「科学と禅」その6
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「科学と禅」その6
丸川春潭
2月下旬は関東地方で最も寒さの厳しい頃であります。今年は雪も多かったですが、房総道場(四街道市)や坂東道場(潮来市)では、霜柱が苔を押し上げて枯らしてしまうので、本部道場(市川市)の苔山のように、冬季は落ち葉で覆うのが賢明であります。
この霜柱に因んだ、「霜ばしら」というお菓子が、仙台にあります。見栄えと云い、食べた感触と云い、ファンタスティックな銘菓です。丁度季節柄ご紹介しておきます。お抹茶のお菓子にもなります。
前回の続きは、「科学・技術の進歩と仏教思想・禅」であります。
科学・技術の進歩はめざましいものがありますが、ややもすればその進歩は、人類的視点や地球的視点での検証なしに、科学・技術ジャンルの内側だけに通用する独善的なそして近視眼的な判断で科学・技術を発展させる危険性を常に持っています。
歴史的に見ても、生物化学兵器の研究、原子爆弾の研究、人間クローンの研究などを初めとして、科学・技術の進歩は必ずしも人類の平和とか幸せと相反するものも少なくないのです。
したがって科学・技術の進歩に対する倫理は、科学・技術の中ではなく、外部のたとえば宗教サイドからの検証が不可欠になるのです。
しかし、残念ながらそれに対する宗教家を含めた識者の提言が、科学・技術の本質を理解しないままの無責任な放談になってしまいがちであると云うことも事実であり、これは正しい科学・技術の進歩発展を大きく阻害するものになります。
現代では科学・技術の進歩発展が、専門的にまた社会との結びつきも多面的になっているために、宗教家などの科学・技術批判が、幼稚で的を得ていないケースが多くなってきているのです。
まさにガリレオの宗教裁判を現代においてもやりかねない危険が常にあるのです。
全日本仏教会の会長が「いのちを犠牲にする原発はやめよう!」と談話を発信された。原発とか臓器移植が“いのち”と関わるから、これは宗教の領域であるとの見地からの発言ですが、そんな単純な発想からの批判は、如何なものでしょうか?
科学技術の発展に対して、科学技術の中だけの判断ではなく、宗教サイドの考えも入れて科学・技術の発展を考えなければならないと云うことは、総論として正しいことであります。
しかし実際には、宗教者が批判をする対象の科学技術のバックグラウンドやその歴史についてしっかりと勉強しておかなければ、現代版ガリレオ裁判をやってしまうことになります。
命に関わるから宗教者がもの申すのではなく、原発の歴史とその長所短所とを総合判断してから批判すると云うことでなければならないのです。
次回以降は、現在の科学・技術に関わる資源枯渇の問題と地球環境の課題を原発問題にも関連させながら、居士禅者として私見を述べたいと思います。
「科学と禅」その5
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「科学と禅」その5
丸川春潭
松江のお菓子が出たら「若草」について語らない訳にはいけないでしょう。松江の三大銘菓の一つで、山川に勝るとも劣らない銘菓「若草」があります。
彩雲堂とか風流堂が有名ですが、山陰のようなところに、このような和風文化の粋のような格調の高い銘菓が伝統として継承されている日本文化の奥深さの素晴らしさを感じます。
最近の脳科学の知見から、科学と宗教の差異について見てみたいと思います。
有田秀穂(東邦大学医学部統合生理学教授)と、本庄巌(京都大学医学部耳鼻咽喉科名誉教授、人間禅名誉会員)による著書や情報を要約しますと、
科学技術のようなロジカル思考は、脳の頭頂連合野の部位で行われます。
これに対して感性を司り、宗教的洞察を行う脳の部位は前頭葉になります。
いつもの相対樹・絶対樹で云いますと、相対樹が頭頂連合野であり、絶対樹が前頭葉に該当します。
本庄慈眼先生から紹介頂いたアメリカの医学雑誌に掲載された最新の脳科学の実験レポートは非常に興味深い内容です。
チベットの瞑想僧数人を使って調べた脳機能の研究結果は、瞑想に入ると常に活発に活動していた頭頂連合野が活動を停止し(サイレントになり)、それと入れ替わりに、前頭葉前端の前頭前野が活性化するという興味深い結果です。
慈眼先生の解説では、頭頂連合野は、デジタルコンピューター機能であるとともに、その特徴は、自己の位置を他・他人との比較において常に明確にしようと働くのを特徴とします。
これに対して、前頭前野は人格・感性を司り、他との差異を意識するのではなく同一性・一体感を感じ取る働きを特徴とします。
これらの知見を総括すると、通常の社会生活においては、相対樹に該当する頭頂連合野の科学脳が活性に活躍して仕事をしており、そこから何らかの三昧行を行じて三昧境に入ると絶対樹に該当する前頭前野の宗教脳が活性になり宗教的洞察ができたり、感性あふれる働きが出てきます。
人間形成は、絶対樹・前頭前野を鍛え充実することになり、禅における悟りを初め、宗教的感応は、この前頭前野の活性に全て依拠することになります。
そしてその活性化には、先程の脳科学の研究レポートにもあるように、何らかの方法で三昧に到ることが必須となります。
まさに、全ての宗教はそれぞれ独自の方法ですが、三昧に到る方途を必ず持っています。
すなわち、その宗教宗派の本質に近づく方途には、三昧になる行が必ず付随しています。
キリスト教の礼拝、イスラムのアラーに対する祈り、浄土宗の南無阿弥陀仏の唱名三昧、浄土真宗の念仏三昧、そして坐禅における数息観三昧の実践行は、全て三昧行という切り口で全く同じであり、そして三昧によって到達する境地も全く同じであります。
更に最近はやりの滝行とか、あるいはアスリートとかミュージシャンの行為のある部分は、同じ三昧行として同様に評価するのが人間形成の禅の見方であります。
禅の悟りのような宗教的境地は、この前頭葉が活性化されてはじめて拓かれ磨かれ深まるのであります。
このように最近の脳科学は、脳の部位が科学的思考部位と宗教的感得部位に分かれていることを実証的に明らかにするとともに、この科学の進歩は、長い歴史の中で経験的に積み重ねてきた人間形成の手段とその進め方が妥当であると云うことを見事に証明してきています。
ここに現代の新しい科学と宗教の関係が見られます。
「科学と禅」その4
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「科学と禅」その4
丸川春潭
小生が人間禅に入門したのは、岡山市の中国支部で、師家は耕雲庵立田英山老師でした。摂心会中、老師は毎朝ご自分でお茶を点てられ、いつも2,3人がお相伴していました。
老師のお好みのお菓子は、いくつかありますが、一つは岡山市の芭蕉庵の落雁である旭川でした。香りが良い美味しいお菓子でした。
後年、松江の風流堂の山川を食べてみてよく似ているのに驚きました。山川は松江の殿様である不昧公好みで、発祥は200年以上前であり、芭蕉庵は明治の創業ですので、山川を模倣したのかもです。いずれも小生の好きなそして思い出深い菓子です。
甘い香りの落雁のお菓子から、味もすっぽも無い科学と禅のお話しになります。
今日のお話しは、「各宗教各宗派の宗教としての根源は、本質的に皆同じである。」ということです。
老子が、孔子が、釈迦牟尼が、キリストがつかんだ宗教存立の根源は一つであり、相違するものではない。これが禅の宗教観です。
ただし、宗教的本質が同じであったとしても、その呼び方、布教の方便は千差万別です。すなわち、老子の道教では大道と云い、孔子の儒教は明体と呼び、釈迦牟尼は仏と云い、キリストは神と云い、神道では天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)と云っています。
要は、各宗教各派がお互いにその呼び方のみならず救済の仕方や儀式の違いがあっても、宗教の根源「そのもの」に変わりはないということをお互いに認め合うということが大切なのです。
禅の宗教観が何故こういう見解になるかについて以下に簡単に説明します。禅の宗教的根本は、釈迦牟尼の悟り(東洋的無)に根源があり、「山川草木悉皆成仏」であり、「衆生本来仏なり」なのです。
釈迦牟尼世尊の掴んだ宗教の根源(悟り)は、言葉で表現できるものではなく、言葉を超えたものです。すなわち相対的なものではなく絶対的なものです。前に出した図をもう一度出しますが、悟りは相対樹(科学)の領域ではなく、絶対樹(宗教)の領域のことです。
相対樹から、二念を継がず一念を生じさせない、を徹底して絶対樹に入って行かねば悟りの場に入ることはできません。根元に数息観法と書いてありますが、この数息観法を徹底して行取すると、相対樹から絶対樹へ移行できます。すなわち科学の領域から宗教の領域に入れます。この宗教の領域に入らなければ、悟りを掴むことも人間形成を進めることもできません。
悟りは言葉で説明することも教えることもできません。自分で冷暖自知(自分で熱いか冷たいかを実践的に掴まねばどうしようもない)するしかないのです。ただ教えることはできないが、正脈の師家は学人が掴んだものが正しいものを掴んでいるかどうかははっきりと見抜くことはできます。
釈迦牟尼が掴んだと同じ悟りを摩迦訶葉尊者が掴んだように、師から弟子に一器の水を一器に移すように伝え伝えて28代目が菩提達磨であり、インドから中国へ生きた人間の悟りが伝わりました。6世紀です。そして達磨の悟りが二祖慧可へと、インドと同じように中国の中で伝法され、中国で27代目の虚堂智愚禅師から日本から中国に法を求めてやって来た南浦紹明(後の大応国師)へ印可され、日本に生粋の禅が伝わりました。13世紀です。
釈迦牟尼が悟りを開かれた紀元前5世紀から2500年後の今日まで、生きた人間の悟りを連綿として伝法してきているのが正脈の禅(祖師禅)です。その伝法している禅の悟りの見地から世界の宗教を見ると、老子が孔子がキリストがつかんだであろうそれぞれの宗教的根源は、決して二つあるものではなく、間違いなく同じものであると見えるのです。
「科学と禅」その3
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「科学と禅」その3
丸川春潭
今日のお菓子は、外郎(ういろう)です。外郎は名古屋だけと思っていたのは大間違いでした。山口参禅会の折り、山口市内の瑠璃光寺五重塔<国宝>の脇で、山口ならではのお菓子は是れだ!と云われて買ったのが外郎?!でした。
ウィキペディアで調べると、名古屋、山口、小田原、伊勢、京都、神戸、徳島、宮崎の8カ所で土地の銘菓として昔から外郎があるようです。小生は、名古屋と山口のものしか食べたことがないのでそれ以外についてはコメントできませんが、一度は一口ずつでも食べてみたいものです。
名古屋のものと山口のものはかなりな相違があり、それは原料の違いから来ているようです。名古屋のものは米粉が主原料であり、山口のものは葛粉が主原料のようです。どちらもそれぞれの個性を持って美味しい和菓子です。
ぷりぷりした美味しいお菓子の後は、がちがちの難しいお話しです。
今日は、科学と宗教は異なる領域であるが、本質的には相反しない、ということについてお話しします。
科学と宗教の領域の違いは、二回前の時に、相対樹と絶対樹の図面を示しながらお話ししました。あの図の左がScience・科学の領域であり、右がSpirit・宗教の領域です。
ところが世の中には、この科学の領域と宗教の領域の異なった領域であることを無視して、ものを考えたり発言したりしている場合が結構多いのです。
そうなると、両者が互いに片方を誹謗したり、その価値を認めなかったり、論旨が通らず、お互いの足の引っ張り合いをすることになります。
すなわち科学の領域で宗教を解釈・尺度したり、宗教の領域で科学を解釈・尺度してしまうわけです。
前者は、宗教は反科学的であると決めつけ、宗教など無くて良いんだと宗教無用の論陣を張ります。そして科学万能の信仰者になります。
後者は、古くはガリレオの宗教裁判であり、最近で云えば後述の原発や臓器移植に対する宗教家のとんちんかんな発言になります。また科学で明らかになった真実に相反することを宗教的行事や教義の中にいつまでも残し続けると云うことになります。
また科学の領域と宗教の領域はまったく違うと云うことを認識していないと、よくあることですが、科学の領域で未知なるものを宗教的に解釈して変な非科学的な迷信を言い出したりすることになります。
逆に、宗教の本質、教義を科学の領域で解釈したり、科学で尺度したり、その是非を論じたりすると、とんでもない誤解を巻き起こすことになります。言葉は悪いですが、味噌と糞と一緒にすると云うことですが、これは過去にも現在にも沢山あり、それがために傷つけ合ったり非難し合ったりして、結局は人類の進歩発展に大きくブレーキを掛けて来ているのです。
大切なことは、事実を基礎として普遍性の法則を客観的に把握しようとする科学と、永遠なる真理に合掌し一体化しようとする宗教とは、本来矛盾するものではないのです。これが人間形成の禅の見解であります。
更に、お互いが相手を尊重すると云うことにとどまらず、範疇・領域が違っていることを明確にしておいた上で、もっと積極的にお互いが相補っていかなければならないと考えます。これは居士禅者(脱俗出家した僧籍ではなく、一般社会人でありながら禅を学び修行している者)の立場からの見解であり発信であります。
そうならなければ、これからの新しい地球人類の持続は極めて厳しいものになると云うことを、次回からお話ししたいと思います。
「科学と禅」その2
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「科学と禅」その2
丸川春潭
人間禅 択木道場のHPに「古くて新しい座禅、易しくて深い座禅」シリーズのブログを平成25年10月初めから平成26年1月初めまで21回書きました。それが1月初めで中断し、そのブログの書き出しに、お菓子の話などを書いておりました。その部分の続きをこの「科学と禅」シリーズに引き継いで書かせて頂きます。
前回の1月はじめは、お正月に因んだ花びら餅のお話しでした。
このシリーズで先ず書きたいお菓子は、岐阜県中津川の栗きんとんです。この栗きんとんに初めて出会ったのは30年くらい前の先師磨甎庵老師のお宅にお伺いしたときに頂いた時で、その後もこの栗きんとんに出会うたびに、磨甎庵老師を追憶することになりました。
本物の栗より、栗らしい!栗の風味とうまみと甘みが絶妙です。自然を生かす日本文化の粋のようなものです。ごちそうさん!!
さて甘いお話しの続きは、難しい固いお話しです。
前回、科学は万能ではなく、宗教の領域の必要性についてお話ししました。
今回は、科学技術の進歩は、諸刃の剣である、と言う観点でお話しします。
科学技術の進歩には、人類にとって素晴らしい成果をもたらしています。宇宙科学や、生命科学等の基礎科学の発展を基盤にして、医学や工学の発展で、寿命は延び、交通・通信技術は目覚ましい発展を遂げて、人類の文明を向上させてきております。
しかし同じ科学技術が、原子爆弾も作り、大量殺戮兵器も開発してきています。都市化が進み、環境破壊が進み、人間が作り出したものによって人間が支配されるという典型的な人間疎外も、科学技術の進歩が残したものです。
科学の進歩には、人類にとってプラスもあるがマイナスもあるのです。この両面があることを客観的に正しく評価しなければならない。
すなわち、科学技術者も科学技術者の前に人間でなければならない。すなわち、科学者は先ずもって人類的視点に立たなければならない。これが21世紀の科学技術者の必須条件であります。
例えば、生物利用殺人兵器の研究開発やクローン人間を指向する生命科学の進展には、科学者技術者だけの判断ではなく、人類的視点に立って進めてはならないと考えます。
科学技術は進めば進むほど、専門分野に細分化され、全体像が見えにくくなり、進む方向を正しく見定めることが難しくなってきます。
これは科学の発展における自己矛盾のようなもので、科学が高度に発展すればするほど広い人類的視点で科学技術に取り組まなければならない。
すなわち科学の領域だけでは科学は正しい発展はできないと銘記すべきであります。
これに対して、人類的視点と云っても、宗教の領域からの見方も入れてと云っても、抽象的で判然としない。そういう観点を少しでも禅の見方で少しでも明らかにしてみたいと思います。
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