長寿と禅(その2)
JUGEMテーマ:禅
長寿と禅(その2)
丸川春潭
精神的安定が肉体的安定につながりそれが長寿につながるという観点ですが、この精神的安定には外から入って来るストレスと内から出てくるストレスがあります。この場合の精神的ストレスは精神集中からくるものであり、それ自体が悪なものではないがそれが強すぎたり長時間続いたりすると問題が発生することになります。これは精神すなわちこころに関わるものですが、物質すなわち筋肉についてと同じであり、強すぎるとこころ(筋肉)を痛めるし長時間続けると精神疾患(筋肉疲労)になります。
まず外から入ってくるストレスについてですが、これは現代社会の特性であり現代人の宿命としてしっかり受け止めるべきであり、サラリーマンを中心にすべての社会人は避けることができないものです。すなわち現代は人類が今まで経験しなかった膨大な情報社会になっており、誰もがどっぷりとその中に浸かっている状態です。その情報過多が利便性にもなり、広域な人と人の繋がりなどのプラスにもなり、またプライベートの侵害や精神的疲労などマイナスにもなり広範囲な影響を及ぼします。
膨大な情報はともすればそれが精神的ストレスになりやすいものであり、特に社会に積極的に関わって生きてゆこうとする人にほど精神的ストレスが強く架かってくるのです。このストレスにどう対応するかが課題であり、ストレスはクリエイティブな活動のためのドライビングフォース(原動力)にもなるし、真逆に作用すると個々人のアクティビティを損なうことにもなります。
対応の一つは、ストレスを蓄積しないということです。特に自営業とかサラリーマンなどに多いケースがストレスの多重蓄積です。これは前の仕事や出来事のストレスが未だ気持ちの中に残っている間に次のストレスが来ると多重ストレスの蓄積になります。例えば前の仕事において気がかりな懸念を持ったまま次の新しい仕事が来た場合に前の仕事の残像がストレスになって、今の仕事に100%対応できないケースなど日常的に多く見られるものです。また同様に会社外(プライベート)での出来事を仕事場に無意識に引きずって仕事に集中できず些細なことがストレスとして増幅されることもあります。
こういう意識されるストレスや無意識の引きずりストレスに対して有効なのが毎朝の一日一炷香座禅であります。(この数息観座禅については人間禅叢書の「数息観のすすめ」とか拙著「座禅の効用」に詳しく書かれていますから初心の方は参照下さい。)数息観によって様々な念慮は、波立っている湖水の表面が風が凪ぐと沈静化して鏡のようになるのと同じように、こころの波立ちを数息に専念することで沈静化するのです。この鏡のような湖面と同じようにこころを常に保持しておくことがストレス社会における鉄則になります。外部からのストレスをクリエイティブな力にするか、収拾のつかない精神的不安定にするかの岐路がこのこころの状態で決まるのです。
座禅を組んで数息観を修することによってこころの湖面を鏡のようにすることは可能です。すなわち集中して三昧状態に至るさまざまな方法がありますが、数息観法はその中でも誰でもが容易に実践できる最も洗練された観法(こころを磨く方法)です。
しかしこの最も洗練された観法である数息観にしても、実際に様々な思いで波立っているこころを沈静化するためにはやはり修練を積む必要があります。数息観法は禅修行の最初であり最後であると先達が言われているように、数息観法は実に深く簡単なようでなかなか難しいものです。すなわち若駒を長年かけてじっくりと調御してゆかねば名馬たり得ないように、数息観を本気で長年月かけて骨折らなければこころの調御もできないというものです。
初心の場合はこころが錯綜してこれではどうしようもないと気づいて数息観座禅を実践する。一炷香でも未だこころ穏やかになれずと言うことで二炷香、三炷香と座り込んでやっと平静になるということも何度も経験しました。数息観法にだんだんと熟達してくるとどんなにこころの波が大荒れ状態になっていても、30分も座ればピタッと鏡になるのです。これが人間力であり人間形成の成果です。
現代人は、避けられない精神的ストレスから逃げるのではなく、精神的ストレスを力にしまた楽しむくらいにならなければならない。そのためには何時でも精神的安定をキープしておく意識的な対策を実践して対処しなければならないのです。
精神的不安定が極端には自死にまで簡単につながる世の中にあって、精神的安定を確保し肉体的安定を盤石にして、一生一回しかない人生を悔いなく痛快に生き、世のため人のためになりたいものであります。合掌
春潭
長寿と禅(その1)
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長寿と禅(その1)
丸川春潭
先週、岡山禅会の摂心会中に元住友金属工業時代の大先輩であり、仕事(製鋼分野)において大変お世話になった大恩人の栗田満信氏の訃報が娘さんから電話でありました。享年95歳であり大往生だと思いますが、われわれ住金製鋼屋仲間の精神的支柱のような方でしたので寂しい限りであります。氏は仕事における上司としてご指導いただいただけではなく、個人的にも大所高所から小生に学位取得を強く指示していただいたことや、仕事には関係のない小生の人間禅にも深いご理解を頂き名誉会員として経済的な支援を長年していただきました。最近一年くらいは2ヶ月に一回のペースでお宅にお邪魔し、二人で四合瓶を飲みきるまでお話の相手をさせて頂いていました。直近では2月17日にお伺いして次は岡山摂心会の結制日4月10日と決めていました。2月17日の時も四合瓶を軽く開けお元気そのものでした。しかしお年がお年でありいつどんな事態になるか判らないといつも一期一会を肝に銘じておりました。こういう事態になることを予期はしていましたがあれもお伺いしておけば良かった、こうもしておけば良かったと後悔の念が尽きませんが、氏に対するご恩にいかに報いるかを考え実践すべきと頭を切り替えなければならないと考えているところです。
その手始めに栗田満信氏の95歳の大往生を目の当たりにして長寿ということを考え、氏が一生をかけて示された長寿を自分が超えることが氏への第一の報恩になると考え、長寿について禅的に整理してみたいと思い立ちました。
古来より、禅僧は一般人はもとより宗教者の中でも長寿が多いと聞いております。(誰が何歳かという具体的な知見を持ち合わせていないので、この読者の中でそういう情報をお持ちの方はお教えください。)この禅と長寿について、自分の60年間の禅修行を顧み整理してみたいと思います。
先ずは、精神的安定が肉体的安定につながりそれが長寿につながるという観点がまず上げられます。この精神的安定は非常に広いカテゴリーを含んでいます。大きく分けて、外から入って来る精神的ストレスに対する解消法と内から出てくるストレスがあります。 その他、対人関係の処し方・仕事に対する姿勢・生活習慣の組み立て・病気になったときの対処などいろいろな角度から見てみたいと思います。今日は前置きが長くなりすぎましたが、次回から本論に入ってゆきます。合掌
春潭
嬶まんがいい(その4)
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嬶まんがいい(その4)
丸川春潭
「嬶まんがいい」とは、「良い嫁さんに恵まれて運が良い」という意味であり、これを言い切れる人は滅多にいません。これを言った和歌山の和尚の境涯についてブログを3回書き、その第4回目です。今回で多分終わりです。
自分に対して厳しい目を持ちなかなか自分を肯定的に頷けが得ない人は、当然他人にも厳しく見てしまい人間関係がうまくいかない傾向にもなります。
しかしこういう人には宗教的な求道心を持つ人が多く、求道の道に巡り会えることができるかどうかが古来大変大切であり且つ難しいのです。大勢の悩み苦しむ人の中で真剣に道を求める人はその中の数%の人にしか過ぎない。大多数はいい加減なところで自分をごまかして人生が終わりになるものです。妥協できずあくまで道を求める数%の人においても、正しい道に巡り会えることすなわち明眼の師家に出くわすかどうかはここから更に少なくなる。これを読経の最初に唱える「開経偈」では、「百千万劫難遭遇」と述べているのです。
正師に巡り会えて転迷開悟し見性してから更に師家の指導の下に後悟の修行によって差別の妙所を徹見し、そして更に進んで悟りの臭みをすっかりそぎ落とし悟了同未悟の境涯に進む。そうして初めて「わしは嬶まんがいい!」と言い切れるようになる。この境涯の人はどういう境涯なのでしょうか?貴賎貧富を問わずみんな何がしか持っている人格的欠陥とか好きずきを含めて不満足な点をどう見、そして対処しているのでしょうか?これが大きな問題です。
見性入理の当初は人の短所とか癖とかが見えないとか直視せずに逃げているという段階でしょうが、達道の人にはそれははっきり見ていてしかもそれを個性として面白がっているようなのです。自分を含めて人の欠陥をマイナスに見るのが普通で、それを許容するのが次で、達道の人はそれをプラスに見るのです。達道の人である山岡鉄舟居士の作られた句に次のものがあります。
「晴れてよし曇りても良し富士の山もとの姿は変わらざりけり」
「曇りても良し」であり、「雨もまた奇なり!」なのです。これを自分にも他人にも心の底から言い切れるかどうかが肝心なところであります。観念として肯定する人は多く居ますが、これを実践の上で平然と実践している人すなわちこの境涯が身についている人はほとんど居ない。人間形成としても最後の仕上げのところであり大変難しいことです。理屈で判っている人はたくさん居ますが、この境涯に本当に至っている人はほとんど居ないといっても過言ではありません。
「亦風流」「也風流」
耕雲庵英山老師はこの字をよく揮毫されておられました。どんな不風流なことでも「亦風流!」と言い切る。やせ我慢しているわけでも大目に見ているわけでもなく、それも亦風流!と文字通り心底思っているのです。とても難しいことです。凄いことです。恐ろしいことです。しかし人間形成の目指す先にはこういう境地があるのです。
お酒を召し上がって真っ赤な顔をして、「わしは嬶まんがいい!」と高言されていた声が心地よく耳に残っています。合掌
嬶まんがいい(その3)
JUGEMテーマ:禅
嬶まんがいい(その3)
丸川春潭
「嬶まんがいい」とは関西弁であり、「良い嫁さんに恵まれて運が良い」という意味であり、これを言い切る人の境涯についてブログを2回し、その第三回目です。
他人に対しても自分に対してもネガティブな面を拡大して厳しく見て行く人は、自分探しをする宗教的求道者が多いと私は見ています。そういう人が探していた求道の道を見つけたとき、それだけでネガティブな視点が相当緩和し、第一段の安心の階段を踏み上がることができます。
しかしここから和歌山の和尚のように嬶まんが良いと言い切れるところまですなわち100%の肯定にゆくには、禅による人間形成がどうしても必要です。
すなわち次のステップに行くには、見性して自己の中に絶対の自己をはっきりと見ることが必要です。これができると第二段階に登ることが出来ます。それは自己が大仏如来と不二一如であることを悟るのです。これによって当然、根本的な自己肯定がなされる可能性ができました。可能性というのは、法理的(理屈的)には100%肯定なのですが、現実にはその境地になっている期間が短い。すなわち100%肯定感の期間は一般的にはそれほど長続きしないのが実態です。
その理由は、この段階が見性入理の段階であって未だ見性の境涯が身についていないのです。すなわち見性した直後は、文字通り自己が大日如来になりきっており天地と我と同根を確信しており、その間は自分の未熟なことなど目に入らない状態です。そして山川草木禽獣虫魚悉皆成仏ですから、一見ですが100%嬶まんがいい状態です。この状態は三昧を通じて絶対の境地にどっぷりと浸かって居て、差別の世界が見えていない状態です。すなわち見性入理の段階は極めて偏狭な立場でしかないのです。これは自分一人では気がつきません。ここに正脈で明眼の師が必要になります。生命科学者の柳沢桂子さんも見性だけは独自の研鑽でなされましたが、そこから先へは誰もがそうなのですが自分だけでは自分の不十分さが判らないものですからそれ以上の向上は無理です。
臨済宗の正脈の師家の下に人間形成の修行をしている者には、師家がその偏狭さを改め修正するための公案を学人に与えて、少しずつ差別の妙所を徹見させて導くという次の第三段階へ向かって進むということになるのです。(つづく)
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