老師ブログ

人間禅の老師による禅の境涯からの便りです。
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2020.06.30 Tuesday

立石寺(りっしゃくじ)

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立石寺(りっしゃくじ)

杉山呼龍

 

 芭蕉がかの有名な俳句を詠んだところは、どんな場所だったのかを知りたくて立石寺に行ってきた。仙台駅から山形方面に向かって仙山線に乗って小一時間、途中から山奥の深山幽谷といった風景になり、列車は溪谷を過ぎてトンネルを抜けると山寺という駅につく。ここは地名も山寺で「山形市山寺」という。お寺の正式名称は天台宗宝珠山立石寺、慈覚大師円仁によって貞観2年(860)開かれたという。山全体に伽藍が建てられていて歴史と深い信仰心を感ずる。麓の山門から頂上の奥の院まで石段が1015段あり、この日は神経痛も調子がよかったので何とか登りきった。コロナ禍の影響もあるのか、少ないながら登山者を散見した。

 芭蕉一行は、立石寺に至る前、仙台、松島、平泉と来て尾花沢で鈴木清風という人物を訪ねた。彼は地元の紅花問屋の富商で談林派の俳人であり、時々江戸へも出かけ芭蕉とは旧知の仲であった。彼は富裕の人であったが、志が高く人の情けを知り、長旅の芭蕉らをいたわり、さまざまにもてなしてくれた。芭蕉はたいへんくつろいで俳句を作った。

 

涼しさを我宿にしてねまるなり

 

 芭蕉らはそこで数日を過し、地元の何人かの俳人と交わった。誰に言われたかは分らないが、山形領に立石寺という山寺があり、平安時代からのお寺で慈覚大師の開基で、幽邃で清閑、すばらしところだと聞き、予定を変更して南下すること28キロ(七里)、館岡、天童などを通り日暮れの前に着いた。麓の宿坊に宿を借りて山上の堂に登った。現在の麓は観光地化していて、そば屋なども多いが当時は江戸初期の元禄2年、山道は鬱蒼とした昼なを暗き森林であったろう。芭蕉は書いている。「岩に巌を重ねて山となし、松柏 年旧(ふ)り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉じて、物音きこえず。岸(崖のこと)をめぐり、岩を這(は)いて、仏閣を拝し、佳景寂莫(かけいじゃくまく)として心すみ行くのみおぼゆ。」

 

閑さや 岩にしみ ( いる )  蝉の声

 

(写真は芭蕉像と立石寺全景)

 

 

 

2020.06.28 Sunday

座禅と徒然(つれづれ)(4)〜〜座禅時の線香について〜〜

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座禅と 徒然 ( つれづれ ) (4)

〜〜座禅時の線香について〜〜

丸川春潭

  1. はじめに
  2. 耕雲庵英山老師と線香
  3. 磨甎庵劫石老師と線香
  4. 参禅用の線香
  5. いろいろな線香と出会い
  6. おわりに

 

1. はじめに

 線香には大きく分けて匂い線香と杉線香の二種類があります。匂い線香は、椨(タブ)の木の樹皮を粉末にしたものに、白檀(びゃくだん)や伽羅(きゃら)といった香木の粉末や他の香料、炭の粉末を加えて練り、線状に成型・乾燥させたものであり、我々が日常の座禅時に使っているものです。杉線香は、杉の葉の粉末にしたものにノリを加えて練り、線状に成型・乾燥させたもので、香木や香料を使用した匂い線香と違い香りはないけれど安価であり、ヤニにより大量の煙(煤)を出すため、外での墓参や宗教的な慣例として煙に意味を持たせる場合に使っています。

 人間禅における線香は匂い線香ですが、その使い方は、静座会や摂心会における静座時と参禅時とにそれぞれ異なった目的で使われております。会員が自宅において一人で座る時はその前者とほぼ同じ目的であり(少し違った要素も入ってきますが)、大部分の人は自宅でも線香を焚いて坐っています。ただこの匂い線香といってもピンからキリまでありなかなか奥深いものがあります。

 香は邪気を払うと云う意味や尊きものを敬い信を献ずる意を込めて古くから祭礼とか法事によく使われています。また眠気を覚ますこととか精神を高揚させるということでも宗教行事に使われてきたと云う説もあります。

 また線香は時を計るために使うと云うことが寺院のみならず庶民的な生活の場でも古くからあります。

 

2. 耕雲庵英山老師と線香

 耕雲庵英山老師の著書『数息観のすすめ』には、線香の長さは22cmで、一炷香(1本の線香がともっている間)の時間は44分となっています。そしてその線香は多分菊世界(写真:孔官堂製)だったと思います。小生が入門しそして本部の摂心会に参加し始めた昭和30年代はどの摂心会でも菊世界を通常は使っていました。老大師がこのご著書を書かれた昭和20年代においても同様だったと推定します。

 菊世界は原料に白檀とか伽羅を使用せず、いわゆる良い香りを嗅ぐためのお香ではなく安価な大衆的な線香です。この菊世界の一炷の燃え尽きる時間が44分だったと云うことで、まさに時間を計るという意味が生かされて使われているのです。

 

3. 磨甎庵劫石老師と線香

 小生が学生時代に中国支部摂心会(現岡山支部、耕雲庵英山老師主宰)に参加し、開枕(22時)後に岡山大学の学生(絶学、無為、小林ら)との夜座において、参禅の時の献香に使う高級線香(後述)の残り(短くなって残った線香)をかき集めて夜座の真ん中で焚いて夜の12時過ぎまで坐った時期がありました。

 このことを数年経って磨甎庵劫石老師に話したところ大変興味を持たれ、それ以後線香の銘柄の検討を命ぜられることになりました。その当時はネット検索もできず、仏具屋さんをいろいろ回って調べるしかありませんでした。

 最初は松栄堂の京自慢を磨甎庵老師は好まれて使われ、

次に春陽に行き、最後は同じ松栄堂の微笑にまでレベルが上がって行かれました。

 また後年老師が80歳前後のころ、小生が進級お礼に同じ松栄堂の最高レベルの正覚を差し上げたところ大変喜ばれ、大事に使われていたようで最後に数本ですが遺されておられます。

 磨甎庵老師は座禅時の線香を、本来のお香として厳密に扱われておられました。小生が30代のころ人間禅では線香を焚かないで時計で坐る人がかなり居られましたが、磨甎庵老師は「春潭!坐る時は線香を焚いて坐るのが良いぞ!」と語気を強めておっしゃったこともありました。単なる時間ではなく線香一本の命と一緒に坐るということかなと密かに自分でその意味を工夫などしたことを思い出します。特に線香の最後の燃え尽きる時の有様はまさに人間の死と同じであると。燃え尽きる時の匂いは線香の匂いとは異なる灰の匂いがし、最後にポット明るく耀いてすっと消えるのです。

 

4. 参禅用の線香

 参禅時に献香用に使う線香は仏に供えるという第一義の目的があり、人間禅では最高の線香が選ばれて使われる伝統になっています。したがって禅堂で使う線香が菊世界の時代でも、すなわち耕雲庵老師の時代においても最高級の線香(天司香)を使っていました。昭和30年代の中国支部でも天司香でした。赤いラベルの箱で太く短い黄色みを帯びた豊かな香りの線香でした。高価なものでしたので、参禅が終わったら必ず残りを侍者が回収して直日に返すことが習わしになっており、夜座で学生達が頂いて使っていたのはこの参禅の時の焚き残った短い天司香です。

 その天司香を本部でも永年使っていましたが、20年?ほど前に天司香の製造が中止になり、急遽その代替を決めなければならなくなり、千鈞庵老師といろいろ検討した覚えがあります。従って天司香はまさに幻の名香で語り草でしかありません。

 

5. いろいろな線香と出会い

 小生の20才代から30才半ばまでの自宅での線香は一番安くて手に入りやすい菊世界でした。その後、磨甎庵老師とのやり取りの中で、京自慢とか春陽とかを使った時もありました。東京支部の祖鏡居士から箱入り線香(聚香国)を3回も頂きましたし、萬耀庵閑徹老居士からは高級な長尺の微笑を一箱頂いたこともあり、つい最近では荻窪支部長の中川香水禅子から白檀線香を頂きました。

 線香の香りの原料は白檀と沈香が代表的なもので、この香木の入る量によって値段が決まってきます。沈香は沈水香を短縮したもので、木なのですが水に沈むほど比重の重いのでこの名前がついているのでしょう。伽羅というのは沈香の一種で、沈香の中でも特別に貴重で高級なものです。これら白檀、沈香、伽羅がどのくらい入っているかによって価格が決まっており、こういう香木を使わない線香(菊世界、蘭月)に比べて一桁二桁も価格が高くなります。

 最近気が付いたのは、香木の入った高級線香に沈香(伽羅)系統と白檀系統の二種類あるようで、香りの質が大きく異なっています。一般的には沈香(伽羅)系の方が人気があり庶民では手の届かないような高価なものもあります。好きずきだと思いますが、どうも小生は白檀系に馴染みがあり好みが合うようです。価格はその資源の存在量によって決まり、伽羅が資源的に少なくダントツに高く年々高騰しているようです。

 朝晩線香を焚いてその前で坐るということを考えると、健康についても配慮する必要があります。健康の観点から考えると線香の煙も煙草の煙の害と同じで、煙は吸わないに越したことはありません。線香の銘柄によっても害に差はあると思います。黒い煙が多く出るとか刺激臭があるとか咳き込むとかは特に遠ざけた方が良いでしょう。一般的に香木が入り高級になるほど害は少なく、安価なものほど注意しなければならないと考えられます。燃えた後の灰の色が黒いと炭素(煤スス)が多いと判断できます。医学的な根拠はありませんが、白檀系は香りもソフトで炭素系の煤も少なく健康的だと小生は考えています。

 

6. 終わりに

 坐る前に線香に火を付けますが、その時に不思議にこの線香との出会いの所以やご縁を思い出します。

 そしてその火を付けた最初の線香の香りが一番印象深く、そこから数息観が開始されることになります。三昧になれば線香の香りも全く意識から消えてしまいます。実際にも嗅覚は最初だけが強く知覚しますが、直ぐ馴れて鈍感に感じなくなるものです。他の視覚、聴覚、味覚等の感覚よりも一番早く順応して知覚が急速に低下するように思います。しかし臭覚は五感の中の一つですが、一番精神性に近いと思います。臭覚に集中するあるいは臭覚を大事にすることは人間性を深めることになると思います。

 毎日座禅する部屋が決まって居れば何年か経つとその部屋に香りが沈積して残り、外から帰ってその部屋に入った一歩のところで微かに残香が香りホッと安らぎを感ずるものです。

 線香は香りのみならず煙も雰囲気があり、煙の流れには三昧への誘いが観ぜられます。すなわち煙の揺らぎには人間の知性を超えるものがあり、香りと相まって感性の世界に引き入れてくれる働きがあるように思います。数息観三昧を深める道具立てを斯くの如く線香はいろいろ備えており、だから歴代の祖師方も線香を常に愛用されてきたのでしょう。

 残りの人生の一日一日 線香の深さを味わって生きて行きたいものであります。合掌

 

2020.06.22 Monday

人生の指針ハウツウ(how to)と禅

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人生の指針ハウツウ(how to)と禅

丸川春潭

 6月21日の読売新聞に本の広告(幻冬舎新書『自分のことは話すな』)があり目にとまりました。この手のハウツウ物は八重洲のブックセンターに行けばワンサと並んでいます。この本もその中の一つですが、最近特に会議とか会話において自己主張が目立ち、昔から比べてコミュニケーションレベル(会話能力レベル)が低下しているのではないかと思っていたので、この本に目がとまったのかも知れません。この広告には、「自分に甘いほど話が長い。」「自分をわかって欲しいという傲慢が多い」「私も!といって話題を奪うな」等々が列記されており、さもありなんであり現状を良くうがって見ているなと思いました。これらは処世術としてはまことに結構な話ばかりです。

 この広告のキャッチコピーとして出している「仕事と人間関係を劇的に良くする技術」が物語っているように、まさに世渡りの「技術」の披瀝なのです。現代の多くのサラリーマンがこうした技術を欲しがっているから、こういうハウツー書が書かれそして売れるのでしょう。しかし実際にもこの「技術」が実践されれば有効だと思いますが、読んだからと云って、知ったからと云って、自分で日常の社会活動の中でその知ったことが書かれているように実践できるかというとそれは自分の経験からも別物であり、実践となると大変難しいところです。何故なら、こういう「技術」はおいそれと身に付くものではないのです。所詮知識として判っても、その人の人格が変わらなければその「技術」はいざというときに出て来ないものです。現代のインテリは知っただけで満足して他人を正しく批判はできますが自分はからっきしできないという頭でっかちの類いの人が多いのです。斯く云う小生も若いころはそうであったようにも思います。多くの恥をかき人に迷惑をかけてきたということです。

 これに対して禅は、全く考え方と攻め方がこれらのハウツー書とは真逆であります。すなわち禅は本体の人間を変える、人間形成によって全ての活動の根源を改革するのです。改革と云っても知識を入れ直すことではなく、座禅修行を通じてちっぽけな我を殺し尽くす人間改革を実践するのです。先の広告の「技術」は、禅によっての人間改革をしてちっぽけな我を殺す(空ずる)ことができれば、こういう本を読まなくて知らなくてもそこに指摘されている「技術」は本人の自然の振る舞いの中で既に実践できるのです。それはもう単なる「技術」ではなくその人の「人となりの発露」として自然に振る舞える行為になって来るのです。

 現代社会人はどうしても表面に現れた枝葉(技術)にのみ目を奪われそれが出てくる根源に注目することがないのです。ハウツー書の書き手もそれを買い求める読者も両者ともに枝葉末節にこだわりそれが出てくる人間の本体に注目すしないのです。これでは国レベルでの人間社会の向上は望むべくもありません。

 今人間禅は、人間禅の持っている人格改造にかかわるポテンシャル(ノウハウ)を社会に還元するべく新しい企業研修をやろうとしています。これは一般の研修会社がやっているような処世技術を研修するのではなく、それが出てくる根源を究め、身に付ける研修を目指しているのです。本物の人物育成を希求する経営者には必ず受け入れられるものと考えています。単に技術ではなく創造性豊かな発想がでてくる人材育成、単なるコミュニケーション技術でない有能な組織人育成をめざしているからです。これが行き渡れば世界楽土の建設(正しく楽しく仲の良い地域社会づくり)に近づくというものでしょう。

 

2020.06.18 Thursday

座禅と徒然(つれづれ)(3)〜〜数息観座禅時の呼吸について〜〜

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座禅と 徒然 ( つれづれ ) (3)

〜〜数息観座禅時の呼吸について〜〜

 

  1. はじめに−吸う呼吸に意識を置くか、吐く呼吸に意識を置くか−
  2. マインドフルネスのティクナットハン先生の呼吸は吸う呼吸法
  3. 関西支部の方々との論争−呼吸の長さ論議−
  4. 人間禅の先輩老師方の呼吸法−耕雲庵老師、澄徹庵老師、他の老師−
  5. 道元禅師の欠気一息(かんきいっそく)の意味するところ
  6. おわりに−いろいろな呼吸法の変遷を経て−

 

1. はじめに−吸う呼吸に意識を置くか、吐く呼吸に意識を置くか−

 中国支部(現岡山支部)にご縁があって座禅を始めたころの数息観の呼吸は、吐く息が主体でした。すなわち息を吐くところが長く、吸う息は一度に吸って短い呼吸法でした。吐く息に集中して数息三昧を深めるやり方です。
爾来30数年、吐く息主体でやっていましたが、数息観が深くなればなるほど吸う呼吸が疎かになり苦しくなる感じがして、自分の工夫で吸う呼吸をゆっくり注意深くして一気にフッと吐くやり方の吸う息主体の数息観に変えました。この吸う息主体の数息観になって20数年になりますが、こちらのほうが呼吸に邪魔されることなく数息観を深められると今は考えています。

 

2. マインドフルネスのティクナットハン先生の呼吸は吸う呼吸法

 10年ほど前に、世界的にマインドフルネスが有名になり、NHKがその提唱者であるベトナムの臨済禅師ティクナットハン先生にインタビューをし、その録画を見る機会がありました。この録画で驚いたことにハン先生は明確に吸う息主体の数息観であると云うことでした。吸う息を長く3秒かけて吸い、短時間に一気に吐き出すやり方で、まさに小生が独自に工夫して現在もやっている吸う息主体でした。吸う息に注意深く意識を鋭敏にし、吐く息は雑念が入るので急いで吐き出すと云うニュアンスの話でした。

 

3. 関西支部の方々との論争−呼吸の長さ論議−

 今から40年ほど前、関西支部の若手(広瀬浄照、三木浄光、広内常明)が中心になって、数息観に熱心に取り組まれており、関西では長息が大いにはやっていました。一分間に2、3呼吸しかしないと豪語していました。これに対して、小生は自然の呼吸(一分間に10回弱)が良いという意見で新到者の指導をしておりましたので、やり方が異なると云うことを彼らは気にしていたようで、関西支部の若手連中が本部道場とか擇木道場に当時はよく出てきていましたが、その折、長息が良いのか自然呼吸が良いのかの論議にもなりました。

 この話が、関西支部の大先輩であり重鎮である、きんでんの社長(阪神支部の創立者)の高橋芦舟さん(後に滴水庵老居士)の耳に入り、大阪から潮来の拙宅に「長息でないと駄目だよ!」と云う説得の電話が掛かってきました。そこで電話では論議が着かないと云うことで、小生は「数息観は自然そのものでありロマンである」と云う小論を封書で送りました。数日後、芦舟先輩から小論を読んだ結果として「よく判った。君は長息でなくても良し!」という電話がありました。

 

4. 人間禅の老師方の呼吸法−耕雲庵老師、澄徹庵老師、他の老師方−

 小生の座禅の手引き書は最初から耕雲庵英山老師著『数息観のすすめ』であり、坐相も呼吸法も数息法も全てこの本から始まっております。(実は小生の座禅の最後の学びもこの本だと思っています。)

 この呼吸法は、長息とも書いていないし、吸う息にも吐く息にも偏っていません。ただ段々深くなってゆき、通常の呼吸よりもゆったりしている(44分間で330回)くらいの記述しかありません。

 これに対して耕雲庵英山老師の直弟子の嗣法者である澄徹庵月桂老師は、吐く息主体の長息派でした。また同じ直弟子の熊本の一行庵義堂老師は、自然呼吸派でした。人間禅の年に一度の東京講演会で講演をされましたが、呼吸の仕方を自然にというお話しでした。函館の徳猶庵信堂老師は、坂東道場(現潮来禅道場)にもよく来られ摂心会に参加されていましたが、周りに響き渡るような吐く息主体の長息派でした。

 

5. 道元禅師の欠気一息(かんきいっそく)の意味するところ

 先も述べましたが、小生は座禅及び数息観は全て『数息観のすすめ』に依拠していまして、道元禅師の『普勧坐禅儀』を読んだのはずっと後になってのことであり、有名な「欠気一息(かんきいっそく)」(座禅の始めに先ず息を吐ききり、そして吐ききったままでややしばしそのままで苦しくなってから大きく息を吸ってから座禅に入るやり方)もしていませんでした。豊前の芳雲庵真覚老師は若いころから欠気一息をやられていたようです。 
最近になって、吸う息主体の数息観の工夫の中で、欠気一息を取り入れると吸う息主体の数息観の軌道に早く乗れることに気が付き、時々やるようになっています。これは取りも直さず道元禅師の坐禅も吸う息主体ではないかと推測しています。

 しかも道元禅師は、数息をしない座禅すなわち無念無想にひたすら成り切る座禅であり、臨済禅に対して只管打坐を特徴としています。ただこれも耕雲庵英山老師の『数息観のすすめ』の後期数息観と同じです。在家禅者は通常一人で一日一炷香を行ずるのですが、これには数息観が適しているのは間違いないと思っています。

 

6. おわりに−いろいろな呼吸法の変遷を経て−

 座禅の呼吸の仕方には長息とか吐く息主体とか吸う息主体とかいろいろあります。いろいろ試してみることは必要ですが、肝心なことは自分流を何でも良いから徹底してやり続けることです。そして数息観の三昧が深くなるとまた自然に呼吸の仕方が変わることもありです。
小生の今の呼吸の仕方は、いきなり数息観中期(1〜10)に入り、ゆっくりと吸う息に注意して吸いフッと短時間に吐くやり方であり、これがキチッとできたら次のステップとして息を数えないで十息する間を雑念なしに徹底する座禅です。これは三息を三回と最後に締めくくりの一息という十息の間、息を数えないで坐るやり方です(数息観と数息しない正息観との中間の座禅観法)。そして第三ステップとしては後期数息観に入り、正息観(只管打坐)に徹して坐る。最後に仕上げとして、呼吸から離れるためにひと呼吸息を止めたまま雑念を入れないひと時を坐り、静かに呼吸に戻るがその時には呼吸を意識しない息から離れた離息観(宝鏡三昧)の座禅になっています。
座り始めは呼吸も定まらず念慮もざわざわと出ていますが、以上のステップを通ると三昧が身に付いた状態になります。その始めと終わりの自分の精神状態の差が如何にも大きく、理屈抜きにただ坐るだけでこれだけの精神状態のレベルが上がるのかと日々驚き、こういう行を伝承された仏祖方の報恩をしみじみと感ずると共に、坐らないままのレベルで一日過ごすことはみんなに申し訳ないから坐らざるを得ないとなるのです。従って朝の座禅はみんなのために、夜寝る前の座禅は自分のためにとなるのです。 


丸川春潭
 

2020.06.16 Tuesday

“お天道様” の はなし

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"お天道様" の はなし

廣内常明

 

 慣れ親しんだパソコン(Windows7)が未だ使えるのに、Windows10に代えねばならぬという。"もったいない、もったいない"という時代に育った小生には、何とも気が進まないが、パソコン無しには日常の仕事ができない。仕方なく昨年(R1年)末、安いWindows10を購入した。が使い始めるに丸で、他人の家に放置された如くで、" 何がなにやら、さっぱり分からん、ワテほんまによう言わんワ" と、唸る日が続く。

 

 Windows7で使っていたワードやエクセル(オープン オフィス)もメール(ウインドウズライブメール)もうまく使えない。Windows10とWindows7の二つのパソコンを、ケーブルを外したり繋いだりしながら当座を凌いでいく。

 

 パソコンのメーカー元に購入したWindows10の使用方法を尋ねるうちに、このパソコンでワード等を使用するためには別途新しいオフイスが必要であり、M社の(オフイス2016)を勧められる。

 

 勧められるままに、大手IT通販A社が紹介する中古品店から、M社の(オフイス2016)を購入した。 中古品店の(B)から、プロダクトキー(PD・アルファベットと数字が混ざる25の文字群)がメールで届き、指示通りにパソコンを操作し、得たインストール ID(63の数字群)を返送する。中古出品店の(B)からは、送ったそのインストール IDは時間切れで使用不可だったというメール返答が来る。

 

 これを繰り返すこと3回。

 

 新Windows10への(オフイス2016)のインストールは完了しているのだが、オフイス元であるM社からの認証修得がなかなか完了しないと云う、何故なのか?

 

 この段階でまた、唸る日が続く。

 

 認証がうまくいかないのは、霞む目で行う小生の入力ミス(多くの文字や数字の)が原因に違いないと思い込む。<後から思うに、この段階で諦める人も多いだろう>


 M社のカスタマーサービスに事情を伝え、M社の(オフイス2016)の認証修得について問い合わせた。"通常は3回もプロダクトキーが提供されることはない。しかも提供されたプロダクトキーは国内では通用しないものであり、インストールIDは全て正しくないものである。故にM社としては(オフイス2016) の認証をサポートすることはできない"という説明である。

 

 これらのことを中古出品店の(B)に伝えると、"当店の商品は国内用だ"と云い張る。M社と(B)の言い分が食い違う。中古出品店の商品への疑いが生じ出した。

 

 パソコンに詳しい道友、H居士にも意見を請う。

 

 そうこうする内に、パソコンのワード画面に【あと( )日間内に認証が完了しなければ、新たにインストールした(オフイス2016)が使えなくなる】と云う警告表示が繰り返し現れる事に気が付く。( )の数字は、日を追う毎に減っていく。

 

 A社のカスタマーサービスに、A社の仲介する中古商品(オフイス2016)に疑いが生じている事や今後は(B)を追い込むことになる事を伝え、善処を依頼する。が、そのような(B)への気遣いは無用で、出品店と購入者の間の協議が行き詰まった場合には調停に入るという返事である。

 

 望まないが進むしかないと肚を決め、中古出品店の(B) に、「商品の真偽を明らかにする為に、M社と連絡を取るように」と迫る。<小生と中古出品店(B)とのメールのやり取りは全て、A社のカスタマーサービスにも届いている>

 

 小生が迫ったその日、A社内では(B)も含めて対応策が練られたものと推察する。
 と云うのは、小生が迫ったその日の夜に(B)から、「全額返金する」というメールが、続いて翌日早朝(0時過ぎ)にA社のカスタマーサービスから、「返金の手続きをした」というメールが届いていた。どうも幕引きを急いでいる感じが受け取れた。

 

 A社のカスタマーサービスと(B)宛に、以下の主旨のメールを返信した。
 『今朝までの御社の対応は、小生の期待する「信頼」に沿うものではない。返金の理由に「Refused to accept delivery」とあるが<この英文、「配達物受付拒否」の意か?>、何の事か? 御社に対する「信頼」を、裏切らないで欲しい。合掌』と。
 「商品に対する疑いを晴らして欲しい」という要望に対して、返金という形での応答である。 信頼を裏切られた思いで諦めていた。

 

 ところがである。
 それから数日経って、ワードの画面に、再三 表示されてきた例の警告表示が消えていることに気が付いた。しかもプロダクトID<Office認証済みのしるしか?>も付記されているではないか。これはどういうこと?

 

 カスタマーサービス係り(M社、A社共)には、「購入した(オフイス2016)が使えるようにして欲しいだけだ」ということを繰り返し伝えてきた。小生、幸いにも巡錫期間と重ならず緩まず対応を続けることができたが、もし重なっておれば早々に断念したに違いない。
 要望が叶ったのだから<内情は知る由もないが>、個人的には有難いと言うべきだが・・・。

 

 片田舎に於けるささやかな奮闘であるが、接触し得た多数の皆さんは、生き馬の目を抜く業界の中で厳しい日々を余儀なくされているに違いなく、ご苦労様と申し上げたい。
 それはそうなのだが、そしてIT業界のみならずどんな分野であってもだが・・・、アコギの度が過ぎると "「お天道様」が見てござる" の社会であって欲しいと願う。

 

 翻って我々は、大道の研鑽を行っている祖師禅の修行仲間である。 
 「正しく・楽しく・仲よく」を合言葉に、その実践を目指している。
 その「正しく」とは、天地乾坤を照らし抜く底の「お天道様」であり、これを見失っては修行の根底が崩れてしまう。
 個人の大安心だけではない、人類が拠って立つ大安心への基盤でもある。

 

 誠に有り難きご縁を得ていることに感謝し誇りとすると共に、一人でも多くの方に、この「お天道様」に触れて頂くようにしたいものである。

常明

 

 <国内外の各界で活躍されている道友の皆さんへの影響を案じ、読み辛くなるのは承知の上で、実名は伏せました>
 

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