老師通信

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2020.07.29 Wednesday

夢窓国師出生の周辺(二)母方一族のルーツ

 

夢窓国師出生の周辺(二)母方一族のルーツ

粕谷要道

 前回紹介した昭和50年に書かれた「夢窓国師の生涯について」(解説・川瀬一馬)、では国師は、後宇多天皇の健治元年(1275年)伊勢国三宅村で出生、父は源氏(佐々木氏)、母は平氏、一族の争いから四才の時、甲斐国へ移住、その八月生母を喪った。父が甲州へ移ったのは、同じ源氏姓の由縁、武田源氏をたよってのことであろうと思われる。とあり。

 その後、9才の時、平塩山の空阿(平塩寺)につき出家を志す。(以下略)

 20歳の時に、顕密の教学、天台の学問を学んだ平塩寺を離れ、京都建仁寺の無隠円範禅師(蘭渓道隆 1213〜1278の弟子)に入門するまでのほぼ16年間を第二のふるさと甲斐国で過ごす。

 『一族の争い』については前回、そのいきさつについて記したが、問題は「母は平氏」とする点である。

 昭和以前の出版物のみならず、最近の電子事典でも「平政村の娘」(「北条氏?」)の記述が散見するが、その混乱の源は初代執権北条時政(1138〜1215)が桓武平氏、平直方流れを称した仮冒(かぼう−偽称)にあるようである。

 時政は伊豆の土豪出身という説が現在最有力である。それも、狩野川流域の1キロ平方余りの領地の土豪の庶家との説である。

 幕府の公的記録『吾妻鏡』−幕末1300年頃幕府中枢の複数者(二階堂氏、三善氏ら)によって編纂された、初代頼朝より6代宗尊親王までの将軍記によると文治5年6月6日、田方郡内には南条、北条、上条、中条、と呼ばれる地域がならんでいた。としている。(平安時代中期以降、律令制の郡は名田または名(みょう)といった徴税単位は細分化され、方位や区分を示す「条」と呼ぶ例が多くみられた。)

 北条氏は桓武平氏高望流れの平直方の子孫と称し、伊豆国田方郡北条(現・伊豆の国市)を拠点とした在地豪族で、時政以前の系譜は系図によりすべて異なり、現代の研究では桓武平氏の流れであることを疑問視乃至否定する研究者が多く、祖父が北条時家、父が時方(又は時兼)という点では諸系図ほぼ一致しており、時家の≪尊卑文脈≫傍注には「伊豆介(いずのすけ)」とあり、土着したのはそれほど古い年代ではなく、鎌倉殿(鎌倉幕府)内では世渡りの巧みさに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にある土豪であったのでは?との推察もなされている。

 『吾妻鏡』では40才を越えた時政に「介(すけ−四等官、国司の第二位、守の次位)や都の官位などを付けず、ただ「北条四郎」「当国の豪傑」とのみ記している。

 平治の乱で戦死した義朝の嫡男・頼朝が伊豆国へ配流されたことにより、平家側の監視役であった時政が、頼朝と政子(この名も、頼朝没後、朝廷より賜った名前である、幼名、実名は不詳)の想定外の婚姻により、頼朝挙兵(内乱)に賭け、加担した「石橋山の戦い」では、頼朝軍の構成をみても、北条時政の保有武力については、突出した戦力を有していたとは言い難いものであった。この時従軍した長男宗時(年齢不詳19才か20才?)は討ち死にし、次男義時は満17才、孫の金剛(後の3代執権泰時)は満7才であった。頼朝軍300騎に対し、平氏側3000騎ともいわれている。

 建仁2年(1202年)6月、時政は宗時の菩提を弔うとして、伊豆国北条に下向している。(夢のお告げだと、吾妻鏡は記している。時政が執権に就任する前年であった。宗時の墓は静岡県田方郡函南町大竹に残っている。)

 

時政の家族構成は;

父;北条時方(または時兼)母;伊豆掾伴為房の娘

妻;伊藤祐親の娘。

 男子;北条宗時(?〜1180)

 女子;阿波の局(?〜1227)(阿野全成妻)

 男子;北条義時(1163〜1224)

妻;足立遠元の娘

 女子;稲毛女房(稲毛重成妻・子に綾小路師季妻)

 男子;北条時房(1175〜1240)

妻;牧の方

 女子;平賀朝雅および源国通妻;滋野井実宣妻(?〜1216)

 女子;宇都宮頼綱妻

 男子;北条政憲(1189〜1204)

生母不明

 女子;政子(1157〜1225)(源頼朝妻)

 女子;時子(?〜1196)(足利義兼妻・政子と同母)

 女子;畠山重忠(子;畠山重保)および足利義純妻

 女子;坊門忠清妻

 女子;河野通信妻

 女子;大岡時親妻

 

 鎌倉幕府、厳密にいえば当時は「鎌倉殿」と呼ばれていたように源頼朝が全国の武士の頂点に立った、という私的意味合いの強い機関で、公的意味合いの強い「鎌倉幕府」という用語は、実際は江戸時代以降より使用されている用語である。

 また、鎌倉時代はいつから始まるのか?という問いについても現在研究者の間でも諸説分れる。

 鎌倉時代とは日本史で武家政権が鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つであるが、朝廷と並んで全国統治の中心となった、「鎌倉殿」と呼ばれた源頼朝に始まる武家政権が相模国鎌倉に所在した時期を言うが、本格的な武家による統治が開始した時代であり、始期については、従来の歴史教科書でも記述されている。隠隠坑嫁の源頼朝征夷代将軍就任説をはじめ諸説あるが、

■隠隠牽廓東国支配権の承認を得た説。

1185年守護・地頭設置権を認められた説が有る。

 

 頼朝挙兵、甲斐源氏とのいきさつを再説すると、治承4年(1180年)8月17日、頼朝軍は伊豆国目代山木兼隆を襲撃して討ち取った。

 この襲撃は時政の館が拠点となり、山木館襲撃には時政自身も加わっていた。

 この襲撃の後、頼朝は伊豆国国衙を掌握した。その後、頼朝は三浦氏との合流を図り、8月20日、伊豆を出て土肥実平の所領の相模国の土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出した。

 北条時政父子もほかの伊豆国武士らと共に頼朝に従軍した。しかしその前に平氏方の大庭景親ら3000余騎が立ち塞がった。

 23日、景親は夜戦を仕掛け、頼朝軍は大敗して四散した(石橋山の戦い)。

 この時、時政の嫡男・宗時が大庭方の軍勢に囲まれて討ち死にしている。

 頼朝、実平らは箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半東へ逃れ、28日、真鶴岬、(神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。

 時政はそこまでの途中経過は文献により異なるが、頼朝とは一旦離れ、甲斐国に赴き同地で挙兵した武田信義・一条忠頼ら甲斐源氏と合流することになった。10月13日、甲斐源氏は時政と共に駿河に進攻し(鉢田の戦い)、房総・武蔵を制圧して勢力を盛り返した頼朝軍も黄瀬川に到達した。

 頼朝と甲斐源氏の大軍を見た平氏軍からは脱落者が相次ぎ、目立った交戦もないまま平氏軍は敗走することとなった(富士川の戦い)。

 その後、佐竹氏、征伐を経て鎌倉に戻った頼朝は、12月12日、新造の大倉亭に移徙の儀を行い、時政も他の御家人と共に列している

 

『吾妻鏡』の「曲筆」について

 

 『吾妻鏡』によると、時政はいったん安房にわたってから、現地で頼朝と合流した。態勢の立て直しが模索される中、9月8日、時政は甲斐源氏を味方に引き入れる密命を受けて甲斐に赴き、15日、武田信義・一条忠頼、のいる逸見山に到着して「頼朝の仰せの趣」を伝えたという。上総広常を味方につけた頼朝は、9月20日に土屋宗遠を第二の使者として甲斐に送り、24日、宗遠の来訪を受けた甲斐源氏は一族を集めて、頼朝と駿河で参会すべきか評議を重ねている。一方『延慶本平家物語』では、「時政は敗戦後に頼朝とはぐれてそのまま甲斐に逃れた」「頼朝は時政の生死を知らずに、宗遠を甲斐に使者として送った」という記述があり、『吾妻鏡』の記述と齟齬が見られる。時政は単純に甲斐に亡命していただけという解釈も成り立ち、甲斐源氏懐柔のため奔走したという逸話は『吾妻鏡』編者による北条氏顕彰のための曲筆の可能性がある。時政が使者に選ばれた背景として、京都側の対幕府窓口である吉田経房が伊豆守在任中に、在庁官人であった時政と交流があったためという説もある。

 時政は元来、北条氏の当主ではなく傍流で、国衛在庁から排除されていたとの見方がある。ただ、国衛最有力在庁でも太郎・四郎と表記されている例もあり、後年の護良親王令旨や『吉口伝』のように時政を在庁官人とする資料もあり、北条時政の前半生及び頼朝挙兵以前の北条氏は謎に包まれている。

 

 時政がほぼ一代で天下第一の権力者となったにもかかわらず、兄弟や従兄弟が全く歴史に登場してこない、この時代に有りがちの粛清などの記録も一切なく異色で、最後は次男で後継者の義時と尼将軍政子により牧氏事件(将軍実朝暗殺未遂容疑)、畠山氏謀殺などで晩節を汚したとして、継室の牧の方ともども鎌倉から伊豆国北条へ追放され、建保3年(1215年)1月6日、腫瘍のため北条で死去した。享年78。

 

 時政はまた、主君頼朝の奥州討伐の戦勝祈願と称して伊豆国(現伊豆の国市)に建立したといわれている願成就院は、実際にはそれ以前から、北条氏の氏寺建立の計画があり、運慶に現国宝に指定されている阿弥陀如来坐像、不動明王二童子立像、毘沙門天立像などをつくらせていた。その後2代目義時、3代目泰時も整備に手をかけ広大な敷地の寺院であった。この願成就院はその後、北条早雲や秀吉の兵火に遭い、二度焼失の末、江戸期に北条氏の末裔により再建されている。

 写真のこの像も伝承と吾妻鏡の記述をもとにその際に作製されたものと考えられる。なぜか左頬に目立つ黒子、いかついがどこかユーモラス、悪く言えば人が良いのか稍間の抜けた風貌、京武者になることを果たせず、武骨そのまま坂東武者の原型然とした塑像?である。

 

北条時政像(伊豆の国市、願成就院蔵)

 

 得宗家以外にも名越、政村、金沢、大仏、宗政、赤橋などの名で大きく枝葉を広げていく北条一族はすべて時政一人の系統であった。

 

運慶作の仏像5躯(大御堂安置)2013年国宝指定

 

木造阿弥陀如来坐像 「堂々とした体格と彫りの深い衣文が特色。」

鎌倉時代、運慶作。像高 142センチメーター。胸前に両手を挙げる説法印「吾妻鏡」に運慶が阿弥陀如来像を造像した旨の記述があり、現存する眷属の不動明王二童子像と毘沙門天像が、像内納入品等から運慶の真作であると確認されていること等から、阿弥陀如来像も運慶の作とされている。

 

木造不動明王二童子立像 −像高は不動像が136.8cm、制吒迦童子(せいたかどうじ)像が81.8cm、矜羯羅童子(こんがらどうじ)像が77.9cmである。本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。不動明王像と毘沙門天像(後出)の胎内に納められていた塔婆形銘札(めいさつ)には、「文治2年(1186)5月3日、北条時政の発願により運慶が造り始めた」という趣旨の記載がある。この銘札は、江戸時代の修理の際に取り出されていたもので、この銘札と願成就院の諸仏とを結びつけることには慎重な意見も多かった。しかし、神奈川県・浄楽寺にある運慶作の不動明王、毘沙門天像の胎内からも同様の銘札が発見されたこと、さらには願成就院の二童子像の胎内からも新たに銘札が発見されたことから、願成就院の阿弥陀如来像・不動明王二童子像・毘沙門天像は運慶の真作であると認められるようになった。30歳代の運慶の真作と呼べる作品は非常に少ないが、この不動明王二童子像はその時期の作品である。中尊の不動明王像は肉付きのよい逞しい体つきが特色である。平安時代中期以降の不動明王像は、安然の「不動十九観」に基づき、片目で天、片目で地を睨み(天地眼)、口から2本突き出した牙は片方が上向き、もう片方が下向きとなる(牙上下出相)左右非対称の面相で表現されることが多いが、この不動明王像は両目とも真正面を見据え、牙は2本とも下向きとなる、左右対称の面相となっている。目は水晶に瞳を描いてはめ込んだ「玉眼」と呼ばれる技法で制作されており、爛々とした輝きを持つ。戦火を免れ現在に残る。

 

木造毘沙門天立像−本尊阿弥陀如来の眷属(脇侍)として安置されている。不動明王二童子像と同様、胎内に納められていた運慶の名のある塔婆形名札が保存されており、運慶の真作であることが確認されている。鎧をまとい邪鬼を踏みつけて立つ一般的な毘沙門天像のスタイルであるが、不動明王像と同様に体格が堂々とした武道家のような重量感溢れるものであり、厚い胸板と引き締まった腹、しっかりと筋肉のついた腰によって、鎧を着込んだ姿にも関わらず躍動感に溢れている。眼も玉眼を使用して生き生きとした表現が取られている。胎内の塔婆形名札には不動明王二童子と同じ日付で造像開始されたことが記載されており、数多くの戦火を逃れて現在に残る。

 

寿福寺とビャクシン(鎌倉市扇ケ谷−ウィキペディアより)

 

 鎌倉幕府の終期は1333年の元弘の乱の最終段階・鎌倉東勝寺(北条得宗家菩提寺)合戦での得宗家高時(享年31)他4代執権経験者(基時48才、貞顕56才、守時39才)を含む北条氏一族の敗死滅亡である。

 全国の山河幽谷を西走東奔、寺院の築庭など聖胎長養しておられた夢窓国師(当時53歳)は高時から「また是非に」と言われ、嘉歴2年(1327年)2月より、瑞泉院(後の瑞泉寺)の建立などのために浄智寺(鎌倉)に住されていた。嘗て9代執権貞時夫妻(高時の父母−父とは9才で死別)が師の高峰顕日を那須の雲巖寺より鎌倉に度々招いて、参禅していた経緯があり、高時も国師を鎌倉寿福寺(尼将軍北条政子が宋より帰朝した栄西禅師を招いて開山とした)へ招いたりしていたが、かつてはことごとく固辞されていた。

 「幕府の油断と楽観とは、意外に滅亡を早め、五月初めに上野の郷里で兵を興した新田義貞は、二十一日鎌倉に攻め入り、高時以下一族自刃して北条氏は滅亡した。最後の時に鎌倉に居合わせた国師は敗奔遭擒の士卒を救い、高時の母覺海夫人なども無事を得たものと推せられる」(「解説・国師の生涯について」)

 事実国師は当地鎌倉で間近かに迫る幕府滅亡の時を万感の想いで見届けられたのであろう。正中3年(1326年)には高時は病のため24才で執権を辞して出家していた(この時代貴族や武士が度々出家するが大抵現役引退の宣言?や何かの目論見があったり、死去目前の出家もありで、求道専一とは程遠いのが通例のようである)高時に代わって、嘉暦の騒動を経て、11日間のみ執権を務めたと伝えられる貞顕は国師の従兄、金澤流れ北条顕時の嫡男であった。

 

2020.07.26 Sunday

入門当時を振り返って

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入門当時を振り返って

延 時 真 覚

1.初めて摂心会に参加

 自性寺での早朝坐禅会に参加するようになり、2年を経過した頃、鎮西道場の2人の先輩居士から、「本格の修業をして見ないか」とのお誘いがありました。

 両居士から、「道力は坐るだけでも身につくが、道眼を磨くには法脈の正しい師家に参禅しなければ駄目だ」と口をすっぱくして言われました。

 しかしながら、早朝坐禅が結構楽しく、自己満足しておりましたので、正直な話、このお誘いに躊躇しておりました。何度目かのお誘いで、修行の厳しさ・困難さには若干の不安があったものの挑戦してみようという気になり、昭和52年の夏、第148回の鎮西道場摂心会に早朝坐禅のメンバー2人と私の3人が参加させて頂きました。

 始めて摂心会というものに参加させていただき、本格の修行の厳しさというものを体験させていただきました。摂心というのは「心をおさめて散らさず」という意味で、一週間、真剣に坐禅の修行に打ち込むことでございます。

 初めは、膝や腰が痛くなり、静坐に集中できませんでしたが、四日目を過ぎると足の痛みにも慣れるようになり、かなり集中して坐ることができるようになりました。

 一方、摂心中、作務といって道場周辺の草取り、樹木の伐採といったような作業を行います。作務にも軽い作務から重労働の作務まで色々ありますが、20歳以上年上の先輩居士方の働きぶりには眼を見張るものがありました。

 真夏の太陽のもとで汗だくで骨身を惜しまず懸命に作務をされる姿をみて本当に驚いたものでございます。

 今から考えますと、自性寺早朝坐禅会での2人の先輩との出逢いがなかったならば、「本当の自分を知る」という得難い法縁にめぐり合うことはなかったであろうと思うとき、本当に有難い出会いであったと感謝しております。

 

2.本格の坐禅修行

 昭和52年12月、鎮西道場第149回の摂心会に於いて、鎮西道場の担当師家に入門をお許し頂き、正式に禅の修行をすることになったのでございます。

 最初の公案をいただき、とにかく死に物狂いで参禅しました。『公案』というのは、『本当の自分を知る』ために、お師家さんから私ども学人に与えられる問題でございます。

 入門して最初に与えられる『公案』のことを『初関』と云っております。先輩から、「初関を持っている者は、必ず参禅するように!! 参禅できないということは、真剣さが足りないからだ!! 」と厳しく言われておりました。

 しかしながら、室内に入っても、入っても、鈴をふられるばかりで3日目頃から完全に行き詰まってしまいました。それでも「何が何でも参禅するんだ!! 」という覚悟でおりましたので、順番が来たら必ず立ち上がって、参禅したものです。見解に自信がない時など、喚鐘を叩いて隠寮へ向う廊下を歩きながら真剣に工夫することもありました。

 又、一日の行事が終わった夜10時以降に、「これだ!!」という見解が出るまで必ず随坐をして公案の工夫に骨折ったものでございます。

 有難かったのは、先輩居士の方々が私たち入門者の髄坐に付き合っていただいたことでございます。

 この髄坐にどれほど励まされたことか、今思い出しても本当に有難く、感謝の一語に尽きます。四日目の夜は、徹夜で夜坐をし、12月の寒い時でございましたが眠くなったら、風呂場に行って頭から水をかぶり、また室内で集中できないので庭の坐禅石に座布を敷き、黙々と坐ったものでございます。とにかく公案三昧になって、死物狂いで坐りました。こうして摂心会の後半になると身も心もクタクタになりましたが、寝ても覚めても公案の工夫に集中しました。

 ある朝等、南小倉駅から中津行きの下り列車に乗ったはずなのに、気がついたら逆方向の小倉行きに乗っており、あわてて、下り列車に乗り換えたこともございました。

 中津駅から南小倉駅まで約一時間を要しますが、この行き帰りの列車の中は、公案の工夫に集中できる絶好の時間帯でございました。

 摂心会が円了して、円了作礼の席で、「この摂心会に参加して本当によかった」と心の底から喜びと感謝の念が溢れ出てまいりました。

 鎮西道場149回の摂心会は、私の坐禅修行の中で大きな節目となったのでございます。

 私の体験から初心者の方に申し上げたいことは、大勇猛心を奮起し、真剣に骨折れば、必ず見性できるということでございます。見性というのは、判りやすくいえば、『本当の自分に気づく』、すなわち『本当の自分を自覚する』ということでございます。見性するためには、通り一片の努力ではなく、真剣に骨を折るという覚悟がどうしても必要となります。

 

3.坐禅の基本

 坐禅も柔道、剣道、茶道、書道などの諸芸道も、基本に基づいた正しいやりかたと正しい方法が大切でございます。

 坐禅の基本は、数息観であり、呼吸を数えるという一点に集中し、これに成り切る事でございます。基本のとおり素直に実行し、努力すること、それが修行であり、坐禅に限らず道を学ぶ者の心得でございます。

 諸芸道の教えの中に「守・破・離」と言われるものがあります。

 「守」、まもるとは、師匠から教えを受けた通りの事を忠実に守り、これを反復して正確に身に着ける段階、つまり基礎・基本を忠実に守って、身に付ける段階、

 「破」、やぶるとは、師匠の教えをすべて自分のものにし、体得した基本や型を意識しなくても自然に発露でき、その上で自分の新しい工夫と努力を加えて、師匠の教えから少しずつ成長してゆく段階、

 「離」、離れるとは、自分の努力と創造力によって、師匠の教えから脱皮すると共に、さらなる精進により、型を離れて独自の世界を創り出していく段階のことをいいます。

 人間禅の出版物である『坐禅のすすめ』という小冊子の中で、耕雲庵立田英山老大師は、数息観を、修練の程度に応じて前期、中期、後期の3段階に分けられております。

 前期は一から百まで数えあげ、次にまた一に戻って百まで数えあげることをくりかえすやり方、

 中期は十までを繰り返すやりかた、

 後期は呼吸を数えないやり方でありますが、私は、これらの3段階は、守・破・離の3段階に当てはめられるのではないかと思います。

 数息観は、三昧力を養う基本であります。正しく静坐して数息観を実地に修錬し、三昧力を養い深めていくこと、これが禅の修行の基本であります。

 この数息観は、一見、易しそうに思われますが、至難の業でございまして、全身全霊を傾注してやらなければならないのであります。

 ましてや、数息観の究極の目標である、数える自己と数えられる呼吸とが不二一如となる後期の段階までたどり着くのは容易ではございません。

 毎日、倦まず弛まず、根気強く、千鍛百錬して数息観の究極の目標である数息三昧の境地を手に入れたいものでございます。

 諸芸道においても、基本の鍛錬を十分にしておかないと、大成は難しいと言われております。

 「お茶」の技術を精神の領域まで高め、「茶道」として完成させた千利休が「規矩作法」の最後に次のようなことばを残し、基本の大切さを伝えています。 “守りつくして破るとも、離るゝとても本(もと)を忘るな”。

 また、アテネ五輪でまさかの一本負けをしてメダルを逸した柔道の井上康生選手は、「もうやめようかと、考えた日もあったが、次の日には、このままじゃ終われないとも思った。そんな日々が交互に訪れていました」と、当時の苦しい胸の内を打ち明けられております。
 しかしながら、再び最重量の100キロ超級への挑戦を決め、練習を再開しましたが、「これから先、どうなるのか」と心が乱れ、柔道に集中できないスランプの日々が続いたそうでございます。そんな時、井上選手の父であり師匠でもある明氏は、徹底して基本からのやり直しの稽古指導をされたそうでございます。
 その結果、井上選手は、平成17年1月9日、日本武道館で行われた嘉納杯国際大会で見事に優勝されたのであります。さすがにシドニーオリンピックを含め、世界選手権を5度制覇した、井上選手でございます。指導者である父明氏の指導を素直に受け入れ、初心に帰って修行をやり直したのであります。
 利休道歌の中に、「稽古とは一より習い十を知り、十よりかえる もとのその一」というのがあり、基本と向き合うことの大切さを教えております。
 坐禅の修行においても慣れることの恐ろしさは、初心のときの感激が失せて、惰性となり、形だけのものになることであります。
 うっかりすると、それは形だけのものになり、形を生む元である心がそれに伴わなくなる恐れがあります。
 私自身、剣道でスランプに陥った自らの経験からも、我流の稽古に慣れ、真剣さを失い、基本をおろそかにした結果、スランプに陥ったという苦い経験を味わっております。
 しかしながら、幸いにも坐禅との縁ができ、坐禅を続けたお陰で、基本をおろそかにしない本来あるべき稽古に戻れたのでございます。

真覚

 

2020.07.25 Saturday

伝法嗣法の師家を信ずる

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伝法嗣法の師家を信ずる

丸川春潭

 今年の総裁の年頭の垂示は深くそして広く人間禅のこれからの方向性をしめされており、いろいろな意味で素晴らしいとつくづく思っています。この垂示は、新しいホームページの師家通信に掲載されており、スマホでも簡単に読めます。会員はひと月に一回は繰り返し読んで欲しいと思います。

 その中の一節に「私が目指したい人間禅について申し上げます。それは一言で申しますと、我々は「信」をもとにして成り立っている僧伽であるということです。「信」とは、法を信ずる、歴代の仏祖方を信ずる、伝法嗣法の師家を信ずる、道友を信ずる、自分自身を信ずる。この「信」です。」があります。

 五つの信を挙げられましたが、ここでは真ん中の「伝法嗣法の師家を信ずる」について考えて見たいと思います。

 人間禅に伝法の嗣法者は現在二十六名居られます。そして師家の任に就かれている方が十五名居られます。これは凄いことであり、伝法に布教に頼もしい限りです。歴史的に見ますと一つの僧堂一つの在家禅会には伝法の師家は一人であり、一つの僧伽に複数の伝法の師家を持っていることはほとんど見あたりません。したがって人間禅は特殊なケースであり、他の僧伽では見られないことがいくつかあります。総裁老師の存在があり、総裁が各支部・禅会の担当師家を任命することになっています。総裁の任命は絶対であり師家も会員もそれに従います。

 また人間禅の会員として20年30年の古参の会員は例外なく複数の師家に参ずることになります。小生は少ない方だと思いますが40年間で四名の人間禅の師家に参じました。ここで師家と学人の間の信ということが問題になってきます。すなわち師事する師家を自分の意思で選べないということになります。もちろん人間禅に入門し、人間禅の僧伽に入会する時点で信についての大きな選択と決断をしています。転勤で支部を変われば師家が変わることになり、また人間禅全体の人事の観点から担当師家が変わる場合もままあります。人間禅に信を持つと云うことは、人間禅の師家方全てに信を持つと云うことに即なっているのです。従って人間禅の会員は人間禅の中での師家の選択はできないのです。このようにして師事する師家が変わった時でも常に全き信を師家に持てるかどうかを確認しておくことが必要です。また地方支部・禅会の会員で10年以上経っても総裁に参じたことがないという会員が結構おります。こういう人が評議員とか法務会員になって本部に行き総裁に参ずると云うときに、担当師家以外の師家に参ずるということになり、同じように信が問題になります。残念ながら実態として人間禅の場合に師家が変わったのを切っ掛けに参禅修行(師家に独参する修行)から遠ざかるケースが稀ですがありました。

 人間禅の師家方は十人十色で個性が多様であり、それぞれの宗風をお持ちです。しかしこと法という観点からは人間禅の歴代の師家を含めて全て"同坑に異土無し“(同じ坑であればどこを取っても同じ土である)であります。これを会員が信じていれば師家が変わると云うことを正受するということに問題は全くないはずです。学人にとって師家の多様な個性に好きずきが出てくるのは仕方がないとしてもそれによって師事することにいささかの選択があってはならないのです。これがタイトルの「伝法の師家を信ずる」ということになるのです。

 もう少し違う角度から師家と学人の間の信について考えて見たいと思います。師家は自分の精一杯の見識と経験に基づき学人の人間形成を図ろうと腐心するのですが、あるときはその指示が学人にとって今まで経験したことがなかった事柄であったり、自分なりに考えて何故そういう指示が出たのか判らないときがままあるものです。これは室内でのやり取りは勿論のこと平生の布教活動においてもであります。小生も修行時代に何度もそういう経験をしております。この時の学人の対処の仕方が問題になります。自分が納得しないのに従うべきでは無いというのが世間の常識ですが、僧伽における常識は異なり、学人自身にとって何故か判らなくても師家の指示だからと素直に従うのが原則です。これも「伝法の師家を信ずる」ことです。ところが高学歴でインテリゲンチャの中には自分で納得しなければ師家の指示に従えないと云う人もいるわけです。

 ここで信ということをもう一度考えたいのです。信ずるということは自分では届かない見えないものに命を預けるということです。仏教用語ではこれを帰依すると云います。これは容易なことではなくある意味危険なことであり、預けた相手が麻原彰晃であれば本当に命を落とすことになります。人間禅に対する信を入門、入会の時に確認することが大切であり必要な所以です。これがしっかりしていると、総裁に参ずると云うときにもまた師家が変わると云うときにも師家からいろいろな指示が出たときにも戸惑いはないはずです。繰り返しますが、伝法の師家(人間禅の師家)は同坑に異土無しであり、法に関しては無色透明であり絶対です。これに対する信が本物でなければ命がけの修行は出来ませんし、修行を全うすることは出来ません。信ずることの前提には自分の境涯では手が届かない想像も出来ないことがあることを謙虚に自覚することが必要です。その自分では見えないことを伝法の師家は正しく保持していると認めることが信であります。信があるから命を預ける(帰依する)ことができるのです。

 総裁の年頭の垂示の信の一つについて考えて見ました。改めて修行には信がしっかりしているかどうかが一番大切であり、新到者は勿論のこと長年修行をしているものも常にこの信を自分で確認することが必要に思いました。合掌

 

2020.07.24 Friday

坐禅の魅力

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坐禅の魅力

 

延 時 真 覚

1.はじめに

 さて、今年は戦後75年の節目の年でございます。太平洋戦争は、昭和16年12月8日に始まり、4年後の昭和20年8月15日に終っております。私が生まれた年に始まり、ちょうど物心付いた4歳の時に終戦を迎えております。戦争のことは、はっきりと記憶にありませんが、防空壕での生活、あるいは家族と一緒に田舎に疎開したことは、かすかに記憶に残っております。太平洋戦争が終了し、廃墟の中から立ち上がった日本は、75年間の間に奇跡的な復興を遂げ、今日の経済的繁栄をもたらし、物質面では、世界に類を見ないほど豊になって来ております。それに対して精神面においては、明らかに遅れているのでございます。21世紀は、『心の時代』と言われて久しくなりますが、昨今の世情を垣間見るとき、心の問題が様々に表面化して来て、色々な社会問題を引き起こしていることは、ご承知の通りでございます。高度情報化社会の現代は、様々な情報が錯綜し、その情報の多様さに心のゆとりさえ失いかけているのが実情ではないかと考えられるのであります。まさに情報氾濫の時代で、外部からの刺激があまりにも多く、これに気を取られて、なかなか自分自身を見つめる心のゆとりがございません。

 「自分自身を知ること」の重要性については洋の東西を問わず、古くから指摘されておりました。哲学者ソクラテスが日々言っていたという「汝自身を知れ」という言葉は、あまりにも有名でございます。お釈迦様もしかり、「自分自身を知ること」の重要性を指摘されているのでございます。

 私自身、幼年期、少年期、青年期と、ただ世間の波に流され、自分のことを静かに見つめる機会があまりありませんでしたが、32歳の年に坐禅とのご縁をいただき、細々とではありましたが、坐禅の魅力に引かれ、今日まで修行を続けることが出来たことは、誠に有難いことでございます。

 坐禅の修行は、『本当の自分』とは一体何かということを、はっきりと自覚し、その上で、『本当の自分』をさらに育て上げてゆくことでございます。

 

2.坐禅とのかかわり

1)一冊の本との出会い

 社会人になってからも、勤務のかたわら学生時代から始めた剣道を続けておりました。そのうち、剣道6段の試験に挑戦するようになり、練習にも一段と熱が入るようになりました。

 当時、6段以上の昇段試験は、5月に京都で、11月に東京で、9月に地方都市のどこかで、年3回、定期的に実施されておりました。

 昭和49年11月、東京に6段の試験を受けに行った折,試験の前夜、たまたま同宿した先輩受験者の一人に、一冊の書物を紹介して頂きました。その本は、直心影流の道統を継がれた並木 靖という方の書かれた『直心の剣の悟り』という本でございました。

 東京での試験は失敗に終わりましたが、帰ってから、早速、書店で、この本を求め、一気に読んでしまいました。この本は、「剣は心なり 心正からざれば 剣また正しからず 剣を学ばんと欲すれば まず心より学ぶべし」という言葉を残した中津出身の幕末の剣豪 島田虎之助をはじめ、直心影流歴代の流祖方が、いかにして剣の心を極めて行ったかということ、更に、勝海舟や山岡鉄舟が、幕末から明治に至る激動の日本国を救うために、いかに真剣に坐禅と剣の修行に取り組んだかということが縷々述べられております。

 人間禅は、明治のはじめ、国の前途を憂えた山岡鉄舟居士等の先覚者が鎌倉円覚寺管長の蒼龍窟今北洪川老師をお招きして、人材育成のための禅会として「両忘会」を創設したのが始まりでございます。

 この本との出逢いが、私自身の剣道観を大きく軌道修正すると同時に、坐禅への好奇心を芽生えさせたのでございます。

 この頃から、折々暇を見付けて自己流で坐禅を組むようになりましたが、なかなか、うまく坐れませんので、ある日、久留米の鬼僧堂と言われている梅林寺にわざわざ出かけて行き、「坐禅の坐り方を教えてください。」とお願いしましたところ、若い修行僧が出て来られまして、丁寧に指導して下さいました。

 それから、しばらく自宅で坐っておりましたが、足が痛い、眠い、面倒くさいなどで、どうしても途中で止めてしまうことがしばしばでございました。

 

2)禅寺での早朝坐禅

 その内、ふとした縁から中津の自性寺で、早朝坐禅をやっているということがわかり、早速、毎朝の坐禅に参加するようになりました。

 この自性寺は臨済宗妙心寺派の奥平藩歴代の菩提寺で別名を大雅堂といい、中津市の主要な観光ルートの一つでございます。大雅堂と呼ばれる由縁でございますが、白隠禅師の法嗣であった、自性寺第12世 提洲和尚(だいじゅうおしょう)と池野大雅は、共に白隠禅師の門下生であり、和尚と大雅は、若い頃から親交があったのでございます。そういう間柄であったので、提洲和尚が京都より中津の自性寺に赴任される際、大雅夫妻を伴って来られたのでございます。

 大雅夫妻は、しばらく自性寺に滞在されましたが、その間に提洲和尚に参禅するかたわら、大雅は筆を取って現在展示されている書画四十数点を書き残されたのであります。

 この自性寺の第24世の一道和尚が、毎朝の勤行を欠かさず行われておりましたので、勤行の間、坐禅をさせていただきました。

 私が自性寺の早朝坐禅に行くようになった頃、中津在住の鎮西道場の先輩居士2人が、この早朝坐禅に参加されておりました。

 ここで、北九州市小倉北区にある人間禅鎮西道場について、簡単に紹介しておきます。

 この人間禅の鎮西支部は、大正13年5月、両忘庵釈宗活老師をお招きして、第1回摂心会を戸畑の安川男爵邸において厳修しております。その後、昭和8年に、現在の小倉北区に道場が建設されたのでございます。

 鎮西道場の先輩から坐禅の正式な坐り方、数息観のやり方等、色々と指導していただきました。

 しかしながら、毎朝50分の坐禅は、終わりごろになると足が痺れてしまい、足の痛みと格闘しながらの坐禅でございました。ある時、どうも自分の坐禅の仕方が悪いのではないかと思って、先輩に、「坐禅の終り頃になると足が痺れてしまってどうしようもないんですが、私の坐禅の仕方が悪いんでしょうか?」と聞きましたところ、一言「それは、工夫が足りないからだよ」と言われました。この「工夫が足りない」という言葉は、しばらく、私の頭から離れることはなかったのですが、後になって、ようやく、この意味が分かりました。

 また、先輩に「坐禅は継続することに意義があるのであって、止めてしまったら元の木阿弥だよ」と良く聴かされたものでございます。

 当時、毎朝5時に起床するのは苦痛であったが、その内、だんだんと生活のリズムに乗って来るようになりました。一年を過ぎた頃から、寺に行き来する毎朝に、四季折々の表情があることに気づかせていただき、坐禅に行くのが楽しみになりました。

 雨の日には雨の日の、雪の日には雪の日の、その時だからこそ味わえる気付きや感動もありました。

 ある朝、坐禅に出かけようとして家の玄関を出たところに、小さな白丁花の花が咲いているのに気が付きました。その瞬間、その白丁花のあまりの美しさに一瞬、心を奪われました。それまで全く気にも留めなかった花ですが、花がこんなに美しいものであるということに気付いたのもこれが初めてでございました。花の命という根源的なものに触れたような気がいたしました。

 芭蕉の句に『ふと見れば ナズナ花咲く 垣根かな』というのがありますが、芭蕉も何気なく見たナズナの花の美しさに感動したのであろうと思われます。

 二年目を過ぎた頃から、自性寺の早朝坐禅に、現在の人間禅豊前支部のメンバー数名が参加するようになり、早朝坐禅も、いよいよ活気付いてまいりました。この自性寺での毎朝の早朝坐禅に、約3年近く参加させていただきましたが、この自性寺こそ、犧疏気量ノ廊瓩鮠成させて頂き、人間禅との橋渡しとなった、坐禅の原点ともいえる有難い場所でございます。

真覚

 

2020.07.18 Saturday

一日一炷香(数息観座禅)の質を高めるために

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一日一炷香(数息観座禅)の質を高めるために

丸川春潭

 人間形成の禅に参じて60年を超えて禅の修行の全貌が見えて来出した、という感じを最近持っています。

 新到者の方に対する師家面談で、修行には数息観座禅の道力を付ける修行の輪と公案修行の道眼を開き磨く修行の輪との両輪があり、これが揃って回転することによって人間形成の道が進むのですと説明をしています。

 しかし最近つくづく思いますのは、両輪とは云え座禅を組んでの数息観座禅修行の方が、ウエイトが非常に大きいということです。従って最近は単なる両輪という言い方ではなく、数息観座禅修行は駆動輪に該当すると云っております。通常の車は後輪が駆動輪であり、前輪はハンドルと繋がって方向を決める機能を持っています。そこで公案修行はその前輪に該当するという言い方をしています。

 いくらハンドルさばきの技術が卓越していても、後輪からの駆動力が弱ければ車としては頼りないものになってしまいます。自利も利他も駆動輪が弱ければ進展することがおぼつかないというものです。

 自分の若い頃も含めて在家禅者はこの駆動輪の馬力が弱いと近年段々その思いを強くしています。20年、30年と公案修行を続けておれば、ハンドル操作を修得することはある程度できるようになりますが、駆動輪の馬力をつける修行の方は公案修行のように積み重ねがあまり効いていないと云うことに最近気が付きました。すなわち座禅修行によって道力を付ける(駆動力を増強する)ことは修行歴にあまり比例して付いて来ないということが現在の人間禅の実態なのです。言い方を逆にすると、レアケースですが5年くらいでも始める前に比べて見違えるように駆動力を付けてきている人がいます。一方、20年30年の修行歴を積んでも駆動力が付かない人がかなりいるということです。

 耕雲庵英山老師は『数息観のすすめ』で、一日一炷香を続けることを強調され、忙しいときでも半炷香にしても継続するようにとおっしゃっています。そして耕雲庵老師を始めとする歴代の人間禅の師家方が異口同音に一日一炷香を推奨されて来られました。その叱咤激励のお陰で、20年30年と修行を続けている学人はそれなりに一炷香の実践は継続できていると思います。しかし駆動輪の馬力が20年30年経っても付かないというのは、日常における数息観座禅のやり方が何か足りないと考えざるをえないということです。すなわち一日一炷香の数息観座禅実践の質に問題があるということです。

 人間禅(在家禅)での師家の学人(修行者・弟子)に対する直接的指導は公案修行すなわちハンドルさばきに関する指導がほとんどであり、駆動輪の馬力を付ける数息観座禅修行(一日一炷香)についてはほとんど本人任せになってきています。これは人間禅創始以来の72年間も含め、明治8年の両忘会設立(在家禅の始まり)以来140数年の伝統がそうなっているのです。

 公案修行が一渡り目処が付いた20年前くらいに、数息観座禅の質を上げて三昧をもっと深めなければならないと自覚し、そのための方策をいろいろ工夫しました。その為のヒントにしたのがNHKの「ためしてガッテン」(健康のために体重を減らす方法として体重を朝晩測定して記録すること)でした。一日一炷香を自分で評点して記録する、面白いことに記録すると自然にもっと良い点を取ろうという向上心が出てくるのです。何度も評点基準を変えながら今の評点基準になってきています。この数息観の評点基準と評点表は、自分の実践経験から駆動力を付けるのに間違いなく効果があると確信しています。これをやり出して5年くらいして師家になったのですが、自分が食べて本当に美味しかったから是非食べさせたいとぼつぼつ周辺の人にこの数息観評点を勧めて来ました。しかし最近になってこれを毎日使って坐っていても駆動力の馬力が付いていない人が結構いることにだんだん気が付いてきました。すなわち小生はうまくやれて効果は著しかったのですが、かなりな人には何かやり方がうまくいっていないようだということが判ってきました。

 そこで次に評点の実態をつぶさに点検しコメントを介して駆動輪の馬力を付けるためのアドバイスを昨年末から一部始めて来ました。

 数息観の三昧という最もアナログな対象を数値化することも非常識ですが、それをタネにして人間形成の根幹にメスを入れるような無謀なことを敢えてやっているのです。また今までの伝統に逆らって、師家が学人の駆動輪のレベルアップに手を出そうと思い上がったことをしているのです。戸惑いを感ずる人が出てくるのも当然だと思いますが、何とか熱心に修行を続けている人には駆動輪もしっかり馬力を付けて欲しいと願って勧めているのです。

 これをやり出して早いところでは半年以上経ってきました。未だ短い期間ですが、想定以上に面白いというのか意味深いことが判ってきました。我々の禅は人間形成の禅であり、目標は人間形成です。公案修行だけでは隔靴掻痒の感がしていたのですが、修行者の裏からも見られる感じで、表の公案修行と相まって学人の全貌を立体的に把握できるという感じがしてきています。当然、より適切な人間形成のための指導ができるはずであります。これがもし軌道に乗ることになれば、駆動輪の馬力を付ける方策を在家禅において確立することができ、人間形成の禅に力強い展望を開けると内心思っているのです。しばらく続けてみたいと思います。

 

2020.07.15 Wednesday

座禅時の呼吸の仕方は意識呼吸か自然呼吸か?

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座禅時の呼吸の仕方は意識呼吸か自然呼吸か?

丸川春潭

 東京荻窪支部では地元の方々に向けた催しとして「禅老師との対話」と云う集会を月に一回くらいのピッチで開催しています。やり方は拙著『AI時代と禅』を一節ずつ皆で読んでそれについて質疑応答を一時間ほどするのです。7月度は第三回目で第一章三節の「集中と三昧」の項でした。そこで出た質疑の一つに「数息観座禅の時の呼吸法で、吸う息とか吐く息を自然呼吸ではなく長くしたり強くしたりする意識的呼吸のやり方と自然呼吸と両方のやり方がありますが、どちらが良いのでしょうか?」という質問がありました。

 これに関連したブログとして6月18日に「座禅と徒然」(3)〜〜数息観座禅時の呼吸について〜〜がありますが、この質問の内容は入っていませんでした。そこでそのブログの補完を兼ねてこの質問に対する回答をブログにしました。

 マインドフルネスの創始者はベトナムの臨済宗の師家であるティクナットハン先生ですが、先生の呼吸は吸う息を三秒くらいゆっくり長くし、吐く息を一気に吐くという意識呼吸法であり、自然呼吸とは真逆です。人間禅の師家方でも 澄徹 ( ちょうてつ ) 月桂 ( げっけい ) 老師(岡山の慈恵病院院長、故人)は長く吐く意識呼吸を推奨され、 徳輶 ( とくゆう ) 信堂 ( しんどう ) 老師(函館の学校校長、故人)も同じでしかも周囲にも聞こえる音入りで明確な意識呼吸派でした。

 自然呼吸派は云うまでもなく、『数息観のすすめ』(このHP「人間禅出版図書」に収録していますのでご参照下さい)の著者の 耕雲 ( こううん ) 庵英山老師(人間禅創始者、故人)が筆頭であり、 一行 ( いちぎょう ) 義堂 ( ぎどう ) 老師(熊本の外科医師)もはっきり自然呼吸を明言されていました。

 すなわち人間禅のお師家さんでもいろいろおありであると云うことを踏まえて、先のご質問に対する答えは、小生の独自見解になります。

 『数息観のすすめ』に従って申せば、初期数息観・中期数息観までは意識呼吸の方が数息観三昧に入りやすい。したがって初心の方へは吐く息に集中するのでも吸う息に集中するのでも良いのですが意識呼吸が推奨です。ただ長く座禅をした人で後期数息観を試みるとなると意識呼吸では深まりません。すなわち後期は呼吸を意識しない数息観から数息観に依らない只管打坐になるので、これはもう自然呼吸でないとできません。

 小生の毎日の座禅の現状をそのまま申し上げますと、一炷香の前半は意識呼吸(吸う息を長く意識する呼吸)で数息観を深め、後半は自然呼吸で座禅三昧を深めるということになっています。(そしてこれで数息観評点もしています。)

 したがって小生の場合は現在二つのやり方のどちらにも偏らず常に両方やっていると云うことです。先達もどこを重視して云われているのかによって呼吸の仕方を云われているのかも知れません。

 そして質問に対する答えの締めくくりは、やり方はどちらが良いということではなく、いろいろ自分でやってみて自分流の呼吸法になって行くのが良いと思います。何故なら大切なことは呼吸の仕方にあるのではなく、如何に三昧を深く修するかですから。と申してお答えにしました。

 

2020.07.08 Wednesday

『一日暮らし』

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『一日暮らし』

佐瀬霞山

 この言葉は私の好きな言葉の一つです。白隠禅師の師匠であられた飯山の正受老人(道鏡慧端禅師/16421721)のお言葉です。

 私は50年以上前の学生時代に、松戸にあった「五葉塾」で生活しておりました。五葉塾とは、人間禅で座禅の修行を志した大学生らが、老師や社会人の先輩方の指導のもと、勉学と禅の修行に勤しみながら生活をともにする学生寮でした。現在も、対象を社会人に拡大して継続しております。

 さて、その五葉塾の看板に、『一大事とは今日只今の心なり』が書かれていました。学生の頃はあまり深く考えることもありませんでしたが、この言葉は大変深いものであると最近思っております。

 人間は生まれたときから、死に向って生きています。一秒、一分、一時間と死に向っています、そのなかで、過去のことに引きずられたり、未来のことに憂慮したりしても、どうしようもありません。大切なことは唯々今、今なのです。

 毎時毎分において、「今を生きる」、「今を正しく生きる」、「今を楽しく生きる」、「今を仲良く生きる」ことが出来れば、人間として生まれて良かったと言えると思います。

 今が本当に大切です。今に生きる『一日暮らし』を味わいたいと思います。

霞山拝

 

2020.06.30 Tuesday

立石寺(りっしゃくじ)

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立石寺(りっしゃくじ)

杉山呼龍

 

 芭蕉がかの有名な俳句を詠んだところは、どんな場所だったのかを知りたくて立石寺に行ってきた。仙台駅から山形方面に向かって仙山線に乗って小一時間、途中から山奥の深山幽谷といった風景になり、列車は溪谷を過ぎてトンネルを抜けると山寺という駅につく。ここは地名も山寺で「山形市山寺」という。お寺の正式名称は天台宗宝珠山立石寺、慈覚大師円仁によって貞観2年(860)開かれたという。山全体に伽藍が建てられていて歴史と深い信仰心を感ずる。麓の山門から頂上の奥の院まで石段が1015段あり、この日は神経痛も調子がよかったので何とか登りきった。コロナ禍の影響もあるのか、少ないながら登山者を散見した。

 芭蕉一行は、立石寺に至る前、仙台、松島、平泉と来て尾花沢で鈴木清風という人物を訪ねた。彼は地元の紅花問屋の富商で談林派の俳人であり、時々江戸へも出かけ芭蕉とは旧知の仲であった。彼は富裕の人であったが、志が高く人の情けを知り、長旅の芭蕉らをいたわり、さまざまにもてなしてくれた。芭蕉はたいへんくつろいで俳句を作った。

 

涼しさを我宿にしてねまるなり

 

 芭蕉らはそこで数日を過し、地元の何人かの俳人と交わった。誰に言われたかは分らないが、山形領に立石寺という山寺があり、平安時代からのお寺で慈覚大師の開基で、幽邃で清閑、すばらしところだと聞き、予定を変更して南下すること28キロ(七里)、館岡、天童などを通り日暮れの前に着いた。麓の宿坊に宿を借りて山上の堂に登った。現在の麓は観光地化していて、そば屋なども多いが当時は江戸初期の元禄2年、山道は鬱蒼とした昼なを暗き森林であったろう。芭蕉は書いている。「岩に巌を重ねて山となし、松柏 年旧(ふ)り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉じて、物音きこえず。岸(崖のこと)をめぐり、岩を這(は)いて、仏閣を拝し、佳景寂莫(かけいじゃくまく)として心すみ行くのみおぼゆ。」

 

閑さや 岩にしみ ( いる )  蝉の声

 

(写真は芭蕉像と立石寺全景)

 

 

 

2020.06.29 Monday

鹿児島支部の紹介(2)

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鹿児島支部の紹介(2)

佐賀 諦観

 前回のブログで熊本支部の南進行事として鹿児島市市民文化ホールで2008年6月に第1回の静座会を開催することが出来ました。静座会の名称は「鹿児島市民座禅講座」として翌年の3月まで同じ会場で月1回の静座会を開き、毎回スタッフ以外に12、3名の参加者があり盛況でした。

 2009年の4月からは、熊本支部の行事と日程調整がうまくいくように鹿児島中央駅に近い市の施設サンエール鹿児島を主会場に移し、市民文化ホールと両方使いながら安定した月1回の市民座禅会を続けることができました。

 このころ福岡市では同年5月に福岡禅会が誕生し、7月から筑紫野市の長野邸で葆光庵春潭老師を拝請して参禅会がすでに始まりました。

 また、熊本支部はこの年の11月14~21日に第165回創立60周年記念摂心会を厳修し22日に創立記念式典を行うことになりました。各支部員は記念式の準備、県内各地区静座会の実施、そして鹿児島座禅講座と最も充実した1年でした。

 鹿児島座禅講座も数人の定着者もあり少しは機運も盛り上がってきた2010年度の春季本部会議で鹿児島静座会が認められ、2011年2月18日~19日鹿児島参禅会、20日講演会を行うことが決定されたと思います。

 参禅会会場を改めて調べなおし霧島山麓の県の施設鹿児島自然ふれあいセンター(旧国の青年の家)に相談しましたところ、幸い2月の時期は子供たちの合宿教育も無い時期ですぐに予約出来ました。ただ、教育施設ですので朝の朝礼、国旗掲揚、ラジオ体操、食事時間、夕べの集いはセンターの規則に従うことになりますが、静座、参禅、作務と充分日課を組むことが出来ました。余談ですが、この後、本部摂心会の日課にラジオ体操が組み込まれたように思います。

 開催日の一月前から霧島山系の新燃岳が噴火を始め2月になって爆発的噴火を起こしました。2月11日に最終打ち合わせに伺いましたところ、打ち合わせ中にいきなり建物の振動と窓のキシム音が響きわたりました。爆発ですよ!の声に外に飛び出すと高だかと噴煙が上がり、噴石の落ちる様子が見えました。(写真の黒点は噴石)その後も噴火を繰り返しましたが、参禅会中は静かにしてくれました。

 会場は霧島山系の麓で名前の通り大自然の中に広々した施設です。宿泊施設の中間の和室21畳の二間続きを禅堂として、廊下伝いの二部屋先のベッド寝室を隠寮としました。参加者総勢35名、鹿児島静座会定着メンバー6名、当時茶道部責任者の林大道居士の紹介で地元霧島市から4名、熊本支部会員14名、鎮西支部3名、豊前支部3名、千鈞庵老居士、慧日庵老禅子、林大道居士、それに総裁老師、妙青庵老師、芳雲庵老師でした。

 前回述べましたように、2008年1月の九州互礼会で総裁より「南進!」の号令がかかり、翌年4月には鎮西支部が福岡禅会を立ち上げました。総裁の熱意と総務長による支援体制による力強い後押しを九州各支部会員がひしひしと感じることができ「九州は一つ!」と燃え上がっていたように思えます。鹿児島の次は沖縄だ!という掛け声もありました。そんな機運のなかで、九州各支部の主だった会員が「鹿児島に拠点を!」の合言葉に参集してくれたのです。このおかげで4名の方が後の鹿児島禅会結成時の会員となってくれたのでした。このようにして、19日に2泊3日の参禅会を無事に終え記念写真を撮り参加者各位に謝意を申し上げ、火山灰(よな)を被った車を洗って翌日の講演会の準備のため鹿児島市内へ向かったのでした。 

 新燃岳の爆発的噴火は3月1まで続き、1月27日初回爆発から合計13回発生したようでした。

・・・ では、この後のことはまた次の機会に。それでは皆様、お元気で・・!

第1回鹿児島参禅会記念写真(2020年2月19日)

 

2020.06.28 Sunday

座禅と徒然(つれづれ)(4)〜〜座禅時の線香について〜〜

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座禅と 徒然 ( つれづれ ) (4)

〜〜座禅時の線香について〜〜

丸川春潭

  1. はじめに
  2. 耕雲庵英山老師と線香
  3. 磨甎庵劫石老師と線香
  4. 参禅用の線香
  5. いろいろな線香と出会い
  6. おわりに

 

1. はじめに

 線香には大きく分けて匂い線香と杉線香の二種類があります。匂い線香は、椨(タブ)の木の樹皮を粉末にしたものに、白檀(びゃくだん)や伽羅(きゃら)といった香木の粉末や他の香料、炭の粉末を加えて練り、線状に成型・乾燥させたものであり、我々が日常の座禅時に使っているものです。杉線香は、杉の葉の粉末にしたものにノリを加えて練り、線状に成型・乾燥させたもので、香木や香料を使用した匂い線香と違い香りはないけれど安価であり、ヤニにより大量の煙(煤)を出すため、外での墓参や宗教的な慣例として煙に意味を持たせる場合に使っています。

 人間禅における線香は匂い線香ですが、その使い方は、静座会や摂心会における静座時と参禅時とにそれぞれ異なった目的で使われております。会員が自宅において一人で座る時はその前者とほぼ同じ目的であり(少し違った要素も入ってきますが)、大部分の人は自宅でも線香を焚いて坐っています。ただこの匂い線香といってもピンからキリまでありなかなか奥深いものがあります。

 香は邪気を払うと云う意味や尊きものを敬い信を献ずる意を込めて古くから祭礼とか法事によく使われています。また眠気を覚ますこととか精神を高揚させるということでも宗教行事に使われてきたと云う説もあります。

 また線香は時を計るために使うと云うことが寺院のみならず庶民的な生活の場でも古くからあります。

 

2. 耕雲庵英山老師と線香

 耕雲庵英山老師の著書『数息観のすすめ』には、線香の長さは22cmで、一炷香(1本の線香がともっている間)の時間は44分となっています。そしてその線香は多分菊世界(写真:孔官堂製)だったと思います。小生が入門しそして本部の摂心会に参加し始めた昭和30年代はどの摂心会でも菊世界を通常は使っていました。老大師がこのご著書を書かれた昭和20年代においても同様だったと推定します。

 菊世界は原料に白檀とか伽羅を使用せず、いわゆる良い香りを嗅ぐためのお香ではなく安価な大衆的な線香です。この菊世界の一炷の燃え尽きる時間が44分だったと云うことで、まさに時間を計るという意味が生かされて使われているのです。

 

3. 磨甎庵劫石老師と線香

 小生が学生時代に中国支部摂心会(現岡山支部、耕雲庵英山老師主宰)に参加し、開枕(22時)後に岡山大学の学生(絶学、無為、小林ら)との夜座において、参禅の時の献香に使う高級線香(後述)の残り(短くなって残った線香)をかき集めて夜座の真ん中で焚いて夜の12時過ぎまで坐った時期がありました。

 このことを数年経って磨甎庵劫石老師に話したところ大変興味を持たれ、それ以後線香の銘柄の検討を命ぜられることになりました。その当時はネット検索もできず、仏具屋さんをいろいろ回って調べるしかありませんでした。

 最初は松栄堂の京自慢を磨甎庵老師は好まれて使われ、

次に春陽に行き、最後は同じ松栄堂の微笑にまでレベルが上がって行かれました。

 また後年老師が80歳前後のころ、小生が進級お礼に同じ松栄堂の最高レベルの正覚を差し上げたところ大変喜ばれ、大事に使われていたようで最後に数本ですが遺されておられます。

 磨甎庵老師は座禅時の線香を、本来のお香として厳密に扱われておられました。小生が30代のころ人間禅では線香を焚かないで時計で坐る人がかなり居られましたが、磨甎庵老師は「春潭!坐る時は線香を焚いて坐るのが良いぞ!」と語気を強めておっしゃったこともありました。単なる時間ではなく線香一本の命と一緒に坐るということかなと密かに自分でその意味を工夫などしたことを思い出します。特に線香の最後の燃え尽きる時の有様はまさに人間の死と同じであると。燃え尽きる時の匂いは線香の匂いとは異なる灰の匂いがし、最後にポット明るく耀いてすっと消えるのです。

 

4. 参禅用の線香

 参禅時に献香用に使う線香は仏に供えるという第一義の目的があり、人間禅では最高の線香が選ばれて使われる伝統になっています。したがって禅堂で使う線香が菊世界の時代でも、すなわち耕雲庵老師の時代においても最高級の線香(天司香)を使っていました。昭和30年代の中国支部でも天司香でした。赤いラベルの箱で太く短い黄色みを帯びた豊かな香りの線香でした。高価なものでしたので、参禅が終わったら必ず残りを侍者が回収して直日に返すことが習わしになっており、夜座で学生達が頂いて使っていたのはこの参禅の時の焚き残った短い天司香です。

 その天司香を本部でも永年使っていましたが、20年?ほど前に天司香の製造が中止になり、急遽その代替を決めなければならなくなり、千鈞庵老師といろいろ検討した覚えがあります。従って天司香はまさに幻の名香で語り草でしかありません。

 

5. いろいろな線香と出会い

 小生の20才代から30才半ばまでの自宅での線香は一番安くて手に入りやすい菊世界でした。その後、磨甎庵老師とのやり取りの中で、京自慢とか春陽とかを使った時もありました。東京支部の祖鏡居士から箱入り線香(聚香国)を3回も頂きましたし、萬耀庵閑徹老居士からは高級な長尺の微笑を一箱頂いたこともあり、つい最近では荻窪支部長の中川香水禅子から白檀線香を頂きました。

 線香の香りの原料は白檀と沈香が代表的なもので、この香木の入る量によって値段が決まってきます。沈香は沈水香を短縮したもので、木なのですが水に沈むほど比重の重いのでこの名前がついているのでしょう。伽羅というのは沈香の一種で、沈香の中でも特別に貴重で高級なものです。これら白檀、沈香、伽羅がどのくらい入っているかによって価格が決まっており、こういう香木を使わない線香(菊世界、蘭月)に比べて一桁二桁も価格が高くなります。

 最近気が付いたのは、香木の入った高級線香に沈香(伽羅)系統と白檀系統の二種類あるようで、香りの質が大きく異なっています。一般的には沈香(伽羅)系の方が人気があり庶民では手の届かないような高価なものもあります。好きずきだと思いますが、どうも小生は白檀系に馴染みがあり好みが合うようです。価格はその資源の存在量によって決まり、伽羅が資源的に少なくダントツに高く年々高騰しているようです。

 朝晩線香を焚いてその前で坐るということを考えると、健康についても配慮する必要があります。健康の観点から考えると線香の煙も煙草の煙の害と同じで、煙は吸わないに越したことはありません。線香の銘柄によっても害に差はあると思います。黒い煙が多く出るとか刺激臭があるとか咳き込むとかは特に遠ざけた方が良いでしょう。一般的に香木が入り高級になるほど害は少なく、安価なものほど注意しなければならないと考えられます。燃えた後の灰の色が黒いと炭素(煤スス)が多いと判断できます。医学的な根拠はありませんが、白檀系は香りもソフトで炭素系の煤も少なく健康的だと小生は考えています。

 

6. 終わりに

 坐る前に線香に火を付けますが、その時に不思議にこの線香との出会いの所以やご縁を思い出します。

 そしてその火を付けた最初の線香の香りが一番印象深く、そこから数息観が開始されることになります。三昧になれば線香の香りも全く意識から消えてしまいます。実際にも嗅覚は最初だけが強く知覚しますが、直ぐ馴れて鈍感に感じなくなるものです。他の視覚、聴覚、味覚等の感覚よりも一番早く順応して知覚が急速に低下するように思います。しかし臭覚は五感の中の一つですが、一番精神性に近いと思います。臭覚に集中するあるいは臭覚を大事にすることは人間性を深めることになると思います。

 毎日座禅する部屋が決まって居れば何年か経つとその部屋に香りが沈積して残り、外から帰ってその部屋に入った一歩のところで微かに残香が香りホッと安らぎを感ずるものです。

 線香は香りのみならず煙も雰囲気があり、煙の流れには三昧への誘いが観ぜられます。すなわち煙の揺らぎには人間の知性を超えるものがあり、香りと相まって感性の世界に引き入れてくれる働きがあるように思います。数息観三昧を深める道具立てを斯くの如く線香はいろいろ備えており、だから歴代の祖師方も線香を常に愛用されてきたのでしょう。

 残りの人生の一日一日 線香の深さを味わって生きて行きたいものであります。合掌

 

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