でも、主観により幅がでてきて評点が甘くなる実態に気づきました。
そこで評点で70点以上を付けている数息観上級者に対しては、相続力の修練だけではなく、70点の数息観の質も更に深めるようにと、念を押して云ってきました。また自分の数息観において、80点以上になったときにその兆候を感じておりました。すなわち後期である80点以上になると、80点までの三昧の深さと相続力が兼備できていないとなかなか進みません。主観評点で80点になっていてもその質にばらつきがあるのです。そしてその原因がその時々の70点の質にばらつきがあるからではないかと考えていました。自己評価としては、一念不生で雑念無しの1〜10息ができているのは間違いないし、それを連続5回やり切っているのも確かだけれども、それでも質に深浅があり80点の三昧にばらつきがでているということです。すなわち厳密で妥協のない一念不生は間違いなく雑念はないのですが、雑念がないだけでは真の三昧が規定できていないと云うことです。
先日、東京中央支部摂心会で十牛の図の提唱をしている中で、耕雲庵老師の次の既述に遭遇しました。
耕雲庵老師いわく、「三昧と無念無想とを取り違えている門外漢がよくある。座禅するのを無念無想になる稽古をすることだと誤解をしている者が大勢いる。三昧とは純一無雑に、一つのことに成り切ることであって、決して無念無想になることではない。」
これがヒントになり、数息観三昧の評価と数息観評点基準を抜本的に見直す必要があると思い至りました。すなわち厳密な一念不生でチラッとした雑念も入らない数息観でも、ただ数を数えているだけで数息に純一無雑に成りきれず、真の数息三昧になっていない場合があるのではないかということです。これは1〜10息の間で、一念不生で雑念こそ入ってはいないが、1〜10息の間で何度か数息に純一無雑に成りきれず、ただ数を数えており、部分的に数息三昧が途切れていると云うことです。これは老師の仰る無念無想とは違いますが、数息三昧が徹底しておらず数息観の質が浅くなっているということです。
耕雲庵老師も『数息観のすすめ』での数息観のやり方の導入は、「雑念が入るとまた一に戻す」という表現で、雑念が入っているかどうかに焦点をおいた数息観の指導になっています。初心者にとって雑念無しに数息に集中することは大変な難題であり大きな壁です。したがって、初期数息観の段階では、雑念のあるなしだけに注目しての数息観法で良いのでしょう。しかし数息観に熟達して、70点レベル以上になってくると雑念が入らないということだけではなく、純一無雑に数息になりきる深い数息観、真の数息三昧に深めなければならないのです。すなわちこの中級・上級のところまで来ると、一念不生で雑念がないだけでは数息観三昧の規定として不十分と云うことです。
すなわち評点基準が一念不生で雑念無しに10息まで数息できたら70点にいたる規定の改定が必要ということになります。
小生は数息観坐禅の一般的な説明に際して、数息観は息を数えることでマインドをフルにする行なのだと常に云ってきました。これで良いのであり、これが徹底できておれば、一念不生での雑念無しになっているはずであります。しかし、これだけではやはり親切な導きではないので、もっと説明の工夫をする必要があります。
初期数息観はさておき、中期数息観の導きは、「二念を継がず」から一念不生」を経て、さらに純一無雑な「数息集中」へと進んで、1〜10息を完璧に数息のみになって初めて真の数息観三昧ということができ、これを真の70点と規定すべしです。
一念不生で雑念無しの10息を連続5回できても、後期数息観が進み難いという状況は、雑念はなかったが時々数息集中が飛んでおり、真の数息三昧になっていなかったからだと納得できますし、頭燃を救うがごとき真剣な数息観をやった場合に深い三昧にいたったのは、数息集中が完璧だったからであると納得できます。
何年も数息観をやっていると、雑念なしで数息するのは段々とできて来ますが、ひと息の緩みもなくこの純一無雑な数息三昧になるのは、とんでもなく難事な壁であります。一息一息純粋に数息集中しているかを自分で確認することさえも結構やってみると難しいことです。火の玉になり頭燃を救うがごとき集中が、数息観座禅には不可欠なのです。スムーズに安楽に数息三昧に到ることは大力量の達人でもできないことなのです。
数息観評点基準の改訂版は追って出しますが、取りあえず中期数息観の65点から70点の規定を下記に変更します。
2020.10改訂版
65点:「一念不生」を1〜5までは達成できるようになった。
70点:「一念不生」を1〜10まで、1回は完璧に達成できた。
2023.4.3改訂版(抜粋)
62点:一念不生を1〜5までは達成できるようになった。
65点: 一念不生を1〜10まで、1回は完璧に達成できた。
67点:一念不生で且つ数息集中を1〜5まで達成できるようになった。
70点:一念不生で且つ数息集中を1〜10まで、完璧に達成できた。
「一念不生だけ」すなわち「雑念無しだけ」の数息観では受け身的であり、癒やし系に近い行になるおそれがあります。数息に純粋に集中しその結果として当然雑念はチラッとも入らないという数息観は能動的であり、しっかりと三昧が身につくものです。人間形成の禅の数息観は、能動的でなければ実社会で役に立つ人間形成にならないということは、人間禅始まって以来の方向性であります。
ここにきて今までやってきたことを振り返り反省しております。道力を付ける数息観坐禅修行は、従来は本人の精進に任され、師家は円了垂示で異口同音に「一日一炷香」の大切さを諭してきました。しかしこれがなかなか在家禅の場合難しいのです。先ず毎日坐ると云うことが難しい。さらに一日一炷香は一応続けられたとしてもマンネリになり、三昧を日常的に深めてゆくことは更に困難です。そこで、やり方において品がないかも知れないしある意味無謀なところもあるのですが、数息観の質を数値化して評価し毎日記録し、更にそれをひと月一回師家に見せるということを無理矢理やってきました。それは大方の顰蹙を買い、眉をそぎ落とされること必定ではありますが、それは確信犯としてやって来たのですが、その数息観評点の数値化規定が粗雑で未熟であったと大いに反省しております。これは60数年の小生の数息観座禅が徹底を欠いていたと云うことでもあります。
今後とも皆さんの知恵もいただきながら、本当の人間形成を進める本格のツールに数息観坐禅修行を進化させ続けてゆきたいと思っております。
]]>
丸川春潭
]]>
丸川春潭
現在、LGBT(性的マイノリティ:lesbian、gay、bisexual、trance-gender)理解増進法を今年7月に日本で開催される主要七カ国首脳会議までに法制化しようと政府は進めており、それに対してSNS上で喧々諤々の論議が飛び交い炎上しています。
先進7カ国のうちLGBTを法的に整備していないのは日本だけであり、LGBTに無関心な国として恥ずかしいからその会議開催までに急いで法制化しなければならないと政府は急いでいるようです。
最近のSNSで注目されるのは、自分がLGBTであることを敢えてcomingout(告白)して、こんな法律出して欲しくない!と。当事者の何人かが声を挙げ始めています。当事者の差別に対する感じ方と社会的な差別との間で大きな乖離が明らかになってきています。
禅は、「差別と平等」・「相対と絶対」・「生と死」という真逆な相容れない見地を真正面に据えて、これが如何に調和するかを追求し、その違いを如何にして乗り越えるかを目指しているとも云えます。そしてこれに対する究極の解が釈迦牟尼の悟りであり、それを「色即是空 空即是色」と表現しています。
これは宗教のカテゴリーであり、これをいきなり社会的な差別の問題解決に結びつけることは御法度なことです。つまり今までの歴史を見ればこの御法度を犯した事例は数多見られるのです。たとえば西欧における中世の封建社会におけるキリスト教の位置づけに見られるように、社会的差別や矛盾を宗教教義をもって押さえようとすると、「宗教はアヘンである」となってしまうのです。
では在家禅として実社会の重要な課題である社会的差別をどう見てどう対処するのかでありますが、一般解を軽々に出すことはできないし、してはいけないと考えます。したがって一般解では無しに、始めに掲げた現在炎上しているLGBT問題についてこれをどう考えどう対処すべきか、足下の自分の生活実感からその方向性を探ってみたいと思います。
日本には仏教伝来以前から神道思想が村や町に広く風土としてあります。この神道は多神教です。日本の外から伝来した仏教が早期に日本に馴染み風土化した背景には、この仏教も多神教であり、神道との馴染みが良かったからだと思います。
これに対してキリスト教(一神教)は、フランシスコ・ザビエルによって16世紀半ば日本にもたらされましたが、現在の日本の信者は人口比1.5%でしかありません。ローマ法王側からは、日本は布教に失敗した国ということになっているようです。この布教が失敗したのは、日本に風土として多神教がしっかり根ざしていたからであり、それに一神教がなじみ難かったからではないかと思います。
この多神教を禅的にじっくり噛みしめて看ると、多神教には差別の相互容認を自ずからの性格として持っているのではないかと思われます。だから神道と仏教が容易に融合できたのではないかと考えますし、さらに突っ込んで考えると、神道の自然崇拝の根源と仏教の根源がかなり近いものであるからと考えられます。
日本の多神教の風土すなわち差別の相互容認の風土は、昔から社会的に普通にあったと思います。自分が今まで育ち生活をしてきた身の回りでも、精神的に肉体的に普通と変っている人はいましたが、その違っていることを社会的にあからさまにして差別することもなく、本人も周りもそれを認めた上での生活がなされてきたと思い出します。
違いを許さない一神教の風土には、マイノリティを排除する傾向が社会的にあるのではないでしょうか?だからそれを社会的に保護する必要があったのではないかと考えます。そういう背景で必要だからできた欧米の法制化が、日本にも必要かどうかは議論のあるところです。先進七カ国首脳会議で日本だけが法制化がないのは恥ずかしいからという対外的理由で急ぐのは、拙速感を否めないところです。大切なことは日本のマイノリティの当事者にとってそういう法制化が望ましいかどうかであり、十分にその配慮がなければならないと思います。
禅は、山川草木悉皆成仏であるが、同時にすべてオンリーワンであり、万物すべて違いがあるのが自然であるという観点を持っています。そのままの違いをそのままで尊ぶ見地です。したがって、マイノリティの方々への対応も、違いを明確にするのではなく、みんな同じ本来の面目を持っていることを前面に意識し合う対応が、禅的な方向性であろうと思います。そして実際には、本人は肩身の狭い思いをしているだろうと同じ思いになって、そのことにはことさらに触れずに対応することが大切であり、自然に普通に付き合うのがベストであると考えます。
禅語に、「愁人愁人に向かって説くことなかれ、愁人に説向すれば人を愁殺す。」(愁人莫向愁人説向愁人愁殺人)がありますが、これがこの社会的な差別を受けている当事者の気持ちだと思います。
繰り返しになりますが、お釈迦様の悟りの原点は、山川草木悉皆成仏であり、この悟りは人間に対しては老若男女、貴賤を問わず、人種を問わず、LGBTsを問わず等しく「本来仏なり」であります。すべての人は皆Only oneな存在であり、みんな違いを持ちながら、等しく「本来仏なり」である、これが禅の人間観です。
この観点からも日本の暗黙知の風土が差別の中に平等を自然に持っていると評価できますし、これを今後も大切により深くより広く共有してゆきたいものであります。
栃木禅会日曜座禅会朝のミニ講話(2023年1月29日)にて
堀井無縄
今朝は先週の“本物人間になる”と関連して「無駄骨を折る」というお話をしたいと思いますが、本題に入る前に、最近気になっている事を少しお話したいと思います。
宗教家と言われている人が本を出版したり、講演したりして、良くマスコミに取り上げられています。そして中には仏道の原点を「因果応報の真理に学ぶ」等と唱えている人がおります。悪行悪果,善行善果で、悪い事をすれば悪い結果、善い事をすれば善い結果が出るという説であります。確かに民衆教化の為には結構な事でありますが、これは封建時代の支配階級が利用するための説で宗教の本質ではありません。
宗教は正邪善悪、賢愚を超えて一切の人間は平等であると教えています。仏教であれ、キリスト教であれ宗教は裁きではなく救済であるのが、その本質であります。私も幼いころ母から「人間悪いことをすれば、死んでから地獄に落ちて閻魔様に舌を抜かれるよ!」と教えられたものです。また、嘘をつかないこと、他人の物を盗まないこと、人を傷つけないこと等、厳しく教えられました。しかし大人になってから考えますに、死んでから地獄とか極楽などあるのだろうか?死んでから生き返った人はおりませんので分かりませんが、地獄、極楽は生きているこの娑婆世界にあると思います。人間死ねば、金持ちも貧乏人も偉人も凡人も、皆平等に一片の煙、一握りの灰になるだけなのです。
さて本題に入りたいと思いますが、「無駄骨を折る」とは、何の役にも立たないことを努力し続けることで、労して功を期待しないことです。また手間を惜しまず、辛いこと、苦しいことがあっても、楽をせず根気強く続ける事です。愚直にやり続けていると、辛いと思っていたことが、ある時フッと吹っ切れて楽になるものです。皆さんもこの様な経験がおありだと思います。座禅もまた、この忙しい時に座って何になるのだろうか?とか、辛い苦しいばかりで、どんな取得があるのだろうか?等の疑問があると思います。しかし、石の上にも三年という言葉があるように、続けているうちに苦しい辛いが楽しくなるのです。そしてこれが、人生においてとても大切な宝となるのです。
白隠禅師は、毒語心経で「徳雲の閑古錐 幾度か妙峰頂を下る 他の痴聖人を傭うて雪を坦って共に井を塡む」と言われましたが、この意は、
◆徳雲: 悟りの深い徳のある禅者
◆閑古錐(すい): 使い尽くしてもう役目を為さない使い古しの錐(きり)のことです が、世俗に振り回されない悠々自適の真の禅者の意
◆他の痴聖人: 番番出世(順序を追って諸仏がこの世に現れる事)の祖師方のことで、身命を惜しまず無駄骨を折っています。太平楽を貪ぼって自分が迷っていることにも気づかずにいる衆生達を見るに見かね、さあ、勉強しなさい、さあ、学びなさい、工夫しなさい、悟りなさいとお節介しないではおれない祖師方のことです。
つまり、悟りの深い真の禅者が幾度か山から下りて来て、頭から灰をかぶりながら大衆と組んず解れつ、汗水流して目の前の任務に脇目もふらず結果も考えずに取り組んでいます。その祖師方と共に雪を運んで井戸を塡(うずめ)ようとしているが、井戸は塡(ふさが)らない。労して功なし、無駄骨折りであるという意ですが、これは菩薩の慈悲行を言ったものであります。
現代社会を見ると、迷える人の多い混濁した社会です。一昔前は、電車やバス等、乗り物で本を読んだり新聞を読んだりしている人が多かったものですが、今は10人中7、8人がスマホを片手に小さな画面に見入っています。覗いて見るとゲームをしている人が多いようです。確かに便利な世の中になりました。すべての情報はスマホで得られますが、本を読むことは大切だと思います。一度読んでおしまいと云うものではなく、何度も同じ本を繰り返し読むと、作者の心を学び味わう事が出来ます。それが本当の意味の読書です。雑学でなく心を修する本を読むことが第一義です。無駄骨折りのように見えますが、教養として蓄積されていきます。一人でも多くの無駄骨折り、痴聖人を友に、尊敬し合い、励まし合って正しく楽しく仲の良い社会が現成されることを願って終わりたいと思います。
合掌
]]>――その21「尋常一様窓前月 纔有梅花便不同」 ――
丸川春潭
今日は2月8日で、庭の白梅は3本とも満開になり、馥郁とした香りを漂わせております。一昨日は2月の満月でもありました。そしてこの句を思い出しました。
「尋常一様窓前月 纔有梅花便不同」(尋常一様窓前の月 纔わずかに梅花有りて便すなはち同じからず)、この出典は、槐安國語です。
この著語はまさに今、味わうべしであります。
如々庵芳賀洞然老師の『一行物』には、残念ながら収録されていません。
そこで例によって、『茶席の禅語大辞典』有馬?底監修、淡交社発行を先ず見てみたいと思います。この監修の有馬?底管長の略歴をネットで検索しますと、「1995年、臨済宗相国寺派七代管長に就任。相国寺、金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)の3か寺の住職を兼ねる。」とあり、日本臨済宗の重鎮である偉いお師家さんです。
『茶席の禅語大辞典』をひもとき下記に添付します。
「窓から見える月は同じであるが、その眺めにたった一枝の梅の花が加わるだけで風情はすっかり変ってしまう。円満無欠の月を仏性にたとえて、私たちの仏の心には、どれだけ価値のあるものも、どれほど有難いものも無用であるということ。」とあります。
何度も読み直してもよく分かりません。二つの文章からなりたっており、前の文の説明を後の文章で説明しようとしているようですが・・・?
「・・一枝の梅の花が加わるだけで風情はすっかり変ってしまう。」その根拠というか説明が、「・・私たちの仏の心には、どれだけ価値のあるものも、どれほど有難いものも無用であるということ。」であります。
小生は、浅学にして理解できません。どなたか理解できる人は教えてください。
小生の解釈と味わいを次に記し、諸兄姉のご批判を頂きたいと思います。
表面上の意味は、「いつもと同じ窓からの月の景色に、梅の香りが少しでも入ると全然違ったものになる。」となります。梅の頃は春であり、秋の月のように煌々とではなく、梅といえば形でも色でもなく香りであることは中国および禅では常識です。春の夜の梅一枝は目で見える景色に梅の枝が一枝加わって、目で見える景色が変ったのではなく、その春の夜に馥郁とした香りを添えられたためにいつもの窓の月が変ったと解釈します。
以上は表面上の語句の意味の解釈ですが、この著語の仔細を次のように看て味わいたいと思います。
月のある窓から見える景色は、色即是空の色を表しており、梅の香りを空と看ます。窓からの月の景色は目で見える物(色)ですが、それに目には見えない空も合わせて看る。すなわち普通の月の見える窓からの景色に梅の香りが漂っている光景を、色即是空の開示であると看るのです。
何気なく見ている景色を悟りの眼で看るとガラッと変って看えてきて、如是法の展開ととらえるのです。
「尋常一様窓前月 纔有梅花便不同」、何度も読み返してみて、深く味わえる良い詩であります。合掌
栃木禅会日曜座禅会朝のミニ講話(2023年1月22日)にて
堀井無縄
江戸初期の儒学者である中江藤樹は、陽明学の祖と言われ、又近江聖人とも言われた人であります。
陽明学とは、明の王陽明が唱えた儒学で知行合一を唱えた学派です。「それ学問は心の汚れを清め、身の行いをよくすることを本義とする。」と言われ、「人間は明徳、仏性を根本として生まれたるものなれば、この性なきものは、誰もなし。この性は人の根本なるによって本心と名づくなり。」「学問には品あまたありと雖も心を修める学問のみ正真の学問なり。この正真の学問は天下第一等のこととして、人間の第一義なり。」と言っています。
この意は:
?真実の学問とは、心の汚れを清め善き行いをすることである。
?人間は本来明徳仏性を持って生まれ、この本性を持たない者は独り もいない。明徳、仏性は人の根本を為すもので、これを本心と名付ける。
?学問には色々な分野があるが、その中で心を修める学問が一番大切であり、人は先ずこれを第一義として学ばねばならない。
というものです。
道元禅師も、「未だ修せざるは現れず、証せざることなし。」 とおっしゃられていますが、この仏性は、本来人間が生まれながら持っているものだが、修行しなければ得られないものだという意であります。
尊厳なる人間に生まれたにも拘わらず、勉強もせず、努力もしない者は単なる馬鹿で、命がけで修行し精進し続けている者を大馬鹿と言います。 この大馬鹿こそが、本物人間なのです。何事も一生懸命に続けることで本物になるのです。
座禅し数息観で三昧力を涵養すると言われましても、そう簡単には出来ないものです。初めのうちは、座れば足が痛いと思うかも知れませんが、誰でも痛いのです。吸う息吐く息を一つとして、ゆっくり100まで数えなさいと言われても、色々な雑念が涌いてきて数えていた数が分からなくなるし、出てくる雑念を消そうと思い、消そうとすればするほど次から次と涌いてきて収拾がつかなくなるというものです。しかし、座り方を工夫して続けていると足は痛くなくなります。また出てくる雑念を出てくるままにして、ひたすら数息観に集中し続けていれば、いつの間にか数息観だけになっているものです。これが、数息観三昧です。この三昧力が、あらゆる日常の生活や仕事に役立って来るのです。
江戸中期、臨済禅中興の祖と言われた白隠禅師は、妙心寺の第一祖として禅の民衆化に力を尽くし、人間の生き方、倫理、道徳の要を説き、人づくりの教えとして『まことの心』を涵養することを説かれました。 『まことの心』とは、私利私欲を無くし、自分が出来ることを精一杯することで、世の為人の為に役立つことです。そして、『まことの心』を持つ本物人間になるには、禅の修行を第一とすべしと布教されたのです。後に明治天皇から日本の宝と言われ、【正受国師】という国師号が贈られました。「駿河には過ぎたるものが二つあり。富士のお山と原の白隠」と詠われました。富士の山と白隠の教えを日本の宝とすべしと仰せられ、軍艦を造るより先に人をつくれと仰せられました。
私共の人間禅は、この白隠禅師の法を嗣でいる正法禅であります。伝法系図から言うと釈迦を第一世とすると、白隠禅師は七十三世になります。この法を嗣いで人間禅を創設された耕雲庵立田英山老師は八十一世になります。達磨大師を一世とすれば、白隠禅師は四十六世となり耕雲庵立田英山老師は五十四世となります。現在この正法禅は、インドにも、中国にも存在しなくなり、日本のみ受け継いでいます。私共は、その大法に参じているのです。
芸能の世界を覗いてみると、歌舞伎の人間国宝 中村吉右衛門さんや坂東玉三郎さんは、芸道と共に心を修める事を第一として精進された方々であります。「舞台に立つ時は、いつも初めて立つという心構えで出ています。」と言われ、「私のような者が、この様な場に立っていられるのは、日々の努力、修行の積み重ねによるものです。しかし、まだまだ先師の足元にも及びません。せめて踵くらいまで近づきたいものと精進しています。」と言われています。芸から出てくる人間味の豊かさがにじみ出て来る素晴らしい方々であります。茶道にしても書道、剣道、芸道全て道(どう)のつくものは、心の修行を第一とし型を修練し、その型から抜けることにあります。現代社会の愚かさは修行もしないで人間としての型が未だ出来ていないのに、独りよがりで出来たつもりになっている者が多く、歪な世の中になっています。苦しみに耐えた後に本当の楽しみ、発見があることを知らない人が多いような気がします。また、修行を積めば積むほど自分の未熟さが見えて恥じ入るものです。実るほど頭を垂れる稲穂かなであります。
私も禅の修行に入って七十年ほど愚直に続けて来ましたが、まだまだ足りません。未在です。道は無窮です。合掌
丸川春潭
我々人間禅の大先輩である無得庵刀耕老居士が、法定の型を取り入れた摂心会を人間禅でやられると良いと遺言的に言い残されており、このことについては以前ブログも書いています。禅宗における摂心会はもっとも格式の高い重要な行事です。在家禅の人間禅にとってもその位置づけは変りません。常に厳修という言葉を使って営弁してきています。その摂心会に法定の型の稽古を取り組むと良いという示唆は、結構革新的であると思います。小生が総裁になり技芸道他の人間禅の横糸支部の創設とその活動の中で、剣道の古流の型のひとつである法定の型を伝法の師家に参ずることを肝にした摂心会に取り組めば、人間形成の禅が大いに進められるとの無得庵老居士のご見解を何とか実現したいと千鈞庵老師と諮ってきました。
どう実践してきたかという前に、「無得庵刀耕老居士」「宏道会」「法定の型」をご存じでない方のために簡単な説明をしておきます。
「無得庵刀耕老居士」は、本名小川忠太郎であり、1901年生まれですので今年で生誕122年の大先輩です。この方は人間禅初代総務長、初代中央道場長、警視庁剣道部最高師範、日本剣道連盟九段を歴任し、人間禅傘下に剣道の会「宏道会」を創設し最高師範になられ、そして膨大な講話とか講演話を「剣道講話」として遺されています。故寶鏡庵長野善光老師、現総裁千鈞庵佐瀬霞山老師、現総務長千峰庵三松無妙老居士、特命布教師剣清庵栗山令道老居士、現宏道会会長岡根谷無刀居士などが直弟子です。小生は剣道に縁がなく直接のご指導は頂けませんでしたが、本部摂心会では何度かお目に掛かりお茶席でご一緒する程度でしたが、「剣道講話」でその人となりに大いに感銘を受け学ばせて頂いた大先達です。
「宏道会」は、初代総裁耕雲庵老師と第二世総裁佐瀬孤唱老師の計らいで無得庵老居士に指導をお願いしてできた人間禅傘下の剣道会であり、市川の本部道場に剣道場を持っています。無得庵は、全日本剣道連盟の創設に関わり、剣道理念「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」ありますが、この「人間形成の道である」の文言は、老居士が強く主張されて入ったと伺っています。そして日本の剣道は勝ち負けを競うスポーツになってしまっていると嘆かれ、それに対して宏道会では段位をなくし勝負を排した人間形成のための剣道会として指導され今日にいたっています。
「法定の型」をネットで調べた結果は、「法定(ほうじょう)の形は、直心影流剣術において最初に学ぶ形であり最も重視された形。」「直心影流の形で、技よりも気を練り、間合いを知り、筋骨を鍛えることがその目的とされている。多くの形の中でも傑出した気力迫力が感ぜられる。」「法定の型の演武:八相発破、一刀両断、右転左転、長短一味の4本よりなる直心影流の根本の型である。」等が出てきます。小生は、70歳から始めて10年間千鈞庵老師以下の宏道会のメンバーにご指導頂きました。小生の看方は、人間禅季刊誌『禅』54号(通巻234号(2016年)の巻頭言に「法定の形と禅〜小川忠太郎の夢〜」を掲載しておりますのでご参照ください。
2007年8月(宏道会創立五十一周年記念式に先立ち)、初めて「剣道家のための参禅会」が人間禅本部道場において開催され、無得庵老居士のご希望を実行に移すことができました。爾来、昨年まで15年間にわたり、剣禅一味摂心会を人間禅の各道場・各支部において開催してきました。
2009年1月茶禅一味参禅会が剣禅一味摂心会の応用編として1年半遅れで開催され、爾来、昨年まで13年間にわたり、茶禅一味摂心会を全国各支部道場で実施してきました。現代の日本の茶道会のほとんどはお家元制度傘下にあり、大寄せの茶席・茶会をメインに据えたお茶の稽古になっており、道具立てに凝り、名の通った管長さんの揮毫の掛け物を珍重して人に見せるお茶になっており、利休のわび茶から遠ざかったままですが、耕雲庵老師が実践され示されたお茶は、これとは真逆のまさに日常において実践される「人間形成の茶道」そのものを実践され、それが人間禅の茶道となって今日まで継承されています。
これら剣道であれ茶道であれ、人間禅に於ける技芸道行事開催の原点は、現代社会の世直しのためという使命をしっかり認識しておく必要があります。その為には耕雲庵老師が人間形成の禅の中に技芸道をどう位置づけられているかを常に明確にしておく必要があります。そこで老師著作の『人間形成と禅』でこの箇所をしっかり点検しておきたいと思い、以下耕雲庵老師の言説を引用掲載します。
「人間形成を標榜する人間禅に於いては、科学的の視野に立って、教理の合理性を主張し、現実社会に立脚して、文化人の救済を唱え、民族的地域的の偏狭を棄てて、世界楽土を建設するのを悲願としております。したがっていろいろの(技芸)道と名付けられる広範な分野を検討するのを、一つの大きな任務としています。この点、古来の宗教団体には見られない新機軸かと思います。つまり、われわれは、人間形成のためには、実参実証としてという禅本来の修行と平行して、諸道にそれぞれの位置づけを与えながら、これを如是法に統合しょうとするものです。」
「技芸道は古くから宗教の宣布に利用されております。・・・しかしわれわれが技芸道を云々するのは、その利用価値を認めるからでもなく、またよく言われるように(技芸道)を楽しみ、(技芸道)を愛することによって、趣味を養い教養を高めようというのでもありません。それも結構ですが、ここではあくまで、如是法の一環として、もっと根源的なものに触れたいのです。それは、対象の生命の把握ということです。 そもそも技芸道というものは、性相の両面即ち心性と物性とを対象として、大自然の(人間を含めて)の生命躍動を把握し、これを、それぞれの技法によって、美として再現する道であるといえましょう。ですから対象の生命の把握することなしに、真実もなければ、美もないし、技芸道は成り立たないと申したとおりです。」
「もし技芸家が、自己の心性を見つめ万象の物性に徹し、大自然の生命と融合するまでに昇華することができたならば、これは、技芸道と宗教道の畦が切れて渾然一体となった場であります。・・・われわれは、この意味に於いて、技芸道を如是法の一環として取り入れるものであります。」
技芸道についての耕雲庵老師のお考えは、今までの日本の歴史にない人間禅の大胆とも云える特徴が明確にでています。そしてまたこの人間禅の技芸道の位置づけができた背景もあわせ理解しておく必要があると考えます。すなわちこの特異有る人間禅の技芸道の位置づけには、僧堂禅から在家禅さらに人間禅への歴史的な転換が背景にあってのその具体化の一つと見るべきだと考えます。すなわち在家者が技芸道を深く実践し、しかもその在家者が参禅弁道を究めて正法を嗣法し、技芸道と宗教道を一体となして人間形成に当たり、一般社会に世界楽土を建立しようとするのが、まさに在家禅から更に進化した人間禅しかできない使命であると老師は示されているのです。
そして剣禅一味は15年間、茶禅一味は13年間にわたり参禅弁道を中心に据える摂心会と技芸道を合体させ、横糸摂心会を開催してきたのです。まさに耕雲庵老師の方向性と無得庵の期待を具体化して実践してきたと考えています。
評価すべき点としては、禅修行が一人で三昧を身につける修行であるのに対し、剣禅一味の方では法定の形の相手と一緒に三昧を身につける修行が加わったことにより、耕雲庵老師の指向されるところのより進んだ在家禅の人間形成の禅を人間禅内外に示し得た点があります。また茶禅一味の方でも亭主があり客がある小座敷の茶席での茶裏見性まで踏み込んだ茶禅一味摂心会も全く同じで、自分一箇の向上を目指す修行に、無賓主の場を建立するという世界楽土に通ずる方向性を摂心会という形と共に内外に示し得た点であります。
ただ昨年、本部内でもこの横糸摂心会(剣禅一味摂心会、茶禅一味摂心会など)の開催についていろいろな意見が出てきました。
摂心会の中に茶禅一味と称してお茶会を入れるなどはもっての他で純粋な禅に特化した摂心会を戻すべきだという意見もありました。また、人間禅主宰の技芸道の催しにおいて、参禅はなくても良いのではないかという論点も出ました。これらの意見は、前掲の耕雲庵老師の技芸道の認識がまだまだ人間禅内に浸透していない実態を示しているということです。
これらを踏まえ、今後の人間禅での技芸道の展開すべき形態を整理しておきます。基本的考えは、耕雲庵老師の技芸道の位置づけをしっかり踏まえて、技芸道の活動を世界楽土建設への重要な柱としてしっかり展開することです。
剣道部、茶道部の横糸摂心会はこの15年、13年を継承するのが耕雲庵老師の技芸道の方向性にマッチしていると考えます。過去の反省で云いますと剣禅一味摂心会をはじめた頃は、小生が法定の形の稽古をはじめた頃であり、剣禅一味の担当師家としては不適格であったということ点があります。そして総裁交代により4年前から千鈞庵老師が担当され出してからが、耕雲庵老師の宗教道と技芸道が融合した法の挙揚にはじめてなったということです。千鈞庵老師は、小学生時代から宏道会剣道を60年にわたり実践し、無得庵老居士のご指導の下、一刀流免許皆伝者でもある剣道という技芸道を究められた師家ですので、ここでいう横糸摂心会である剣禅一味摂心会の担当師家としてこれ以上ない適任者です。これを模範に今後の横糸摂心会を進めるべきと考えます。
茶禅一味摂心会の方は、小生が耕雲庵老師の日常茶道を見て30数年朝茶を続けて来たということだけで千鈞庵老師の剣道に比し些か恥ずかしくも感じますが、13回小生なりの茶禅一味の見解を講演し、世間の茶に対して利休のわび茶の一端を示してきた自負はあり、その資料を基に今後発展させていただけたらと期待しています。
これからの人間禅の技芸道の展開は、耕雲庵老師の「そもそも技芸道というものは、性相の両面即ち心性と物性とを対象として、大自然の(人間を含めて)の生命躍動を把握し、これを、それぞれの技法によって、美として再現する道であるといえましょう。ですから対象の生命の把握することなしに、真実もなければ、美もないし、技芸道は成り立たないと申したとおりです。」を成り立たせるための横糸摂心会を今後とも実施することであります。そしてこの展開が人間禅にしかできない世界楽土建設へ向けての具体的な展開になり、耕雲庵老師の指向を実践することになると確信しております。
以上、私見として遺しておきたいと思います。合掌
丸川春潭
明けましておめでとうございます。
三が日は、寒さは厳しかったですが晴天が続き、良い正月の幕開けになりました。昔の日本の軍人が「天気晴朗なれども波高し」という語を遺されています。日本海海戦1905年(明治38年)におけるロシア海軍を前にした電文です。当時の世界最強のロシア艦隊を相手に厳しい戦いを踏まえて意気軒昂な気構えを込めた電文だったと思います。
2023年令和五年の正月においては、1年近くになるロシア-ウクライナ戦争の終結が見通せず、また経済的にも日本内外で難題が山積しており、まさに波高しの新年の幕開けですが、新年に当たっての気構えは皆さん晴朗でしょうか?
人間禅者としては、精神的に常に天気晴朗であるべしでありましょう。一日一炷香でしっかりこころを整え、あらゆる環境に動ぜずに対処し、かけがえのないこの一年を有意義に生き切りたいものであります。
数息観について何度もいろいろな角度から論評してきましたが、自分の読経について語ったことは一度もありません。振り返り数えてみれば、小生の読経歴も四十数年になります。現在の潮来市に居を構えたのが三十歳代半ばであり、朝の坐禅の後に必ず家内と読経(開経偈、懺悔文、般若心経、観音経偈、四弘誓願文、三省願文)をする習慣が付き、その読経の後に朝の点茶と続くルーティンがすでに四十数年まえから続いています。
読経も坐禅と同じように三昧にいたる方途の一つとして、相対樹絶対樹の説明の時にはいつも読経を三昧に到るための方途の一つとして説明してきています。自分で読経してみても確かに数息観よりも(読経)三昧になりやすいように思います。それは数息観がすべて念慮の中でのことであるのに対して、読経は公知のお経を声を出して唱えるということで、一つの行為がそこに生じ、且つ外化した声を客観的に聞くということになります。したがってそういう三昧への流れに乗りやすいのではないかと思います。ただ習慣化した読経は、読経しながら念慮が平行して動き出してそれを制御できないことになり勝ちで有り、結局は集中力三昧力がなければ、ちゃんと読経三昧もできないということになります
小生に取っての読経は、40年の中で位置づけが時代と共に変っているようです。現在では、毎日の読経は一般的な三昧を深める為の位置づけにはなっていません。小生の四十数年に於ける読経歴を振り返ってみると、小生にとっての読経は三昧に到るための方途から徐々に、数息観三昧の後における反省と味わいという位置づけになってきています。
頭頂葉をoffにして前頭葉のスイッチをonにする毎朝のルーティンのメインは、小生の場合は長年の数息観坐禅であります。読経は三昧になったあとの余裕の行動になります。別の言い方をすれば、弓道などでいう残心といっても良いかと思います。
したがって数息観三昧が深く行取できておれば、読経も三昧で唱えることができるけれども、数息観がしっかりできていなければ、読経も雑念だらけになるということになります。随分記憶が薄れてきていますが、数息観のレベルが70点未満の時期には、5,6分のいつもの読経の間に何度も読経と並行して何かを考えていたことを覚えています。5,6分間の読経の間に雑念が全く入らずに読経ができるようになったのは、やはり数息観の評点が日常的に80点になるようになってからであったと思います。
禅フロンティアで浄土宗をテーマに勉強したことがありましたが、浄土宗の宗務の責任者の方が「称名念仏」三昧についてお話しされたのを印象深く覚えています。念仏の唱え方は、雑念があっても意に介さず兎に角、南無阿弥陀仏のお念仏を唱え続ける、雑念ごと念仏を繰り返す、自分の唱えている念仏を自分の耳で聞いている間に、雑念がなくなり、念仏三昧になっている、と云うようなお話があったかと思います。
気がつけば小生の読経も数息観坐禅の後ではありますが、自分の読経の声を聞けている時が段々多くなってきているように思います。浄土宗の念仏は三昧に到る行為ですが、先にも述べましたように、小生にとっての読経は、三昧に入るためではなく、三昧になるのはあくまで数息観坐禅なのです。ただ数息観坐禅とセットのように直ぐ続けて読経に入りますので、数息観坐禅三昧の中での読経になっていると思います。したがって、その日の数息観三昧の深浅が読経によって検証されているようになっています。頭燃を救うがごとき数息観によって雑念が出てこなくなる領域の数息観後期(80点以上)になった後に唱える読経は、深い三昧境を味わう時間帯ということになっているのです。チラッとした雑念も入らない読経で朝の坐禅が終わると爽快であることは確かです。爽快というより理屈抜きに生きているのを楽しんでいるのかも知れません。
元に戻って、読経は両忘老師も耕雲庵老師も日常のルーティンにされていました。両忘老師のことは、岡山支部の古老からの伝聞ですが、耕雲庵老師は自分が侍者をして摂心会のみならず日常的に読経されていたのを知っています。自分も見よう見まねで40数年やってきたのですが、坐禅がメインではありますが、その後に読経をすることはなかなか良かったと実感しています。小生傘下の会員のほとんどの方には読経の習慣がないようですが、数息観坐禅のあとに締めとして読経もなされることをお勧めします。
新年互礼会の後からぼつぼつ書き出しすでに10日になり、明日は鏡開きになりました。今年一年皆様がご安寧にお過ごしなられることを祈念致します。合掌
――その20「喫茶去」――
丸川春潭
喫茶去は、お茶会の席等での掛け物として書かれ、お茶人に馴染みのある語ですが、本来は禅語で有ります。
喫茶去の出処は、『趙州録』にある公案における趙州従諗禅師(唐代の禅僧:西暦778年〜897年)の語であり、それは次のとおりです。
「師、因に新到に問う、曽て此間に到るや。僧云く、曽て到る。師云く、喫茶去。又た一僧に問う。僧云く、曽て到らず。師亦た云く、喫茶去。後に院主云く、和尚甚と為てか、曽て到るも也た喫茶去と云い、曽て到らざるも也た喫茶去と云ふや。師、院主を召す。主、応諾す。師云く、喫茶去」
この漢語のやりとりは平易であり、現代語に翻訳する必要はないでしょう。
誰が趙州のところに来ても、ここに来たことがあるか?と問うておいて、その答えがイエスでもノーでも何時も決まって、喫茶去(まあ、お茶を飲んで行かっしゃれ!)と声を掛けた。そしてその意味を尋ねた直日にもまた同じように喫茶去と云った、という問答であり、このやりとりが後に公案となったのです。
この写真は、円覚寺第二代管長楞迦窟釈宗演老師の揮毫で、人間禅本部道場北寮の茶室に掛けられています。
先ず、如々庵老師のお説を『新編一行物』芳賀幸四郎著淡交社出版から要旨を引用しておきます。
老師は、この公案の眼目は、趙州従諗禅師の最初の「曽て此間に到るや」にあり、「此間」をどう捉えるかであると。表面的には趙州が住持していて今問答しているお寺のことを示しているが、内実は趙州のドンと坐っているところ、すなわち悟りの境地を暗に意味しているのである、と。
釈迦牟尼の悟りは時間とか空間とか老若男女とかのあらゆる相対を超えた絶対の境地であります。したがって、この場合の「此間」も同じであって過去や現在という時を超えまた具体的な場所を問題にしてはいないのです。
だから、かって来たことが有っても無くても関係が無く、返事が同じになるのは当然であります。そして趙州和尚の云われる「喫茶去」もまたしかりであって、ただ「まあお茶を一服おあがり」でないことはもちろんです。
如々庵老師のお説は、一貫して「貴賤・貧富・・・などへの執着を捨てた境涯」とか「そう肩肘張らず、肩の力を抜いて行動しなされ」と示されている相対を超えるあるいは相対に執着しないという論旨になっています。お茶人への一行物の説明としてはそれでもいいでしょうが、このブログのタイトルである「喫茶去」を味わうという観点からは少し物足りないので、もう少し趙州和尚の境涯の一句である「喫茶去」を深掘りして味わってみたいと思います。
まず如々庵老師が触れられていない最後のところ院主(直日)の質問に対しての「師、院主を召す。主、応諾す。師云く、喫茶去」、ここが面白いところであり、深掘りの入り口です。質問した院主を、わざわざ「オイ!院主よ!」と喚び、院主の応諾すなわち「ハイ!」と応えさせたのちに、「喫茶去!」といったところです。此処で院主は、はっと気づかねばならないところです。
如々庵老師は、「此間」に注目されて説かれていますが、それはそれでそのとおりですが、院主とのやりとりに対しては触れておられません。「此間」とは違って「院主よ!」にはもっと直接に弟子に迫る深い仔細があります。これはまさに釈迦牟尼の悟りの原点である本当の自分・絶対の自己を呼び起こしているのです。そうしておいて、その上での「喫茶去!」です。これは更に深く弟子に如是法を示しております。趙州和尚は本当に憎い和尚ですね!
そこでいよいよ趙州和尚が云われる「喫茶去」をどう味わうかということです。如々庵老師の云われるように、趙州和尚は「悟りの境地」を問い、そして自ら悟りの境地を「喫茶去」として院主に示したのです。公案として伝えられ残っているもののほとんどは悟りの境地を問うているのですが、それに対して祖師方が様々な答え方をしています。すべてお釈迦様の悟りを表現は違いますが正しく応えているのです。数多の答えの中でこの「喫茶去」は素晴らしい高い境涯の答えだと思います。
その場の状況にぴったり合った「まあ一服おあがり!」でありながら、悟りの含意をしっかり含ませているのです。しかもそうなのに喫茶去には、悟りのサの字、仏のホの字も見えないところが素晴らしいのです。何故素晴らしいかと云えば、本来の悟りが元来そういうものだからです。そしてこういう素晴らしい言葉が出てくるのは趙州自身が悟りのサの字も仏のホの字もないところまで人間形成を深め高めたすり上がった境涯にあって、そこから自然に出て来た言葉だからなのです。「喫茶去」は、口唇皮上に光を放つと称えられた趙州従諗禅師ならではの平凡にして核心を表す言葉です。
そして更に加えて数多の問答の答えの多くが自利的であるのに対して、この喫茶去は利他行に徹している点も力が感ぜられ一層深い味わいがあります。
一行物で、如々庵老師は次のように書かれています。
「趙州の「喫茶去」の真意はいましばらく措いて、茶人はこれからどういう教訓を読み取ったらよいのであろうか。ともあれ、趙州が折角出して「まあ、おあがり」いってくださるお茶である。あまりやかましくいわないで頂戴するのがよい。やかましく考えて辞退したり、コチコチと堅くなっていただいたのでは、せっかくのご厚意にそむくというものである。だが、何と挨拶して、どう頂戴したものであろうか。」
これは如々庵老師が発せられた新しい公案です。茶の湯の場においては如々庵老師の示唆されている通りであり、「折角の趙州和尚の「まあお茶を一服おあがり」とおおせにしたがって、「いただきます」と有りがたくいただき味わえば良いのです。毎朝の一服もそうであり、おいしく味わいたいものであります。またそれがそのまま、禅的な意味においての如々庵老師の公案に対する真正の見解でもあります。
しかしここまで云うと趙州和尚の折角の紅旗閃爍な「喫茶去」を汚してしまうきらいがあります。駄弁を付けすぎましたが、何はともあれ趙州和尚の大慈大悲に対する法恩に報いるために「喫茶去」を現代社会に蘇らせ普及しなければなりません。まさに耕雲庵老師の児孫としての人間禅の使命であります。 焚香 九拝
堀井 妙泉
私の好きな言葉の一つに【行雲流水】があります。
行く雲、流れる水のように、何事にも執着しないで生きたいという願いでもあります。似たような言葉の『雲悠々水潺(せん)々(せん)』も雲のように悠々と、しかも無心に生き、又水にも似て無相で行動すること。あたかも観音菩薩のように、時(じ)、処(しょ)、位(い)に応じて、その相(すがた)を千変万化させながら無礙(むげ)自在(じざい)(いかなるものにも妨げられず)に生きることを理想としています。
白雲がいつの間にか、その形を変え、風の吹くままに東へ西へ移動し、一つ処に住(とど)まる事が無いように、また水が瀬となり、或いは滝となり淵となりながら絶えず流れて住(とど)まる事がないように、『一処不住(いっしょふじゅう)』に流れています。私たちもこの様に、無執着に何物にも執われないで、さらさらと生きて行きたい念願から修行を続けていると思います。
しかし日常生活の中では、五欲(食欲、色欲、睡眠欲,財欲、権力欲)、煩悩に執われ中々思うようには行かないのが実状であります。死にたくないとか、長生きしたいとか、金銭に執着したり、権力や名誉に執着したりする為に、迷いに迷いを重ねているように思います。この様な迷いの根源は、執着にあると古来より言われています。
達磨大師の一番弟子といわれている慧能(えのう)(六祖)は座禅の修行によって≪無相、無念、無住≫になる事が肝要だと説いています。
* 無相とは、外観に執われないこと
* 無念とは、外界の刺激に惑わされないこと
* 無住とは、執着しないこと
常に、中心にあるのは⦅今⦆の自分であることを説いています。
座禅を続けることで、心に湧き上がって来る雑念や物事に対する余計な執着を捨て去ることが出来ます。また摂心会に参加することに依って、一つ一つの事に全力を傾け、人生を丁寧に納得しながら生きる修練が出来ます。
合掌
]]>丸川春潭
1. 本稿の由来
本ブログは、2022年10月7〜10日の間、本部道場において開催された茶道部主催「茶禅一味摂心会」における講演会(10月10日)で使用したPP資料をブログ用に原稿化したもの(若干の手を加えた)です。
2. はじめに
人間禅に茶道部を作り、「茶禅一味」摂心会を開催して今年で15年目になり、全国の各支部道場を中心に13カ所30回開催してきました。
昨年(2021年10月)の茶禅一味講演会での講演のテーマは、茶と禅のコラボレーションにより、「茶と禅の相互融合を図り、日本茶道を興隆し、在家禅の進展を図る」ということでした。
今年のテーマはもう一歩踏み込んで、茶禅一味の実践で「茶と禅をそれぞれ深める」という観点でお話し、この「茶禅一味摂心会」の意義を皆さんと考えて見たいと思います。
3. 茶禅一味の由縁
12C南宋松源崇岳禅師:「茶兼禅味可」。(茶に禅が必要という主張の始まり。)
12C末禅僧栄西が茶種と「喫茶養生記」(これより先の9C空海等も茶種を持ち帰るも大衆化していない。また、「喫茶養生記」も僧堂内に限定せず、一般の市井にも流布した点で歴史的意義があがった。)
12C以降、禅院(大徳寺)では茶礼が慣行となり、現代までその儀式は継承されている。
16C安土桃山時代、在家禅者(以下の茶人)が「茶道」を創る。()内は大徳寺の師家であり、禅僧に混ざって、名だたる茶人がこぞって参禅弁道していることに注目すべきである。
村田珠光(一休宗純)15Cー村田宗珠(大休宗休)ー武野紹鷗(大林宗套)ー千利休(古渓宗陳)ー千宗旦(沢庵宗彭)17Cー
20Cに到り、円覚寺法系人間禅耕雲庵英山老師が、「茶禅一味」を提唱される。
(日本の茶道は、禅から派生したと云っても過言ではなく、利休のわび茶が生まれる前から茶禅一如であった。)
4. わび茶のはじまり
(利休の言葉が南方録に遺されており、その概略は下記の言葉である。)
「宗易の云く、小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て修行得道する事也。
家居の結構、食事の珍味を楽とするは俗世の事也。
家はもらぬほど、食事は飢ぬほどにて足る事也。
是れ仏の教、茶の湯の本意也。
水を運び薪をとり、湯をわかして茶をたてて、仏に供へ、人にも施し、我ものみ、花をたて香をたき、皆々仏祖に行のあとを学ぶなり。」
(現代のお家元制度でのきらびやかな茶席には、この茶道の原点とも云うべき「わび茶の精神」は全く見られない。)
5. 人間禅と茶禅一味
人間禅創始者の耕雲庵英山老師は水戸の旗本由来の武家流茶道を継承した家系にあり、家庭の中に茶道があった。
円覚寺法系は大徳寺とは直系であり、茶礼を伝承しており、その法系を継ぐ両忘会→両忘禅教会→人間禅へも茶道が入ってきていた。
耕雲庵老師は人間禅創立当初から茶道を摂心会日課に入れ、また日常生活においても嗜まれた。
老師は道場内に茶室「洗心庵」を造られ、庭園を造られ、茶掛けの書を揮毫され、道場に窯を設けて茶碗の作陶をされ、多くの銘品を残された。
(昨年2021.10/11のブログ「茶禅一味・・・茶と禅の融合・・・」には、耕雲庵老師の作陶および茶碗の写真を掲載。ご参照ください。)
6. 耕雲庵英山老師語録
(1953年老師還暦記念垂示抜粋)
「茶人も第一人者になると、日々好日の境致を四畳半に移して日々楽しむ。これ茶禅一味の真精神である。」
老師著作『新編碧巌集講話』の抜粋
「釜の煮え音に松風の声を偲び、茶筅の音には谷川のせせらぎを聞き、狭い四畳半はそのまま天地自然に通じ、流水の声も飛禽の跡も、坐作進退の上にある。」
「茶は“気続立て”が命である。気が続かなければ、忽ちにして茶の精神は失われ、破綻を生じてしまう。」
(茶禅一味の精神は、耕雲庵老師が創始されたものであります。)
7. 茶事修行の事
(寂庵宗澤著『禅茶録』の抜粋)
「さて、茶事に託して自性を求むるの工夫は他にあらず、主一無適の一心をもって、茶器を扱う 三昧の義なり。
たとえば茶杓を扱わんとならば、その茶杓へのみ純(もっぱ)ら心を打ち入れて余事を微(すこ)しも想わず、始終扱ふ事なり。
又、其の茶杓を置く時にも、前の如くに心を深く寄せて置くなり。
是は茶杓に限らず、一切の取り扱ふ器物、いずれも前の意に同じ。
又、其の扱ふ器物を置きはてて、手を放ちひく時、心はすこしも放たずして、次ぎに扱はんとする他の器物へ、其のまま心を寄せうつして、何処までも気を縦(ゆる)べず、形の如くにして点ずるを、気続立とは云へり。只、茶三昧の行ひなり。」
(耕雲庵老師の茶禅一味の精神と軌を一にするものであり、禅茶を現代に生かすべきと考えられる。すなわち、平点前の修練は、形の変わった「一日一炷香」であり、点茶において動中の工夫・正念の不断相続を実践し、三昧を身につける素晴らしい修行となる。)
8. 禅による人間形成の課題
禅の修行は毎日の数息観坐禅と師家に師事して行う公案修行であり、これはどちらも「独り」の修行である。
それに対して、茶道や剣道では「相手と共」に三昧を身につける人間形成の道であり、相手のある修行である。
「独り」での修行が完成しても、利他の心が養われておらず、真の大乗仏教にはならない。
茶禅一味・剣禅一味等で相手と共に三昧を身につける行が伴って、はじめて円満な人間形成となり、社会に役に立つ人づくりの禅となる。
9. 茶禅一味の目指すもの
茶人は日常、小座敷の茶の湯において、気続立ての修練から茶裏見性を図る茶道を実践する。これが人間形成の茶禅一味である。
禅者は日常、茶道を実践し、禅の境涯を練り、利他の心を身につける。
「茶と禅の会」を津々浦々に作り、正しく楽しく仲良き人の輪を広げ、地域の活性に寄与する。
人間禅茶道部は全国各道場で茶禅一味摂心会を開催し、周辺地域の茶人に茶裏見性を知らしめ、各道場の禅者に茶道入門の機縁をつける。
10. 茶禅一味の使命
茶道は、日本文化の全てを集約・包含する。
禅道は、日本文化の全ての芯になる。
茶道は、「日常の茶道」の実践で、人づくりの道を家庭・職場・地域で実現する。
禅道は茶禅一味で利他の心をつけ、覚他覚行円満な人間形成を成就して、正しく楽しく仲の良い地域づくりに貢献する。
八千代市での「茶と禅の会」は地域活性のモデル。
「茶禅一味で地域活性」の取り組み始まる。
鵬雲斎は「一碗からピースフル」を提唱された。
人間禅は茶禅一味により、正・楽・和を世界に発信すべきである。
11. 備考(参考文献)
・『新編碧巌集講話』:初版昭和28年 著者:耕雲庵立田英山 人間禅初代総裁
・『茶味』 :大正9年初版 著者:奥田正造 成蹊高等女学校校長
・『わび茶の研究』 :1978年2月発行 著者:芳賀幸四郎 人間禅教団師家
・『茶道の哲学』 :講談社学術文庫 著者:久松真一 京大教授
・『芸術と茶の哲学』 :京都哲学撰書著者:倉澤行洋 人間禅名誉会員
・『禅茶録』:著者:寂庵 宗澤 片野 慈啓 訳
]]>2022年10月16日 栃木禅道場 禅Caféにて
堀井 無縄
はじめに
中国 唐の詩人羅鄴の詩に【終日長程 復短程 一山行き尽くせば一山青し】という詩があります。ある時は、宿場から宿場へと長い旅、そして短い旅もあって一日中歩き一つ山を越えたと思うと、その先に青々とした高い山が現われているという意で、我々人生の旅路も苦労を重ねて一山越えたと思うと次の山が青々と現われていて旅は続いて行くと言う事であります。
学問の研究にしても、武道、スポーツ、茶道、書道、華道、陶芸等、あらゆる芸能、技芸道の修練は、どこまで行ってもこれでいいと言う事が無いものであります。それだけにやり甲斐、生き甲斐があり、そこに人生の本当の喜び、楽しみがあるものであります。禅の修行にしても20年、30年と続けてある程度の境涯を得たとしても、道は無窮であり、まだまだ未在、更に参ぜよ三十年で、釈迦も達磨も今に修行中であります。
種田山頭火の 「分け入っても 分け入っても青い山」 の句を思い起します。
茶道 裏千家十五代家元 千宗室さんは、今年、数え年100歳を迎えられました。 70年以上、国内外で茶道の普及に骨を折られ、その精進、努力に、いささかの衰えも感じられない矍鑠とした人であります。 その根底にあるのは、第二次大戦で身を捧げ散っていった戦友たちへの熱い思いと、人生の山坂を沢山乗り越えて来て、何事にも挫けない不撓不屈の精神にあったと思います。また8歳から馬術を始め、今なお乗馬するという現役のアスリートでもあります。背筋をピーンと伸ばして足腰を鍛えるのだそうです。
《一碗の茶の心から平和な世の中を》 日本文化の伝承に力を入れ、茶道の普及に全国を飛び回り、海外への普及では、色々な人と出会い、精神を鍛えられました。「平和、平和と口先でいくら唱えても平和にはならない。一人一人が人間の持っている素晴らしい人間力によって、色々な問題を収めてこそ、平和は実現出来るものだ。」と言われ、茶道を通して世界から争いを無くしたいという高い志をもって多くの困難を乗り越えて来た人であります。 勇気と希望をもって艱難辛苦に耐え歩き続けるところに人生の深い喜びと味わいがあるのだそうです。 戦後、十五代家元を継ぐ為に大徳寺の後藤瑞巖老師について禅の修行をされ、「茶道は十四代目の父から手ほどきを受け、茶道の学問的指導は、鈴木大拙老から受けました。この様な素晴らしい師匠とのご縁に結ばれて今日あるのです。 父からは命ある限り歩き続けよ。あの世に行っても修行だときつく言われた。」と言われています。
人間禅の先達、両忘庵釈宗活老師の法嗣には、大徳寺の後藤瑞巖老師、人間禅の耕雲庵立田英山老師、米国で禅の布教をなさった佐々木指月老師、東北で布教された一夢庵大峡竹老堂師の4人の法嗣がおられました。禅と裏千家の家元とは、この様にご縁があるのです。
玄室さんは、後藤瑞巖老師から磨穿鉄硯という語を頂いたと言われています。 この意は、鉄の硯に穴が空くほど、自分を磨くことだという意で、命ある限り歩き続けることです。 玄室老が長生きされておられるのは、生涯にわたっての規律正しい生活習慣と日々の日課にあると思います。朝は4時に起き、海軍体操を7分間し、朝食まで一時間座禅、お茶を頂く。朝食後は、各界から頼まれている原稿を書き、手紙を書き、溜まっている色々な仕事を片付ける。酒、たばこは一切しない。夜7時過ぎには飲食しない。8時には寝る。 抹茶を頂くこと、好奇心が強いこと、常に背筋を伸ばして仕事をすることが、100歳まで現役でいられる長生きの秘訣だと思います。これを続けておられる事に感動し、尊敬の念を抱いております。
次に、世界の刀剣研師 臼木良彦氏の「一山また一山」の話です。 最近アニメの影響もあり、日本刀の美しさに魅かれた女性の間では刀剣ブームが起きているようであります。
刀剣研師の臼木良彦さんは、48歳で国内最高峰の研師に与えられる〔無鑑査〕の称号を頂いている人であります。 若い時から人間国宝の藤代松雄師に入門し研師の修行一筋に50年。平成13年、名刀 粟田口国吉を研ぐご縁によって、技術や文化の伝承というものは言葉では伝えられないもので、師の精神、生き様を見て学び取る他ないものだと研師の山を登り続けた人であります。 そして研師の山を50年登り続けてきたが、「研師の山に山頂はなく、研師の道に終わりはないもので、まだ一度もこれで良いと思ったことはない。」と言っています。小さい頃から体が弱かったので、小学校3年の時、詩吟や剣舞、居合を習いました。居合の格好良さに魅かれてから剣に魅せられ、研師の道に入ったそうです。
現在、古今東西の名刀が日本に沢山残っています。なぜなら残っている名刀は戦場では殆ど使われてなかったもので、芸術品として、また家の代々の守り神として大切に保存されて来たからなのです。
「刀を浄化し新たに再生させるのが、研師の仕事です。それだけに、研ぐのではなく、研がせて頂くという謙虚な気持ちで研いでいる。」と臼木さんは言われています。「一つの山の頂上に登れば、また下って新しい山に登るのが研師の仕事。登るのは辛いけれど、命ある限り登り続ける。」と言っておられます。
また東京芸術大学教授の彫刻家 平櫛田中(でんちゅう)さんは、不世出の彫刻家として107歳まで仕事に打ち込み天寿を全うした人でありますが、生涯世に送り出した作品は数百点と云われています。
明治5年 岡山県、現在の井原市に生まれ、生家は田中で平櫛家へ養子として入り、両方の名前をとって平櫛田中(でんちゅう)と名乗ったのです。彫り物が好きで11歳の時、木彫り人形師、中谷省吾先生に弟子入りし彫刻の基礎を学んだのです。明治30年、高村光雲に入門、寄宿していた東京谷中の長安寺で臨済宗 西山禾(か)山(ざん)老師の教えを受け禅的テーマによる深みのある作品に取り組んだのです。 しかしその作品は余り売れず不遇な時代が長く続きました。その後、岡倉天心に師事したのです。天心は、「諸君は売れるようなものを考えて作るから売れないのだ。 売れないものを作りなさい! そうすれば必ず売れます。」と言われ、田中はそれを素直に受け止め彫刻家として芸術の神髄を体得していったのです。
その作品のうち、22年の歳月を経て完成した鏡獅子は6代目尾上菊五郎をモデルとし、今にも動き出しそうな臨場感溢れる作品で、命の限り前進し続けて来た彫刻家のほとばしる情熱、エネルギーが伝わって来るようで、皆を驚かせました。
田中さんの好きな禅語に金剛経の《應無所住而生其心》があります。 よく人には「仕事は、そのものに没入してスーと出来なければいけないんだ。」と言われました。
《守拙求心》 「よいものを作ろうなどと思わず拙(つたな)さを守る事。つまり技巧に走らず初心を忘れないこと。そして只々我を忘れ自然体で創作に没頭することだ。真の名人というものは、巧のようでもあり、拙のようでもありで、長い年月にわたる修行、鍛錬によって自から到達する境涯である。」と言われています。 田中さんの生き様に曰く 「60代70代はまだ鼻たれ小僧、男盛りは、百から百から」と気迫に満ちた言葉を残しました。 亡くなられた時、今後しようとしていた仕事の材料が20年分も30年分も残されていたそうです。亡くなってからも次に挑戦する意欲が伝わってきます。まさに〈一山行き尽くせば一山青し〉であります。
次は、三百名山登頂という前人未到の偉業を達成した田中陽希さんの話をしたいと思います。 さて、人は何故山に登るのでしょうか?
*そこに美しい山があるから
*山の厳しさと美しさの魅力に魅せられるから
*山が好きだから
*自然と一つになりたいから
*頂上からの景色を味わいたいから
*達成感を味わいたいから
田中陽希さんは、奄美大島から始まり九州の山、四国の山、本州の山々、そして北海道の山 利尻岳を最後に日本の三百名山を険しい山々、道なき道を命がけで踏破し、山頂を極め前人未到の偉業を成し遂げた人であります。このコロナ禍の中、3年7か月で達成した田中陽希さん、お見事の一語に尽きます。
おわりに
〈一山行き尽くせば一山青し〉と禅の修行により我が道を極めた偉人、達人
*世阿弥、本阿弥は能を大成するために禅の修行に入りました。
*千利休は茶道を大成するため
*松尾芭蕉は俳句を大成するため
*池大雅(いけのたいが)、伊藤若冲は画道を大成するため
*良寛は短歌道、書道を大成するため
*北条時頼、時宗は国を守るため
*武田信玄、上杉謙信、伊達政宗は国造りのため
*柳生但馬守、宮本武蔵、山岡鉄舟、小川忠太郎先生は剣の道を大成するために禅の修行をしたのです。
本格の禅の修行により真実の自己を見得し、更に修練に修練を積んで日本文化や政治、武士道を高揚した偉人、達人たちであります。困難や苦難を乗り越え何かを掴んだ人たちは、大いなる自信と充実感で人生の深い喜びを味わったことでありましょう。
禅の修行はまさに、〈一山行き尽くせば一山青し〉で一つ公案が通れば、次の公案、と素晴らしい山が待っています。折角ご縁が出来たのに少し座ってみて足が痛いからやめる。公案が難しいからやめるでは自分の人生に申し訳ないことであります。辛くとも決してあきらめず耐えて精進し、なおかつ、それを楽しめば、必ず好転するものです。そしてその耐えて精進した体験が、そのまま自信につながるのです。
石の上にも3年という諺がありますが、かつて、耐えることは日本人の美徳であったのですが、近年この美徳は失われつつあります。大自然と一つになる喜び。自然に生かされている喜び。先人の歩んだ道を味わう楽しさ。道が険しい程、開けた景観は絶妙なものです。人は磨けば磨く程、人生の味わいも深くなります。〈一山行き尽くせば一山青し〉です。
合掌
]]>丸川春潭
1.はじめに
祖師方の遺された語録には、正念相続という言葉がよく出てきます。人間禅の歴代の提唱においてもよく出てきました。最近では金峰庵稲瀬光常老師が平成25 年 5 月 1 日 本部摂心会で提唱され、その年の秋号の『禅』誌(2013年42号)にその内容が掲載されています(勉強になりますので是非参照してください)。
また、「正念相続」をネット検索してもたくさん出てきます。曹洞宗系の老師の提唱ビデオもありますし、円覚寺管長の法話もでてきます。
それらを読みあさってもなかなか正念相続の全貌について理解はできません。それは、正念相続の含意を説く切り口と、正念相続を実践するための言説と、さらには正念相続をした結果についての言及などが入り交じっていることが理由の一つとして考えられます。もう一つの理由は、正念相続に浅いレベルから深いレベルがあり、どのレベルの説明かが明確になっていないからだと思います。人間形成は浅く低い境涯から深い高い境涯まであり、その全ての課程で正念相続はあり、浅く低い正念相続の時期を経由して高く深い正念相続になるのです。高く深い正念相続だけが本物であるというのではなく、人間形成の行を積んでそれを目標に向かって進めばいいのです。
新到者が提唱によく出てくる正念相続とはどういうことですか?と疑問をしたくなるのは当然であります。それに対して人間形成の究極の正念相続を説明しても判るはずないし、そういう説明はしない方が良いというものです。法は相手の境涯に応じて説くべきです。
この横額は、人間禅傘下に作られた剣道の会「宏道会」の最初の最高指導者であり、戦後、日本剣道連盟を創立し剣道理念を創案され、人間禅の初代総務長・初代中央道場長を歴任された無得庵刀耕老居士(小川忠太郎)の揮毫です。この方の剣禅一味の正念相続は、目標とすべき高く深い境涯における正念相続ではないかと思っています。
2.目標とすべき高く深い境涯における正念相続とは
言葉の定義的に云えば、正念相続とは、24時間365日生きている間のすべての時間において悟りの境地を継続することです。そしてこれを禅宗では修行研鑽の目標としてきているのです。
西田幾多郎先生は、「正念相続とは随処に主となることである」と言い残されています。耕雲庵老師も同じようなことも述べられていますが、ご自身の実践を踏まえて、従来の正念相続をさらに深め修行者の新しい道標を創り遺されています。
耕雲庵老師は、正念相続のことを”念々正念・歩々如是“と言い換えられておられ、次のように説明されています。「念々正念とは、人間禅の三省願文の第一「正念の工夫断絶するなからんことを願う」それである。歩々如是とはその第二の「如是の活法軽忽するなからんことを願う」の謂いである。およそ念々正念とは、如是法における一切時における性相であり、・・・歩々如是とは、如是法に一切処における道用であり、すなわち如是法三昧の謂いである。」と述べられています。正念相続の説明としてはこれ以上のものはありません。人間禅者はこれを目標に人間形成したらよいのです。小生は、歴史的に長年使われ続けてきた「正念相続」を老大師が実践的により深く高く進化させて「念々正念・歩々如是」の語に結実されたと考えております。法理でもって云々すべきことではなく、実践でもって「念々正念・歩々如是」を行ずるべきことです。道を求めるものは、年月の久しきを厭わず骨折り続けて近づくことです。
この写真は、本部道場所蔵の耕雲庵英山老師の揮毫の念々正念歩々如是です。
3.正念相続の難しさと深さ
耕雲庵老師は、「古人も”相続するは大いに難し"と白状しておられる。」と注意されています。また『宝鏡三昧』の最後の所を引用されて、正念相続の深さに言及されています。
『宝鏡三昧』の最後の部分は、「潜行密用 愚の如く魯の如し 只能く相続するを 主中の主と名づく」です。小生は2013年から2014年にかけて本部道場及び擇木道場において提唱しておりますが、小生が提唱した大意の概略を以下に記載します。
『宝鏡三昧』の最後の所は、正念相続の深さと相続の大切さを謳っているのです。「潜行密用」は、200則の公案を透過した後の聖胎長養を指しています。「愚の如く盧のごとし」は三昧の深さを表現しており、『数息観のすすめ』の後期数息観のレベルであり、呼吸していることも忘れた忘息観の深い三昧状態の表現です。そして次の「只能く相続することを」は、この深い三昧を相続することを指しています。最後の「主中の主となす」は、「愚の如く盧のごとく」の深い三昧の境地が相続して切れ目がないところまで人間形成が到れば、そここそが人間形成の最も高い到達点であり、人間形成の目標とするところであると謳っているのです。主中の主は見性入理の本来の面目のようなレベルでは無く、すりあがった仏陀の境涯であることはいうまでもありません。
耕雲庵立田英山老師の「念々正念・歩々如是」は深さと継続の両方を含み、この実践が人間形成の目標とされていますが、宝鏡三昧で示唆していることと全く軌を一にするものであります。三昧の深さとその継続が身につくということは容易なことでは無く、人間形成を目指すものの目標であります。この境涯まできてそれが日常において実践できれば、これが本当の正念相続です。容易なことではありませんが、年月の久しきを問わず命ある限りこれに近づくことが耕雲庵老師の児孫の務めであり、そして喜びであります。
4.正念相続と一日一炷香
耕雲庵老師の歴史的名著『数息観のすすめ』で、「自分が今日あるのは一日一炷香を続けてきたからである」と述べられておられます。500年間出の大宗師家が自分で自分の境涯を承けがわれ、それが一炷香の積み重ねによると白状されておられるのです。また繰り返しますが、正念相続の中味について老師は念々正念・歩々如是であると示され人間形成の中核であるとされています。一日一炷香の経年継続によって三昧が身につき、その結果として念々正念・歩々如是が日常すなわち24時間365日において実践できるようになったという白状です。
小生のつたない経験を申し上げます。小生は19歳で耕雲庵老師に入門し、爾来60数年数息観坐禅を日々やって参りました。60年の一日一炷香の数息観坐禅は、単に一日一炷香を繰り返し継続しただけではありません。すなわち数息観三昧が徐々に深まって60年経過しているのです。20年ほど前に数息観のレベルを評点する基準を作り、毎日の数息観三昧レベルを点数として記録し、数息観坐禅の質(深さ)を日進月歩させる励みとしています。1〜10までを完璧に雑念無く数息できたら70点の評点にしています。このレベルの数息観ができだしたのは人間禅に入門し、数息観法にとり掛かって40年経った頃です。70点レベルにまで三昧を深めるのに40年掛かったと云うことです。その頃が会社生活の終わり頃(60歳)でしたが、もう10年前に(50歳頃までに)70点レベルの三昧力がついていたら、もっと会社生活で力を発揮できて周りの人に貢献できていたのにと云う反省の気持ちを覚えています。恐らく50歳前後は評点で云えば60〜65点くらいであり、その当時の低いレベルの正念相続でしかなかったという反省でした。
その後20年間の数息観評点表を使った研鑽で、現在(82歳)では先述の後期数息観(82点〜83点)にまでになり、20年前(60歳)10年前(70歳)を振り返ると未熟であったと思います。65歳で師家になりましたが、最初のころはレベルの低い師家であったと今から振り返ると申し訳ない思いがあります。
次にこの後期数息観(数息しない坐禅・只管打坐)についてです。この後期になって中期の深さ(70点)も相続力も両方がさらに深まります。特に忘息観に到ってこれこそが真の三昧境で有ることがわかります。ここに到ってはじめて『宝鏡三昧』の「愚の如く 盧の如く」の禅定になるのです。そしてこの忘息観に長く浸ることによって三昧が深く身につき、日常生活での正念相続が一段と進む手応えを感じています。しかし83点の無息観になっても正念相続は完全ではなくまだまだです。すなわち念々正念・歩々如是は正念相続の最上位のレベルであり、奥は更に深く更に参ぜよです。
5.正念相続は三昧の深さと相続力の柱で成り立っている
60年間の数息観法の実践を振り返えり、その進歩向上を総括しますと、数息観法には三昧を深くすることと、三昧を持続することとの二つの要素があることに気がつきます。
『数息観のすすめ』と小生が設定した数息観評点基準(拙著『AI時代と禅』等やHPブログに掲載)を突き合わせますと、初期数息観は評点基準の40点〜54点までであり、中期数息観は55点〜80点までになり、81点以上が後期数息観に概略当てはまると考えられます。そして中期数息観の中で1〜10を厳密な数息を一回達成したレベルを先述したように数息観評点基準では70点としています。そしてここまでが数息観で三昧を掘り下げ深める修行課程であると考えております。そして、この70点レベルから中期数息観の終極である80点レベル(1〜10を連続5回達成)の間は、三昧を掘り下げ深める課程ではなく、三昧を相続する修行課程と考え位置づけています。
70点が2回連続して完璧にできたら75点ですが、これに挑戦していた時期は、小生が師家になってから数年経った頃で10数年前になります。それを今でもはっきり覚えていますが、大変骨が折れました。夜中に起きて坐ったことも何度もありました。すなわち40年の努力を積み重ねてやっと到達した70点の三昧が身についていても、それをそのレベルのまま単に相続することが大変難しいのです。すなわち三昧を掘り下げる修練と三昧を継続する修練は同じではなく、どちらに対しても骨を折ることが必要だと云うことです。
正念相続の為の数息観坐禅で身につけるべき道力は、三昧の深さを深くする三昧力とその三昧を相続する三昧相続力の両方が合わさってでき上がっているのです。日常での働きが出てくる人間力も三昧の深さとその深さを持続する持続力の二つがそろってはじめて働きになるのです。
6.最後に、正念相続の日常での実践
一週間前の2022.9.22に、ブログR44-18「続・集中と三昧の関係考」が人間禅HPに掲載され、その最後に記載した文章は、「数息観坐禅は数息に集中する行であり、継続すれば集中力が増し三昧が少しずつ深くなります。そしてさらにこうした数息観坐禅を継続することにより、三昧状態を長く保つことができるようになります。このような三昧が身についてくると、日常の社会生活の中で正念相続ができるようになります。」というものでした。人間形成の禅は、日常の生活そして社会活動において、しっかり活躍すると同時に生きがいを得るための修行です。言い換えると実社会で役に立つ真の人間力を付ける修行です。これが小生の正念相続の位置づけです。
今まで縷々述べたように、一日一炷香の行取の継続によって、三昧の深さとその三昧の相続力を付けます。そして在家者が社会活動をする際には、ただ思う存分躍動するだけです。この躍動しているときは一行三昧の徹底です。正念に住しているかなどの念慮も全て雑念です。
そして大切なことは、躍動した後の反省です。小生が耕雲庵老師の侍者を学生時代の4年間させて頂きましたが、その時に「ワシは夜中に二回一時間ずつ目が覚め、その時に前日の反省をしているんだ。反省は大切だからしっかり反省することを続けなさい。」と諄々と諭されました。老師は70数歳の大宗匠でありながら自分の正念相続を反省しその徹底を期されていたことを思うと今でも寒毛卓竪します。
人間禅の大きな宝財に「五蘊皆空」という則があります。数息観坐禅行が後期まで進みそれが毎日行取されておれば、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊はほぼ空じられており出てきません。しかし、最後の識蘊だけは残ります。80点を超える三昧レベルになっても識蘊は出てきますが、識蘊が出てきたのに気づくのが多くなります。しかし未だ後からの反省で気づくことがまだまだあります。即ち三昧が身につけば付くほど反省でピックアップできるようになります。この反省は、一日一炷香への励みになり正念相続実践の原動力になるものです。念々正念・歩々如是は到達し得ない目標ではありますが、反省があるから近づけるのです。そしてその目標に反省しながら向かっている課程で、耕雲庵老師の仰る「我今ここに如是」を感じ味わい、そして法喜禅悦になり、法恩に感謝するのであります。
山花開いて錦に似たり
この語、人間禅では46則、堅固法身の公案になっております。 私共は普段何気なく昨日の自分はそのまま今日の自分、今日の自分は、そのまま明日の自分になると思っているものであります。しかしこの世は無常であります。無常とは、常の無いこと、常住することの無い事です。一切の有為の法は生滅還流して常在のないもので、無常迅速、人の命も瞬時も留まることのないものであります。 安倍元総理は、朝家を出て奈良駅前で選挙の応援演説に立ち、5分と経たないうちに銃弾に倒れ帰らぬ人となりました。無常迅速であります。法句経にも、「すべての法は無常なり」とあります。人の存在を含めて、この世に存在するものは、すべて移ろいでゆくもので、一瞬たりとも留まらず、眼にする全てが、不変に留まることはないのです。
無常は、無我に通ずるもので、変わることは無いと思っていた自分を実体のないものとして見るなら、自分に対する執着は無く、自我の執着から解放されるのです。
仏教の歴史では、「真理を人格化して法身と肉体は滅することはあっても永遠の真理、法身は滅することが無いもので、姿も形も無いものであります。しかし、形、姿が無いと言うだけでは伝わりにくいものです。その為に様々な仏像で表現されるようになったのです。 この色身は、敗壊す、如何なるか堅固法身 『山花開いて錦に似たり、澗水湛えて藍の如し』は、ある僧が大龍禅師にしっかりして変わることの無い法身とは、どのようなものでございましょうかと問うたのです。 大龍禅師は、山に咲いている花は錦のようだ。谷川の水は、藍のように深くたたえている。しかし花は散る。水の流れも変わる。これが仏の説いた無常であり、変化し続けるという真理だ。
無常であり明日どうなるか分からないからこそ、今を精一杯咲いている姿そのものが、永遠の命である。法身を見ることができるのです。
人は誰でも一人では生きられないものだから。身近な人間同志を思いやるのです。人ばかりでなく犬や猫、小鳥や草木に至るまで思いやりの心で接することで安らぎを得るのです。
花が今を咲く姿に永遠の生命を見る。人は今この場の勤めを精一杯、真剣に打ち込むことで永遠の命をみるのであります。 合掌
丸川春潭
このタイトル「集中と三昧の関係考」は、既に禅誌51号(2016年)に掲載しており、また同じ内容を2014年から2016年にかけて、福岡支部摂心会、名古屋支部摂心会、広島支部摂心会において法話しています。これらは現在2022.9月から振り返ると6〜8年前になります。そのころ考えていた集中と三昧関係とりわけ三昧についての認識が最近少し変ってきていると思われるので、その変化について書き、諸兄姉のご批判を頂きたいと思います。
かっての集中と三昧の関係についての考え方を禅誌 51号から引用します。
「集中ということは他のことを抑えてひとつのことに全身を向けていくということで、主として動作、集中していない状況から一本に絞り込んでいくという途中のしかも動的な言葉と言えます。
それに対して、三昧は、集中したその状態ということで、動的なニュアンスはありません。集中することによってひとつのことに専念する、そしてそれが持続している状態が三昧状態だと言えます。
したがって、集中と三昧は切っても切れない連続したもの、あるいは、ニュアンスとして一部ダブった状態です。集中の後半はもう三昧状態であり、三昧の最初の状態は集中しているということと重なっているようです。」
最近、数息観坐禅と日常活動での自分の生き様を反省する中で、上記引用した以前の集中と三昧の説明に違和感を覚えます。すなわち三昧についての認識が最近変ってきていることに気づきました。
違和感のあるところは、上に引用した中の「集中と三昧は切っても切れない連続したもの、あるいは、ニュアンスとして一部ダブった状態です」です。
既述通り、集中は三昧に向かっている過程であり、心・精神をひと所にフォーカスしている状態です。数息だけに集中し他の念慮が入ってこない状態も集中している状態であって真の三昧ではないと最近では考えています。ここは以前とは少し違ってきているかも知れません。三昧は言い換えると禅定であり、これは単に集中しているだけではない心境です。
小生が一念不生の事例としてよく使っていたものに、「子供が漫画本を夢中になって読んでいて、お母さんの呼び声が耳に入らない状態」と云っておりましたが、これは集中した状態であるが、これを三昧と云うべきではないと考えています。
集中と三昧の違いについて参考になる既述がありますので、如々庵老師の文章から「心の持ち様」についての宮本武蔵と沢庵和尚の違いを引用します。
宮本武蔵は、「兵法の道において心の持ちようは、常の心に替る事なかれ。常にも兵法の時も少しも変らずして、心を広く直にして、きつくひっぱらず、少しもたるまず、心のかたよらぬように心を真ん中に置きて、心を静かに揺るがせて、其揺らぎの刹那も揺るぎやまぬように、能々吟味すべし」(『五輪の書』水の巻)
沢庵和尚は、「心の置き所について、一般的に兵法で云われている「心を一所に固定させるな」とか「心を臍の下に置け」とか云っているが、これはまだ修行稽古の時の段階・・・と説き、「心をどこにも置くな。これが肝要である。どこにも置かねばどこにも有るぞ。」(柳生宗矩に与えた『不動智神妙録』の抜粋)
要約して、如々庵老師の解説は、武蔵は「心を真ん中に置け」であり、沢庵は「心をどこにも置くな」の違いとなり、武蔵を達人の境涯と言い、沢庵を名人の境涯として悟境が歴然と違うと言われています。
小生もこの如々庵老師の看方を取り、達人と名人の差は大きいと考えています。すなわち武蔵の状態は集中状態であり、沢庵の示す心の置き方こそが三昧であります。
我々の人間形成の禅は、在家禅者が対象です。そして人間形成は三昧を身につけることであると説明してきました。身につける三昧は、在家禅者として現代社会で役に立つためのものです。自分に三昧が身につけば状況に応じて柔軟な働きが出て来るようになります。多様な個性を持った人に対して相手に応じた柔軟なコンタクトができるようになってきます。
人間禅では以前から三昧の説明に「独楽が回って澄んだ状態」を譬えとして説明していますが、独楽が回っているのは一見すると止まって見えるけれども、手を触れるとはじかれる働きを秘めており、単に一点に集中しているだけではないのです。
集中状態は点対応であって、実社会の対応は線でも面でもなく三次元対応が必要です。それに対応できるのは、一点に心を集めるのではなく、どこにも心を置かない三昧状態での対応が必要になります。
集中状態では、集中した一点だけしか見えません。それをお茶席でのお手前で云えば、お手前だけに集中していて、お客さんの顔も気持ちも読めないことになります。これでは無賓主の茶道にはなりません。
集中は一人でやるものです。相手がある剣道の法定の形の場合は単なる集中ではなく、三昧でなければなりません。法定の形は、相手と呼吸を合わせ相手と共に三昧に入る「動く禅」であり、動的に三昧を練ることができる素晴らしいものであり、人間禅ではその普及を奨励しています。
人間禅では日常の数息観坐禅修行を人間形成の禅の基盤にしており、小生の担当している支部では、会員が毎日の数息観坐禅を評点付けし、それに対して師家がアドバイスをしながら道力を養う修行を進めています。
数息観坐禅は数息に集中する行であり、継続すれば集中力が増し三昧が少しずつ深くなります。そしてさらにこうした数息観坐禅を継続することにより、三昧状態を長く保つことができるようになります。このような三昧が身についてくると、日常の社会生活の中で正念相続ができるようになります。
次は正念相続について書いてみたいと思います。
――その19.「夢」――
丸川春潭
禅門に入ると誰でも気がつくことですが、掛け物とか色紙に「夢」の字がよく揮毫されています。そして揮毫のほとんどは禅僧のものです。
一般に「夢」は、睡眠中に見る夢と離れた意味合いで多く使われています。子供には夢を持たせたいとかいう言い方です。最近では、名古屋支部長の三輪夢遊禅子が、全国的な組織であるドリームマップ普及協会の会長をされており、その様子をうかがっていますと、学校教育を中心にして「夢を描く」とか「ゆめのチカラ」をキャッチフレーズにして普及し、「夢」が社会化現象になっているようにも見えます。
人間禅の歴代のお師家方も夢を揮毫され(後ほどそれらの写真を紹介します)ており、小生も数年前 東京支部創立45周年の記念品として、「夢」の色紙を100数十枚書かされました。
禅語・著語としてこの「夢」をどう捉えどう解釈するかについて、浅学な小生は未だ確たる文献に出くわしておりません。ただ云えることは、禅家での「夢」の解釈と人口に膾炙している「夢」とは大きく異なるものであると考えています。以下、禅語としての「夢」をいろいろ味わってみたいと思います。
『新版 禅学大辞典』有馬?底監修には、「外界が実際には存在しないことを夢にたとえる。すべての存在が固定的実体ではないこと。・・・すべての執着から脱却し、悟りも学識も名誉も忘れ去った境地。さらに、人生をはじめとするすべてが虚しく儚いことを象徴するとも解され、追悼の茶会などでも知いられる。」
人間禅師家であられた如々庵芳賀洞然老師(東京教育大学名誉教授芳賀幸四郎)の書かれた『新編一行物』ではどう解釈されているかをみますと、
「禅者がこの一字を揮毫するのは、・・・「人生は畢竟夢なり」という意味」を持たせていると解釈され、そして『金剛経』の一節を引用されて、「一切の有為の法は夢幻泡影の如く、露の如く亦電の如し・・を圧縮したのが、この「夢」の一字である。」そして昔から「人生畢竟夢なり」はいろいろな解釈をされてきたが、どれも正しい解釈ではないと老師は断定され、そうではなく正しい解釈は「人間はついに死ぬものであるからこそ生きていることが尊く有難く、人生は短いがゆえにこそ今日の一日・唯今の一刹那を何ものにもまして護惜し、人生はただ一回限りなればこそ第一義に立って悔いなく力いっぱい生きようとするのが、「人生は夢なり」また「夢」の一字から帰結されるべき正しい生き方である。」と結論づけられておられます。また老師は付け加えて、「夢」の軸を追悼茶会にしか掛けないのは、この真意を理解できていないからであるとし、「平常の茶会にもこれを掛け、主客ともに生きていることの有難さと今日の一日の貴さに思いをひそめ、一期一会の思いを新たにしてこそ、道としての茶、真の茶道に近づくゆえんではなかろうか。」と結論づけられておられます。
この老師の解釈の是非を論ずる前に、如々庵老師も含め人間禅の先輩老師方の揮毫された「夢」を先ず掲げておきます。
人間禅鎮西道場所蔵 耕雲庵立田英山老師揮毫の扇面形木彫 1960年頃
人間禅第二世総裁妙峰庵孤唱老師筆 人間禅創立30周年記念茶碗の箱書き
第三世総裁磨甎庵劫石老師揮毫 1980年頃 長野県飯田長久寺での揮毫
人間禅師家如々庵洞然老師揮毫 時期不明
人間禅師家法爾庵近森潤風老師色紙 1990年代の揮毫
以上、人間禅の先輩老師方の「夢」を写真でご紹介しました。何故、禅の嗣法者は「夢」という一字をかくも珍重するのかは、大いに吟味し工夫すべきであります。
小生の解釈を申し上げます。先に示した『新版 禅学大辞典』の解釈は、如々庵老師も正しくないと解説された範疇であり論外です。如々庵老師の解釈は、大体は了解できるのですが、腑に落ちるとは云えません。
それは、「夢」についての解釈が明確になっていない点です。何故、リアルな人生すなわち嬉しいことも悲しいことも実際にあった事実を夢・幻の如しと言い切るのかについて、この如々庵老師の解釈だけでは納得できないのです。
織田信長が登場する歴史ドラマなどで、信長が能を舞うシーンで謡われる有名なフレーズ「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢・幻の如くなり」は、謡曲『敦盛』の一節です。「人間界の50年など 下天(仏法の年月)での時の流れと比べれば 夢や幻も同然」であるという意味で、続きは「一度生を享け、滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」(ひとたび生まれて 滅びぬものなどあるはずがない これを悟りの境地と考えないのは 情けないことだ)であります。
信長は、幼少より妙心寺禅僧択源宗恩に師事して禅的な見方は持っていたと思われ、この信長の「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の 如くなり」は、人生畢竟夢という諦観であり、夢の捉え方は、如々庵老師のお考えと大体同じだと思います。「人生は夢なり」と人口で膾炙されている通俗的な「夢」に対する解釈であります。
お釈迦様の悟りは知性で捉えられるものではありません。この悟得でしか確かめようのない悟りを仏教の代表的仏典である般若心経では、「色即是空 空即是色」と表現しています。禅で悟得できれば、言葉で説明しきれないけれどもこの般若心経の一節をはっきりとその通りだと納得できます。すなわち悟得できない段階では「色」しか見えず、「空」とは何のことかさっぱり判らないものです。悟得は「空」を悟ることによって「色即是空」が判るのです。「色」は必ず流転し変化するものです。人間は生まれて必ず死ぬる、生まれるということも死ぬということも変化であり流転です。形があって存在するものは全て同じです。
信長の謡曲もそれを謡っているのです。そして悟りを開くことによって「空」が「色」に本来具わっていることを徹見し、「即」が明確に判るのです。
「色」が生々流転するものに対して「空」は不生不滅です。嬉しいことも悲しいことも即空なのです。言い換えると、「空」が嬉しいとか悲しいとかとして現れている。「空即色」でもあるのです。人生はリアル(色)であるが「即空」であり、「空」がリアル(色)すなわち嬉しい悲しいこととして現れているのです。
禅者は人生をはじめとして全ての遭遇する現象を「色即是空 空即是色」と看る、すなわち片方の目(肉眼)は「色」と看て、もう片方の目(心眼・悟眼)で「空」と看る。ひとつのリアルな現象を同時にこの両眼で看る。こういう見方を「夢」と云い「幻」と表現していると解釈するのが小生の見解であります。
だから禅僧が「夢」の一字を珍重し揮毫するのは、釈迦牟尼世尊の悟りをそして仏教の真髄を一字の「夢」に凝縮させて看ているのです。通俗的な「夢」や「人生畢竟夢」とは全く異なる看方であります。
如何でしょうか?諸兄姉のご批判を期して待ちます。合掌
――その18.「瀧」――
丸川春潭
小生は知らなかったのですが、夏のお茶席では「瀧」の掛け軸を掛けるものだと、東京中央支部のお茶人達から聞き、ネットで調べますと、管長さん達の書がいろいろ載っておりネット販売されていました。
「瀧」一字では、禅語でも著語でもないのですが、要請されて書いた字が掛け軸になり、道場の茶席で掛けられていますので、このブログシリーズで解釈し味わって見たいと思います。
如々庵老師の『新版一行物』淡交社から先ず引用しておきます。老師は、学人から所望されて、大きな「瀧」の字に「万古無弦の琴」を小さく添えて揮毫されたそうです。その理由を次のように書かれています。
「明治の末頃から・・・大正時代に広く愛唱された唱歌「美しき天然」がある。
空にさえずる鳥の声
峰より落つる瀧の音
大波小波とうとうと
響き絶えせぬ海の音
聞けや人々面白き
この天然の音楽を
調べ自在に弾き給ふ
神の御手の尊しや
というものである。那智の滝にせよ華厳の滝にせよ、太古の昔から「美しき天然の音楽」を奏でて今日に到り、さらにこれからも未来永劫にわたって、その「弦の無い琴」を奏で続けることであろう。「瀧」の一字に「万古無弦琴」と書き添えた由縁である。」と。
この写真の如々庵老師の揮毫は、清香庵佐藤妙珠老禅子の所蔵であり、この軸には「万古無弦琴」の添え書きはありません。北寮の茶室に先月(令和4年7月)に掛けられていました。またお願いして、房総の夏の摂心会(現在進行中)にも茶席で使わせていただいております。
小生が瀧の揮毫を要請されてネットで見た瀧の掛け軸には、添え書きは「直下三千丈」とあり、小生も添え書きとして「直下三千丈」を拝借して書きました。
「直下三千丈」の添え書きの意味は、その瀧が三千丈の高さであることを意味するだけに止まらず、その轟音も表現しており、さらにその瀧の姿をも見せていると考えます。
この写真は、東京中央支部真香塾の茶室の写真であり、摂心会の朝茶はこの前で行っています。
小生は若い頃、和歌山製鉄所に9年間務めており、その時期に会社の同僚との小旅行で南紀熊野の那智の滝を見に行ったことがありました。瀧の落差は133メートルあり、その前に立つと理屈を超えて荘厳さに打たれました。この瀧自体が、熊野那智大社の中にある飛瀑神社のご神体になっているのです。たまたま8月7日の読売新聞の日曜版に、那智の滝の写真がありました。新聞の写真のコピーでしても、このご神体たる由縁の雰囲気を感じます。
最後に、自筆の瀧の軸(直下三千丈の添え書き)に対する禅的な自己流解釈を蛇足しておきたいと思います。如々庵老師は、「万古無弦琴」で瀧の音から耳で聞く音を超えたまさに「隻手音声」を聞かれたものと思います。小生は「直下三千丈」で、瀧の高さのみならず、音も、姿も含めた全体像を、この掛け軸と相対して看ています。すなわち瀧全体がそのまま如是法そのもの、「本来の面目」と看ているのです。これは那智の飛瀑神社が、瀧そのものをご神体にしているのと通じています。以前からいろいろのところで述べておりますが、日本古来の神道は八百万の神を尊ぶ信仰であり、禅と近い方向性と深さを持っていると考えています。読売新聞の那智の滝の写真と「瀧―直下三千丈−」の軸を重ねて看るのです。60数年ぶりに熊野に行き、那智の滝と相対してみたいものであります。
――その17.「葆光」――
丸川春潭
小生の庵号である葆光庵の葆光とはどういう意味かとよく聞かれてその都度ちゃんとした説明もしてきませんでした。最近、名誉会員の住友吉左衛門(崇福)さんと森嶋石雲さんから、後述の葆光彩磁の紹介を庵号がらみでご紹介いただきました。これらが切っ掛けでのブログになりますので、従来のものとはトーンが変わり、禅語・著語シリーズらしからぬものになると思いますが、とりまとめ記しておきます。
住友さんと石雲さんから教えていただいた葆光彩磁について最初に引用します。葆光彩磁の読み方が、「ほこうさいじ」であり、小生の庵号と葆の読み方が変っています。以下引用ですが、
「葆光彩磁は板谷波山(いたや はざん1872年〜1963年)による装飾技法です。葆光釉(ほこうゆう)はいわゆるマット釉の一種です。これを施釉して1,230℃で焼成すると、艶消しの効果によって霧が立ちこめたような幻想的な釉調が得られます。」
「葆光とは「光を包む・保つ」という意味を持ち、彩磁は「磁胎に描画・彩色する」技法を指します。つまり磁器の表面に加飾したのち、葆光釉をかけて艶消しをすることで淡い光そのものを表現しています。」
「板谷波山」出光美術館より引用
次にネットで「葆光」を検索すると、世の中ではいろいろ「葆光」がよく使われていることが判ります。そのうちの二つを引用します。
一つは慶応大学医学部 放射線科学教室同窓会名です。引用しますと
「慶応大学医学部 放射線科学教室同窓会を「葆光会」(ほこうかい)と称する.この「葆光」という言葉は,《荘子》の齊物論に登場する.
故知止其所不知,至矣. 孰知不言之辯,不道之道. 若有能知,此之謂天府.
注焉而不滿,酌焉而不竭, 而不知其所由來,此之謂葆光.
(故に知は其の知らざる所に止まれば至れり.たれか不言の弁,不道の道を知らん.もし能く知ること有らば,これを天府という.これに注げども満たず,酌めどもつきず.しかも其のよりて来たる所を知らず.これを葆光という.)
その意味するところは...
人間の知性は,これ以上知ることができないという所に達して,はじめて極めたということができる.言葉として聞こえない言葉,道として見えない道を知ることができるだろうか.もしそれができれば,それは自然の境地である.そこでは,いくら注いでも溢れることなく,いくら酌みだしても尽きることがない.この境地が葆光である.・・・この葆光という言葉に,人類の叡智としての放射線医学への希望を託したものであろう.」
もう一つは、姫路工業高校同窓会名が葆光会です。引用しますと
「葆光会のシンボルマークは、本校創立以来使われているもので、中央のろうそくが光を放っており、前途の「葆光」の意味にあるように、身につけた光・人徳・教養が光を発している。・・・「葆光碑」は河合寸翁の略歴が記されているが、寸翁は「葆光」の語を中国の「荘子」の「内篇斉物論第二」より採っている。」
この他、人の名前も数人が葆光を使っていますが、引用は省略します。
次に、葆光の元々の原本を調べて見ますと、「荘子:斉物論第二」からであり、ネット引用しますと、
「故 知 止 其 所 不 知 。 至 矣 。 孰 知 不 言 之 辯 。 不 道 之 道 。 若 有 能 知 。 此 之 謂 天 府 。 注 焉 而 不 滿 。 酌 焉 而 不 竭 。 而 不 知 其 所 由 來 。 此 之 謂 葆 光 。
故に知は其の知らざる所に止まれば、到れり。孰(たれ)か不言の弁、不動の道を知らん。若し能く知るもの有らば、此れを之れ、天府と謂う。焉(これ)に注げども満たず、焉に酌めども竭(つ)き ず。而も其の由りて来たる所を知らず。此れを之れ葆光(ホウコウ)と謂う。
最上の智恵とは、是非の偏見によって害われず、認識の限界を知って、その限界の外に止まる智恵にほかならない。絶対の真理とは、これを知れりとするとこ ろにはもはや絶対の真理ではなくなり、これを知らずとするところに却って絶対の真理としてあらわれる逆説的存在なのだ。だからこの逆説の意味を真に理解する者があれば、彼の前には無限に豊かな生命の宝庫が開かれるであろう。「ものいわざる雄弁」、「真理を否定する真理」この言葉の意味を真に会得することの できる者があれば、彼をこそ「天府」すなわち天然自然の宝庫を心にもつ人とよぶのである。
彼の胸中には注げども満たず、酌めども竭(つ)きず、しかも何処(いずこ)から来て何処へ去ってゆくともしれない、果てしなき生命の大海原が打ち開け る。彼はその生命の大海原に限りなき自由を戯れて、一切の人間的な矮小さを超克する。そして、このような境地、つまりあらゆる人間的な思慮分別と、人間的 な思慮分別に成立する万籟の響き ─ 喧々囂々たる是非の争論が本来の清寂にしずまる境地を、「葆光(ホウコウ)」というのである。葆光とは「包まれた宝(たから)の光」、すなわち絶対の智恵という意味にほかならない。
葆光(ホウコウ):光をつつみ隠すこと。すぐれた知恵・才能を隠して表面にあらわさないことにたとえる。」
小生が庵号をいただいたのは、平成5年(1993年)5月5日に、護法庵山田真常老居士、輯凞庵内田慧純老禅子とご一緒に第三世総裁磨甎庵劫石老師から授与されました。当日は、人間禅創立45周年にあたり、その記念式に先立っての授与式でした。そして45周年の記念品として両忘庵宗活老師揮毫の「葆光」の色紙(次の写真)が会員に配布されました。
命名者は当時の総裁の磨甎庵老師ですが、葆光の意味の説明は全くありませんでした。読み方も授与式の席上でどう読まれたか覚えがないので、自分で辞書を調べ「ほうこう」と読むことを知りました。
庵号授与から15年ほど経って、鎮西支部の(故)紹燈庵無盡老居士が、鎮西道場にあった両忘老師の揮毫を額装にしていただきました。
上記掲載の二つの写真とも両忘庵老師の揮毫です。さらに老師はこれ以外にもいろいろな揮毫を残されておられます。不勉強な自分の管見ですが、中国日本を問わず歴代の祖師方の揮毫も耕雲庵老師以降の人間禅の中でも、この字の揮毫とか引用・使用は見たことがありません。両忘庵老師は余程この字を好まれたのかなと思います。そして両忘庵老師に心酔されていた磨甎庵老師がこの字を庵号にと考えられたものと推定しています。
そして改めて、この「葆光」を小生なりにどう解釈するかですが、引用した「荘子:斉物論第二」の解釈以上のものは特にはありません。また「禅語・著語を味わう」という観点では、自分の庵号だけに味わいようがないというのが正直なところです。庵号にしても道号にしてもいくら立派なものであっても、その意味を考えるのはそれをいただいた当座だけで、直ぐ単なる呼び名になってしまいます。本人自身の人となりが庵号なり道号の意味合いを体現し、規定することになり、本来の解釈や意味は飛んでしまうものです。
書き出しでお断りしましたが、この「禅語・著語を味わう」シリーズとしては変調なものになりましたが、ご海容にお願いします。合掌
(その5)師家の家風の多様性と若者に対する布教
丸川春潭
前報で人間禅は、歴史上初めての複数の師家を擁する在家禅会であることをブログとして書きましたが、このブログはその中味についての一端です。
60年以上も人間禅にご縁をいただいていますと、いろいろな場面で素晴らしい先輩方の言動に触れることができ、それが小生にとっての大きな財産になっています。それらを振り返って見ているとその断片である点と点がつながって線として見え、また社会的な経験の中でそれが面としてや形として見えてきたりするものです。
第二世総裁妙峰庵孤唱老師が師家として仰られたことを断片的ですが想い出します。そのひとつは、「新到者がきたら、おまえ達で相手をせず、ワシのところへ連れてこい!」と言われたことがあります。40年ほど前にことです。
また第三世総裁磨甎庵劫石老師が、房総支部の担当師家として当時の支部長である内田智橋さんに厳しい語調で詰問されたことがありました。それは千葉大学医学部の学生二人(坂下興道、今井如浄)の入門に際して、入門に値する人物かどうかを質したのです。支部長に入門の保証と責任を求められたのです。当時小生は房総支部傘下で鹿島禅会を立ち上げ、新到者をどんどん入門させていましたから、自分の身につまされてよく覚えています。
この二つの断片は、その当時はそれぞれそうなんだと納得していました。すなわち、この二つの断片を独立してそれぞれ小生は納得して受け止めていたのですが、この一連のブログの「僧堂禅と在家禅と人間禅」を書き考えている時に、この二つの断片が関連したこととして整理でき、本題の人間禅の特徴の一端として明確になってくるのです。
妙峰庵老師は、師家が新到者対応に全面的に当たる家風だったのです。支部長を兼務したような師家だったのです。これに対し、磨甎庵老師は、師家として参禅室に入室してくる者に厳しく対応し、新到者が参禅室に至るまで(入門するまで)の過程は支部長以下が責任を持って対応するものだと割り切っておられたのです。このブログのテーマでいえば、磨甎庵老師は僧堂禅の師家らしい師家という家風です。ただ磨甎庵老師が師家になられた直後の時期すなわち房総支部創立前夜の時代は、妙峰庵老師と同じように直々に新到者に当たっておられたと云うことは間違いなくあったと思います。房総支部が創立され、板東支部の創立前の時期には新到者対応は支部長以下に任せて、自分は師家職に専念され新到者対応からは完全に手を引かれていました。当時の鹿島禅会の方は特に、新到者対応のみならず禅会行事の全般にわたり禅会責任者の小生に任しっぱなしでした。
あるとき磨甎庵老師が、新到者との対応について、当時中央支部長であった小池滔天さんを例に挙げて、彼のように理屈抜きでやあやあと肩を組んで直ぐ仲良くなってしまうやり方をたいそうrespect(リスペクト:敬意を持つ)しておられました。小生に参考にするように言われたのでしょうが、同時にご自身はとても滔天さんのような対応はできないということを自覚されていたように思います。
磨甎庵老師は新到者対応のみならず、道場建設についてもその家風は反映されていました。自前の道場を建てよという指示だけは出されますが、土地の選定から資金集めに至るまで、その経過報告を聞くだけの関わりように、役柄を割り切っておられました。房総道場建設の時から潮来道場の建設にかけて、この傾向は明確化しました。
耕雲庵老師からお聞きした話ですが、「孤唱(妙峰庵老師)は剣道場建設資金を自分一人で瞬く間にかき集めたよ!」と、半分驚き半分自慢的に小生におっしゃったことがありました。こういうことでも判りますが、妙峰庵老師は自分が真っ先に動き出す人です。師家になられてからでも上から目線ではなく、作務においても真っ先にどろんこになってみんなと混ざって作務三昧をやられました。本部道場の正門の内側の石の据え付けを汗だくで一緒にやらせていただいたことを昨日のように思い出します。豪放磊落、ざっくばらんでいて繊細な配慮が行く届き、上から目線ではなく背中を見せて教える家風であったと小生は認識しています。
これに対して、
本題の言い方から云えば、磨甎庵老師は僧堂禅的師家への傾倒があり、妙峰庵老師は在家禅でありさらに人間禅者流を最初から最後まで一貫して地でゆかれたお方であると云えます。
これは一例にしか過ぎませんが、人間禅は師家のみならず久参の歴代の先輩方は個々の家風が極めて多様です。決してコチッとした型に嵌まったものはなく、同じ僧伽で修行しているのに人々は極めて多様であります。禅による人間形成の禅を極めた結果が多様な人材を輩出することになっていると云うことです。
翻って現代の若者も多様であります。まさに僧堂禅的な厳しさを求める若者もいるし、共感や癒やしを求めて道場にやってくる若者もいます。現代の布教・救済はまさに多様性がなければ対応できないのです。この多様性に対応するためには、支部にそして担当師家にそれに応える多様性がなければなりません。人間禅全体に多様な師家と多様な支部長がいるということではなく、各支部・各禅会において新到者の多様性に対応できなければならないのです。すなわち担当師家と支部長・禅会長とで相補ってあらゆる多様な若者にも対応できるように進化した僧伽にならなければならないのです。
磨甎庵老師は、本当の宗教は常に新しい。常に新しくあらねばならぬといわれていました。現代の多様な若者に対応できなければ、本当の宗教にもとるということになります。全国32カ所の支部・禅会・座禅会における新到者の去住を、3年長く見ても5年見れば、その支部・禅会が多様な現代社会に適合しているかどうかが判ります。ここ数年新入会者がなく会員が漸減している支部・禅会は、今まで先人がやってきたことをそのまま継続するだけで、現代社会に適合するべき対応に僧伽として自己変革できていないのです。
自己満足では必ず衰退します。真に現代社会に生きる僧伽は、僧堂禅の深さ高さ厳しさを持つと同時に、在家禅としての敷居の低さ優しさ暖かさをも兼ね備えて保持していなくてはならないのです。幸いに人間禅の先輩方には錚々たる人物が多様性を持って我々に範を示し遺されています。この豊かに多様な先輩方の良いところを選択的にしっかりと継承してゆけばよいのです。
そうすることによって、人間禅は将来のどういう時代になっても求めてくる全ての人に応える真の僧伽であり続けられると確信しております。
(その1)耕雲庵老師はオヤジ
(その2)『数息観のすすめ』と『坐禅儀』
(その3)「正しく・楽しく・仲よく」
(その4)師家を複数人擁する僧伽
(その5)師家の家風の多様性と若者に対する布教
]]>――その16.「白雲抱幽石」――
丸川春潭
この語は、茶道の方で夏の掛け物として最も人口に膾炙されている語のようであり、7月に入りましたのでこの語を選びました。
先ず、『茶席の禅語大辞典』有馬?底監修淡交社を調べておきましょう。
「白雲が幽寂な石を抱いているのみ、という侘び住まいの風情。世俗との交渉を絶って幽居する心境。俗塵を離れた幽邃な深山の風情。」
次に、『新編一行物』―禅語の茶掛―芳賀幸四郎著淡交社出版を参照しましょう。
「これは『寒山詩』の一節。世俗と交渉を絶ち、俗情を払拭して深山に幽居する隠者寒山の境涯を、まことによく彷彿とさせる句である。禅者はこの寒山の境涯を愛し、これに共鳴して、よくこの句を揮毫するのである。
茶人は必ずしも寒山のような隠者であることを要しないが、「小隠は山に隠れ、大隠は市に隠る」という語もあるように、その「大隠」であるべきである。そして少なくも露地草庵は利害・得失・憎愛・毀誉などの世俗の塵埃を払拭した、白雲深い別天地であるべきである。その点、現代の茶道はこの句の前に、再思三省すべきではなかろうか。」
この語「白雲抱幽石」はわかりやすい詩の一節であり、大意は上記引用で十分尽きています。そして如々庵芳賀洞然老師の後半の示唆は非常に良く効いた警世の語であります。異議無く、全く同感であります。
特に茶禅一味の茶道の実践においては、自分の茶室での日常の点茶において、「白雲抱幽石」の境地が現成していなければならないでしょう。
すなわち床の掛け軸として「白雲抱幽石」を掛け、その境地を愛でるだけではなく、自分が手前実践をする中でこの境地を自ら実践するということでなければなるまいと思います。
茶道とは離れて、「幽石」に注目しますと、直ぐ小生が想い出すのは耕雲庵英山老師であります。その理由は、老師の俳号が「幽石」だからです。
「白雲抱幽石」の掛け軸が何処かにないか探していたところ、剣外居士が次の写真を送ってくれました。
この写真は、耕雲庵老師が熊本支部の雙泯庵淵上磊山老居士の為に書かれ、与えられたもののようで、恐らく昭和30年代のものと思われます。
老師の俳号の由来が、この語からかどうかは伺い知れませんが、とにかくこの掛け軸を観ていると背筋がゾクッとします。老大師に対面しているような感じです。すなわち、この老師の掛け軸の味わいは、上記茶道に関するようなものではなく、もっと禅そのものを感じます。
すなわち、この軸「白雲抱幽石」は、耕雲庵英山老師そのものではないかと看えてきます。そして白雲が老師であり、幽石が如是法であると小生は看ます。
また、この軸で耕雲庵老師に照見することができそうに思います。この写真は、老大師の作品集にある写真なのだそうですが、是非目の黒いうちに一度本物にお目にかかりたいものであります。合掌
(その4)師家を複数人擁する僧伽
丸川春潭
本題「僧堂禅と在家禅と人間禅」の前報までの副題は下記のものです。
(その1)耕雲庵老師はオヤジ
(その2)『数息観のすすめ』と『坐禅儀』
(その3)「正しく・楽しく・仲よく」
副題(その1)は、耕雲庵老師が過去の僧堂レジュームを如何に脱却しようとしたかについて記し、(その2)(その3)では耕雲庵老師の人間禅のソフト面について記し、本ブログ(その4)では、耕雲庵老師が創られた人間禅僧伽の組織の新しい視点を検証しておきたいと思います。
不勉強の小生が日本禅宗史を管見するかぎりにおいて、禅宗での僧伽(お寺)の住職は一人だけだと思います。すなわち臨済宗の寺院は全国に5000位あるようですが、伝法の師家が住職の場合は極めてまれであり、20数寺院しかないと推定しています。そしてその20数ヶ寺を含め、13世紀から令和時代まで複数の伝法の師家が常時住職されている寺院は皆無ではないかと思います。
耕雲庵老師の人間禅は、ここが全く新しい点であり、複数の師家を人間禅僧伽は常時擁しています。小生が人間禅にご縁をいただいたのは、人間禅創立10周年の直後でした。老師の侍者をしていたときに、耕雲庵老師は、「10周年で師家が新たに二人できたが、それまでの10年間は、ワシ一人で法を加担しておってその責任の重さは両肩にずっしり重かったものだったよ!」と仰いました。この老師のお言葉からもうかがえますが、人間禅僧伽の組織としての形は複数の師家で構成されることが前提であるということです。
この組織の特徴として、複数の伝法の師家を擁する僧伽は、伝法が断絶するという危険性から大きく解放されるということが一つあります。確かに達磨大師の6世紀の時代の中国から今日まで、断絶した法系は中国・日本を問わずあみだくじのように途中でほとんど断絶しており、現在まで残って続いているのが希少であることは明らかであります。
複数の師家を擁する僧伽の二つ目の特徴は、前報(その3)「正しく・楽しく・仲よく」に書いてあるように、僧堂禅が「伝法のための伝法」であるのに対して、人間禅が「布教のための伝法」であります。そしてまた、人間禅『立教の主旨』の第一項「人間禅は、自利利他の願輪をめぐらし、本当の人生を味わいつつ、世界楽土を建設するのを目的とする。」と謳われています。すなわち世界楽土を建設するという「布教・救済」が第一目標であれば、師家は多くおれば多いほど良いわけです。多くなければできないことです。現在の人間禅の師家は15名であり、一人の師家では到底できない全国に点在する32拠点の法城(支部・禅会・座禅会)を分担して営弁しているところです。一方、在家禅者にとっては修行の点からだけ考えれば、通勤圏・生活圏内に法城が必要です。日本の各都道府県に一つずつあっても少ないくらいなのに、現在人間禅は47都道府県で空白の県が半数も未だ残っています。したがって在家禅者が普通に修行できる拠点は、ざっくり言って今の倍必要であるということです。そして師家においても、現状と同じような構成を想定すると倍くらいの陣容が必要であるということになります。
こういう複数の数の師家を擁する僧伽は、歴史上皆無であることはもちろんのことですが、「布教のための伝法」であり、「世界楽土の建設」を掲げる限り、こういう形の僧伽にならざるを得ないというか、これでなければいけない僧伽の型であります。これが組織論における人間禅の他に類例のない特徴です。
そしてこれに伴ういろいろ克服しなければならない課題もあるのは当然のことです。耕雲庵老師は、この複数の師家を統括し、布教伝法を僧伽として順調に運営させるために総裁師家という職を設けられました。そして初代総裁に自ら推挙を得て就任されたのですが、実際にこの複数の師家を擁する僧伽の運営の難しさについてはかなり早い時期から承知されていたようです。
耕雲庵老師が、学生の頃の侍者である小生に、九州の巡錫からの帰途の車中で「担当師家と学人(修行者)の関係がどうしても密接になりすぎる・・・」とおっしゃられたことを覚えています。これは、人間形成の禅の修行は師家と学人が一対一で生死を共にするくらいの関係にならなければできないところも元来あるからなのです。この点のミクロからだけ観れば、禅の僧伽は師家が一人が収まりが良いのです。まさにこちらの方が自然の形といっても良いものです。
耕雲庵老師は総裁の見地から、人間禅の修行者すなわち会員はそれぞれが所属する担当師家の弟子であると同時に人間禅の会員であるということを言われたかったのです。すなわち会員は支部員であると同時に人間禅の会員であるという後の方が、前の方の担当師家との結びつきが強くなりすぎて、薄くなりがちだと耕雲庵老師は懸念されたのです。老師のニュアンスも、真剣に修行しているとそうなり勝ちだということではあるが・・・があったように思います。そして付け加えて、「だからワシは、担当師家に任期を付けているのだ。」とその時はっきり言われました。
耕雲庵老師の弟子の第一世代以降の現在の師家15名は、ほとんどの方々が複数の師家に参じて師家になられているのです。小生でも3名の人間禅の師家に参じて師家分上になっています。現総裁千鈞庵老師は5人の師家に参じて師家分上になっています。事ほどさように、長年月かけて何人もの師家方に参じて師家分上までを行くのが、在家禅ならではの必要は型なのです。それを組織として可能にするのが複数の師家を組織に擁し、次々に世代交代してつながって永続するということが組織として必要十分条件になるのです。
この組織を運営する難しさは当然ありますが、師家連がそして全会員がこの組織の特徴を正受してみんなで協力して克服してゆかねばならないのです。この僧伽の形が人間禅の『立教の主旨』を永遠に進展せしめる唯一の組織形態なのですから。
(その1)耕雲庵老師はオヤジ
(その2)『数息観のすすめ』と『坐禅儀』
(その3)「正しく・楽しく・仲よく」
(その4)師家を複数人擁する僧伽
丸川春潭
先日Twitter社の買収を発表して話題となったアメリカ・テスラ社の最高経営責任者イーロン・マスク氏、そのTwitterに「日本が消滅する」とする衝撃的な投稿をした。それは、 2021年10月時点の日本の総人口が、前の年より過去最大の64万人減少し、約1億2550万人となったというニュースに反応したものだった。「当たり前のことだけど、出生率が死亡率を上回るような変化がない限り、日本はいずれ存在しなくなるだろう。これは世界にとって大きな損失になる」(Yahooニュースより)
小生は、マスク氏の持論である「人口減少は、文明にとって最大のリスクである。」という考え方には組みせず異論を持っている(地球環境や地球資源の観点から問題があり、人口は増減なしが地球にとっても人類にとっても一番持続させられる状態であるとの考え)のですが、出生率が死亡率を下回ると人口はどんどん下がることは真に当たり前のことです。そして理論的には、この低下状況が続くと究極的に国がなくなるというのも当たり前です。
このマスク氏の「日本が滅びる」との考え方から連想して、人間禅でも同じことが云えること思いつきました。それは、本年度の人間禅の春期諸会議の一環での法務役員会(会長巌幽庵道虔老居士)からの報告された内容です。その報告は、「人間禅は、新規入会にこだわり過ぎであり、支部・禅会の会員数の増減ばかり云っている。それが新到者には不要なストレスを与えることになり、早期の脱会につながったり、新到者の入会を忌避させたりしている。」旨の発言がありました。この件をマスク氏の主張から連想したのです。
この新規入会数を大きく取り上げ言い出した元凶は小生であり、その始まりは14年前の2008年(平成20年)1月3日の総裁年頭の垂示です。この垂示で、人間禅は新規入団者を兎に角増やさなければならないと数字を掲げて会員に訴えており、これ以降もたびたび入会者を増やさなければならないと言い続けてきています。
これは、マスク氏の警鐘と全く同じです。日本の国において、出生率が死亡率より低くなると国が滅ぶというのと同じマクロの見方です。人間禅の場合は、実働会員の減少より新規入会者が少なくなると人間禅が消滅するというマクロの見方になるのです。先述の平成20年の年頭は小生が総裁に指名されて1年半後の時点ですが、この時点までの約10年近くにわたって右肩下がりすなわち実動会員が毎年減少して人間禅消滅の軌道に乗っていたのです。総裁としては人間禅が消滅することだけは何としても回避しなければならないと考えるのです。その理由は一言で云って、人間禅には達摩大師以来54代の伝法嗣法者によって命がけで伝えられた禅の慧命(言葉では伝えることができない釈迦牟尼の悟境)が伝わっており(詳しくは先日(2022.5.17)掲載のブログを参照下さい)、その伝法が人間禅が消滅することにより断絶してしまって将来に伝えることができなくなるのです。歴代の伝法嗣法者がそうであったと同じように、何としても法を護持し伝えなければならない、その器としての僧伽(人間禅)を遺さなければ、今までの数多の祖師方にたいしても、そしてまた後世の道を求める人達にも申し訳ないということです。この観点の理由で人間禅を消滅させてはならないと決意してそしてマクロの見解を発信したのです。
更に人間禅を消滅させてはいけない卑近な理由として、たちまちにして今まで可能であった正脈の師家への参禅がなくなり、自分だけでやる一日一炷香の数息観坐禅修行だけしか残らないと云う事態になります。人間禅会員の全てが難遭遇な公案修行の場を世間に探しに出かけなければならないと云うことになります。
以上縷々申しましたが、輔教師以上の布教の任にある方、支部長・禅会長、そして法務役員の方々は、伝法のことは師家に任せておけば良いではなく、そういうマクロの見地も含めて人間禅全体のことに少しはご理解を常にしておいて頂きたいと思います。
もとに戻って、人間禅のマクロの見地を受けての具体的施策として、会員の自然減少よりも新規入会者が多くなるように自分たちの修行だけではなく外に向かって広報発信の努力をみんなでしましょうと人間禅会員に訴えたのです。これが始まりで、この会員数維持、新規入会者増を本部として発信し続けたために、地方の法務役員の方々には数にこだわり過ぎるという負担感になってしまったのです。入会数の目標が掲げられたり各支部にそれが割り当てられたりすると、負担感になりノルマを押しつけられるということにまでになってしまうのです。
人間禅において実動会員の減少が続けば人間禅は消滅するという想定は正しいものです。そして人間禅を消滅させてはいけないという見地は正しく当然です。しかしこれは、マクロの見地です。しかしそれが支部・禅会の最前線での活動している人すなわちミクロの施策を実践している人がこれを受け止めるとノルマという感覚になって来るのです。いくら各支部・各禅会の目安目標であると云われても、真面目に受け止めて義務感になり負担感になるのです。新入会員数はあくまでマクロの見地であって、日常の広報布教活動というミクロの施策とはフェーズが違うので、それを同一次元で捉えるところに疑義が生じてくると考えます。マクロの見地とミクロの施策とは明確に考え方を変え切り離さなければならないと思います。ミクロの施策はマクロの方向性が一致してさえすれば、個性もあって良し、手段は何でも良しであります。そこでは決して義務感が生まれるようなことではないのです。自由であり創意に満ちそして挑戦的であるはずです。
小生の人間禅での今までの経緯は、中国支部(現岡山支部)4年間、阪神支部(現関西支部および関西支部和歌山分会)9年間、房総支部16年間、坂東支部15年間とマクロの見方には縁の薄い地方支部ばかりでした。そして自分がやって来たミクロの施策は発菩提心を丁寧に大切にそして大胆にやって来ただけですが、結果的に人間禅のマクロの方向性と全く一致していました。負担感も義務感もなく、やりたいことをやっている充実とこのご縁に対する感謝だけでした。
マスク氏の警告に対してですが、日本は消滅の軌道に乗っているというマクロの見地に対する国のミクロの施策はいろいろな角度からいろいろな施策があると思います。しかしその施策を政治的に取り上げ、それに予算をいくら付けても、それだけではこのマクロの右肩下がりの軌道を右肩上がりの軌道に変えることはできないと考えます。
40年ほど前に、当時の人間禅の広報は新聞広告くらいしかなかった時代ですが、磨甎庵劫石老師が人間禅の進展のためにいろいろ広報布教を考えられ、耕雲庵英山老師にもお話になったようです。その時の耕雲庵英山老師の反応はいろいろやったら良いが、最後は個々人の徳が肝心と仰られたとのことを磨甎庵老師からお聞きしたことを覚えています。マクロの見地に対するミクロの諸施策はいろいろ必要であります。しかしそういうフレーズではない個人の徳がその諸施策推進の芯になければならないというご指摘ではないかと推察します。
国のミクロの施策においてもその芯になるものがなければ諸施策は生きてこないと考えます。その芯のひとつは、若者に健全な心がしっかりしているかどうかと思います。これは日本の風土のようなものであり、現代社会の大きな課題であります。
もとに戻って、人間禅の法務役員の方々が何故ノルマを押しつけられたと感じてしまうのかということを考えて見たいと思います。一つは、人間禅が全国に広がる中で、地方に行くほど人間禅の歴史を含めた全体観が見えにくくなっているのも原因のひとつだと思います。人間禅としてのマクロの見地が見えにくくなっている点ですが、これには地方支部の担当師家も含めて支部の幹部もマクロ観を持つ努力が片方では必要であり、また一方では本部の方からも丁寧な状況説明が必要であると考えます。オンライン会議でメール添付の資料を配付しただけでは不十分です。膝詰めで双方向でのマクロとミクロのすりあわせが必要だと思います。そしてさらに法務役員の方々がマクロとミクロのすりあわせの役割の一端を担うことができれば理想だと思います。
耕雲庵英山老師は、熱意のある者が一人でも居れば、そこに巡錫に行くんだといくつか事例を出して云われたことがありました。また、修行には熱意が一番大切だと常々申されていました。修行者の集まりである人間禅は本来熱意の集合体であります。マクロの見地とミクロの施策を一気通貫させる熱意をお互い原点に還って確認し、祖師方に対する法恩に報いまた次世代の若者への道標をしっかりと伝承しなければならないと思います。
(その3)「正しく・楽しく・仲よく」
丸川春潭
本題「僧堂禅と在家禅と人間禅」として、(その1)「耕雲庵英山老師はオヤジ」、(その2)「『数息観のすすめ』と『坐禅儀』」を発信し、それを受けての(その3)「正しく・楽しく・仲よく」であります。
「正しく・楽しく・仲よく」は、耕雲庵英山老師が創られた言葉です。小学生でも判る平易な言葉ですが、三十年罷参底の上士も窺い知り難い人間形成の禅の最も深く最も高い境涯を表す言葉なのです。しかもそういう高く深い禅の奥義に関わる言葉をかくも平易に親しみやすい言葉として結晶させた耕雲庵英山老師ならではの珠玉のような言葉です。老師が、生涯にわたり在家禅者で通され、大乗仏教の禅の源底を極め尽くされたからこその長く歴史に残るフレーズです。
達摩大師以来の1500年間にわたる僧堂禅では、「楽しく」も「仲よく」も一度も称揚され唱えられたことはありませんでした。すなわち僧堂禅においては、「正しく」だけで終始してきたのです。そして「楽しく・仲よく」を寄せ付けない僧堂禅レジュームだったのです。
標題の「僧堂禅と在家禅と人間禅」にそって、このことを考えて見ます。僧堂禅は、1500年間「伝法のための伝法」でした。この「伝法」の意味は、言葉では表現できない釈迦牟尼の悟境(悟りの境涯)を後継者が自ら掴んで後世に伝えていくことであり、釈迦牟尼の直弟子の摩訶迦葉尊者が最初に釈迦牟尼と同じ悟りを掴み、有名な蓮華微笑の因縁で釈迦牟尼がそれを証明したのが伝法の始まりです。伝法の法を伝えるとは、悟りを掴んだ人物をつくり育てて人間の生きた悟境を後世に伝えることです。すなわち釈迦牟尼世尊と同じ悟境を一器の水を次の器に移すように伝え伝えて、インド人の達摩大師がインドにおける第28世の伝法者となり、第27世の般若多羅尊者の命を受けて中国に渡り(6世紀)、中国人の慧可に悟りを掴ませる、すなわち伝法して中国における伝法が始まるのです。そして中国での第27世の伝法嗣法者が有名な虚堂智愚禅師であり、この膝下に弟子入りし修行を積んで嗣法した日本人の南浦紹明(後の大応国師)が日本における正脈の伝法の起点になったのです。ここから日本における伝法が始まる(13世紀)のです。そしてその後日本における伝法は、幕末から明治にかけての日本臨済宗のその当時の代表的な僧侶である蒼龍窟今北洪川禅師へと伝わり、禅師は第24世になります。その後は楞伽窟洪嶽宗演(第25世)、両忘庵輟翁宗活(第26世)から人間禅創始者の耕雲庵立田英山へと伝法は続いてきたのです。耕雲庵英山老師は常々、本物の人物が打出できなかったら(伝法嗣法者ができなかったら)、人間禅をぶっ潰せと常々仰られておられました。ことほど左様に、歴史上では沢山な伝法の断絶があり、細々と正脈の伝法が今日に伝わっているのです。この歴史を見てもいかに伝法が大変なことであるかということが推測されます。すなわち耕雲庵英山老師まで、釈迦牟尼から2100年間で82人、菩提達摩から1500年間で54人、南浦紹明から800年間で27人の嗣法者が途切れずに奇跡的に生きた法がつながって現代まで来ているのです。どこかで伝法が途絶えるとそれまでの伝法嗣法が水泡に帰してしまうことで、嗣法者は何としても命にかけても次の嗣法者を後世へと遺さなければならないと考えて来られたのです。これが僧堂禅は「伝法のための伝法」と言われる由縁です。極めて重いことですし、文字通り有り難いことであります。
幕末から明治の初めにかけて、僧堂禅から在家禅が派生的に誕生しました。この在家禅は、僧堂禅からの伝法嗣法者(僧侶:脱俗出家者)に一般社会人が脱俗することなく入門し、参禅弁道の修行をする集まりであり、両忘会(後に両忘禅協会になり、戦後の人間禅につながる日本最大の在家禅)や釈迦牟尼会などが今日まで続いています。この在家禅でも、人間禅の前身の両忘禅協会がそうであるように、伝法が第一に謳われています。しかし戦後昭和23年に発足した人間禅の立教の主旨を見ますと、その第一項に「人間禅は、自利利他の願輪を廻らし、本当の人生を味わいつつ世界楽土を建設するのを目的とする。」となっており、伝法に関しては第二項に下がり、「人間禅は、座禅の修行によって転迷開悟の実を上げ、仏祖の慧命を永遠に進展せしめる。」として掲出されています。すなわち人間禅の立教の主旨の第一項(人間形成を通じての世直し)であり、これを進めるために伝法はそれを達成するために必要な手段として第二に位置づけられています。人間禅の第四世総裁青嶂庵古幹老師は、従来の僧堂禅は「伝法のための伝法」であったが、人間禅は僧堂禅と異なり「布教のための伝法」なんだと云われました。それまで耕雲庵英山老師も磨甎庵劫石老師もこの言い方はされていなかったと思います。人間禅も在家禅のひとつではありますが、人間禅にしてはじめて「布教のための伝法」が旗幟鮮明に打ち出されたのです。これが耕雲庵英山老師の人間形成のための禅の方向性であり、「正しく」だけではなく「楽しく・仲よく」が加わっての「正しく・楽しく・仲よく」が人間禅の姿を表すものなのです。
「正しく」が弱くなれば伝法が続かず、「正しく」だけになって「楽しく・仲よく」が軽視されると僧堂禅に逆戻りして布教・救済が弱くなります。「楽しく・仲よく」が精彩を欠いてくると現代の若者は近づいてこなくなり、「正しく」が弱くなれば、「楽しく・仲よく」が根無し草になり俗に埋没してしまい永続する集まりではなくなります。このバランスをとることが必要であるという言い方は不十分です、そうではなく両方共がしっかりしていないといけないと考えます。どちらかでも弱くなると人間禅の精神が発揮されなくなり、その集まり(支部・禅会)は人間禅の発起の精神から離れてきます。そして同時に古い僧堂禅とともに現代社会の片隅になり、将来的には衰退してゆくと考えます。
伝法だけでも本当に容易ではないのに、更に布教救済を背負い込むのは大変なことです。伝法も布教・救済も両方共に背負い込んで、且つ永続させなければならないのがわれわれの使命です。耕雲庵英山老師は74年前の立教に際して「宛然自ずから沖天の気あり」であられたと小生は確信しています。
しかし現実に、人間禅の74年の歴史をつぶさに振り返ってみる必要があります。もちろん「正しく」が貧弱になることは論外であるし、「正しく」だけで良いのだと云う人間禅者はおられなかったと思います。しかしかなりの割合の支部で、「正しく」に軸足を先ずおいて、余裕で「楽しく・仲よく」をやれば良い、ということに成ってしまったと反省します。これは言い換えると、長い歴史を持つ僧堂レジュームが在家禅・人間禅においても根強く残っているということです。すなわち余裕でとなると途端に僧堂レジュームに安住することになり、人間禅が溌剌として現代社会に発信し続けることに陰りがでてき、それが長年続くとその支部は沈滞することになっています。それは人間禅という組織に埋没し伝統に盲従して、「正しく」が形骸化し、生き生きした本当の「正しく」から離れているからです。耕雲庵英山老師の「正しく」には、「楽しく・仲よく」が必ず結びついており、本来この三つは一体なものなのです。
耕雲庵英山老師はかって熊本支部の提唱の最後に、”わしは大乗仏教の禅の最高峰・最先端に立っているんだ!“と獅子吼されて提唱台を降りられたことがあったようです。僧堂禅がキチッと続いたからこそ人間禅まで正脈の法が伝わったのは確かです。その基盤の上で、在家者である耕雲庵英山老師によって仏教・禅は人間禅へと進化し、地球人の行く方向を「正しく・楽しく・仲よく」の社会構築にあるんだと老師は示されたのです。(未完)
(その1)耕雲庵老師はオヤジ
(その2)『数息観のすすめ』と『坐禅儀』
(その3)「正しく・楽しく・仲よく」
(その4)師家を複数人擁する僧伽
栃木禅会日曜座禅会朝のミニ講話 堀井 妙泉
無 心
今日は禅では最も珍重されている無心についてお話させて頂きます。無心にも色々な意味があります。 広辞苑を引いてみると、心無きこと、何の考えもないこと、思慮分別のないこと、情趣を解する心のないこと、金や物を遠慮なくねだること、人間以外の心を持たないもの(木、石)、妄想を離れた状態など、さまざまな意味があります。
心無きことで思い出しますが、西行法師の和歌に * 心無き身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮れ があります。 この歌の場合は無骨者でものの哀れを解しない心という意味で用いられることもあります。 しかし禅語としての無心は、何も考えずポカーンとした心の空白状態、つまり一種の痴呆恍惚の状態のことではありません。人間生きている限り、心は絶えずはたらいているものです。それでは、禅で珍重されている無心とはどう云う意味なのでしょう。
第一は、五欲煩悩に基づく賤劣(せんれつ)な邪念、邪心のないことであります。 五欲煩悩とは、私たち人間に生物の本能として備わっている食欲、性欲、休養欲、名誉欲、刹財欲があり、これを五欲と云います。 また七情といわれている、喜、怒、哀、楽、愛、悪、欲の七種の感情が自然の性情として備わっています。これらの五欲煩悩は、人間が生きている限り無くならないものです。しかし、これらの五欲煩悩を本能のまま野放しにしたらどうなるのでしょうか? それは、地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界であります。 仏道を成ずるための一階梯として、五欲煩悩の懸縛から完全に脱却した状態を無心といいます。
第二は、思慮分別に基づいて、こざかしくあれこれと造作する心の無いことであります。心は確かに絶えずはたらいているが、その心を満たしているのは正念、正想であります。正念、正想とは、何ものにも執らわれていない心です。しかもこの上に更に一段高い、第三の意味があると云われています。修行に修行を積み、練磨に練磨を重ねると、心のはたらきが、いつか大自然のはたらきと同じようになり、あたかも赤ん坊のように無邪気で天真爛漫になることであります。これが無心の真意であります。しかし大自然のはたらきと言っても漠然としてわかり難いものです。
『菜根譚』の一章に、
【風 疎林に来る 風過ぎて竹声を留めず 。雁 寒潭を渡る 雁さって潭影を残さず 故に君子は事来りて心始めて現れ 事去りて心随って空し】 とあります。つまり風がまばらな竹林に吹き入れば、竹は揺れ、さやさやと葉ずれの音を発するが、風が過ぎれば、またひっそりと、もとの静寂に戻る。雁と潭水の場合もまた同様であります。
この様に真の無心の境涯に到達すること。それが、禅の人間形成の目標であります。それは、数息観の練磨によって道力を養い、何ものにも執われない無心の境涯で人生を味わいながら楽しく生きて行きたいものであります。
本日はここまでです。
合掌
日曜朝のミニ講話 了空庵無縄
徳山と茶屋の婆子
今朝は言い得るも三十棒、言い得ざるも三十棒と修行者に痛棒を与え、鬼の徳山と言われた、棒使いで有名な、中国禅界の巨匠、徳山禅師のお話をしたいと思います。
この徳山和尚は、今日の中国四川省の剣南の生まれで、若くして(20歳)の時に出家し釈迦の教法のうち戒律に関する諸教を深く究め実践された戒律僧であったんです。又金剛経を深く研究し、それを解説することを得意としていたので、周辺の人々は彼のことを俗性が周であることから、周金剛と呼んで皆に尊敬されていた僧でありました。まあ、若い時から秀才と呼ばれる学者であったんです。
この頃揚子江の中流から下流の地方、今の江西、湖南、湖北地方では、禅宗が盛んになり、有大和尚や南泉和尚、偉山和尚、趙州和尚などの禅僧が活躍していて、その隆盛の噂が徳山の耳にもはいってきたのです。徳山は、心穏やかならず、「即心即仏だの、〈一超直入如来地〉だの、〈直指人心見性成仏〉だのと言って経典にもないことを説いて多くの人を惑わしているのは洵にけしからん。ひとつその禅僧なる者をとっちめて真正の仏法を挙揚せねばならん。我々凡夫がそう簡単に仏になんかなれるものでは無い。そんな外道の輩は早く退治せにゃ仏法の為にならん。」と大いに義憤を感じて自ら説いた金剛経の疏鈔をかついで南方に旅立ったのであります。揚子江の船旅で何日かかったか分かりませんが、揚子江中流の洞庭湖に近い澧州の地に着いたのです。丁度昼時で、峠の路傍で餅を売っていた婆さんが居たので、これ幸いと思い重たかった笈(キュウ) 注1を下ろしこう言ったのです。
徳山: 「これこれ婆さんや餅を点心注2 したいのだが」と言ったのです。 婆さん: 徳山が大事そうに笈を下すのを見て不審に思ったのでしょう。 「その荷物大変重そうですが何が入っているのですか?」と尋ねたのです。
徳山: 得意げに「ウーンこれはなあ金剛経という大変有難い仏典をわしが注釈した《青龍の疏鈔》が入っているんじゃ。これは手をあわせるだけで大変ご利益があるんだよ」と言ったんです。 婆さん: 態度を改め、「ハ〜金剛経とお聞きしましたが、大変有難いことで。ご利益なんかはいいんですけど、少しお伺いしてもよろしいでしょうか?」 徳山: 「あい何でも聞いて下さいよ」 婆さん: 「では伺いますが、この金剛経の経文の中に過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得という言葉がありますが、ご出家さんは、今、点心したいとおっしゃいましたが、このいずれの心に点心したいと言うのでしょうか?」と問うたのです。この婆さん厄介な問題を担ぎ出したものであります。そして「私のこの問いに答えて下されば、餅をたっぷりお布施いたしましょう。お代はいりません。そうでなければ、この餅をお売りするわけにはいきませんので、他へ行ってお求め下さい。」と言ったのです。
徳山: そう問い詰められて、言葉が出なくなったのです。
皆さんならこの場合、どう答えましょうか?
軽薄な者なら、ここで求められているのだから、現在心だよと答えるかも知れませんが、どうして、どうして、ここはさすが大器の徳山、詰まって答えることが出来なかったんです。
確かに人間生きている限り心は絶えず動いているものですが、摑まえようとしても掴めないのが心ですよね。徳山は、周金剛と言われるほどの学者であります。何とか尤もらしいことを言って、この婆さんをはぐらかす事は出来るかもしれませんが、正直で純粋な徳山は言葉を発することが出来ませんでした。 知識として知っていても、まだ、心を得ていない徳山は、答えられなかったのです。
徳山は、この道端の茶店の婆さんでさえ、これだけの見識があるのだから、この近くに優れた坊さんが居るに違いないと謙虚に婆さんに尋ねたのであります。
婆さん: 「はい。ここから五里ほどの処に、龍潭という処があって、そこに崇信禅師という和尚さんがおられますよ。見れば貴方も修行中のご様子。是非お尋ねください。」と教えられ、徳山はその足で龍潭を尋ねたのであります。
徳山はどうせ学問の無い禅坊主奴、一つ言い負かしてやろうと高飛車に出たのです。
徳山、龍潭和尚の法堂にズカズカと入り込み、「久しく龍潭と言うから、どんな大きな潭(池)かと思いきやなんだそんな潭も無ければ龍もいないではないか。」と和尚に決め付けたのであります。すると龍潭和尚、やんわりと「子親しく龍潭に到れり。」と言って、徳山は軽く龍潭和尚にいなされてしまった。(お主はもう龍潭の中に浸りこんでいるではないか。だから見えないのだ――という意) 徳山、ここで又グウの音も出ず黙ってしまったのです。禅僧なんてたいした者ではないと勢い込んで来た徳山、この挨拶といい何とも言えない威圧感と威厳を感じ、この和尚相当なお方だと龍潭和尚の人柄に魅せられてしまい、態度を改め、龍潭の元に掛錫し和尚に入門を願い出たのであります。そうして天上天下唯我独尊底の平等にして高下あることなき底の法を得、直指人心見性成仏、一超直入如来地が真実悟であることを把握した、つまり我が物となったのであります。 徳山、悟って見ると今までやって来た戒律の研究も金剛経の教学も格別役にたたなかったわい。座禅に勝るものはないと身に染みて分かったのであります。或日、徳山は大事に背負ってきた青竜の疏鈔を山と積んでボウボウと燃やしてしまったのです。
禅宗を退治しようと蜀の国から出かけて来た徳山は、すっかり禅の虜になり修行に修行を重ね、ついに龍潭和尚の法を嗣ぎ、徳山宣鑑大和尚となり中国の禅道仏法に大きく貢献したのであります。
今日の話はここまでです。 有難うございました。
合掌
――その15.「水月坐道場 空華修萬行」――
丸川春潭
「水月の道場に坐し空華の萬行を修す」と読みます。
『新版 禅学大辞典』には、【水月道場】とは、「一個の月があらゆる水に平等に映ることから、転じて、あらゆる存在はそれぞれ絶対平等であるのにたとえ、さらにこの現実界こそ佛道の真実の道場であるという意に用いる。」とあります。
柴山全慶編『禅林句集』には、【坐水月道場 修空華萬行】とは、「水月も空華も遊戯の妙用に喩う。達人が行じて行相を留めぬ妙境界」とあります。
平田精耕老師の「禅語事典」には、「無心かつ自由無碍(むげ)な境地に腰を据え、一切を空と達観して執着から離れていくようでなければならない。」とあります。
芳賀幸四郎著『新編一行物』を要約すると、
「水月道場」とは、水月にも比すべき境涯・悟りの境地ということである。これがどういう悟りの境地であるかというと、「正受にして不受」の境地を指している。
「水月の道場に坐す」とは、無心で外界を正受し、しかも不受で蹤跡をとどめず、執着をのこさない心境に住すること。これを明鏡止水ともいう。
「空華」とは、目を強くこすったとき出るような幻影・飛蚊のこと。
「空華の萬行を修す」とは、「第二義・第三義」のこと、いわゆる「野暮用」をあれこれと行ずることを意味する。
「水月の道場に坐し空華の萬行を修す」とは、明鏡止水にも比すべき正受にして不受の境涯にドン坐りながら、しかも外来の諸条件に対応して無心にスラリスラリとはたらき、しかも蹤跡をとどめず執着をのこさないと云うことで、大修行底の生き方、観音菩薩の遊戯三昧の境涯を説いたものである。
これは耕雲庵英山老師の「後ろ向き観音像」図に「水月坐道場 空華修萬行」の書を賛として付けられた掛け軸です。小生もこれを手本に100枚くらい書きましたが、到底足元にも及ばない代物しか書けませんでした。
小生の解釈・味わい方は、「水月の道場」は、絶対樹・絶対の境地・正念・如是法・空であると考えます。
「水月の道場に坐す」とは、耕雲庵英山老師の云われる「念々正念」に住していることと解釈します。そしてまた言い換えると、三省願文の最初の「正念の工夫断絶するなからんことを願う」に該当すると考えます。
「空華の萬行を修す」とは、耕雲庵英山老師の云われる「歩々如是」を行じていることと解釈します。そしてまた言い換えると、三省願文の二番目の「如是の活法軽忽するなからんことを願う」に該当すると考えます。
著語をつければ、「始めは芳草に従って去り また落花を逐ひて帰る」です。
「水月の道場に坐し空華の萬行を修す」とは、耕雲庵英山老師の云われる「念々正念 歩々如是」と全く同じことと解釈します。そしてまた言い換えると、「途中にあって家舎を離れず」でもあります。
また別の言い方をしますと「水月の道場に坐し」は「空」の場に徹している境涯であり、「空華の萬行を修す」は「色」の場での働きと当てはめられます。
日常的に判りやすく云えば、「一日一炷香により深い三昧を身に付けた状態で、日常のあらゆる社会活動を縦横無尽に行うこと」となります。
また別の言い方として、「これは伝法の師家が十字街頭で衆生済度をしている」とも考えられます。磨甎庵老師がかって茨城道場の掛け軸を見て示唆された見方でもあります。
師家の衆生済度というものは、所詮空華の萬行であるという見地です。恐ろしく深くそして真にその通りであります。
いろいろな解釈があり味わい方があっていいと考えております。貴方もこの語と相対して自分流にじっくり味わって頂きたいと思います。合掌
(その2)『数息観のすすめ』と『坐禅儀』
丸川春潭
『数息観のすすめ』耕雲庵英山老師著にまつわる記述は、ブログとして書き出してから最近の10年だけでも10ブログあります。それ以前における【禅】誌原稿や法話とか講演なども多数あります。そして『数息観のすすめ』は、小生の禅に出会ってからの終生の座右の書であり、小生の禅の指南書でもあります。
今年のはじめに書いた既ブログ「伝統と変革」の続きとしてシリーズ化して取り上げてもいいテーマですが、前報でも書きましたように、もっとわれわれの禅に引き寄せ、歴史的な観点を加味するべく新しいシリーズの「僧堂禅と在家禅と人間禅」の第二段として書きたいと思います。
このテーマの切っ掛けは、先のブログのはじめの処でも書きましたが、房総支部の巌幽庵道虔老居士が三月の摂心会の法話で『坐禅儀』を中心に話されました。感銘深い話でしたが、それはそれとしてマクロ的視野からの私見を述べたいと思います。
『坐禅儀』は14世紀前半に中国で編纂され追って日本にも伝わってきました。作者は不詳であり、巌幽庵老居士の見解では、多くの歴代の禅僧が工夫に工夫を凝らしてできた座禅の仕方を教える最高峰の法財であると云うことです。小生も同感です。日本伝来以降においても曹洞宗の道元禅師が大いに取り上げられておられますが、臨済宗の僧堂においてもこれを基本にされており、日本の禅宗僧堂はおしなべてこの『坐禅儀』に依拠していることが推察されます。
耕雲庵英山老師は、両忘庵宗活老師の百ケ日忌にあたってとして『数息観のすすめ』を出版されました。それは昭和29年(1954年)11月の初版であり、「立教の主旨」が宣布されて5年後のことです。
耕雲庵英山老師は、明治8年(1876年)に蒼龍窟今北洪川禅師から始まった在家禅の師家として四代目ということになります。三代目までの師家は円覚寺の僧侶でありますが、四代目の老師になって初めて僧侶ではなく在家者となったのです。すなわち日本の臨済禅は13世紀から19世紀後半の明治8年までは完全な僧堂禅であり、明治8年に在家禅である「両忘会」が誕生してから僧堂禅と在家禅の二つの流れができて今日に到っています。
この明治8年発足の両忘会が両忘教会そして両忘禅協会と名前を変え、昭和22年の暮れに閉鎖されるまでは、師家が僧侶で学人が在家者という形であり、この期間は僧堂禅から在家禅への移行期であると位置づけられます。それから間もなく耕雲庵英山老師を総裁師家として発足した人間禅教団からは学人のみならず師家も在家者となり、名実共に在家禅がここに始まったと云っていいかと考えます。
耕雲庵英山老師はこの僧堂禅から在家禅への歴史的な転換をいろいろな角度から断行されました。先程も述べましたが、昭和23年の秋に宗教法人人間禅教団が創設され、翌昭和24年3月3日に革新的な「立教の主旨」を宣布されました。また3年後の昭和27年5月には、在家禅である人間禅僧伽を規定する革命的な『要覧』を老師は発行されました。この『要覧』は、この後から続いて発刊される『数息観のすすめ』『合掌の精神』『人間形成と禅』が人間禅のソフトであるとすると、ハードでありフレームになります。
したがって本題の『数息観のすすめ』は「立教の主旨」はさておいて、人間禅におけるソフトの最初になるわけです。老師はこの『数息観のすすめ』を発刊される前には、先の『坐禅儀』は当然読み尽くされ、実地にこれにしたがって長年実践もされたと推察されます。この『坐禅儀』を踏まえた上で在家禅である人間禅の座禅の仕方について『数息観のすすめ』を書かれたと考えます。『坐禅儀』に書かれていて『数息観のすすめ』には触れていないことが沢山ありますが、老師が在家用には不要として削除されたと小生は考えています。先にも述べましたが、小生は学生時代に岡山で禅に出会い座禅を始めましたが、それ以来現在に到るまで坐禅の仕方はこの『数息観のすすめ』だけを指南書としてきました。『坐禅儀』の存在は知っていましたが、60数年間の実戦経験を経てこれだけで何等不足を感じていません。一般社会人が本格の修行を完遂するまでこの著書の記載一本で十分だと考えています。
そして『数息観のすすめ』は『坐禅儀』にはないこともかなりあります。ご存じのように、極めて優しく座禅の入門者として書かれておられますが、レベルが低いと見たら大間違いであり、それまでの僧堂におけるどの提唱よりも深く、そしてこれまた革新的な名著だと思っています。
革新的な点のひとつは、「一日一炷香のすすめ」です。僧堂ではあり得ないことです。現代の僧堂の方々から見ればそんなことで伝法を加担することはできないと思われるかもしれませんが、在家禅者には必要にして十分であります。「一日一炷香の人間形成」は在家禅の中核であり、禅宗史の中でも画期的な特筆すべき見解であります。ご自身もそうなされたし、その後の人間禅の嗣法者の全ての方々も一日一炷香で人間形成を完成させてこられたのです。耕雲庵老師がこの書の中で、「学生時代の教えに従って一日一炷香を実践してきたから今日の自分があるのだ。」と述懐されていますが、大宗匠が「今日あるのは!」は極めて意味深長であり恐ろしく重いものです。在家禅者にとって必要最小限の完璧な指南書になっていると小生自身の実体験としての結論でもあります。
もう一つ『坐禅儀』にはない数息観の質の掘り下げ方について老師ご自身の経験から言及されておられます。ここまで行き届いた言及はないと思います。初期数息観、中期数息観、後期数息観について記載され、どう進めばいいのかをまさに在家者を初心のレベルから深い数息観三昧まで導かれる記載になっており、この指南書なかりせば小生の今日はないと断言できる文字通り有り難い内容が包含されています。
要約すると『坐禅儀』が僧堂用に完璧に仕上げられた座禅の指南書であるのに対して、『数息観のすすめ』は在家用に完璧に仕上げられた人間形成の禅の指南書です。『坐禅儀』をたたき台にして在家用に在家の師家が工夫し進化させたものであります。
別の切り口から付言すれば、大燈国師が日常生活の極めて細かい動作までいちいち規定されているように、僧堂では型にはめて一個半個を打出するのを基本としているのです。型にはまらない者は去れが僧堂の基本的な考え方です。『坐禅儀』も型にはめるやり方であり僧堂には適した形に厳密な細かな規定になっています。
これに対して在家禅は、伝法のための伝法ではなく布教のための伝法であります。気持ちを落ち着かせたいとかうつ病的な落ち込みから抜け出たいというような人から伝統的な滴々の達摩禅を究めたいという人までの広いスパンの人間を受け入れ、来たる者は一人の人間も切り捨てることなく、それぞれを人間形成させようとするのですから、型にはめるやり方はできません。したがって在家禅に対しては、型(ハード)はできるだけ最低限にして、それぞれの個性に応じて導くように中身(ソフト)を重視して導くやり方でなければいけません。『数息観のすすめ』もそうであり、型は必要最低限しておいて、各人が自分にあった自分用の形を実践の中で工夫して作るようにしているのです。逆に中身の方は平易に且つ親切に、低きから高きまで導くことができる指南書になっているのです。
小生は中国支部(現岡山支部)において入門しました。初心者の小生に対する座禅指導は、簡単に半跏趺坐をして見せられそして『数息観のすすめ』を渡されただけでした。小生は運動をいろいろやっていましたので足が太く足の痛たがり屋さんでした。一炷香の間に二回も三回も足を替えて坐っていましたが、中国支部では誰も咎める人はありませんでした。中国支部は型から入るのとは真逆で、型はどうでもいいから数息観をしっかりやれの指導でした。当時の直日の大重月桂さん(後の澄徹庵老師)は精神科のお医者さんで患者さんと相対しながら横の机のカルテ記入の姿勢が癖になって坐相が斜になっていましたし、当時の助警は小野円照さん(後の一宇庵老師)でしたが、ご自分の坐相は背中が丸く顎がでており、半跏の上げた足の膝は下の足の裏の上で畳についていないあぐらに近い坐相でした。また円照さんは助警を持って堂内を回っても居眠りしている方には警策をされましたが、その時以外は警策を要求されない限り警策を使うことはなく坐相を直すことも全くありませんでした。三昧の工夫を破らないように注意され、無駄な動きのない影のごとき助警でした。要するに坐相はどうでもいいから数息観三昧、公案三昧を徹底する風土でした。更に付言すれば上意下達で統制の取れた支部ではなく、中央の方から見ればゆる過ぎる支部のようでした。しかしこういう緩い支部でしたが、中央支部に次ぐ地方支部として最も多い5名の師家を輩出している支部でもありました。
詳細は後述を予定していますが、耕雲庵英山老師は僧堂禅から在家禅そして更に人間禅へと臨済禅は進化していると考えられているのです。そういう観点から、『坐禅儀』が更に進化したのが『数息観のすすめ』であり、『坐禅儀』を他山の石として個人的に参考にするのは結構ですが、在家者は『数息観のすすめ』だけで十分であると小生は考えています。禅の基本であり大黒柱である座禅の仕方において、僧堂禅と在家禅で大きく変っており、変ってしかるべきことを記して本稿を終わりとします。
次回は座禅の仕方からもう少し核心に向かって、論考をすすめてみたいと考えております。(つづく)
(その1)耕雲庵老師はオヤジ
(その2)『数息観のすすめ』と『坐禅儀』
(その3)「正しく・楽しく・仲よく」
(その4)師家を複数人擁する僧伽
丸川春潭
「伝統と変革」のブログを今年の1月21日にHPに掲載していますが、そこでは、茶礼の時の拝の仕方、参禅の時の手の付き方、教団という呼称、ハブ茶使用などの仕方についての変遷を書いています。その背景は、小生が若かった50年前(昭和40年代)の頃と現在とで人間禅の伝統がいろいろな点で変革されてきているからです。そしてそれらの変革が何故行われたかの理由について書いています。
耕雲庵英山老師は、終戦直後にそれまでの両忘禅協会の伝統を継承しつつ戦後の新しい時代に適合する新しい在家禅としての人間禅教団を創立されました。その当初にあったいろいろな伝統を現在および将来の人間禅の会員及びその関係者の方々に知っておいていただきたいと思い、書き残しの意味を込めて書きました。
1月21日のブログ掲載以降も、かって人間禅で普通に行われていた伝統で、今では変革されてなくなった伝統について続報として書き残しておきたいと思っていました。その構想を巡らしている中で、房総支部の巌幽庵老居士と人間禅の伝統に関わる話をする機会がありました。その内容は単に「伝統と変革」というよりも、日本の近現代での「僧堂禅と在家禅と人間禅」の歴史とその捉え方とした方が良いのではないかと考えるに到りました。ということで、今日のこのサブタイトルも当初「伝統と変革」の続報として書きかけていましたが、「僧堂禅と在家禅と人間禅」のタイトルでの第一報として書き直してブログ投稿いたします。
小生が最初に人間禅にご縁ができた年(昭和33年)が丁度人間禅教団創立10周年にあたり、中国支部の月例会で、後の師家方3名(忘路庵龍門老師、一宇庵円照老師、澄徹庵月桂老師)を中心にした中国支部の古老の方々が10周年記念式の様子を耕雲庵英山老師の有名なご垂示も含め報告として話をされていたのを覚えています。(小生はそれから1年後に入門し、道号をいただきました。)
小生が入門していた頃の先輩方は、摂心会中は耕雲庵老師を老師と呼ばれていましたが、摂心会以外の時や仲間同志で老師のことを指して云うときには常にオヤジと云っていました。最初は奇異に思いましたが、皆さんが親しげにオヤジの健康はどうだとか、オヤジに叱られたとかと聞くにつれてオヤジの呼称に馴染んできました。
老師をオヤジと呼び始めた切っ掛けについて、中国支部においても阪神支部においても中央支部においてもいつでも先輩方に聞くチャンスはあったのですが、とうとう聞かずじまいで皆さんお亡くなりになってしまいました。したがって小生の推定になるのですが、耕雲庵英山老師ご自身が、人間禅創立(昭和23年)以降にその当時の人間禅の会員に対して自分を呼ぶときは「オヤジ」と呼ぶように言われたからだと思います。この指示に従った方々はまさに耕雲庵英山老師の弟子の第一世代です。第二世総裁妙峰庵老師、第三世総裁磨甎庵老師、第四世総裁青嶂庵老師は第一世代であり、会員番号で云えば222番の一行庵老師までが第一世代と考えられます。
耕雲庵英山老師が何故オヤジと呼ばせたかに本題の意味が隠されていると考えます。日本における臨済宗の正脈の法は13世紀の南浦紹明(大応国師)から明治の初めの蒼龍窟今北洪川へと僧堂禅として伝承されてきました。この僧堂禅における師家(嗣法者)と学人(弟子)との関係においては、僧堂内のあらゆることにおいて上下関係が厳格であったと容易に想像できます。すなわち脱俗出家した僧侶には、原則として家族もないし社会における人間関係もないので、生活全体が伝法のための修行にどっぷりであり、そこには師学共にプライベートはないのが当たり前だったと考えられます。
この僧堂禅に対して在家禅は、修行も人生の一つの柱ではありますが、家族の柱もあり、仕事を含めた社会人としての柱があり、まさにプライベートがしっかりあるのが本来の在家禅です。両忘禅協会時代までは、師家は僧侶で学人は在家という在家禅としては不完全であり過渡期でした。そして人間禅になってからは師家である耕雲庵英山老師も在家であり、師学共に在家という形が初めて完成したのです。
この人間禅においては、修行時すなわち摂心会においてはかっての僧堂禅と同じく人情涓滴も施さずを厳格に踏襲しており、師家と学人の関係は明確な上下関係であり峻別されています。しかし摂心会を円了すると師学共に在家なので、厳密な上下関係はなくなるのが在家禅としての自然体であります。耕雲庵英山老師は、在家禅の移行期にあった両忘禅協会時代と一線を画す意識改革として、人間禅の会員の人間関係のありようにおいて、修行時と非修行時ではその関係をガラッと変えなければならないと考えられたのです。そして老師は在家禅者のプライベートな場に修行時の上下関係を持ち込ませないために、師家である自分をオヤジと呼ばせたのだと小生は考えます。
耕雲庵英山老師が総裁を引退されてからも定期的にいろいろな小旅行や食事会を当時の総裁や総務長が計画され、小生も何回かその接待を分担させて頂きました。あるとき北茨城の袋田温泉に老師をお連れしたことがありました。小生は当然侍者として自分を認識し、どうしても老師を道場でと同じように老師として接してしまい、老師から厳しくご注意を何度も頂きました。些細なことで云えば、老師のスリッパを部屋を出入りされる時に道場でと同じようにいちいち直していると、ここではそういうことは必要がない!と指導されました。旅行での食事の場においても寝室の取り扱い方にしても老師は道場内でのやり方をガラッと変えられました。食事は膝をつき合わせてであるし、寝室も一緒で良いよ!でした。
小生の入門は耕雲庵英山老師でしたがやはり第二世代であり、第一世代の老師方からオヤジと呼ぶ指示は頂けませんでした。したがって老師をオヤジと呼ぶ呼称は、耕雲庵英山老師がお亡くなりになった時期で死語になってしまい今日に到っているのです。オヤジと自分を呼ばせた狙いはまさに耕雲庵英山老師の指向を象徴するものであり、新しい在家禅である人間禅の精神を表すものであったと今になって気付き納得しているのです。老師の指向はまさに僧堂禅に変る新しい在家禅を人間禅に徹底させようとされたのです。オヤジの呼称はそのひとつであり、摂心会の後には必ず懇親会をやるようにと強調されたこともそのひとつなのです。僧堂では「葷酒山門に入るを禁ず」であり、師家と学人が宴会をやるなどあり得ないことです。僧堂では考えられない師家と弟子の垣根を取っ払った家族的な関係を円了後にはしっかり作ることを願ってのご指示だと考えます。人間禅では常識になっているような一つ一つの行事や風土が僧堂禅から在家禅への転換として築いて来られているのです。しかし耕雲庵英山老師の指向は未だ道半ばであります。その残された課題等をこれからじっくり検証していきたいと思います。
次回は、『数息観のすすめ』と『坐禅儀』と題して、この課題を考えて見たいと思います。(つづく)
(その1)耕雲庵老師はオヤジ
(その2)『数息観のすすめ』と『坐禅儀』
(その3)「正しく・楽しく・仲よく」
(その4)師家を複数人擁する僧伽
2022年3月27日 堀井妙泉
今日は合掌について手短にお話させて頂きます。
手の置きどころは、その人の心持ちを現すと言われているように、懐手やポケットに突っ込んでいたり、腕組みしている姿は無意識にその人の気持ちを現しています。 私たちは普段何気なく胸のところで両手を合わせ、合掌していますが、合掌する時の気持ちにも、時と処によって色々あると思います。
◎ 理屈道理もなく思わず合掌する。
◎ 神仏に対して祈念する。
◎ 自他に合掌する。
◎ 真理に合掌する。
このように分けて簡単にお話します。
まず、理屈道理もなく思わず合掌することは、皆さまも経験されていると思いますが、私も親兄弟は勿論のこと恩師や親愛なる道友も沢山見送りました。死者とのお別れに対して、理屈道理もなく、ひたすら合掌しご冥福をお祈りしたことを思い出します。 また、山道を散歩している時、思いがけずお地蔵様などに合うと自然に合掌してしまうし、清らかな満月などにも思わず己を空しゅうして合掌してしまいます。
次の合掌は、日常生活の中でよく見かける合掌です。
神社やお寺へ行ってお賽銭を上げ、色々な祈願をします。「今年も無事に過ごせますように」、「地震や水害などの災害がありませんように」、「コロナ禍が早く治まるように」、「商売繁盛します様に」などがあります。
人それぞれによって沢山のお祈りがあります。お正月には二荒山神社に何キロも人の行列が続いていました。不安を抱えた人たちが祈らずにはいられない合掌もあります。
次は、自他に合掌する。 自他とは自分に合掌すると同じように他者に対しても合掌することです。私たちは生まれながらに例外なく仏性が備わっています。その仏性に合掌します。 大方の人は、自分に尊い仏性が備わっていることに気付かずに生きていますが、禅の修行により、お釈迦様と等しく寸分たがわず悟ることが出来ます。その仏性をこつこつと磨いていくのを修行の目的とします。
正しい禅の修行によって見性成仏がいければ(・・・・)(出来れば)、お釈迦様と同じように『天上天下唯我独尊』の境地が得られると云われています。
ここで注意しなければならないのは、「この世で我が独り尊いのだ。」と誤解する人がいるかも知れませんが、それはとんでもないこと。あなたも私も、個々のそれぞれが唯我独尊であります。世界に二人といない尊い自分に合掌するのと同じ心持ちで他者にも合掌するという事であります。
最後に、真理に合掌する。 真理とは、人間が創造した物でもなく、私達人間が存在する、しないにかかわらず、厳存しているものです。水は自然に高い所から低い所へ流れて行き、春になれば花が咲き出すように人間の存在に関係ない大自然の現象で、名付けようのないものと云われています。いわゆる天地に先だって生じているもので、お釈迦様が、《大徹大悟》されたという〔仏性〕も、お釈迦様が発明創作されたものではなく、それ以前から厳存しているもので、それを〈大道〉と名付けようが、〈神〉と言おうが名付けようのないもので、仏教では〔仏性〕と名付けていると云われています。
耕雲庵老大師は、「この合掌の精神とは、正しく 楽しく 仲よくの三宝に帰依することで、正しくとは、真理に合掌すること。楽しくとは、自己に合掌すること。仲よくとは、お互いに合掌することである。」と云われています。
【合掌】にも深浅があり味わい深いものがあります。
今日は新到の方を対象に手短にお話させて頂きました。合掌
]]>令和3年3月13日 堀井無縄
おはようございます。どうぞ楽な姿勢でお聴き下さい。
初めてお越しの皆様、今日皆様は何を求めてこの道場においでになりましたか?
* 座禅を体験してみたかった
* 自分の心を落ち着かせたい
* もっと強い心をもちたい
* 人生や人間関係の疑問を解決したい
* 悟りを求めたい
* 特に何も求めていない
など、様々な思いでいらしたと思います。さて、禅とは一体何か?
禅とは、お釈迦さんと同じように座り、同じ悟りを得る修行です。そしてお釈迦さんの境涯(心境、人格)に少しでも近づけるよう日々自己研鑽し、世の為、人の為に力を尽くす人になる事。自分だけでなく、他の人にも幸せになって貰う。これを人間形成と言います。つまり本物の人間になる修行なんです。これが人間として生まれた生き甲斐というものです。とても私はそんな人にはなれないと思うでしょうが、その思う気持ち、心とは何でしょう?常にコロコロ変わっていく私共の心は ◎何処にあるのでしょうか ◎掴めるものでしょうか ◎死んだら心はどうなるのでしょうか等大いに疑問をもつことです。
そして悟りとは何でしょう?悟りとは本当の自分を自覚する事です。お釈迦さんの悟りと同じように真実の自己を覚えること・・・自覚することです。
さて瀬戸内寂聴さんは99歳で亡くなりました。作家で沢山の本を書いておられますが、出家後、野外説法をなさる折には3000人もの人が集まったと聞きます。話が上手でユーモアたっぷりで人を魅了しマスコミにも多く取り上げられました。亡くなられてもしゃべったり書いたりしたものは残ること。これは遺徳というものです。 寂聴さんは55歳で出家され仏門に入りました。色々な人との対談が残っております。俳優の奥田英二さんとの対談の中で「座禅をいくらしたって悟りも開けなければ仏も見えない。だから私は出家して奉仕の人になることにしたんですよ。」と言っています。
確かにおっしゃる通りで、我々凡夫はお釈迦さんのように聡明で素晴らしい賢人と違い、いくら座ったって悟りなんて開けるものではありません。しかし正しい禅の正脈の師について指導を受ければ悟りは開けるのです。そして悟った喜びを分かち合えるのです。
お釈迦さんは一国の王子という何不自由のない立場を捨て出家され、始めは山奥の仙人を訪ね座禅を学んだのですが、禅定に入ることは出来なかったんです。インドには早くから座禅の修行がありました。それで難行苦行の旅に出られ6年間も色々な難行を体験されたのです。しかしこの難行、苦行では悟りは開かれなかったのです。疲れ果てたお釈迦さんは、何もかも捨て菩提樹下で寝る間も無くひたすら座禅三昧に入り、何日目か夜明けの明星を見た瞬間、悟りを開かれたのです。自分の本性を如実に観、真実の自己を悟られたのです。そして、一切の衆生は、皆円満に仏性を備えている。天地と我は同根、万物と我は一体という世界観は世紀の大発見、大発明であったのです。紀元前500年にこの説を唱えられたお釈迦さんの偉大さに驚き、心より尊敬するものであります。
自らの尊厳に気づかせるのが、禅であります。
一般に宗教と言えば・・・絶対なる神、仏にひれ伏して祈る事、願うこと、信ずることと思いがちですが、先ず自らの尊厳に気付かせるのが禅なんです。
門という小説があります。明治時代の文豪 夏目漱石の小説です。漱石は仏教を極めようと鎌倉円覚寺の釈宗演禅師の門をたたき修行に入りましたが、矢張り10日間では、悟ることは出来ませんでした。もう少しの処であったのでしょうが、諦めて下山したのですが、人間、絶体絶命の処へ追い込まれないと悟れないもので、本物にはなれないものです。
私ども人間は、お金や名誉、地位権力を求めて生きている者のようです。人間の欲望は、尽きる事のない物のようで、それを得て幸福感を得られると思いがちです。確かにこれ等は無いよりあった方が幸せでありますが、「これを得るに道あり」と渋沢栄一も言っていたように、『君子は財を愛す。これを得るに道あり』です。
しかし、これらの物は何かの条件によって、全てが簡単に無くなってしまう物であります。東日本大震災のように全てが流されてしまう事があります。又、ウクライナの市民は、ロシアの軍事侵攻によって全てを失いつつあります。
人間にとって大切なものは、無依の真人になる事。【無価の珍宝】を持つことです。価のつけようのない宝を持つことです。目に見えない宝を持つことです。この目に見えない宝が人生を豊かにするのです。愛と思いやり、感謝の心など、目に見えない尊いものは沢山あります。しかし我々人間は、雑念の中に埋もれ、迷いの中に生きている者のようです。
正師との出会いのない、虚妄の我に腰を据えて一生を送っている人の多いのが、人間社会です。 虚妄とは・・・本心でない事をする人。嘘、偽りを言う人。人を騙す、欺くことを何とも思わない人です。
ロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席のように、権力の座に就けば、もう降りたがらない。といった私利私欲の強い人がトップの座に就けば国は乱れ、国を滅ぼします。国民も不幸になります。これは国だけでなく、あらゆる組織にも当てはまります。過去の歴史を見れば分かる事です。
明治天皇は、「富士山と白隠の教えを日本の宝とすべし。軍艦を造るより人をつくれ」と言われました。日本は神仏一如、万世一系の天皇で、2600年以上続いて来た世界に誇れる国です。
釈迦、達磨、白隠の正法禅の教えを受け継いで来た、私共人間禅の指導を受ければ100人が100人、悟りを開くことが出来ます。そして世の為、人の為に力を尽くし役立つ本物人間になるのです。熱い血のある人は自分を振り返って観て下さい。豊かな人生を送りたいと思う方に禅をお勧めします。
今朝の講話はこれで終わりです。有難うございました。
合掌
]]>(その5)ゴリラ学から新しい相対樹・絶対樹へ
――「人間の本性」を踏まえた人間形成の展開――
丸川春潭
霊長類研究の第一人者である山極寿一先生はその研究に基づく観点は、人間の本来の姿を追求する人づくりや人間形成の方向について、根源的な示唆を提供するものであると考えます。今まで4回に分けてゴリラ学の成果とわれわれの人間形成との関連について考察してきました。まだまだいろいろ興味深い点が残っていますが、今までのところで一応総括しておきたいと考えます。
人間の人格を従来、相対樹(知性)と絶対樹(感性)の二つに大きく仕分けして人間形成の方向性について小生は論じてきました。
従来のこの図は東京荻窪支部の会員でグラフィックデザイナーである小倉霊亀居士にお願いして作ったものです。知性(相対樹)の充実は幼稚園から大学までそして職業に就い
てからも社会的になされていますが、感性(絶対樹)の充実は個人に任されており、総体的に知性の充実に比べて感性の充実は貧弱なのが現代の日本の状況であることを縷々述べてきたところであります。
しかし山極先生のゴリラ学を学ばせていただく中で、人間をそして人間形成を捉え論ずる際に、相対樹と絶対樹だけではその範疇に入らないカテゴリーがあることが判りました。従来、人類の文化を知性(相対樹)と感性(絶対樹)の二つに分けて表現し、そしてこの二つで人間を表現し、人間形成を論じてきました。しかしこの捉え方では人間のそして人間形成の全体像を描いていないことに気が付きました。すなわち知性と感性の二つを支えている人間の本性を加えなければ人間を正しく捉えることができないと思い至ったのです。
この図は、荻窪支部の方々の意見も頂きながら、前の図と同じくグラフィックデザイナーの小倉霊亀居士とやり取りを重ねながら作ったものです。
この図の相対樹・絶対樹を支える大地のような位置づけの部分に、山極先生のゴリラ学は論究されていると考えます。それはサルから分岐して進化した類人猿(ゴリラ→チンパンジー→人間)の本性の根幹部から知性(相対樹)も感性(絶対樹)立ち上がっていると云うイメージです。すなわちこの根幹部分の人間の本性・本能も含めて人間を捉え、人間形成を論じなければならないと考えたのです。
山極先生の膨大なご研究のほんの一部を小生は管見しただけですが、例えば「群れる」と云うことが進化して到達した人間の本性だと云うことを知ったとき愕然と目が開かれたおもいがありました。今までの自分の人生での出来事、あるいは耕雲庵英山老師をはじめとする人間禅の先輩方の大切にされてこられたことの根底にこの群れることの必然性があったことに気付きました。長年月を経て進化した人間の本性を知ることにより、いろいろなことを納得することができ溜飲の思いがあります。進化していないサルが個食であるのに対して、ゴリラ以降の進化した類人猿が食事は一緒にするのが本性とか、共働して得た獲物はそれに関わった者が等しく分けるのがチンバンジー以降の本性だとか、同様に当に納得であります。また、そういう本性に反した社会実態が不健全なものであるという山極先生の指摘も、人間形成の方向性に社会的観点を加える視点として大切な示唆であると認識しました。
この本性・本能に配慮した新しい相対樹・絶対樹を考えると、禅による人間形成においても、古来の教えにはちゃんと留意する観点があったことに気が付きます。すなわち禅の中の大きな法財である五蘊皆空の中の識蘊はあきらかにこの本性・本能がテーマであります。また、仏教における三毒(貪・瞋・痴)、五欲(色・声・香・味・触)、七情(喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲)は、本性・本能をいろいろな側面や要素から見たものであり、まさにこれを無視して人間形成を語ることができないことです。当然これらの古来の見地も上図の絵の根っこに今後入れなければならないものと考えます。
山極先生のゴリラ学を勉強して、今まで約20年使ってきた根っこのない相対樹・絶対樹が飛躍して進化し、根っこがついた相対樹・絶対樹が誕生したのです。もともと人間形成という説明の難しいカテゴリーを判りやすく絵解きをしようとして作ったものですが、それなりの効果というか成果はありましたが、今後はより広範な視野で人間を捉え、更により明確に人間形成を位置づけ人間形成の禅の普及になれば幸いと考えております。(完)
佐賀 諦観
毎日一炷香の座禅を欠かさず実行するのが、我々禅者の日課の一つです。一炷香は20?ほどの線香の燃え尽きるまで、時間にして45〜50分ほどです。以前は毎朝、起き抜けに座っていましたが、今は6匹の猫たちがいますので、朝起きたら家じゅう掃除機で掃除する役目を担いました。そのため朝食後の8時15分頃から、2階の4畳半で一炷香の静座となりました。
この時、一匹の猫・福太郎が必ずついてきて一緒に部屋に入ります。面白いもので、何時頃からか坐禅の時間ごろになると、彼もそわそわして、まだか、早く座れと、言わんばかりに二階への階段に私を誘うようになりましたし、もたもたしていると「何しているの」とついて回ります。階段にいくと先に上がっては見下ろして、うれしいそうです。
一炷香の静座の間、彼は窓ぎわに外に向かって座ります。ときには、膝にそって寝にくるときもありますが、おおむね窓に向かい一炷香です。
時折、鳥が近くにくるのか、ニャーとはいわず奇妙な声でブツブツと言ったりします。
一炷香の終わり近くになると「まだか?」という具合に寄りかかかってくることさえもあります。静座か終わるとちょっと抱いてやって座具からおり一炷香が終わります。
]]>
(その4)類人猿(サル、ゴリラ)を越えた人間だけにしかない笑い
丸川春潭
霊長類研究の第一人者である山極寿一先生はその研究に基づく観点から、人間の本来の姿を、すなわち人づくりや人間形成の方向についての示唆を提供されています。今日はその沢山ある示唆の中から「笑い」をピックアップして考えて見たいと思います。(以下、「」は山極先生の論や文章の要約引用です。「 」内の( )の文章及び「」の付いていない部分は小生が書いたものです。)
「人間に近いサルの笑いに二種類ある。ひとつは、ニホンザルの二匹が顔を合わせたときに片一方のサルが歯をむき出しにして笑いのような表情を見せる。これは楽しくて笑っているのではなく、自分が劣位で敵意を持っていないことを知らせる合図である。すなわちこの笑いは敗者の表情である。もう一つのサルの笑いは、サルたちが取っ組み合いをして遊んでいるときである。サルよりもっと人間に近いゴリラやチンパンジーになると声もともなって笑う。(ゴリラやチンパンジーの笑いには敗者の表情での笑いはない。)人間の笑いには両方の笑いがあるが、ほとんどは後者の笑いであり、それには相手と楽しさを共有しようとする気持ちの笑いである。類人猿よりも高い共感能力を持つ人間は、笑いを共有する機会が多い。更にサルの笑いと違うのは、人間の笑いは当事者に限らず周囲の人々を引き込む効果を持っている点である。人の笑いは人間の生理現象であると同時に、重要な社会的コミュニケーションの手段でもあるのだ。・・・・現代人は、パソコンに多くの時間向き合い、そしてペットたちと会話する日々を送り、人間の証である笑いが生活から少なくなっているのではないか?」
先ず、類人猿は「笑う」動物であると定義しても良さそうです。そして同じ類人猿でも進化が進むほど、笑いも進化しており、その笑う動物の究極に人間は位置づけられています。笑うという行動が人間特有の本性であると云うことであり、言い換えれば、笑うことによって人間らしくなると云っても良いかと思います。
これは、子供が生まれたとき、先ず五本指があるかで健全な体を確認して安心し、次に笑うかどうかで精神的に健全であるかを確認して安心するという先人の蓄積した経験とも一致するところであります。
岐阜の人間禅名誉会員である医師船戸崇史先生の最近の著作『がんが消えていく生き方』がベストセラーを何週も続けておられるようです。先生に二,三年前、洞戸道場で講演していただいたことがありますが、その時のお話しにも今度の著作にも、笑いがガンの克服に大きな力になるとを書かれておられます。笑いのある生活によって免疫力を上げ、笑いが正常な健康体を維持する大きなファクターになっていることを実証的に示されています。
禅の修行において禅の師家が修行者に対したときは、笑いとは真逆の厳格そのものであり、修行者から見ると厳しく怖い人ですが、懇親会になるとかプライベートな接触では、ガラリと変り満面笑みをたたえて学人の相手をされます。耕雲庵英山老師、妙峰庵孤唱老師、磨甎庵劫石老師、青嶂庵古幹老師、みなさんそれぞれ独特ですが笑顔が本当に魅力的であり素晴らしいと感じました。あるときは神々しく、あるときは慈悲があふれ、あるときは豪快な、あるときは心の底から愉快な笑いをされていたことを想い出します。人間形成を積まれた人は例外なく笑い顔が素晴らしいと思います。山極先生のゴリラ学を勉強して、人間形成が深まり人間らしくなれば成る程、笑いの質も量も向上するということが必然であることに気付かされました。
次に、笑いには本質的に相手があるということが前提であることもここにおいて確認されます。これは先にお話しした「人間は群れる動物」「群れて(相手がいて)始めて人間」とも符合し関連することに気づきます。 群れると云うことは人間として必要条件ですが、そのさまざまな関係性すなわちいろいろなパートナーとの間に、笑いがあるかどうか、笑いのある関係性になっているかどうかを振り返って考えて見る必要があります。それによって自分の現在の人生は正常で健全なのか、そうでないのかを明確に反省できます。そうでないと感じたら正常になるための努力をする必要があります。兎に角、笑いのある生活をしているかどうかを吟味することは、人生の上で大切な示唆を得ると考えます。家族にしても友人にしても修行仲間にしてもそうです。とりわけ修行集団としての支部とか禅会において、厳しさ・黙の共有と同時に、道友として同志として家族として笑いがある関係性になっているかどうかみんなで話し合いをしたら良いと思います。笑いの乏しい集まりは、良い僧伽とは云えないし、新しい仲間にとっても魅力的な集まりに映らないでしょう。
前報の「個食がむしばむ共感能力・連帯能力」にあった友食・相食・会食に付きものは笑いであり、これも必要条件と十分条件の関係にあると思います。笑いのないものは個食と同じであります。
また正しく・楽しく・仲良くの楽しく・仲良くもまさにその中核に笑いがあるのは必然です。心の底からの屈託のない笑いが常に自分の生活の中にあるかどうかをしっかり反省してみる必要があります。そして次に家庭で、職場で、支部・禅会で本当の笑いがあるかどうか振り返って見なければならないと思います。そして本当の笑いを積み重ねる仲間を少しでも広げて行きたいものです。ゴリラ学の示唆した人間は笑う動物であるという本性を正受することにより、本当の笑いを深め広げて行くことこそが世界楽土への道であることを確認する次第であります。(つづく)
(その3)個食がむしばむ共感能力・連帯能力
丸川春潭
類人猿の進化の中で、ヒトはチンパンジーとはおよそ600万年前、ゴリラとはおよそ800万年前に分岐し、サルとはおよそ1800万年前に分岐している。(図1)
図1.ヒトと現世人類猿の系統関係と遺伝子の比較から推定できる分岐年代
このサルの特性とヒトの違いについて、山極先生は次のように説明されています。
「サルの食事は人間と正反対である。群れで暮らすサルたちは、食べるときは分散して、なるべく仲間と顔を合わせないようにする。・・・だから、仲間が既に占有している場所は避けて、別の場所で食物を探そうとするのだ。でも、あまり分散すると、肉食動物や猛禽類にねらわれて命を落とす恐れが生じる。仲間といれば外敵の発見効率が上がるし、自分が狙われる確率が下がる。そこで、仲間と適当な距離を置いて食事をすることになる。」
「けんかの種となるような食物を分け合い、向かい合って食べるなんて、サルから見たらとんでもない行為である。何故こんなことに人間はわざわざ時間をかけるのだろうか。それは、相手とじっくり向かい合い、気持ちを通じ合わせながら信頼関係を築くためであると私は思う。相手と競合しそうな食べ物をあえて間に置き、けんかをせずに平和な関係であることを前提にして、食べる行為を同調させることが大切なのだ。同じものを一緒に食べることによって、ともに生きようとする実感がわいてくる。それが信頼する気持ち、共に歩もうとする気持ちを生み出すのだと思う。」
これはサル学やゴリラ学を長年研究されている碩学の山極先生がその総括として出された貴重なご見解です。
小生が学生のころ伺った話ですが、耕雲庵英山老師は子供が小さいときの食事の前に、五戒(人間禅制定の五戒:うそをついてはいけない、なまけてはいけない、やりっぱなしにしてはいけない、わがまましてはいけない、ひとにめいわくをかけてはならない。)を家族で唱えていたと仰っておられました。それから小生はまもなく結婚し、長男が小学校一年生に入学した時から大学生になって家を離れるまで、自宅で一緒に食事ができるときは、合掌して五戒を唱えることが習慣になっていました。山極先生の意図と同じ方向性であったのかと今は思えます。
次の写真は、チンパンジーがみんなで狩猟して得たアカコロブス(哺乳綱霊長目オナガザル科)の肉をみんなで分配している写真です。この様子は猿までにはない習性であり、ゴリラ以降にできた習性のようです。 猿と分化した霊長類の本性として、仲間でいっしょの食事をすることが共通に本来具わっていると云うことです。
【『ゴリラ』山極寿一著:狩猟したアカコロブスの肉を分配するチンパンジー】
更に山極先生は、次のように現代社会に対する警告をされています。
「サルと人間との違いの一つは、人間が食事を人と人とをつなぐコミュニケーションとして利用してきたことだ。サルにとって食べることは、仲間とのあつれきを引き起こす原因になる。・・・それを防ぐために、ニホンザルでは弱いサルが強いサルに遠慮して手を出さないルールが徹底している。強いサルは食物を独占し、決して仲間に分けたりはしない。・・・(人間に具わっている本性としては)人間は、できるだけ仲間といっしょに食べようとする。・・・わざわざ食物を仲間の元へ持ち寄って共食するのだ。」
それに対して、「近年の技術(24時間営業のコンビニストア、自動販売機の普及、電子レンジ、冷凍食品、惣菜売り場の充実等)は、人間的な食事(群れて摂る食事)の時間を短縮させ、個食を増加させて社会関係の構築を妨げているように見える。自分の好きなものを好きな時間と場所で好きなように食べるには、むしろ相手がいないほうがいい。そう考えている人が増えているのではないだろうか。でも、それは私たちがこれまで食事によって育ててきた共感能力や連帯能力を低下させる。個人の利益だけを追求する気持ちが強まり、仲間と同調して仲間のために何かしてあげたいという心が弱くなる。勝ち負けが気になり、勝ち馬に乗ろうとする傾向が強まって、自分の都合の良い仲間を求めるようになる。つまり、現代の私たちはサルの社会に似た閉鎖的な個人主義社会をつくろうとしているように見えるのだ。」
山極先生は、猿やチンパンジーやゴリラの研究をされて、そして人間および人間社会を見ておられるのです。動物が生存にとって最重要の食物を摂る行為においては、生存を賭けて奪い合うのが自然であるが、ゴリラ以降の進化した類人猿はそれが何故そう進化したのかは判らないがガラッと変わったのです。ヒトは奪い合うこともなく一緒に仲間と食することが本性としてあり、その行為自体がヒトたらしめる行為であり且つヒトの証左であると云うことをもう一度深く噛みしめてみる必要があります。
古来から、禅門には茶礼があり、会下の者が師家と一緒に茶菓を頂く伝統についても、コロナの所為にして軽々にしてはならないと云うことであり、摂心会の食事ももう一度その意義を深めて看なければならないと思います。摂心会の修行は、座禅にしても独参にしても本質的に個の修行でありますが、食事は食前の文に始まり食畢の偈で終わる共食の典型です。これは大切にしなければならないのです。学生時代に当時の熊本支部の支部長浜田圭巌大先輩が、道場でできるだけ多くのみんなが食事を摂るようになることを綿密に工夫されていることを聞かされました。
また耕雲庵英山老師が摂心会の円了後は必ず打ち上げ懇親会をするように言い残されていることも、あらためてその意義を深く噛みしめ直す必要があると思います。すなわち摂心会中は黙に徹して自己の内に向かっているだけであるのに対して、そういう摂心会だけでは人間禅の法の挙揚は完結していないとのお考えで、円了後には裃を脱いで腹を割り胸襟を開いて食事とお酒を共にしながら「共感能力・連帯能力」を醸成し、「楽しく・仲良く」をその場に実現させなければいけないとお考えだったものと推察しています。
また老師は、自分が食べたものが美味しいと思ったら直ぐ回りの仲間にこの美味しさを味わわせてやりたいと思うのが自然であり、これが他に回向する利他の始まりであると述べられています。これもこのゴリラ学からの知見とともに考えるとこの行為はまさに人間の本性からの自然に湧き出てくるものであり、利他は人間の本性であることを再確認することができます。(つづく)
(その2)意思伝達における「受け取る力」
丸川春潭
この「ゴリラに学ぶ」の切っ掛けになったNHKラジオの武内陶子アナウンサーと山極寿一先生のラジオトークを引用します。骨子は「コロナ禍が続き、人と顔を合わす機会が減る一方で、SNSに触れる割合も増えがちであり、それに対して山極先生は「現代の人間社会は、言葉のコミュニケーションに比重を置き過ぎだ」と警鐘を鳴らされるのです。
武内「ゴリラと一緒に生活していて、何が判りましたか?」
山極:「言葉がなくても、お互いの気持ちがわかることに感動しました。遊びたいとき、ゴリラも目がキラキラするんですよ。私もゴリラになって接していました。」
武内:「ゴリラと一緒に生活していて、何が判りましたか?」
山極:「人間の祖先が「言葉」を獲得する前は、言葉で説明する「伝える力」より、相手の様子を感じる「受け取る力」でコミュニケーションを保っていたはず、身体的な共鳴が大事なんです。スポーツ選手が、アイコンタクトや、動きの間、タイミングを見てプレーするのと似ているかもしれないですね。その後、言葉が生まれて、物語を作り、時空を超えて意味を伝えたり、世界を切り分けて分類したりすることができるようにはなりましたが、言葉は「気持ち」を伝えることはできないんですね。」
武内:「言葉に偏りすぎのコミュニケーションにも問題があると考えてらっしゃいますよね。」
山極:「現代は言葉によるコミュニケーションに固執しがちだと思っています。情報が多いため、言葉によって理解しよう、説明しようとし過ぎているように感じます。言葉で傷つくことはよくありますよね。言葉って信用してはいけないんですよ。本来、言葉は気持ちを伝えるための道具ではありません。だって言葉は裏腹でしょ。裏腹だから相手のことがわからないんですよ。「バカ」とか「おまえ殴ってやる」って言ったって、本当にそう思っているかどうかはわからないじゃないですか。本当は好きで好きで仕方ないのに、そういう言葉で相手をなじったりすることもあるじゃないですか。面と向かっていればわかるんですよ。言葉だけじゃなくて、表情や身振り手振りで表現されるわけだから。人間はそれを読み取る力を持っているわけだから。ネットでそういう言葉だけ流れてくると怖くなるけど、言葉は気持ちを伝える道具ではないんだと思って、相手にしない方が良いんです。本来のコミュニケーションは、言葉だけに頼らない部分が多いので「わかってもらえない」ではなく「わかろうとする」こと、「関心」や「共感」が大事ではないでしょうか。」
武内:「我々がこの社会で、本来のコミュニケーション力を身につけるには、どうすればいいのでしょうか。」
山極:「頭を使わず身体を使えということですね。身体を共鳴・共感させてください。本来のコミュニケーションは、言葉の意味のやり取りだけでなく、個性や背景の違う者同士が、顔を合わせて違いを感じながら、分かろうとし合うことです。顔の見える関係の相手と時間をともにすることで社会的な時間を過ごすことができます。なかなか集まれない状況ですが、マスクをしたり、ソーシャルディスタンスを取ったりしつつ、いっしょに食事をすることは、信頼を作るうえで大切なものなんです。」
ラジオでの質疑応答形式でしたが、興味深い山極先生の見解に引き込まれたのでした。先ず、ゴリラの研究の中で、簡単な会話ができるということ。目を見つめ合うとか体や手を使った動作とか言葉にならない声とかがあれば、言語がなくても意思疎通が図れると云うことです。先生曰く「言葉は「気持ち」を伝えることはできないんですね。」は、人間に厳しく反省を促していると思います。
人間と共通する類人猿のゴリラの本性は、人間のそもそもの本性を考えるときに大いに参考にすべきものがあります。前回は「群れる」が人間の本性であるという観点で学びましたが、今回はその群れの中での意思伝達の基本が語られています。一番大切なことは言葉を越えたものを対面でしっかり伝えるという人間の基本に返ることが大切だと山極先生は主張されます。すなわち意思疎通することにおいて、「伝える力」より、相手の様子を感じる「受け取る力」が群れの意思伝達ではより大切なのだということ、そして群れの中の相手との「身体的な共鳴」が何より大切なことだという見方は、現代の人間にとって急所を突かれた感じがします。ゴリラに学べ!であります。
意思伝達においては、言葉や言語は補助手段であり、メインはアイコンタクトや身振り手振りなのだというゴリラ学の知見は人間の本性に通ずるものとして重く受け止めなければならないと思います。禅の見性の見地からも共有できる観点です。われわれの参禅室内においてもアイコンタクトが大切であり、見解としての言葉での説明は禅の悟りとは無縁のものです。
コロナ禍においても、顔と肉声が確認できるZoomなどのオンラインは未だましですが、メールでのデジタルな言語では意思の疎通は極めて低レベルでしかできないと云うことです。山極先生は言及されていませんが、目でも耳でもない皮膚感覚も意思伝達のツールであります。気配とか殺気とか最近ではオーラを感ずるなどもそうでしょうが、禅の参禅での室内ではよく感ずるものであり、参禅が対面でなければならない根拠の一つにもなります。前頭葉を活性にして三昧が身に付いた状態すなわち正念の相続状態は、「受け取る力」が最高度に上がっている状態です。逆に言えば、三昧レベルが低いと「受け取る力」が低レベルになっていると云うことです。
繰り返しになりますが整理しますと、言葉や言語は「伝える力」に力点があり、身体感覚を使っての意思伝達は「受け取る力」に力点があると云ってもいいかと思います。この「受け取る力」をお互いに高めると「身体的共鳴」を共有することができ、ここで人間禅がいうところの「仲よく」が初めて実現すると云えます。家庭内において、支部内において、地域社会において、世界においてです。ゴリラに学ぶことは大きいですね。(つづく)
(その1)人間は群れて共働する動物である。
丸川春潭
小生は、午睡の習慣があり、摂心会のみならず、家に帰ってきてもよく午睡をします。そして午睡前後にラジオを聞いています。いつもNHK第一放送ですが、ある日武内陶子アナウンサーが、山極寿一先生(京都大学元総長・ゴリラ学の世界的権威者)にインタビューをしているのをたまたま聞きました。そして大変興味をそそられました。そしてそれから山極先生の本(『ゴリラの全て』―強くて優しくカッコいい"進化の隣人“―、『ゴリラ』、『ゴリラからの警告』―人間社会、ここがおかしいー)の三冊の本を購入し、今それらが目の前にあります。
小生は、人間形成の禅の位置づけを説明するために、「相対樹と絶対樹」を作りました。その特徴は、人間を知性と感性に分けて見ているところです。山極寿一先生のゴリラ学を見ていると、人間理解の上において、知性(相対樹)と感性(絶対樹)以外にもう一つ本能(本性)を加えた三つの観点でもって人間をとらえる必要があることにきづきました。従来の二本の樹が根を張っている本能(本性)の大地をしっかり意識し、その上であらためて「人間形成の禅」を考え展開する必要があると痛感しました。これがゴリラ学によって、すなわち同じ類人猿のゴリラの本能(本性)を研究することによって学ぶことです。すなわち知性、感性に並ぶ本性(本能)の三番目の人間の要素については、同じ類人猿のゴリラを通して見そして考えると云うことです。これから何回かに分けてブログしてみたいと思います。
最初に、『ゴリラからの警告』―人間社会、ここがおかしいーの書き出しの処の文を注釈混みで紹介します。「」は引用文であり、その中の()は小生の注釈です。
「人間の祖先は、ゴリラやチンパンジーがずっと暮らし続けてきたアフリカの熱帯雨林を離れ、進化史の大半を採集や狩猟によって過ごしてきた。強力な身体ではなく、強靱な社会力を身に付けたからこそ、人間は地球上のあらゆる場所に進出できるようになったのだ。そこに人間独自の特徴の秘密が隠されている。 IT技術の発展により、人間のコミュニケーションや組織のあり方も変わった。五感を用いて体で(感性・本性で)つながるよりも、通信機器を用いて頭で(知性で)つながることが増え、且つ重視されるようになって来ている。(コロナ禍の中で、この方向性が強制的に強引に進むことになってしまい、コロナ後もこれが定着しそうな状況である。) 自己実現や自己責任という言葉がはやるように、集団の力よりも個人の力を強めることが、奨励されるようになった。その急激な変化に人間の心や体がついていけず、人工的な環境と(人間の本性)との間に様々なミスマッチが生じている。生活習慣、アレルギー、自閉症、家庭内暴力、いじめ、ヘイトスピーチ、(親殺し、子殺し、各種ハラスメント、アスペルガー)などが良い例である。」
山極先生は、ゴリラとの比較においての人間の特性(本性)の第一に「強靱な社会力」を挙げています。この「強靱な社会力」を平易に言い換えると「人間は群れて共働する動物である」ということです。すなわち人間は群れてそして共働するところに人間らしさがあるということです。これはある意味驚きであり再確認であり、そして今後しっかりこの基盤の上でものを考えなければならないと云うことです。
偏差値教育での人間の差別化、各種資格での差別化は全て個が強調され、個を際立たせる人間社会であります。この仕組みは現代社会では不可欠ではありますが、人間の本性すなわち群れて共働する人間性を無視し逆なでする副作用もあります。それがために「人工的な環境と(人間の本性)との間に様々なミスマッチが生じている」と山極先生は見ています。
確かに、何をするにしても一人だけでよりも群れてやる方が楽しいものです。そしてそれが人間の本能(本性)なのだとすると、まったく納得です。小生は、孤食が嫌いだし、酒は好きですがひとり飲みはしません。茶道具づくりにしても作陶にしても共働でやるのが楽しいのであり、その作ったものを群れの中で共有する観点があるからこそ苦労も楽しみになるというものです。
また宴会だとか懇親会の意味も、群れがあり自分がその群れの中の構成員であることを確認する貴重な場であり機会なのでしょう。考えて見れば、昔からの村々の各種祭りも人間にとって基本的に必要な行事なのだとあらためて認識できます。また幼児から、子供が群れて遊ぶと云うことは、人間の本性を確立する大切な行動であると再確認できます。
現代では鍵っ子だとか孤食の子供達が増えて来ているそういう時代でしたが、そこにコロナパンデミックが出現し、人間が群れるとか対面で共働する状態が真っ向から否定される事態になったのです。人が群れ集うことが禁じられ、ネットを通じた間接的な繋がりだけに人間が追い込まれてきているのです。これは、本来群れる習性を持った人間にとって本質的な危機なのです。人間形成においても人間社会においても、人間は群れることによって人間になるという観点を大切にして行かなければならない。そのためにわれわれは何をなすべきかを原点に還って検証し直さなければならないと思います。
ゴリラに学び、人間の本性(本能)を知ることによって、人間形成の方向そして世界楽土建設の方向もより地に足の付いたものになると考えております。(つづく)
丸川春潭
一般的には、伝統を守りながら、時代の変化に柔軟に対応して行くのが理想ではありますが、実際の事例になるとなかなか難しい判断が必要になります。
『立教の主旨』を摂心会の結制茶礼において拝読するのですが、その都度いつも本当にこれでいいのかという疑義を感じております。それは人間禅創立以来60数年間に亘って『立教の主旨』の拝読時は、全員手を畳に着いた状態で師家の拝読を聞いていたのです。そこに耕雲庵英山老師の作られたそして人間禅の命とも云える『立教の主旨』に対する気持ちが込められていたと思っています。
ところが、小生が総裁任期中に、「最初頭を下げ畳に手を着いて礼をしたら体を起して拝聴する。」に変わったのです。主たる変更理由は、新到者には奇異な(信仰的な)違和感を抱かせるのではないかということであったと思います。法務委員会での多数決での決議事項ですから忠実に従っていますが、人間禅の創始の精神と云いますか、人間禅としての初心を所作として軽々にしているのではないかと、それ以降結制茶礼の都度危惧感を持っております。小生は50数年この作法にしたがっていたので違和感があるのですが、ここ10年未満の会員には現行の作法だけしか知らないので、何とも思わないのは当然です。しかしそういう経緯があったということは、知っておいて欲しいと思います。変革してもその変革の前がどうであったかを知ることも伝統の継承の一つと思います。
同じように、かっては室内で見解を呈するとき以外の師家と学人とのやり取りの場合、学人は常に畳に手を着いた状態で、師家の言葉を拝聴していました。すなわち入室して、師家の前の拝座で大展礼拝をしたら直ぐ、手を着いた姿勢のまま公案を唱え、見解を呈した後、師家の発する言葉は手を着いて拝聴していました。次の公案を授与されるときも同じ姿勢で承けます。磨甎庵老師が総裁の今から30年ほど前から、法務会とかの機関決定ではなく変わったように思います。変更の理由は、定かには覚えておりません。自分なりに、公案を唱える段階から見解を呈している様なものだから、師家としっかり相対して公案を唱える方が良いと考えていたように思います。そこからなし崩しに、室内での師家の発言に対して手を着くと云うことがなくなっていったと思います。自分が師家になって参禅を受けて見て、学人と相対し学人が公案を唱えるのを聞くだけで、その学人がどの程度まで工夫が熟してきているかがほとんど判るので、現行の相対する方が良いと思います。しかし最近の若者の中には、師家と会話するくらいの感覚で入室し参禅をしている者も出てきており、嘗ての手を着いて師家の言葉を拝受するという気持ちが正しい伝統なのだと云うことをしっかり若者にも伝えなければならないと思います。
もう一つ伝統を改変した事例を上げておきます。これも小生の総裁期間の10年ほど前になりますが、それまでは人間禅教団という呼称でした。それをオオム真理教教団などと新興宗教的に聞こえるからと云う理由で教団をとり、人間禅だけの呼称にしました。支部長会議か評議委員会の決議事項と云うことでその当時の法務会長から承諾するように申され承諾したことを覚えています。
爾来、立教の主旨と三省願文と三帰依文において以前は教団としていたところを全て人間禅にあらためることになりました。漢字2字が漢字3字になり、発音が4字から6字になって、唱えるのが回りくどくなったと思います。これは大したことはないのですが、本質的に不便になったことに後から気が付きました。すなわちもともとの人間禅教団は、法を表す人間禅と僧伽を表す教団を合体した表現の呼称であったのですが、今はその両方を人間禅で表さねばならない点です。老大師も人間禅という場合は僧伽ではなく人間禅の精神を示す時に使い、僧伽の場合には必ず教団が付いており明確に使い分けられていました。話をしたり文章を書いたりするとき、教団が取られて人間禅で両方を使い分けなければならないのに不便さを感じます。また所属員の呼称においても、以前は僧伽の一員として団員という呼称がぴったりだったのですが、人間禅会という呼称ではないのに、会員という言い方をしなければならなくなったのもこの変更の時からであり、不自然であり不便です。新興宗教的であるから教団を取ろうという大した理由でもない提案が簡単に改変されたのは、今になって大いに反省するところです。
逆に、伝統としてずっとやって来たことで変えなさすぎるような事例もあります。人間禅のほとんどの支部で未だに提唱時のお茶や茶礼のお茶はハブ茶を使っています。ほとんどの人がこれは動かしがたい伝統のように考えて実践し伝承しておられます。小生は耕雲庵英山老師の侍者をしていたときに老師から直接ハブ茶を使う理由を聞きました。それは老師が持病として胆嚢炎になり、医者からタンニンを含む煎茶は飲むなと云われたので、タンニンのないハブ茶にしているのだ、というお話しでした。小生は直ぐ、お抹茶をよく飲まれますがタンニンは大丈夫ですかとお聞きしますと、抹茶はタンニンを含む茎の部分ではなく若葉の葉先だけなのでタンニンはなく大丈夫なのだと。老師も小生も化学専攻ですので、科学的な根拠での理由に直ぐ納得しました。この耕雲庵英山老師の個人的な理由が、人間禅創立以来ご存命の約30年間に伝統化して継承されてきているのです。小生が総裁になり、ハブ茶で良いですかと聖司や侍者から問われて煎茶の方が美味しいので変えて頂き、小生の担当の狭い範囲では、ハブ茶の伝統はなくなっています。師家の体調や嗜好によって変えて良いことも、その発端の理由を知らないと伝統として70年以上も続くという事例です。
気が付けば、人間禅における小生の会員番号(団員番号)390番より前の人は数名になっており、耕雲庵英山老師を発端として歴代の先輩方が工夫し練りに練って作り上げた様々な伝統がどうであったのかを、途中での変革により知らない人が圧倒的になった今日、しっかり伝えておく役目が自分に来ていると最近気が付いた次第であります。その責務の一端になればと思い未だこれは一部でしかありませんがブログとして残しておきます。合掌
鹿児島禅会 第42回の摂心会を1月19日午後6時半から23日正午まで開催いたします。
摂心会というのは、禅の修行を日課表に随って、朝5時の起床から夜10時の就寝迄、坐禅と参禅を中心に作務および食事を清規の規定に従って、三昧になって修行する期間です。
前回のブログで、伊藤探弦禅師の言に「禅というものは、この俺が、実際に座禅をし、実際に参禅をし、実地に実修することによってのみ本当の自分を、おれを体得できるのである。」とありました。ようするに俺を見つめる期間です。この期間中は参加者それぞれが公案を三昧になって工夫し、参禅の時間に師家について研鑽を行うものです。
この期間は、スケジュールに従って粛々と自分の内面に向かって工夫していきますので、要件以外は私語をかたらず、黙々とご自分の課題に工夫三昧になって取り組みます。
はじめて参加される方は、参禅は出来ませんが数息観を試み、数息三昧になれる工夫をします。人を気にすることなくご自分の呼吸に集中する修行をします。姿勢を正して坐禅を組む時間が多いので最初は大変かもしれませんが、日常では体験できない時間となり、すっきりした俺やわたしを実感できることは間違いありません。 禅とはおれだ!という入口になります。
鹿児島禅会 は社会人の集まりです、この期間は茶山房道場を自宅として、ここから勤めに出かけ、ここに帰ってきます。
スケジュールの詳細と茶山房道場は 鹿児島支部のホームページをご覧ください。
合掌 佐賀 諦観
]]>