情報依存症
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情報依存症
丸川春潭
昨日(9月19日(木))から、名古屋支部・豊橋禅会・知多禅会の合同摂心会を南知多の大宝寺を拝借して開催しています。
このお寺はかって尼寺であり、しかも縁切り寺という歴史を持っていたそうですが、現在は普通の曹洞宗の末寺となり、元サラリーマンの男性住職が近辺の2,3のお寺と掛け持ちで務められています。そして最近はほとんどないようですが、かっては研修会とか林間学校にも使われていたようで、台所とか風呂とかのユーティリティを含め摂心会には最適の設備があり、擇木道場よりもゆったりと贅沢に使えるところです。
ただ最大の特徴であり問題なのは、電波が届かないと云うことです。今どき日本にそんなところがあるのかと言われますが、携帯は勿論のことメールを含めてインターネットがまったく使えないのです。数百メートル山を下りて民家のあるところまで行けば、電波が入ってきますので何とかなると云えば何とかなることなのですが、こういう環境に身を置いてはじめて現代という人間社会の特徴をつくづく思い知らされている次第です。
と云いますのも、小生常々「現代は人類が未だかって経験したことがない情報過多の社会に生きており、それから来る精神的スレレスをキチッと解消する方途を自分でしっかり持っておく必要がある。すなわち何らかの精神的ストレスをレリースするものを持ちそして日々行じていなければ、自分の(人間の)自然な精神状態を保てない現代という時代なのだ・・・・だから数息観座禅などの・・・」と持論を展開しています。
だったらまさにここは希少なそして貴重な情報レスの地域であり、静かな時間がここにあると云うものなのです・・・が、しかも朝には朝刊は届は届けられるというのに、しかしそう簡単では無いのです。
今朝方は、車で5分ほどの喫茶店に連れて行ってもらってコーヒーを一杯注文しながらスマホとコンピューターに昨夕からの情報を仕入れ、また電話を数本やりとりして来ましたし、午後の作務が終わってからも車で10分ほどドライブして来ました。夕食後も散歩がてらちょっと山を下りようかと思いましたが、雨がひどかったのでやむなく断念しました。
要するに普段のリアルタイムの情報の受発信ができないとなると不安というか落ち着かないのです。ほとんどがくだらないと云うか一日くらい遅れてもどうってことのないものだと判っていながら、もしもとかを考えたりして、くだらないと云うことを確認しなければ落ち着かないのです。
情報過多であり精神的ストレスだと云いながら情報のある生活がノーマルであり、情報が取れないとなると情報に渇望してくるのです。まさに情報中毒であり、情報依存症になっているとつくづく思い知らされたわけです。
そしていままでの言い方とは真逆の方向からになりますが、余程深い三昧行が一日に一回はなければならないと思った次第です。(このブログも、明日喫茶店が開くのを待ってコーヒーを飲みながら、風印さんに送るつもりですw。)
囲碁を楽しむ人は囲碁が上達しない!
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囲碁を楽しむ人は囲碁が上達しない!
丸川春潭
楽しいことは大体において良いことですよね。
人間禅のモットーは「正しく・楽しく・仲よく」です。
ただ、禅による人間形成の修行が楽しいかと問われると、なかなか答えにくいものがあります。
若い頃、師事していた囲碁の先生(関西棋院の亀山七段)に囲碁の仲間が、「囲碁をやっていて強くなる人と、いつまでも強くならない人といますが、囲碁が強くなるかならないかの差はどこにありますか?」と問うたとき、先生が「いつまで経っても碁が上達しないのは、囲碁を楽しんでいるからです。強くなりたい人は囲碁を楽しんではいけません!」と答えられました。その言葉は厳然としたもので、今でもはっきり覚えています。
「禅によって人間形成を積めば、人生を楽しみ味わうことが出来るようになる。」とは云えますが、人間形成の修行というものは元来、自己の殻を破る修行ですので、厳しく自分に妥協せず克己が必要であり、したがってその途上において楽しいと云うことは本来そぐわないことでしょう。
亀山七段の教えを禅的に解釈すれば、囲碁を楽しむと云うことは、勝ち負けという相対の場において勝った優越感を楽しみとしているのであり、囲碁道という人間形成の要素が欠落していることを突いているのです。囲碁の上達も負けを反省し、克己し、苦しんで研鑽しなければ自分の棋力を向上させることはできないということでしょう。
もちろんプロのように棋力の向上一筋ではない我々アマチュアにとっては、ひとときの指談(残月軒道聳さん命名の造語)を楽しむ囲碁はあって良いのですが、棋力を上げるとか囲碁道として囲碁を通じて人間形成をすると云うと、勝ち負けの楽しみだけでは駄目だと云うことでしょう。
新しく禅門をたたいて来られる方で、公案修行を楽しんで居るのではないかと思われる方がたまに居られます。われわれは来る者は拒まず去る者は追わずで、こういう方も勿論受け入れます。ただ若干困るのは、摂心会や参禅会などで大部分の人が公案の工夫や正念の工夫で自己の内に向かって集中している場にあって、楽しげに周りの人に話しかけられることで、そういう場合はちょっと控えて下さいと云わなければなりません。こういう人は公案修行を知的興味の対象として捉えているのでしょう。
磨甎庵劫石老師は摂心会や参禅会で、「無駄口をたたくな!」「白い歯を見せるな!(大口開けて笑ったりしゃべったりするなということ。)」と常々厳しく仰っておられました。
楽しんで修行するに超したことはありませんが、そして楽しんでいるから人間形成が進んでいないとは必ずしも云いませんが、長い目で見ていると楽しんで修行をする人は、得てして長続きがせず途中で挫折してしまう場合が多いものです。公案が進んでいるときは知的興味も可能でしょうが、公案は必ず何度も壁に当たるものです。そうなると知的興味だけでは続かなくなります。楽しくなくなっても自分を向上したいという本来の公案修行の軌道に、知的興味の軌道から転換しなければ修行は継続できません。
以前にも申しましたが、修行の最初はどういう動機でも良いと耕雲庵英山老師も云われています。修行を継続する中で段々と修行に向かう志が本物になって行くのを見越されて言われたのだと思います。継続は正しくなければ継続できないし、継続しているのはその取り組みが正しくなっているからなのです。
「停電とロウソクの火」
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「停電とロウソクの火」
丸川春潭
15号台風が過ぎてから、三日目になっても未だ50万戸の停電が続いているとのこと、被災者の方々にお見舞い申し上げます。
潮来市の拙宅も台風の進路にあたり、風害が隣近所と同様大分やられましたが、一番困ったのが停電でした。冷凍物が一度に溶けてどう始末するかを家内は心配しており復旧が時間の問題でした。そして何より猛暑のぶり返しの中でエアコンが効かないのにはジリジリとして耐えていました。
幸いこの地区は12時間くらいで電気が回復して安堵しました。久しぶりに電気のありがたさを痛感しました。
朝6時過ぎに激しかった暴風雨の風向きが急変しまた風も幾分か収まりました。起き上がって停電に気づきましたが、未だ直ぐに見廻る状況にもないので、いつものように朝座と朝茶をロウソクの灯火のもとでしましたが、久しぶりのロウソクの灯火に魅せられました。
電灯と違い、ロウソク(蝋燭)の灯は暗く、そして揺れるのです。灯が揺れることにより影が目立ちだすことにも気が付きました。
白い個体の蝋が温められて透明な液体になり、ロウソクの芯を伝って燃えだし辺りを照らしそして気体となって消えて行く。
ロウソクの灯を見つめているとそれだけで絶対の切り口に入ってゆく。
ロウソクは人間の一生の全貌をそこに見事に展開して見せてくれている。
ロウソクの灯の下で点てるお茶は茶筅を振る影も一緒に主客一味となる。
茶事の一つに秋の夜話という茶席があり、電気を消してロウソクだけでやる茶会ですが、何十年か前の夜話茶席を思い出しました。
三日も停電で難儀をされている人には申し訳ありませんが、ひとときのロウソクの灯を楽しませて頂きました。
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