老師ブログ

人間禅の老師による禅の境涯からの便りです。
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2019.08.30 Friday

「座禅するから暇になる」

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「座禅するから暇になる」

丸川春潭

 前回のブログで、「座禅しないから忙しくなる」を書きましたが、「では座禅をしたら暇になるのですか?」と突っ込む人が居ましたので、返答の代わりにこのタイトルでブログを書きます。

 先ず、字のつくりですが、旁の意味はかぶせるという意味で、日へんがついて、所用の日時の上にかぶせた余計な日時ということのようです。

 意味を大辞林で見ますと、名詞(1)仕事や義務に拘束されない自由な時間、(2)休み・休暇、(3)主従などの関係を絶つこと。いとま。形容詞(1)仕事や義務に拘束されず、自由に出来る時間がある様。

 座禅をすると30分から45分の時間は仕事が出来ないことになります。

 時間に追われている現代のサラリーマンにとって、朝の出勤前にはこの1時間に満たない時間といえども貴重であり分秒で毎朝戦っているのにとんでもないというのが実態であり、そんな暇はないよ!が本音ですよね。

 また電話が鳴りっぱなしとか机の上に処理を待っている書類の高さを見ても、勤務中においてのこの短い時間といえどもこれまた猫の手も借りたい代わりようがない貴重な時間でしょう。

 アフターファイブはもう死語であり今ではアフターナインでしょうが、お客さん相手にしても上司相手にしても待たせるわけに行きませんし、そんな暇はありません!!でしょう。

 また逆に、定年になって毎日が日曜日になった途端に暇になりすぎてうつ病になる人もあるとか。

 また一時流行った言い方では、家庭の奥さん方にとっては元サラリーマン戦士も濡れ落ち葉だと云われていましたね。(判りますか?乾いた落ち葉であれば掃いても直ぐ集めて捨てることが出来るけれども・・・・、ということのようです。)暇を持て余して家で三食たべてゴロゴロしているからそんなことを言われるのです。

 現役時代は気の利いた秘書の作ったスケジュールに従うだけで一日は過ぎ、多くの部下が忖度で仕事を進めてくれていた。こういう人ほど、スケジュールも作ってくれない、忖度もないとなると、チコちゃんに怒られるようなぼおーと生きてしまうのかもしれませんね。

 

 人間と時間の関係は不思議な関係ですね。

 過去は済んでしまってもうないし、未来はまだなにもないし、あるのは過去と現在の接点である「今」だけしかない。

 しかし考える葦である人間は、過去にも未来にも拘束されてしまい、唯一存在している「今」に生きていない状態になりがちです。

 座禅をすると云うことは、「今」をしっかり取り戻すことです。

 座禅をすることによって、「今に生きる」がはっきり確保でき、過去にも未来にも煩わされることがなくなるのです。

 座禅をすることによって(前回書きましたが)、「忙しい(こころを亡くする)」という言葉と無縁になり、仕事に追われることがなくなり、余裕が出来て暇になります。

 また逆に、定年退職などして追いかけられるような仕事から解放され暇になった人が座禅をすれば、暇がなくなります。ここで云う暇は、「やることがなくて手持ち無沙汰」という意味です。

 座禅をすることにより、充実した「今」を持つことにより、やることが無限に出てきます。もちろん忙しいということはないけれども、充実した今を生きるということになります。

 繰り返しになりますが、総括して云えば、忙しい人が座禅をすれば暇ができ、暇な人が座禅をすれば暇がなくなるのです。

 

2019.08.29 Thursday

「座らないから忙しくなる」

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「座らないから忙しくなる」

丸川春潭

 現代は忙しい時代だ!と云う言い方に、ほとんどの人は異論なしでしょう。

 禅会の周辺で、「この頃、忙しいからしっかり座れていない。」という会話が聞かれますし、自分の中での思考も、「忙しいから座れないのも仕方がない。」という屁理屈がまかり通っているようにも思います。

 また一般的にも「忙しい」が社会的に認知され、一種のステータスにまでなっているのが現代社会とも云えます。すなわち忙しい人はよく仕事をしている人であり、忙しくない人は社会的に評価できない的なニュアンスがまかり通っているように思います。

 先ずは、この「忙しい」を禅的に検証しみたいと思います。

 忙しいという字は、立心偏すなわち偏が心で旁(ツクリ)が亡でこの字が構成されている。すなわち心を亡くした状態が忙しいということであり、この字の構成が「忙しい」とはどういうことかを全てを物語っています。

 すなわち現代はこころを失った人が多い時代だということになります。にもかかわらず忙しいと云うことが大きな顔をしてまかり通っているのです。忙しいことは、本来は恥ずかしいことなのに、忙しくないと恥ずかしいというところに、現代の精神的混迷の根源があると思います。

 ではこころを亡くさなかったら忙しくないのか?ということになりますが、もちろんYesです。掲題の「座らないから忙しくなる」は逆説的皮肉ではなく、心を亡くしているから忙しいのであり、心を亡くさなかったら忙しくない!のです。座れば忙しくなくなる!のです。この論旨にYesしますか?

 

 一国の宰相であろうが、定年になって毎日が日曜日の人であろうが、生きている人間にとって使える時間は全く変わらぬ24時間です。やらなければならないことがいくら多くてもこの時間をどう割り振りするか、何を優先にして何を割愛するかというだけの問題です。やらなければならないことができない場合にはどうするかと云うことの判断もそれを割愛することも対処の一つですが、後に回すとか誰かにお願いするのも対処の一つです。

 小生は、忙しいと思ったことはほとんど記憶にありません。少なくともこの数十年はないと思います。サラリーマン時代から人間禅にどっぷりになっている今に到るまで、半分冗談に暇だから何でも云ってくださいよ!で通して来ています。

 小生の対処の仕方において最初に考えるのは、自分しかできないこと・自分がやらなければならないこと・自分がやりたいことを雑多な懸案課題の中から選び、次にそれの処置しなければならない期限を考える。ここまでではあまり重要性については考えません。ただ処置するために時間的に重なる場合や重なる恐れがある場合に重要性の判断をして優先度を決めます。これで24時間以内に入ったことを片っ端から捌いてゆく、というのが最近のやっている実態です。24時間以内に入れなかったことに対しては次の日以降のことでの懸案メモは残すとしても出来なかったという思いはスパッと切ります。

 この一日の課程の中に忙しいという思いは入ってきません。処置し捌いてゆく中で、予想以上に時間が掛かり予定していたことができないことも結構ありますが、出来なかったという事態に対する処置はちゃんと打てば良いことであり、どうしてもやらなければならないことはほぼやれていると思っています。

 朝起きたときと寝る前に座ると云うことにしていますが、これもほぼ(98%以上)できていると思います。できなかった場合で一番多いのは、朝座の時間に面談が飛び込んでくる場合ですが、これも最近は、午前中のどこかで挽回する対応になってきています。宴会があって調子よく飲んでも夜座ができないことはほとんどありません。この朝座と夜座の間に小生の全ての活動が優先順位に従って詰め込まれており、楽しんでやっている訳です。

 特にと云えば、今日やらねばならないことは明日に延ばさないことを心がけています。【禅】誌の巻頭言の原稿が4ヶ月毎にやってきますが、言われた期限を越えたことは未だないと思います。ただ最近老人ぼけで、約束していたことをポロと忘れてしまっていたと云うことが多くなり、皆さんに迷惑をかけているとは思います。

 サラリーマン時代は特に若い下積みの頃は、上からの指示で重要度も優先度も決められ、それだけで仕事がオーバーフローすることもしばしばありましたが、そういう場合は率直に優先度を上司と相談して決めればいいことです。小生は上司も部下も巻き込んで楽しんで仕事をしていましたから、現役時代も忙しいと感じたことがなかったのだろうと思います。

 これらの忙しいという言葉がない背景には禅で云う、段取り・真剣・尻拭いに努めていると云うことと、一行三昧が身に付いてきているのが効いていると思います。前者は法話等で先輩方がよく話されていることでこの解説は割愛し、後者について少し注釈します。

 一行三昧の一行は、今行っていることであり、今やっていることに三昧で打ち込んで行き、その他の念慮を差し挟まないということです。人間は考える葦ですから、何かやっている最中でも過去のことから未来のことから今やっていることと関係のないことについつい思いを馳せたがるものです。一行三昧を純粋に行うことは難しいけれども素晴らしいことです。すなわちこの一行三昧の一日は、忙しいとは無縁になります。

 この一行三昧が出来るようになるのが人間形成の修行なのです。そしてその基本が、一日一炷香にあるのです。少なくとも一炷香(45分)座禅をして、その定力(三昧力)を付けその日一日の一行三昧を実践するのです。

 きちっと一日一炷香が出来れば、一行三昧になり忙しさはなくなる。座らなければ、今やっていることに集中できず忙しくなるのです。重要な仕事にたずさわっている人ほど寸暇を作って座禅をしなければならないのです。座禅をしないから忙しいのであり、座禅をすれば忙しくなくなるのです。

 

2019.08.23 Friday

「死」が軽い現代! 〜〜敬老の日に因んで〜〜

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「死」が軽い現代!

〜〜敬老の日に因んで〜〜

H30.8.23 丸川春潭

 今の子供達は核家族になっているために家族の死別の悲しさを知らないで大人になる場合が多くなっている。私は父母の親(お爺さんお婆さん)が死んだときの父母の涙と悲嘆を子供心に強烈な印象で覚えている。それは大人になってからの実の父母の死よりも鮮明で強い印象になって残っている。それは子供の時の方が死の悲しさを感受性強く受けるからなのであろう。

 肉親の死でもって「人間の命」を肌で感じ、肉親の死別によって深い悲しみを知る。三代、四代の大家族は、必然的に祖父母、曾祖父母の死に遭遇し、家族が死別を悲しむ様子を幼いなりに受け止める貴重な経験に遭遇することになる。

 幼少期に人に死があり、死別がどんなに悲しいことかを知ることにより、「命の大切さを知る」ことになる。これはどんな教育にも勝る大切なことである。また人間にとって悲しいことを知ることは、嬉しいことを知ると同じようにその人の人格形成にとって極めて重要である。

 現代の幼児期から学童時代の子供達は、ゲームにどっぷりであり、そのゲームの仮想社会で悲しみの伴わない死を繰り返し繰り返し日常茶飯事的積み重ねて大人になっている。

 その結果が、横須賀の施設の大量殺戮や子供や親を殺めることに繋がっていると考えるのは短絡であろうか?

 また、自死者がやっと年間3万人から2万人台になったとは云え、阪神淡路大震災の死者数6千数百人はもとより東日本大震災の死者数1万5千人強よりも多くの人が毎年 掛け替えのない命を自ら絶っている。弱者を殺めることと、直ぐに切れやすく自死してしまうのは、根っこは同じであり、命が軽い現代社会の病根から来ているのではないか?今の世の中は実に人の命の尊厳が希薄な時代である。何とかしなければならない。

 高年齢社会になってきているが、孫や曾孫と一つの屋根の下で住んでいる老人は少なく、独居老人が多くなっている。そして一人で亡くなって行く人も多い。樹木希林さんは癌の闘病で入院していたけれども死ぬときは家に帰りちゃんと孫に自分の死を見せて亡くなられたそうであるが、マクロ的に云えば、ほとんどの老人は老人の果たす最後の役割を果たせていない。

 次の世代に対する最大の教育として、「人の命の大切さ」を死別の悲しさから示す「死に様」を前向きに老人は意識しなければならないと思う。もちろん個人的な努力のみならず社会的にも「死別の悲しさ」をもっと大切にし、そして人の命の大切さ重さを日常的に感じられる人間味の豊かな社会にして行かねばならない。

 

2019.08.16 Friday

座禅と追憶

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座禅と追憶

丸川春潭

 ネット布教のリーダーから、座禅という文字をブログにできるだけ入れるようにといわれましたので、座禅を入れたタイトルにしましたが、昨日の日峰さんの「追憶はいらない」を読んで考えたことは云うまでもありません。できるだけ「座禅」を使います。   

 「追憶」の記憶は薄いのですが、同じような光景で、「カサブランカ」で元カレのハンフリーボガードが、やっと巡り会えた元カノのイングリッドバーグマンが幸せな家庭人になっているのを知って、後ろ向きに手を振って別れる最後のシーンは嗚咽するほど泣きました。男気の美しさ・厳しさ・辛さに感動したのでしょうね。やはり追憶はいらない!でしょう。

 日峰さんの過去を引きずらないで、今に集中するはまさに禅者の正当な着眼です。

 この観点はそれはそれとして、自分にとって返して反省してみて、「追憶もいいものだ!」を天邪鬼的に考えてみたいと思います。

 磨甎庵老師に叱られ100日間参禅不可!をみんなをわざわざ集めて宣告され、3回の摂心会を参禅なしで座禅だけで過ごしたことを夏が来るたび追憶します。

 初恋に破れた青春の追憶もあります。

 自分のせいで人の心を傷つけた悔恨はしばしば追憶してしまいます。

 追憶にはほとんどがつらい追憶なのですが、「追憶もいいものだ!」と思えるのは何故か?です。

 座禅を長く続けていると、追憶しても今に集中するという肝心な点はぴたっとして動かなくなるものです。

 追憶が「今」の足を引っ張ることはない。過去の悔しい自分を肯定的にしっかり受け入れてしかもそれに「今」が引きずられることはない。

 座禅を長く続けることによって自分に定点ができ、過去の追憶を余裕を持って振り返り見られるからでしょうか。

 掛け替えのない二度とない「今の立ち位置」がしっかりしてくるのでしょう。

 座禅的見方は、失敗を繰り返し悔恨を積み重ねた結果としてある現在の自分をそのまま掛け替えのないものとして看ることです。

 それらは失敗であり悔しいことではあるが、忘れたいとは決して思わない。

 それは好きとか嫌いとかではなく貴重なもの、一種の勲章というか財産としてとらえているのかもしれない。

 座禅をすることによって、むしろ過去にいろいろあったものが、今を深く味わいそしてこれからの行動の糧になることもあり得るかなです。

 いろいろ考えを巡らせましたが、今に焦点があるということが肝心であり、この点で日峰さんと結局は同じです。

 お盆休みの昼下がり、忘れてかけている亡き人達の追憶を探すのもいいかな。(了)

 

2019.08.15 Thursday

続・敷居の高さ

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続・敷居の高さ

丸川春潭

 在家禅においては禅修行への入門の敷居を低くしなければならないということを前のブログで書きました。その補足が少しありますので続を書きます。

 敷居を低くしてどんなレベルでもどんな考えをしていても本人が禅修行をやりたいんだと明確に意思表示すれば、全てしっかり受け入れるのが我々の変わらぬ態度です。そして個々人の意向を尊重しつつその人の器量を勘案して、世のため人のために役に立つ人物になるように指導育成するのが人間形成の禅であり在家禅の使命です。

 敷居を低くすることをもう少し仕分けて見ますと、一つは道を求める志がそれほど高くなくてもと云う意味があり、もう一つは数息観座禅が未だしっかりできていないと云う意味もあります。後者の数息観座禅が未だしっかりできていないレベルでもというのは小生になってからの特徴と思います。小生が入門した頃のこれに対する敷居の高さは、一週間の摂心会をしっかり3回経験(約1年間)し、日常の静座会にしっかり参じている者という入門における内規的なものが厳密ではありませんでしたがありました。小生の判断は、現代の若者にこれを適用するのは敷居が高過ぎでありこの基準ではほとんどの人は来なくなってしまうと考えました。 

 現代の若者は都会ほどそうですが、ネットで検索してくる場合がほとんどになっており、座禅の経験も全くない若者がネット情報を頼りに道場に足を運んで来るのです。この若者の最初の応接は極めて大切であり且つ大変難しいものです。したがってできるだけ小生がこの任に当たることにしています。(この観点はかって第二世総裁の妙峰庵老師も「新到が来たら儂のところに一番に連れて来い!」と云われていました。)この貴重な機会を生かすために、師家面談を明確化し原則にしました。

 この師家面談で、それまでに座禅経験がない人であってもやりとりの中で判断して入門を許す場合もあります。これは敷居が低い典型的な例になりますが、その真意は初めての数息観座禅の指導も師家がやるということであり、数息観座禅が確立してから公案修行を始めるということではなく、数息観座禅と公案修行を平行して師家が両方を指導するということです。ここまで明確に意図して敷居を低くしているのです。そのために数息観座禅の指導ツールとして数息観評点基準と評点記録も開発しました。

 師家が学人(入門してきた人)を室内(参禅室)において公案修行の指導・育成するやり方は、師家それぞれの人柄・家風を反映して千差万別であります。小生は生涯3人の師家に師事(参禅し指導を受ける)しましたが、その指導の仕方は三人三様でした。

 小生の学人に対する指導の仕方は小生が参じた三人のお師家さんのいろいろな点を少しずつ取り込み吸収し、師家15年にして少しは自分流が確立してきたかと思います。人様に云うほどのことではありませんが、敷居の高さとの関係で少しだけ書きとどめておきます。

 敷居を下げることに徹した在家禅で且つ世界楽土の建設を大目標に掲げた人間禅が200則の公案を駆使してあらゆるレベルの学人を学人毎にどう指導し道力・道眼を付けて世に送り出すかというマクロ設計であります。

 古来より禅門ではこの人物育成のマクロ設計として、見性入理・見性悟道・見性了々の三段階をイメージしています。これに沿って云えば、見性入理は瓦筌集の大体半分の100則までで、その人の個人的な独立自尊の境涯をつくる段階です。これを昔から自利の完成としています。そしてここまでで参禅弁道の修行は終わってあとは数息観を中心にした修行になってもいい人が何割かはいます(勿論本人の意向を尊重しますが)。逆に言うと難遭遇のこの仏縁に恵まれたのであるから何が何でもここまでは修行を継続して到達していただきたいと思うところです。そしてここまではできるだけ丁寧に導く指導を心がけています。すなわち悩み苦しんだ状態から脱却ししっかりと自利を完成するこの段階は人間形成の禅の中で救済の趣を持つところと考えています。

 次が見性悟道ですが、瓦筌集の後半100則から150則くらいまでがこの段階です。この段階までで生き馬の目を抜く実社会でどんな逆境にもへこたれず、どうどうと個性を発揮して活躍できる人間力を身に付けます。誰でもがここまでとは考えておらずある意味エリートの育成の趣があります。そして在家禅が人間形成を標榜し人づくりをして世に送るというのはここまでで十分だと考えています。有力(うりき)の人物はここまでは現役の間に到達して実社会で活躍して欲しいと思います。小生がこの段階で一番力を込めているのが142則「五蘊皆空」の則であり、先人の誰よりも綿密に厳密に徹底させているつもりです。

 最後の見性了々は、150則から200則までおよび200則以外の公案と見直しの研鑽になり、この段階は社会で活躍してもらうと云うより、師家および特任布教師として人間禅の精神を挙揚することと人間禅に滴々相承で伝わった法の深さ高さを次代に繋ぐための人物づくりになります。この段階では兎に角厳しくに徹して説得するのを旨とし、宗旨を明確に掴まないと絶対に許さないことを徹底しています。特に嗣法者の打出という点になると、高い敷居で入門者を厳選して伝法を守ってきた明治以前の臨済僧堂と全く同じやり方になります。

 入門の敷居を低くして縁ある人を全て受け入れそしてそれぞれの器量に応じて人間形成を積ませて世に送り出す。社会で活躍した後にその実社会でもまれ錬成した経験も踏まえて見性了々の厳しい修行を徹底する。この見性了々の深さ高さには最初の敷居の高さは関係ありません。すなわち低い敷居で入った人物でもその到達した境涯はかっての僧堂の嗣法者の境涯と全く変わらないということです。最初の敷居の高さの違いは最も深い人間形成の境涯には関係ないということですが、最初の敷居が低くかったからこそここまで至り得たということも大いにあり得るのです。(了)

 

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