芭蕉『笈の小文』より、その2
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芭蕉『笈の小文』より、その2
杉山呼龍
『笈の小文』とは、芭蕉の俳文のうち『奥の細道』とならんで重要なものである。それは「風羅坊」の名乗りがあるからである。芭蕉は仏頂河南禅師の嗣法者である。『笈の小文』の旅の出発は芭蕉44歳の10月である。この「風羅坊」の号はそれ以前には使われておらず、仏頂が芭蕉に嗣法の証として与えたものであろう。この『笈の小文』は、芭蕉にとっては特別のものであり、生前密かに門人の河合乙州(おとくに)に託し、死後15年後に出版されたものである。
何の木の花とはしらず匂(にほひ)哉
これは『笈の小文』の中にあり、前書きとして簡単に「伊勢山田」としか書いてないが、伊勢神宮に参拝した時の詠である。別の真蹟写しには精しい前書きがあって、貞享五年二月末伊勢に詣でていること、それが五度めであることが書かれている。それに続いて「かの西行の『かたじけなさに』とよみけん涙の跡もなつかしければ」とあり、「かの西行の『かたじけなさに』」とは、西行が神宮に詣でたときの歌
何事のおはしますをば知らねども かたじけなさの涙こぼるる
を指している。芭蕉はこの歌を思い起こし、西行の涙を偲んで詠んだものである。芭蕉の「何の木の花とはしらず」に対応するのが、西行の「何事のおはしますをば知らねど」の部分である。西行のこの歌は、神宮参拝者としての素朴な感情を表しているが、その感情が涙こぼるるまでとは歌詠みとして、また仏道修行者としてきわめて素直な心情を持っていたことを示すものであろう。芭蕉の俳句の解釈を、西行の歌を参考にして考えると一段と味わいが深くなるので、そのことを次に示そう。
西行は晩年の63歳から7年余を伊勢に草庵を結んで過ごしている。当時起こった源平の合戦を避けたとも言われている。伊勢神宮ないし神道に関して理解の深さを示す西行の歌に次のものがある。
深く入りて神路(かみじ)のおくをたづぬれば また上もなき峰の松風
これは「大日如来の御垂跡(おんすいじゃく)をおもひてよみ侍る」と前書きがあり、大日如来の本地垂跡を意識して詠んでいるが、そこには神の道を追求したとき、この上もなく尊い存在を峰の松風に譬えて暗示している。松は「永遠」、風は「空」と考えれば、ここには仏教の本質、絶対性を示していると考えられよう。また、それが「神路のおく」だと言っているので、同時にそれが神道の本質であるとも言っているのである。神仏習合とは形に現れた理論を言っているのであって、西行はこの歌によって神道の本質も仏教の本質も同時に捉えていると言えるだろう。
また、西行の仏教理解を表すものとして、別の和歌を紹介しよう。
何事も空しき法(のり)の心にて 罪ある身とはつゆもおもはじ
これは前書きに「心経」とあり、般若心経を和歌に詠んだものである。西行の生きた平安末期は、恵心僧都源信の『往生要集』にある通り、六道輪廻の地獄が強調された。当時の仏教の布教方法は、地獄の恐怖心を強調して、その後に極楽往生を求めさせるやり方であった。西行の和歌に、地獄絵を見て詠んだと思しきものがいくつかある。地獄に行くのは罪人であるが、この和歌では罪人であることを否定している。しかし、西行自身以前にその影響下にあったことを示している。「空しき法の心にて」と初めにある通り、「空しき」とは般若心経の「空」のことであり、それを「何事も」と言っていることから、森羅万象に「空」を捉えていて、かつ罪人として六道に輪廻をすることを否定していることから、
般若心経の本質を適格に捉えていると言えるだろう。
このように西行の歌は深く大乗仏教の本質に立っているので、芭蕉の俳句もそれに合わせてつくられている。先に示した「何事の・・」の和歌に対して改めて、最初の芭蕉の俳句を見てみると、先に述べたように芭蕉の「何の木の花とはしらず」に対して、西行の「何事のおはしますをば知らねど」が対応している。西行は、伊勢神宮を前にして何とも言いようのない神々しさに打たれて詠んでいるが、尊くて尊くてこれ以上ないほど尊いがその存在が自己にとって、何があるかわからないと言っているが、翻ってそれを自覚的認識的に表現したと考えれば、その本質は「仏性」とか「空」とか、と言い表すしかない。芭蕉もそれを解かって、何らかの「木の花」を「しらず」と言って表したが、それは本来表現できるようなものではない何かを表しているのであり、「匂い」として感官に訴えて存在することは解るが、「しらず」と言いながら、その意味するところは、あらゆる存在、森羅万象をあらしめている「大乗仏教の真理」であると表現しているものなのである。このように芭蕉の句は、改めて西行の歌を考え合わせる時、たいへん深い世界を表していることがわかるのである。
新型コロナと共生する時代の摂心会
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新型コロナと共生する時代の摂心会
稲 瀬 光 常
人間禅では、この3月から5月にかけてほとんどの支部や禅会において摂心会が中止された。5月の本部行事が全て中止されたのも、人間禅創立以来70年の歴史の中で、はじめての出来事であった。
これは言うまでもなく、新型コロナの日本全国での爆発的な感染が予測される中で、国が緊急事態宣言を発出し、国民全体に不要不急の外出を自粛するよう要請するという前代未聞の対策に適切に対応すべく、各支部や禅会が摂心会を中止したものであり、極めて妥当なものであった。
幸いにも、5月も下旬を迎へた現在、我国においては新型コロナの感染は低いレベルで押えられ、首都圏と北海道を除く地域においては、緊急事態宣言は解除され、国民生活を日常に戻す活動がはじまっており、早晩首都圏や北海道もこれに続くものと思われる。
このような状況認識の下で、人間禅の活動、特にその中心をなすところの各支部、禅会における摂心会の再開をどのように行っていくかということは、今私たちが対処しなければならない最大の課題である。
先般、人間禅の本部より摂心会を再開するに当ってのガイドラインが示されているので、これをベースとして各支部、禅会で更に工夫をして感染予防に万全を期しつつ実施していくことになると思われるが、会員の中には、性急な再開に疑念をもつ向きもあるかも知れないと思う。
万に一つも自分が感染しては、社会的な立場上大変なことになるので、ワクチンが開発されて全く問題がなくなるまでは、参加を見合わせたいと思う人や、感染すれば重篤になり易いと言われている持病を持っている人の中には、もっとはっきりした特効薬でも見つからない限り、参加を見合わせたいと思う人もいるのではないかと思われる。
そのように慎重な対処をしようとする人に対し、単なる精神論を振りかざして会員ならば当然摂心会に参加すべしと強制することがあってはならないことは言うまでもない。
最終的には、会員一人一人がどのように判断を下すかにかかっている訳であるが、私たちは既に科学的知見に基づいて感染拡大期においては摂心会を中止するという決断をもって対処してきた。次は感染減退期における適切な対応とは何かということが、工夫されねばならない。新型コロナは正しく恐れねばならないとよく言われるが、感染の危険がかなり低くなったにも拘わらず必要以上にそれを怖れて、人間禅の生命とも言うべき摂心会の開催に二の足を踏み、いわゆる角をためて牛を殺すことになってはならないのではないかと思う。
新型コロナはこれを完全に駆逐することは困難で、如何にして共生していくかを考えなければならないことが指摘されており、将来改めて感染が拡大する可能性も否定できない訳で、その折には国や都道府県の施策もにらみながら、再度中止する決断が求められる場合もあるであろう。しかし現状においては、人間禅の各支部、禅会は如何にすれば安全な摂心会を厳修することができるかという前向きの姿勢で、摂心会の再開に取り組むべきときではないかと思う。
状況を総合的に観察し、これに的確に対応するのは、正に禅の修行者としての私たちの力がためされる法戦場裡というべきである。
五 戒
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五 戒
人間禅には、五戒があります。
一、嘘をついてはいけない。
二、怠けてはいけない。
三、やりっぱなしにしてはいけない。
四、我儘してはいけない。
五、人に迷惑をかけてはいけない。
五戒は、やさしい表現で誰でもわかる言葉ではあります。しかし、日常で本当に実践できているかと省みれば、その難しさに気づきます。平生普段の生活のなかで、これ以上の修行の実践基準はないと思います。
毎日の反省の糧として、五戒を実践できるように工夫をしています。現実に実行することが大切です。中々どうして慚愧の極みです。
佐瀬霞山拝
時間が盗まれる?!
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時間が盗まれる?!
丸川春潭
5月16日(土)読売新聞編集手帳に、次のような面白くて深い記事が載っていました。
「ドイツの児童文学者エンデの童話『モモ』に時間を盗む男達が出てくる。「時間を貯蓄すれば命が倍になる」と偽り、人々は時間を預けてしまうのだ。◆理髪店の主人がはたと気づく。客との会話をやめ、急いで仕事を済ませるようにしたところ、ちっとも楽しくないことに。たわいもないおしゃべりの時間が仕事を豊かにしていたのを自覚するのだが、今これに似た喪失感を抱くのは理髪店業の方々ばかりではあるまい。◆コロナ対策で抑制を求められる生活習慣の一つに、おしゃべりがある。複数で話すときはマスクを着け、距離を空けましょうと。◆恐らく、そこまでして語らっても以前の心地はないだろう。最近、感染症の拡大以前に製作されたテレビドラマを見てドキッとすることがある。オフィス、居酒屋、公園・・どんな場所であろうと、登場人物等が顔を寄せて会話する場面にいちいち胸がざわつく。◆今の我慢が本来めざすべきは、楽しくおしゃべりのできる「3密」に戻ることなのに、忌むべきもののように錯覚している。おかしい。ウイルスに豊かな時間を盗まれてしまったからだろう。」
これを読んだ最初は、時宜を得た面白い切り口だくらいな感じでしたが、その内にだんだん人間の本質に迫る深い話ではないかと何回か読み直しました。「客との会話をやめ、急いで仕事を済ませるようにしたところ、ちっとも楽しくないことに気づき、たわいもないおしゃべりの時間が仕事を豊かにしていた」の下りです。
われわれ人間形成の禅の会において、またその傘下の支部や禅会において、“楽しく”とか“仲よく”ありたいと思っているのですが、なかなかそれが難しいと最近思っています。その難しさに対するヒントが、この理髪店主の感覚を大事にすることにあるのではないかとふと思った次第です。
耕雲庵英山老師は、この支部は団結心があり仲が良い!と小生に説明されたことがありました。磨甎庵劫石老師は、この支部は冷啾々として冷たい支部だと眉をひそめ嘆かれたことがありました。小生は、担当する支部や禅会において、新到者が来たときに自分もこの仲間に入りたいと思うような雰囲気を持つ支部や禅会づくりをしようではなかと最近よく話しています。ここで肝心なことはそこに入れば楽しい仲間の一員になれると感じられるかどうかです。
この“楽しい”が問題ですが、立教の主旨の「正しく・楽しく・仲の良い」の深い法理を含んだ「楽しい」ということと直結してしまうと冷啾々に陥る危険があります。理髪屋としての仕事は時間が掛かったとしても、たわいのない会話によって生まれてくる“仕事の時間を豊かにする”観点で、“楽しさ”を考えてみる必要がありそうです。
耕雲庵英山老師は、摂心会の円了後には必ず酒宴を持たれていましたが、まさにたわいもない会話の類いでしょうが、老師はこのたわいもないことを大切にされ、時には裸になってひょっとこ踊りもされました。今から思うとそのたわいなき踊りに寒毛卓竪(かんもうたくじゅ:恐ろしさにぞっとするの意)です。
最近の若者は、ゴルフも麻雀も一杯飲みもパスだそうです。しかし、スマホでの人との繋がりには敏感であり、精神的孤独に怯えているのが実態であると社会学者は分析しています。それは人との繋がりの中での自己認証を求めているのかも知れません。スマホの会話の内容にしてもまさに“たわいもない会話”でしかないのです。それでも自己認証になっているのかも知れません。
小生が新到者として岡山支部の摂心会や座禅会に参加していたころの岡山支部にはその後十年くらいでお師家さんになるような方3名を含め、味のある旧参の方が何人か居られました。これは後から考えて有り難かったのかと思います。最近の支部や禅会の中には、修行歴10年以内の修行歴の浅い人だけしかいない支部や禅会がかなりありますが、そういう所は師家が何かと出向いていって、難しい話ではなく世間的な会話をすることも支部づくり・禅会づくりには必要なのかも知れません。
たわいのないお客さんとの会話によって、仕事の時間が豊かになる観点は、支部づくりだけに留まらず、人間が社会で過ごす一生における意味を示唆してもいると考えます。難しく法理的に云いますと、楽しさとは自己に合掌することであり、仲よくとはお互いに合掌することであります。たわいもなき会話の根底にはやはりお互いを認め合いまた認められた自分の存在を認識するということが、無意識に流れているのでしょう。だから豊かな時間を感ずることができるのです。人間社会にしても家庭にしても効率だけではなく無駄やたわいもないものがなければ面白くも可笑しくもないのでありましょう。
最初に掲げた編集手帳の締めくくりは、「おかしい。ウイルスに豊かな時間を盗まれてしまったからだろう。」でしたが、人ごとではない!我々人間禅の活動において、また一回しかない自分の人生において、「豊かな時間」を他に盗まれたり、自分で粗末にして亡くしたりすることがあっては、これは申し訳ないことです。ご用心!ご用心! 合掌
コロナ・パンデミックと禅(4)
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コロナ・パンデミックと禅(4)
丸川春潭
国民の多くがstay homeしただけで、多くの失業者が発生し多くの路頭に迷う人が出てしまう。車の販売が減り自動車会社(トヨタ)の営業利益が80%下がる。車が売れないと小生の縁のあった製鉄会社の高炉が次々に送風停止に追い込まれる。高炉が止まると製鉄所の下工程の多くが連鎖的に止まることになり、製鉄所本体よりも多い従業員を抱える下請けに激震が及ぶ。そして製鉄所を中心にした街の賑わいが消えてしまう。お花屋さんから物づくりの大会社まで、小学生からお年寄りまでの国民全体を巻き込んだ恐ろしい未曾有の社会実験が、日々目の当たりに展開して行くこの頃である(5月13日)。
1.コロナ騒動を通じて見えてくる日本の特徴
日本の政府のアクションは外国のような権力による強制ではなく、罰則のない自粛要請だけなのに、外出が激減しコロナが終息して来ている。しかも欧米の感染発生人数や死者数は50〜100分の1と低レベルに押さえ込めそうである。これは世界的に見れば、あり得ないことではないか? 規制も遅く緩くても粛々とコロナ対応が市井の隅々で実践されたからである。東日本大震災後の日本人の整然とした災害対応の態度に、世界のマスコミが驚愕したと同じ状況がまた再びここでも出ている。辛口ジャーナリストの門田隆将のTwitter(5月9日)では、「医療従事者の使命感と気迫、国民皆保険を成し遂げた先人、世界に冠たる衛生観念、新薬開発への科学者の執念、不安の中でも我慢と辛抱で自粛に従う精神力…コロナ禍が過ぎ去った時、世界は日本の真の力に驚嘆するに違いない。5月末まで精一杯の闘いを。日本人はやる時はやる。」には共感し、いいね!です。
しかしなのに、依然として自殺者の数は世界のトップクラスであり、また日本人は自分に対してまた国に対して自信が持てない(参考情報1.)のはどこから来るのか?
そして自国内での自虐とも云えるコップの中の諍いが絶えない。すなわち、コロナが中心の国会審議のレベルの低さは目を覆うばかりである。特に野党は政府を追及して選挙の受けを狙う質問姿勢が目に付き、云っていることの中身は重箱の隅ほじくりに終始している。SNSにおいて党利党略優先でコロナから如何にして国民の命を守ることを後回しにしているとの酷評メールが炎上している。まことに残念なことである。同じようなことが朝日系マスコミのねじ曲げを含むアンフェアな報道にも辟易である。世論調査に出ているように政権への不満を増強させている成果は出ているのでしょうが、自分たちの支持率もどんどん減らしている状況は、まさにコップの中の些末な争いを国会で代議士連がやっている。これもまた日本である。
2.コロナ終息後の社会はどうなるのか、どうなるべきか?
このコロナ後の世界は決して元通りにはならないと云われている。もともと経済を中心にして波乱含みの現代社会(参考情報2.)であるが、それがこのコロナショックでどう変わってゆくのか?どう変わるべきなのか?
5月11日7時のNHKラジオで、全国的にいろいろな形のNPO的助け合いの活動が草の根的に出てきているニュースを聞いて清々しい朝になった。マイケルハート(米国、思想家)は中間層の中からの“common”の台頭が次の社会を切り開くと云っている(参考情報3.)が、その萌芽が既に日本でも出てきているのを感じた。
フランス思想家・経済学者ジャック・アタリ氏は、アメリカやブラジル等に見られるように中央集権が強まり、権威主義にシフトするのではないかと危惧している。そしてアタリ氏は、”パンデミックと言う深刻な危機に直面した今こそ、「他者のために生きる」という人間の本質に立ち返らねばならない。協力は競争よりも価値があり、人類は一つであることを理解すべきだ。”と説き、“利他主義という理想への転換こそが人類サバイバルのカギである。”と(参考情報4.)。
利他主義とはどういうものであり、この利他主義へのパラダイムシフトをどう現実に日本で進めたら良いのかが問題である。経済学者・思想家であるアタリ氏の云わんとする方向性は、我々在家禅者にとってはよく判り同意するものですが、それへのアプローチは全く違うものになるでしょう。そもそも氏の説く「利他主義」を我々はコロナ以前から、遡れば72年前の人間禅発足の時から堅持しており、既にその目的に向かってのアプローチを実践して来ているのである。ただ我々のアプローチをパラダイムシフトにするためのstrategy(戦略)は全く見えてないのが残念なところである。
我々は一隅を照らすほどの遅々とした利他心の普及を継続するしかないのであるが、しかしこういう世界の多くの思想家の方向性の一環の中で我々は日々精進努力しているという自覚は必要なことであり、こういう人達との連帯を意識することは大切なことである。(未完)
参考情報1.日本財団:https://www.nippon-foundation.or.jp/who/news/pr/2019/20191130-38555.html
参考情報2.NHK放映の「欲望の資本主義」のジョセフ・スティグリッツ、安田洋祐
参考情報3. マイケル・ハート、マルクス・ガブリエル、ポール・メイソン、斉藤幸平の『未来への分岐』
参考情報4.NHK―ETV4月15日「緊急対談 パンデミックが変える世界 〜海外の知性が語る展望〜」
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