社会人のための坐禅(座禅)道場【人間禅】

 

2020.05.07 Thursday

座禅と徒然(つれづれ)(1)

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座禅と 徒然 ( つれづれ ) (1)

――香炉の周辺――

丸川春潭

 小生が修行を始めたころのことですが、岡山での摂心会の円了垂示で老師(耕雲庵英山老師)が、日頃の一日一炷香が大切だから必ず自宅で一日に一回は坐るように!と声を励まされ申されました。その声が耳に残り、岡山から大阪の下宿に帰り、早速線香を買ってきましたが香炉がない。そこで湯飲み茶碗を取り敢えず代用して使うとして、次に灰がない。五円玉を4,5枚重ねてやったこともありましたが、アルバイト学生の身では、その五円玉も動員して晩飯代になってしまい長続きしません。結局は灰が溜まるまでは、砂をかき集めて湯飲み茶碗に入れて線香立てとしました。

 その後、耕雲庵老師が岡山の摂心会中に作陶をされ、その中に一つ線香立てもありました。恐れ多くもその香炉が欲しいなあと思っていました。半年後に焼き上がってきたとき、たまたま珠月奥様もご一緒されておられました。老師に直接お願いするのは怖くてできませんが奥さんなら気安くなってついあの香炉が欲しいと漏らしてしまいました。数日後、老師からちょっと来いとお呼びが掛かり、怖い顔をして、一日一炷香をやるか?!と云われ、ハイとお答えしました。こうして厚かましくも老師作の備前焼の線香立てを頂くことになりました。

 

 

 

 爾来40数年に亘り一日一炷香の文字通りの受け皿としてこの香炉は密接な相棒になりました。小生が師家になってしばらくして千鈞庵老師にこの香炉は譲り、その後は自分の作った香炉で朝晩坐っています。

 小生が師家になって最初の道号授与は当時の東京第二支部でしたが、その時に自分の若いときのことを思い出して、道号授与のお祝いに香炉を差し上げようと思い立ち、小生が中国から買って帰ってきていた香炉がいくつかありましたので、それを担当師家からのお祝いとして差し上げました。その後小生が総裁になり、道号授与者も増え、また自分の持っている香炉も手持ちがなくなったので、その当時の総務長(千鈞庵老師)と相談して、中央支部の陶芸家祖牛居士に香炉を作っていただき人間禅からの道号授与のお祝いとして差し上げることとして現在に到っております。

 昭和49年に潮来市に自宅を建て、近所の同じ住金勤めの数人の連中と静座会を始めました。そしてやはり各自宅でも一日一炷香をと云うことになり、香炉は何か使えるとして灰が欲しいということになり、小生が耕雲庵老師の香炉で貯めた灰を、雑念の塊だけどと云い、株分けを真似て「灰分け」と称し、その数人に差し上げました。その後この数人の連中と図って工事用の中古プレハブを買い、個人(姉崎大光居士)の屋敷の中に道場を立てさせて貰い、坂東支部を立ち上げることになりました。

 

2020.05.05 Tuesday

至誠の人

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至誠の人

佐瀬霞山

 禅の修行の究極は、至誠の人となるための「行」であると思います。

 至誠とは、絶対の誠です。嘘に対する誠というような相対的な意味ではありません。真っ向唯誠の固まり!!という意味です。

 剣道で言えば面です。心と身体と刀が一つになって、真っ向面一本を打つ。これは中々大変なことで、容易ではありません。

 剣と禅の奥義を極められた無得庵小川刀耕先生が、70才頃に、「自分は、まだこの面一本が打てない。」と言われたことがありました。そのときは深く思いをいたしませんでしたが、いま顧みますと誠にぞっといたします。私たちを戒められたお言葉です。

 禅の修行は、何か特別な人になるのではなく、至誠の人となるための「行」なのです。それがすばらしいと思います。

霞山拝

 

2020.04.30 Thursday

テレワークと教育

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テレワークと教育

丸川春潭

 4月2日、12日、15日のブログで、コロナ・パンデミックについて考察しました。

 12日(その2)のブログでは、コロナ・パンデミックが現代の地球人が未だかって経験したことのない「差別をしない社会現象」であるという切り口での考察でした。15日(その3)では、人と人の接触を断つコロナ対策から見えてくるものは、過密都市は人間が正常に生活できる環境では無い、すなわち正常なソーシャルディスタンスを大前提にした社会形態を考えなければならないのではないかという考察でした。

 今回は、IT化→AI化の進行が今回のコロナ・パンデミックによって加速されるであろう事は既に各方面から指摘されていますが、その抽象的な方向性から掘り下げて、何がAI化して何がAI化しないかを再検証してみたいと思います。

 再検証と云いますのは、既に人間禅HPのブログとして「A I 時代と禅」を昨年10月(2019.10.5)投稿し、また今年3月東京荻窪支部創立記念事業として発刊した拙著『A I 時代と禅』(2020.3.22)で考察しているからです。

 新型コロナの蔓延防止策として、在宅勤務すなわちテレワークという小生は聞き始めの仕事形態が試みられ、そして大都会で急速に普及して来ています。これはまさに前回のブログの問題提起を解決する有力な施策であり、この方向はパンデミック終息後もこれを契機に日本社会に定着すると考えられます。まさにIT化・AI化の走りが今回のパンデミックで加速されると思います。

 ここで先にも触れた問題提起ですが、テレワーク等を駆使して人間が接触しないでできる仕事とできない仕事をその理由も含めて整理しなければならないと考えます。既に前報のブログで、体に触れなければできない仕事ということで医療関係、整体関係、美容理髪関係など事例を挙げていますが、もっと全般的に鳥瞰し仕分ける必要があります。

 国や地方の立法・行政事務、裁判等の司法事務の大部分のテレワーク化は可能であると思います。これだけでも何百万人もの人が過密東京から離れることが可能になります。企業の本社が東京に集中していますが、立法・行政機能が東京から地方に分散されれば、東京に本社を置かねばならない必然性はなくなり、これまた膨大な人口の分散に繋がります。また東京には日本の半分くらいの学校が集中していますが、教育のテレワーク化は一概には言えない問題です。すなわち簡単に断定できない問題です。

 この教育問題を具体的事例として、人の接触の必要有無を考えてみたいと思います。教育対象をゼロ歳児保育から大学院教育まで広く検証するとして、義務教育までは実際に体に触れる必要があるので要接触型でしょう。高校生から大学院までは良い悪いは別にして現状ではほぼ知識教育であり、非接触でもほとんどが可能なので、非接触型に仕分けして妥当でしょう。これらに対して小・中学校の義務教育は接触か非接触かの線引きが難しい対象になります。その理由は、知識教育のみならず精神教育(心の教育・情操教育)がそのコンテンツとして求められているからです。

 精神教育(心の教育・情操教育)がテレワークでできない接触型であると定義するには少し説明を要します。

 

 この図の左の相対樹領域は知性の領域であり、知識の習得はこのジャンルでできますが、心の教育や情操教育は右側の絶対樹すなわち感性の場・人格の場に行かなければ実施できません。この感性教育の中でも非接触で相当まで進められる部分もありますが、物理的に身体に触れると云うことではありませんが、面と向かって対応しなければならないということでテレワークでは肝心なところはできないものです。人格形成に関わるところは接触型でなければ深いところには行けないのです。もちろん指導する先生の感性が深く磨かれていなければならないのはもちろんです。

 こういう接触型の精神教育に加えて体育などは物理的に身体に触れるとか、集団での修練も必要な場合もあり接触型でなければならないと考えられます。したがって、小・中学校の義務教育は生徒が学校に集まる必要があり、A I がいくら進んでも学校に生徒が集合してやる教育形態は残ると考えられます。また0歳児から小学校までもできるだけ地域に密着した施設が必要であり今後とも充実させて残す必要があります。そしてこれら以外の高校・大学はほとんどがテレワーク型に移行できると考えられます。したがって公立私立を問わず、大学を中心として都市から地方への移転は可能であります。これでまた大都市の分散化が進みます。

 人と人の繋がりにおいて非接触でも繋がりを保てるものはスマホのようなよりパーソナルな形で利便性や機能性をより充実させつつ過密を避けた生活圏の構築を進める一方、教育関係特に人格形成に関わる接触型の文明は今以上に分散地域毎に充実が図られてゆかなければならないと考えます。

 コロナ・パンデミックの災いを教訓として、人類の進むべき非密集地域作りの方向を考えこれを共有し歩み始めたいものであります。

 

2020.04.29 Wednesday

芭蕉『笈の小文』より 

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芭蕉『笈の小文』より

杉山呼龍

 

 

 『笈の小文』とは、芭蕉が、多くの人に見送られて江戸を発し、須磨・明石を経て京に至る旅日記である。この文章が重要であるのは、芭蕉が仏頂和尚に嗣法した直後の旅の文章であるからだ(書かれたのは旅の数年後)。

 

 途中故郷の伊賀上野で

 

    旧里や臍の緒に泣 としの暮

 

と詠んで懐旧の思いを凝らした。伊勢で落ち合った、万菊丸と名乗った弟子の杜国(とこく)と共に吉野の桜を見ようとする思いを、笠に落書きした。

 

    よし野にて桜見せふぞ檜の木笠  風羅坊

    よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸

 

(風羅坊は芭蕉のこと)そして途中荷物が多くてほとんど捨て去って軽くなったのだが、足弱く疲れて道ははかどらず

 

    草臥(くたびれ)て宿かる比や藤の花

 

と詠み、吉野の龍門の滝では

 

    ほろほろと山吹ちるか滝の音

 

の句を残し、吉野には三日滞在した。そして高野山に寄って和歌の浦まで来て、次の文がある。今回取り上げる一文である。

 

「跪(きびす)はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖(ひじり)の事 心にうかぶ。山野海浜の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡をしたひ、風情の人の実(まこと)をうかがふ。猶、栖(すみか)をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の愁もなし。」

 

 芭蕉の文章には至るところに西行があり、至るところに禅の余薫がある。

 

 この文は解説を参考にしないとわかりにくい。「天龍の渡し」というのは、西行が天龍川の渡船場で、頭を鞭打たれて下船させられたが、仏道修行だとして少しも怒らなかったという「西行物語」の故事である。芭蕉は、かかとがやぶれて痛い時に、西行の「天龍の渡し」の苦しみを思って耐えているということである。

 

 また「馬をかる時は、いきまきし聖(ひじり)の事 心に浮かぶ」。これは、高野山の証空上人が、馬上から堀に落とされて大いに怒っていきまき、後に自らの愚かさに気付き恥じて逃げ帰ったという故事(徒然草百六段)を、自分が馬を借りて乗るときには思い出すということ。芭蕉はつねに、西行や徒然草によって自らを反省していることが窺われる。

 

 「山野海浜の美景に造化の功を見」とある造化とは、禅家においては仏性の言い換えであり、山野・海浜の美しい風景の背後に仏性を見て、大自然の成せるみごとさを思うということである。そして「あるは無依の道者の跡をしたひ」の中の「無依の道者」とは、臨済録にある「無依の道人」のことである。依って立つところを持たない真に独立した人間のことである。芭蕉は臨済録も読んでいたであろう。そのような人物を慕い、「風情の人の実(まこと)をうかがふ」ということであるから、風雅の人の真実に迫るということである。

 

 前者の「無依の道者」を「禅」と解釈し、後者の「風雅の人の真実」を「俳諧の道」と考えれば、禅と俳諧は一致し、「俳禅一味」が成り立つ。そしてその心は、次に「猶、栖(すみか)をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の愁もなし」と言うように、家も持たず、器物も持たず、手に何も持たずして旅を重ねて愁いもないという。まさにこれは禅者の境涯ではないか。

 

2020.04.15 Wednesday

コロナ・パンデミックと禅(その3)

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コロナ・パンデミックと禅(その3)

丸川春潭

 4月2日、12日につづき、コロナ・パンデミックについて考察します。

 12日(その2)のブログでは、コロナ・パンデミックが現代の地球人が未だかって経験したことのない「差別をしない社会現象」であるという切り口での評論でした。

 今日は、新型コロナ対策ということによって、人間社会全体で「人と人の接触を最小限にする社会現象」を現出させたという切り口で考えて見たいと思います。これまた現存する人類が経験したことがない事象ではないかと思います。

 人間は社会的動物であり、複数の集まりすなわち群れを形成してこその人間であり人類であります。新型コロナの蔓延を防ぐには人と人の接触を断つことだけが唯一の有効な施策であると為政者及び医系専門家が異口同音に言っています。安倍首相は非常事態宣言を発出し、できたら人の接触を80%削減したいと国民に訴えています。日本は他国と比べて拘束力を持たない甘いというか緩い政策で行こうとしています。欧米では軒並み拘束力を強めた施策を出しており、夜の宴会をした市長の奥さんでさえ禁固365日か数十万円の罰金刑になるかも知れないというニュースも出ています。

 夜の接待・宴会とかカラオケやパチンコなどはなくても生活できるし、コンサートとかライブは少しの間辛抱すれば良いけれど、そして官庁や大会社の本社機能は在宅勤務でのテレワークで7割の通勤出社は不可能では無いでしょうが、中小企業のメーカーの仕事は未だAI化にはほど遠く、機械を動かす職工がいなければ生産はできない。休業補償が喧々諤々論議されているところであります。

 このブログではこういう社会現象から少し離れてマクロ的に見て考えてみたいのです。こういう人の接触を極力少なくしなければならない、断たねばならないということによって、改めて人の接触の本質的な価値が問われてくると考えます。すなわち人と人の接触がなくても可能な事柄を全部洗い出しそぎ落とした後に、どうしても人と人の接触がなければならないものが残る、その残ったものをしっかりと見究めなければならない。

 これからの来たる社会を考えても、ITが発達し、AI(人工知能)が社会にどんどんはめ込まれて行けば、人と人の接触は大きく変容するでしょう。5G時代になって究極のテレワーク機器が行き渡れば、人が集まってしなければならない仕事は激減するでしょう。今、国や東京都が閉鎖を要請している学校や塾も遠隔授業が普及すると日常化してくるであろうし、映画館や劇場とか美術館もネット配信などを駆使しすれば、電車に乗って人の肩越しから見るのではなくゆったりと在宅でその目的が達せられると云うことになります。そうするともちろん箱物としての建物がかなりの割合で不用になってくるのみならず人が移動するためのインフラもスケールダウンが可能になってきます。人が集まらなければできない仕事や活動や娯楽を含めた都市機能の中でどうしても残るものは何なのか考察する必要があります。 

 体の機能に触れなければならない病院業務とか身体に触らなければならないマッサージや美容院や理髪店とかは接触をなくするわけにはいかない。シェフとか料理人のできたての料理はそこに行かねば食べられないでしょうが、昨今オンライン宴会があちこちでやられ始めており、オンラインバーまで出現してきています。

 このようにネットとかテレワークを最大限活用して、遠隔での人と人のコンタクトで事が済むものと、どうしても面と向かってすなわち人の接触がなければならない事をこの社会から洗い出し選別してみなければならない。そうすることによりその先に見えてくるものは、今のような過密な都市というものから大きく変容した社会が見えてくるのではなかろうか? すなわち新型コロナによるパンデミックは、人口の集中化の方向を逆転する切っ掛けを作ることになるのではないだろうか? という考えに到ります。

 さらに考えてみれば、朝晩の東京の満員電車は人間の自然の生活としては異常状態ではないか? 都会の人間はこういう異常な過密状態に慣れてこれが当たり前になっているけれども、人間の自然としてこういう都市での過密状態は不自然ではないかということです。ウイルスは自然であり自然に振る舞うだけなのが、人間があまりにも不自然な状態(過密すぎる生活)だからそこに他(ウイルス)の自然と軋轢が生じているのが、現在のコロナ・パンデミックではないか。人間はそれをウイルスとの戦争だと云いますが、ウイルスの方から見れば不自然(過密都会)は所詮長続きするものではなく何れは破綻するものであり、自然(非過密)に戻れば良いのだと笑っているのでは無いだろうか?

 地球上の人類の文化が中途半端な現段階では、人口集中という非自然・反自然・不自然な状態であるが、それが未だ中途半端な段階であるからであり、自然に戻れば(過密を避けた生活圏の構築ができれば)、自然(ウイルス)との折り合いも平和裏につくのではないか。まさに人類が次の段階に進む方向をウイルスという自然が指し示しているのではなかろうか? 皆さんのご意見をお待ちします。 合掌

 

2020.04.13 Monday

コロナ・パンデミックと禅(その2)

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コロナ・パンデミックと禅(その2)

丸川春潭

 4月2日にこの題でブログさせていただきました。それから10日が経ち、東京を始めとして全国で罹患が激増してきています。特に東京はニューヨークの軌跡を辿っているとも云われ、政府が4月7日に緊急事態宣言を発出しました。国内外で騒然とし、様々な評論や意見がネットやテレビや新聞に掲載されています。

 昨日(4月11日)の15時からテレビ2チャンネル(Eテレ)で「100分で名著」(ペスト)の再放送を見ることができました。約70年前のアルジェリアのペストの蔓延と21世紀の現在のコロナ・パンデミックとはいろいろな点が違いますが、共通点もあり興味深く100分があっという間でした。カミュの不条理の哲学についての論究は後日に改めてするとして、この10日間で考えたことを少しまとめておきたいと思います。

 このコロナ・パンデミックは生命・健康問題、経済問題を超えた大命題を人類に問い掛けていると考えました。

 いろいろな方が、政治学者が経済学者が社会科学者が異なった角度からこの壮大な災難に対して評論されていますが、小生はそのどれとも少し違う角度から二つ申し上げたいと思います。

 先ず第一は、新型コロナの感染が老若男女貴賤を問わず貧富を問わず人種を問わず罹患するということに着目しました。すなわち社会的差別がない事象の出現です。このようなあらゆる社会的差別を超える社会的現象というものは第二次大戦とも違い、歴史的にも例がないのではないかと思われます。

 すなわち新型コロナは人類に平等を実体的に示していると思います。言い方を変えると学歴だとか貧富とか地位の高下だとか日頃様々な差別の中で生きておりそれが常識となって、同じ人間としての共通基盤であるということを実態として見たことも考えたこともないのが現代社会です。人々は人類が平等であると云うことを実態として見いだせなないまま様々な差別の場でこれしかないと思い込んで生活しているのです。

 このコロナ・パンデミックは、社会のあらゆる差別を無視して罹患を拡大しています。人種を越え国境を越えて、新型コロナウイルスは人から人へ伝わり拡大しています。新型コロナウイルスは社会的に人を差別しないのです。差別しか見えない現代社会にとって、差別のない社会現象は極めてレアな経験であります。

 これは人類とコロナの戦争であるとどこかの国の指導者は叫んでいました。コロナ・パンデミックに人類は打ち勝った証として東京オリンピックを一年後に開催すると安倍首相は申されています。 

 この人類的戦いの最初には、社会的に差別の無い共通の基盤に立ってこの新型コロナという共通の敵に対処しなければならないという認識が、このパンデミックに対する本質的な出発点にならなければならないと考えます。大きくは国際的な協調においても、小さくは地域においてもであり、そして最後は個人の自覚の問題になります。

 カミュは、「われわれの連帯」の形成を指向していましたが、差別を超えた人と人との連帯が、コロナ・パンデミックを契機として少しでも醸成されれば、人類の未来にとって災い転じて福となる見方もできるのではないかと管見する次第であります。

 長くなりますので、もう一つの方は日を改めてブログさせていただきます。

 

2020.04.02 Thursday

コロナ・パンデミックと禅

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コロナ・パンデミックと禅

丸川春潭

 皆さま、未曾有のコロナ・パンデミックが吹き荒れていますが、如何お過ごしですか? おそらく皆さまは居士禅者としてしっかり自分の責任を果たしつつ、ますます道心堅固にご精進のことと拝察致しております。

 こういう時こそ、しっかり座りましょうとの趣旨のブログを書いておりましたら、総裁千鈞庵霞山老師が「禅者の日常〜独坐大雄峯〜」のブログを今朝投稿されました。お読みになられたと思いますが、簡潔にして明快な時宜を得たブログです。

 重複は避けつつ、しかしこの方向性を保ちつつもう少しこういう時期だからこそ感じたことを申し上げておきたいと思います。

 テレビ等での専門家や識者がコロナに対して色々云われていますが、心にとまったコメントを一つ紹介したいと思います。それは様々な情報に反応して怯えるのではなく、コロナを「正しく恐れよ!」というコメントでした。これは感情的ではなく科学的に考えて冷静に対処すべしと云うことであり、その通りだと思います。「人間禅は迷信を説かず科学に違背することなく堂々と如是法を挙揚し合掌して・・・」にあるように、風評に惑わされることなく、科学的に合理的に判断して対処することができる在家禅集団です。密閉・密集・密接は判りやすいキャッチフレーズですが若干あいまいで大まか過ぎます。もう少し科学的に要約すると、会話とか咳とかの場合の飛沫感染を恐れることであり、加えて感染者が触れた可能性のある部分(電車のつり革、ドアのノブ等)にはウイルスが残存している可能性があるのでそれを恐れよということです。

 人間禅の第三世総裁磨甎庵劫石老師から学生時代にお伺いしたことですが、禅の修行は黙に徹するべきであり、古来 修行者は口の周りが白くなるくらいでないと駄目だ!と。黙って座っていたら口の周りが白くなるのか!? と意外に思い覚えています。確かに、摂心会は板木(ばんぎ)、柝(たく)、引磬(いんきん)、鈴(れい)を用い、言葉ではなく黙々と集団行動が取られて行事が制御されています。したがって密集しても言葉がなければ飛沫感染はなく、各自が手洗いを励行すれば静座会などは、基本的には集会として人は集まっても都会の買物だとか交通機関より余程 安心安全な場所です。摂心会の場合にも基本的には黙の修行ですから静座会に準じますが、問題は参禅の時でしょう。なぜなら問答が付きものですから、したがって対策工夫が必要になります。これはコロナにかかわらず通常のインフルエンザ時でも同じことですが、公案の拈呈(ねんてい:公案を唱えること)は師家に聞こえる程度の声でいいのですが、初心者の中には見解(けんげ:自分の見解を師家に向かって呈すること)を呈するように公案を大音声で唱える人が時々います。これはこの際趣旨を説明して声量を下げさせる必要があります。

 そして全般的に、自分が症状は出ていなくても、感染している可能性を考えて行動することが必要です。例えば、人からうつされるからではなく他人にうつさないためのマスク着用とか手洗いの励行は、日常生活はもとより静座会だとか摂心会に参加する時の基本的マナーと考えます。禅者であればこそこういう配慮ができるはずです。

 禅の修行は、自分のためだけのものではなく、また世代を超えた断続するべからざる継続し積み上げする事項です。過度に心配することなく正しく対処して事に当たることが大切です。まさにこういう事態こそ黙に徹し、また他者を常に大切にする自分のマナーを身に付ける機会として、粛々と法の挙揚をし修行を続けて行きたいものです。そしていろいろの環境条件で静座会とか摂心会ができなくなったところは、千鈞庵老師のブログの「禅者の日常〜独坐大雄峯〜」でしっかり三昧力を磨くべしです。

 

2020.03.31 Tuesday

芭蕉 菖蒲の句

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芭蕉 菖蒲の句

杉山呼龍

 

 あやめ草 足に結(むすば)ん草鞋(わらじ)の緒

 

 これは芭蕉が仙台で詠んだ句である。「上野・谷中の花の梢、またいつかは、と心細し」と、芭蕉は、弥生の27日に江戸を立ち、元禄2年5月4日仙台に入った。曽良日記には「若林川、長町ノ出口也。此川一ツ隔テ仙台町入口也」とある。

 若林川とは今の広瀬川、長町は仙台道場のとなりにある町で、現在では高層マンションが立ち並ぶ新興住宅地。芭蕉は、談林派俳人、大淀三千風に会おうとしたが、会えず、その弟子で俳諧書林を営む画工、加衛門に会い、一日中仙台を案内してもらうことになった。この人物も和風軒加之という名前を持つ俳人である。芭蕉が案内された中に薬師堂という建物があり、伊達政宗によって造営され現在も残っている。

 そこに芭蕉のこの句が彫られている句碑がある。芭蕉は、加衛門から餞別として紺色の染緒の付いた草鞋二足その他をもらった。紺の染緒はあやめに見立てたものであろう。当時あやめは、端午の節句には魔除けとして、軒に挿してかざしたり、身体につけることもあったという。芭蕉は、その心ばえを賛嘆して「風流のしれもの ここに至りてその実を顕す」としてこの句を『おくの細道』に載せている。

 

(安や免草足尓結ん屮鞋の緒 芭蕉翁)

 

2020.03.30 Monday

禅者の日常 〜独坐大雄峯〜

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禅者の日常 〜独坐大雄峯〜

佐瀬霞山

 昨今の新型コロナウイルスによる世界各地での感染は、終息が見えない状況のなか、日本の公共施設は休館に追い込まれ、会場をお借りして開催している静坐会も中止となっています。

 2020年3月30日現在、人間禅の関係者で感染の報告はありませんが、皆で集まって座禅をすることは困難な状況にあります。しかし、このようなときも普段と変わらずに毎日自宅で座ることが大切だと私は思います。

 また、本当の力がつくのは、一人で確り座るときだと思います。

 大変なときにこそ確り座禅する心構えが大切です。

 場所は異なりますが、皆で一緒に毎日座りましょう。

霞山拝

 

2020.03.22 Sunday

知的障害福祉施設ヤマユリ園植松被告の裁判結果を見て(その2)

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知的障害福祉施設ヤマユリ園植松被告の裁判結果を見て(その2)

丸川春潭

 昨日(令和2年3月16日)、表題の裁判において植松被告に死刑判決が出されました。この事件は2016年7月に起きた殺人事件ですが、この事件は日常茶飯事に起きている殺人事件とは大きく異なる性格を持っており、この裁判には少なからず関心を持ち続けていました。そしてこの裁判の特異点の一つを前報のブログ(その1)でお話ししました。

 この裁判でもう一つの小生が特異だと思っていることがあり、それについて(その2)としてお話しします。それは、死亡した19人を含む被害者48人中47人の氏名が秘匿されてアルファベットの記号で裁判が審理されたことであります。

 この秘匿しなければならなくなった家族の心情の要因の一つに、重度精神障害者として社会的にレッテルを貼られ取り扱われることを避けたいという当事者の気持ちがあったものと推察します。すなわち社会に対する一般的な恥ずかしいという思いからであります。これが氏名を秘匿することになった全ての要因とは思いませんが、その一つであることは間違いないと思います。そしてこういう心情になるのは当事者の責任ではむしろなく、社会全体の責任であると考えます。社会全体が当事者にそう考えるようにさせていると考えるべきでしょう。これはまさに世の中の多くの人の心の片隅に、植松被告と同じ考え方(役に立たない人間は、社会的お荷物であると云う考え方)があるということです。

 すなわちこの名前を隠したいという心情は、前報(その1)で申したことと軌を一にすることと考えます。どんな重度精神障害者であろうと社会的に役に立たない存在であろうと全ての人間には等しく「本来の面目」を宿していると云う観点がないから、こういう心情が生じてくるのです。もちろん当事者のみならず社会全体にこの視点が薄いと云うことで当事者も同じ色に染まってしまっているということです。

 どんな人間も卑下するものは本来なにもないのであり、全ての人が自己の存在を胸を張って生きて行けなくてはならないのです。そういう社会的風土の醸成こそが必要なのです。この方向は取りも直さず世界楽土建設の道に他ならないのであり、まさにわれわれのやらねばならない使命であります。少しずつでもこの風土づくりを各支部・各禅会の足下から広げて行かねばならないのです。

 植松被告に対して根本的に反論でき、更に機会があれば本人を間違いであったと納得させるだけのポテンシャルと力を社会的に持ちたいものであります。人間禅の布教と教宣の拡大はそのためにやっているのであり、二度と植松被告のような若者を出さないためにやっているのです。根本的反論ができる見性の眼を具する人を一人でも社会に送り出し、人間の尊厳を根本的に認める社会風土を醸成するためであります。以上、ヤマユリ園事件の判決の反響を見て感じたことであります。(終)

 

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