老師通信

人間禅の老師による禅の境涯からの便りです。
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2020.05.19 Tuesday

時間が盗まれる?!

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時間が盗まれる?!

丸川春潭

 5月16日(土)読売新聞編集手帳に、次のような面白くて深い記事が載っていました。

 「ドイツの児童文学者エンデの童話『モモ』に時間を盗む男達が出てくる。「時間を貯蓄すれば命が倍になる」と偽り、人々は時間を預けてしまうのだ。◆理髪店の主人がはたと気づく。客との会話をやめ、急いで仕事を済ませるようにしたところ、ちっとも楽しくないことに。たわいもないおしゃべりの時間が仕事を豊かにしていたのを自覚するのだが、今これに似た喪失感を抱くのは理髪店業の方々ばかりではあるまい。◆コロナ対策で抑制を求められる生活習慣の一つに、おしゃべりがある。複数で話すときはマスクを着け、距離を空けましょうと。◆恐らく、そこまでして語らっても以前の心地はないだろう。最近、感染症の拡大以前に製作されたテレビドラマを見てドキッとすることがある。オフィス、居酒屋、公園・・どんな場所であろうと、登場人物等が顔を寄せて会話する場面にいちいち胸がざわつく。◆今の我慢が本来めざすべきは、楽しくおしゃべりのできる「3密」に戻ることなのに、忌むべきもののように錯覚している。おかしい。ウイルスに豊かな時間を盗まれてしまったからだろう。」

 これを読んだ最初は、時宜を得た面白い切り口だくらいな感じでしたが、その内にだんだん人間の本質に迫る深い話ではないかと何回か読み直しました。「客との会話をやめ、急いで仕事を済ませるようにしたところ、ちっとも楽しくないことに気づき、たわいもないおしゃべりの時間が仕事を豊かにしていた」の下りです。

 われわれ人間形成の禅の会において、またその傘下の支部や禅会において、“楽しく”とか“仲よく”ありたいと思っているのですが、なかなかそれが難しいと最近思っています。その難しさに対するヒントが、この理髪店主の感覚を大事にすることにあるのではないかとふと思った次第です。

 耕雲庵英山老師は、この支部は団結心があり仲が良い!と小生に説明されたことがありました。磨甎庵劫石老師は、この支部は冷啾々として冷たい支部だと眉をひそめ嘆かれたことがありました。小生は、担当する支部や禅会において、新到者が来たときに自分もこの仲間に入りたいと思うような雰囲気を持つ支部や禅会づくりをしようではなかと最近よく話しています。ここで肝心なことはそこに入れば楽しい仲間の一員になれると感じられるかどうかです。

 この“楽しい”が問題ですが、立教の主旨の「正しく・楽しく・仲の良い」の深い法理を含んだ「楽しい」ということと直結してしまうと冷啾々に陥る危険があります。理髪屋としての仕事は時間が掛かったとしても、たわいのない会話によって生まれてくる“仕事の時間を豊かにする”観点で、“楽しさ”を考えてみる必要がありそうです。

 耕雲庵英山老師は、摂心会の円了後には必ず酒宴を持たれていましたが、まさにたわいもない会話の類いでしょうが、老師はこのたわいもないことを大切にされ、時には裸になってひょっとこ踊りもされました。今から思うとそのたわいなき踊りに寒毛卓竪(かんもうたくじゅ:恐ろしさにぞっとするの意)です。

 最近の若者は、ゴルフも麻雀も一杯飲みもパスだそうです。しかし、スマホでの人との繋がりには敏感であり、精神的孤独に怯えているのが実態であると社会学者は分析しています。それは人との繋がりの中での自己認証を求めているのかも知れません。スマホの会話の内容にしてもまさに“たわいもない会話”でしかないのです。それでも自己認証になっているのかも知れません。

 小生が新到者として岡山支部の摂心会や座禅会に参加していたころの岡山支部にはその後十年くらいでお師家さんになるような方3名を含め、味のある旧参の方が何人か居られました。これは後から考えて有り難かったのかと思います。最近の支部や禅会の中には、修行歴10年以内の修行歴の浅い人だけしかいない支部や禅会がかなりありますが、そういう所は師家が何かと出向いていって、難しい話ではなく世間的な会話をすることも支部づくり・禅会づくりには必要なのかも知れません。

 たわいのないお客さんとの会話によって、仕事の時間が豊かになる観点は、支部づくりだけに留まらず、人間が社会で過ごす一生における意味を示唆してもいると考えます。難しく法理的に云いますと、楽しさとは自己に合掌することであり、仲よくとはお互いに合掌することであります。たわいもなき会話の根底にはやはりお互いを認め合いまた認められた自分の存在を認識するということが、無意識に流れているのでしょう。だから豊かな時間を感ずることができるのです。人間社会にしても家庭にしても効率だけではなく無駄やたわいもないものがなければ面白くも可笑しくもないのでありましょう。

 最初に掲げた編集手帳の締めくくりは、「おかしい。ウイルスに豊かな時間を盗まれてしまったからだろう。」でしたが、人ごとではない!我々人間禅の活動において、また一回しかない自分の人生において、「豊かな時間」を他に盗まれたり、自分で粗末にして亡くしたりすることがあっては、これは申し訳ないことです。ご用心!ご用心! 合掌

 

2020.05.13 Wednesday

コロナ・パンデミックと禅(4)

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コロナ・パンデミックと禅(4)

丸川春潭

 国民の多くがstay homeしただけで、多くの失業者が発生し多くの路頭に迷う人が出てしまう。車の販売が減り自動車会社(トヨタ)の営業利益が80%下がる。車が売れないと小生の縁のあった製鉄会社の高炉が次々に送風停止に追い込まれる。高炉が止まると製鉄所の下工程の多くが連鎖的に止まることになり、製鉄所本体よりも多い従業員を抱える下請けに激震が及ぶ。そして製鉄所を中心にした街の賑わいが消えてしまう。お花屋さんから物づくりの大会社まで、小学生からお年寄りまでの国民全体を巻き込んだ恐ろしい未曾有の社会実験が、日々目の当たりに展開して行くこの頃である(5月13日)。 

1.コロナ騒動を通じて見えてくる日本の特徴

 日本の政府のアクションは外国のような権力による強制ではなく、罰則のない自粛要請だけなのに、外出が激減しコロナが終息して来ている。しかも欧米の感染発生人数や死者数は50〜100分の1と低レベルに押さえ込めそうである。これは世界的に見れば、あり得ないことではないか? 規制も遅く緩くても粛々とコロナ対応が市井の隅々で実践されたからである。東日本大震災後の日本人の整然とした災害対応の態度に、世界のマスコミが驚愕したと同じ状況がまた再びここでも出ている。辛口ジャーナリストの門田隆将のTwitter(5月9日)では、「医療従事者の使命感と気迫、国民皆保険を成し遂げた先人、世界に冠たる衛生観念、新薬開発への科学者の執念、不安の中でも我慢と辛抱で自粛に従う精神力…コロナ禍が過ぎ去った時、世界は日本の真の力に驚嘆するに違いない。5月末まで精一杯の闘いを。日本人はやる時はやる。」には共感し、いいね!です。

 しかしなのに、依然として自殺者の数は世界のトップクラスであり、また日本人は自分に対してまた国に対して自信が持てない(参考情報1.)のはどこから来るのか?

 そして自国内での自虐とも云えるコップの中の諍いが絶えない。すなわち、コロナが中心の国会審議のレベルの低さは目を覆うばかりである。特に野党は政府を追及して選挙の受けを狙う質問姿勢が目に付き、云っていることの中身は重箱の隅ほじくりに終始している。SNSにおいて党利党略優先でコロナから如何にして国民の命を守ることを後回しにしているとの酷評メールが炎上している。まことに残念なことである。同じようなことが朝日系マスコミのねじ曲げを含むアンフェアな報道にも辟易である。世論調査に出ているように政権への不満を増強させている成果は出ているのでしょうが、自分たちの支持率もどんどん減らしている状況は、まさにコップの中の些末な争いを国会で代議士連がやっている。これもまた日本である。

2.コロナ終息後の社会はどうなるのか、どうなるべきか?

 このコロナ後の世界は決して元通りにはならないと云われている。もともと経済を中心にして波乱含みの現代社会(参考情報2.)であるが、それがこのコロナショックでどう変わってゆくのか?どう変わるべきなのか?

 5月11日7時のNHKラジオで、全国的にいろいろな形のNPO的助け合いの活動が草の根的に出てきているニュースを聞いて清々しい朝になった。マイケルハート(米国、思想家)は中間層の中からの“common”の台頭が次の社会を切り開くと云っている(参考情報3.)が、その萌芽が既に日本でも出てきているのを感じた。

 フランス思想家・経済学者ジャック・アタリ氏は、アメリカやブラジル等に見られるように中央集権が強まり、権威主義にシフトするのではないかと危惧している。そしてアタリ氏は、”パンデミックと言う深刻な危機に直面した今こそ、「他者のために生きる」という人間の本質に立ち返らねばならない。協力は競争よりも価値があり、人類は一つであることを理解すべきだ。”と説き、“利他主義という理想への転換こそが人類サバイバルのカギである。”と(参考情報4.)。

 利他主義とはどういうものであり、この利他主義へのパラダイムシフトをどう現実に日本で進めたら良いのかが問題である。経済学者・思想家であるアタリ氏の云わんとする方向性は、我々在家禅者にとってはよく判り同意するものですが、それへのアプローチは全く違うものになるでしょう。そもそも氏の説く「利他主義」を我々はコロナ以前から、遡れば72年前の人間禅発足の時から堅持しており、既にその目的に向かってのアプローチを実践して来ているのである。ただ我々のアプローチをパラダイムシフトにするためのstrategy(戦略)は全く見えてないのが残念なところである。

 我々は一隅を照らすほどの遅々とした利他心の普及を継続するしかないのであるが、しかしこういう世界の多くの思想家の方向性の一環の中で我々は日々精進努力しているという自覚は必要なことであり、こういう人達との連帯を意識することは大切なことである。(未完)

 

参考情報1.日本財団:https://www.nippon-foundation.or.jp/who/news/pr/2019/20191130-38555.html

参考情報2.NHK放映の「欲望の資本主義」のジョセフ・スティグリッツ、安田洋祐

参考情報3. マイケル・ハート、マルクス・ガブリエル、ポール・メイソン、斉藤幸平の『未来への分岐』

参考情報4.NHK―ETV4月15日「緊急対談 パンデミックが変える世界 〜海外の知性が語る展望〜」

 

2020.05.13 Wednesday

直義と国師の仮名法語出版のいきさつ 夢中問答集より(二)

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直義と国師の仮名法語出版のいきさつ

夢中問答集より(二)

粕谷要道

 前回のブログより、夢中問答集を読んでいる。昭和九年、岩波書店発行の「夢中問答」校訂者、佐藤泰舜曹洞宗管長(京城大学教授)は「校訂者のことば」で、「夢窓国師疎石(そせき)が、足利尊氏の弟直義の問に答へし法語を録したもの、、、、中略、、、、諷詠に託して縹渺、象徴を假りて難解、もしくは支那風(中国)風の表現によって親しみ難い禅書の多い中に、これは又極めくだけた和文、、、、であり、而も不立文字の調べ高き風格を伝えることに於て、稀に見る述作である。一派に偏らず、一時代に捉はれず、実に正しく禅の立場を表示して、、、、確かに古今の名篇、、、、、。

 跋文に示すように、高師直(こうのもろなお)の一族にして伊予の太守なる大高重成(直義の側近の一人)によって、康永三年(1344)夢窓国師の在世中に早くも出版せられ、五山版として、特に仮名文印刻の初頭に位するものとして珍重されて居る。

 室町時代の初期には、下野足利(しもつけあしかがー二百数十年前より源義国・足利氏の祖、土着の地)に於ても開版せられ、、、、、徳川時代に入りては、元和、寛永、正保、貞享、文政等開版或いは復刻がこの書の普及を物語って居る。

 、、、中略、、,標題は読者の便を計り、読み本としての立場を考へ、成る可く専門語を避けて、なだらかな文句を選ぶようにしたが、問答の要点をそれて居るものがありはしないかと恐れて居る。振仮名は仏教のよみくせのあるものに限った、仏教術語に対しては、注解を加えなばと思ふ節が多々あるけれども、一切之れを省くことにした。」とある。

   

  左)足利尊氏像(浄土寺蔵)、右)一時は源頼朝像とされたが、現在は足利直義とされる画像。下の騎馬武者像は馬具の輪違いの家紋より、高師直かその子師詮の画像とされている。(ウィキぺディアより)

   

 

 夢窓国師が足利直義の問に答えた法話集『夢中問答』三巻三冊、全編九十三章は問答を仮名(カタカナ)交り文で、在家の女性や道に志す者に見せたいという直義の意を受けて、大高重成が刊行したいきさつは、最初重成が等持寺の古先印元を介して、康永元年(1342)九月南禅寺住持の竺仙梵僊に跋文を請い、同三年十月に重成自身の帰依僧である大年法延から、再び南禅寺東堂(隠居寮)本師竺仙に再跋を請うて上述のように康永三年に出版したのであった。

 この康永と言う年号は南北朝時代の北朝方で使用され、暦応の後、貞和の前、1312年から1345年までの期間である。

 因みに足利尊氏が新政府を樹立したのは1336年である。この時代の天皇は、北朝方が光明天皇、南朝方は後村上天皇、室町幕府将軍は足利尊氏であった。

 

 足利直義(ただよしー1306〜1352)は鎌倉幕府の有力御家人足利貞氏(さだうじ)・上杉清子の三男に生まれた、室町幕府初代将軍足利尊氏の一歳違いの同母弟で、幕府草創期の実質的な幕政の最高指導者であった。その後の中先代の乱では後醍醐天皇の子息・前征夷大将軍護良親王を殺害した。後に実兄尊氏との権力闘争・観応の擾乱で敗れ東国に逃れたが、鎌倉に幽閉され急死した。

 

 電子辞典などによれば、NHKの大河ドラマなどでは粗野な馬鹿者に描かれるが、幼少の頃より尊氏と兄弟仲は良く、足利一門の渋川貞頼の娘を正室として他に側室を迎えなかった。二人の間には長く子が生まれず、尊氏の庶子直冬を養子にしたが、夫婦ともに四十歳を過ぎてから思いがけず男子如意丸が誕生した。このことが直義に野心を芽生えさせたと『太平記』は描いている。尊氏が激しい感情の起伏がある人物とされるのに対し、直義は冷静沈着であったとされる。尊氏が山のように贈られてきた品物を部下たちにすべて分け与えたほど無欲だったという逸話が有名であるが、直義はそもそもそういう贈り物を受け取ること自体を嫌った、清廉潔白、実直であったという。

 

 戦上手で薙刀の名手、豪胆で楽天的、激戦中に笑みさえ浮かべていることもあり、気まぐれで公の場から雲隠れすることもあった尊氏について、現代の脳医学者からは双極性障害があったのではとの疑いさえ出ている、そのような尊氏に対して、直義は戦下手、強直で冷静沈着、知性的で気真面目であった、『太平記』の祖形となった史書の誤りを訂正させた話なども伝えられている。夢窓国師に衷心から帰依して、忌憚のない質問をぶつけていたであろう事が夢中問答から偲ばれるのである。(つづく)

 

2020.05.12 Tuesday

コロナ休暇

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コロナ休暇

丸川春潭

 4月の年間スケジュールでの摂心会は、岡山、宇都宮、本部(市川)が予定されていましたが全てキャンセルになり、5月においても5日までの本部行事、豊橋、岡山、名古屋の摂心会も全てキャンセルになりました。これは考えて見れば、師家になってからの15年間で初めての経験です。摂心会が2ヶ月続いてない事態に突然なってしまいました。

 非常事態宣言が発出され、外出自粛が厳しく要請され、stay home が義務づけられる中で、中小企業家や個人商店は経営の持続に四苦八苦する一方、自宅巣籠もりの大人も子供もストレスが溜まり、いろいろ問題も起きているようです。小生は暇を持て余しているのではと言われ、そう思われるのも当然かなと思いますが、意識的にはそんなことは全くありません。むしろ宝くじにでも当たったような(その経験こそ残念ながらありませんが(>_<))、この突如恵まれたコロナ休暇を今までやりたかったけどできなかったことを楽しんでやっています。

 従来から自宅に居るときの習慣になっている日課(朝晩の座禅、朝のお手前茶、散歩4千歩以上、スクワット30回以上を2回)はそのまま従来通りやっていますが、その残りの時間が何をやっても良い時間であり、文字通り有り難いものです。

 時間があったらやりたかったことは、懸案になっている樋の詰まり修復などの作務とか、大きくなりすぎた大木の庭木、繁り放題の庭木の剪定、累積した書斎の整理(特に住金時代の資料の断捨離)などありますが、この際是非にというのは読みたかった本の読破です。

 四月中に、『未来への大分岐』集英社新書を読み切ることができました。小生にとってはなかなか難解な本でしたが、想定以上に大変勉強になりました。日本の新進気鋭の哲学者(斉藤幸平:33歳)がマイケル・ハート(アメリカの哲学者・比較文学、60歳)、マルクス・ガブリエル(ドイツ哲学者、教授、40歳)、ポール・メイソン(英国、経済ジャーナリスト、60歳)の現代思想家を代表する3人との対話で現代社会を論じているものです。

 我々は在家禅者として、禅による人間形成を実践しつつ、市井の一市民として次の世代に人間社会をどうバトンタッチして行くのかの責任があります。その為には、新聞・テレビの情報だけでは些末で目先過ぎます。少なくとも100年くらい遡って、世界がそして日本がどう歩んできたのかの歴史の勉強の上に立ち、現代は歴史的にどういうステージにあるのかを客観的に先ず認識する必要があります。しかし歴史書を繙いても、一概に思想・政治・経済の流れを自分で読み取ることは大変難しいことです。この本は、高々350頁ほどの新書版です。彼らが膨大な歴史書を読みよく考えて語ってくれているので、格好の時代を読む参考書になっています。鵜呑みにすることでは無く、参考にしたら良いのですが、想定以上に勉強になり、何が今大きな人類的課題になっているのかが漠然とですが判りました。

 冒頭に、“Think Big!”と出ています。目先の政治や経済の動向を個々の現象に囚われることなく、大きく考えることの必要性を説いているのです。人間形成の禅とは次元が違うけれども無縁では決してありません。すなわち民主主義がどう変容して大衆迎合のポピュリズムになるのか、どうして再びナチズムのような全体主義が台頭してくるのか?資本主義がどう変容し壁に直面しているのか?将来の読めない膠着状態と並行して進む格差社会をどう打開するのか?これからの社会体制として何を新進気鋭の彼らは考えているのか?は、まさに一市民として“Think Big!”しなければならないところです。皆さんも今回降って湧いたようなコロナ休暇を利用して是非大きく考えて見て下さい。

 

2020.05.09 Saturday

「友情と呻き」

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「友情と呻き」

夢中問答集より

粕谷要道

 室町幕府を開いた足利尊氏の弟で、初期の二頭政治を支えていた副将軍足利直義が在家の女性や道に志す者の為に、また自身の為にも参禅の師夢窓国師に通算九十三項目にわたる問を発した。

 その一、「衆生の苦を抜きて楽をあたふる事は、仏の大慈大悲なり。しかるを仏教の中に、人の福を求むるを制する事は何故ぞや。」(原文のまま)と。

 「衆生の苦を抜き楽を与える」ということは菩薩の遊戯三昧の境涯から衆生済度する禅の師家の役目でもある、修行者の側からいえば自己の転迷開悟(迷いを転じて悟りを開く)の実を挙げ、仏祖の慧命を永遠に進展せしめる事である。

 衆生のために抜苦与楽する「仏の大慈大悲」とは、まず語句の意味としては、慈はサンスクリットのマイトリー(友情)の訳で仏典では「楽を与えること」、悲はカルナ―(呻き)の訳、同じく「他人の苦しみを自らの苦しみとすること、また苦を取り去ること」である。

 つまり仏の大慈大悲とは仏境涯より発せられる衆生済度の慈悲心で、古来より水の高きより低きにつくが如く、招かずともやってきて真の友のように積極的に無縁の大慈悲心をもって衆生を教化する「不請の勝友」のことである。禅仏教では「無辺の慈悲」といわれる。

 

 「無縁の慈悲」

 しかし一方で、佛教では「人の福を求むるを制する事」が説かれているが、これは一体どういうことなのでしょうか?という直義の問いである。

 福といえば禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し、幸福と不幸はより合わせた縄のように交互にやって来る。(史記―南越伝)とか、禍福門なし唯人の招く所、幸福と不幸は、やってくる門があらかじめ決まっている。(春秋左伝)ともいう。つまり直義が採り上げた「福」は禍福の福である、もちろん福には裏に「禍」が潜んでいる。

 余談ながら、新自由主義、強欲資本主義、グローバリズム、最先端技術の悪用で猫も杓子も化石燃料を燃やし続けた挙句の一極集中三密世界が数日にして未知のウイルスのパンデミックに暗転してしまう。二千年の歴史を誇る日出ずる天子の国・我国もこの際、災い転じて正に福となさなければならない。

 直義のいう福とは、現代では幸福乃至福を求める心である。類語に災難と幸福、不運と幸運、吉兆、慶弔。などが挙げられるように。結局明暗、表裏、迷悟の片方の一面である。辞書には文例として「禍福を壇(ほしいまま)にする」がある、意味は権威を濫用して、勝手に人を賞したり、退けたり引き上げたりすることであるとか、洋の東西古今、相も変わらない上役のパワハラであるが、人の禍福、人事がその手段ともなるようではこれは良くも悪くも他人事ではない。最悪である。

 とにかく人が幸福を追求するのは現代でもその権利は憲法で保証されているところである。それを制する、抑え押しとどめよというのである。

(つづく)

 

2020.05.07 Thursday

座禅と徒然(つれづれ)(1)――香炉の周辺――

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座禅と 徒然 ( つれづれ ) (1)

――香炉の周辺――

丸川春潭

 小生が修行を始めたころのことですが、岡山での摂心会の円了垂示で老師(耕雲庵英山老師)が、日頃の一日一炷香が大切だから必ず自宅で一日に一回は坐るように!と声を励まされ申されました。その声が耳に残り、岡山から大阪の下宿に帰り、早速線香を買ってきましたが香炉がない。そこで湯飲み茶碗を取り敢えず代用して使うとして、次に灰がない。五円玉を4,5枚重ねてやったこともありましたが、アルバイト学生の身では、その五円玉も動員して晩飯代になってしまい長続きしません。結局は灰が溜まるまでは、砂をかき集めて湯飲み茶碗に入れて線香立てとしました。

 その後、耕雲庵老師が岡山の摂心会中に作陶をされ、その中に一つ線香立てもありました。恐れ多くもその香炉が欲しいなあと思っていました。半年後に焼き上がってきたとき、たまたま珠月奥様もご一緒されておられました。老師に直接お願いするのは怖くてできませんが奥さんなら気安くなってついあの香炉が欲しいと漏らしてしまいました。数日後、老師からちょっと来いとお呼びが掛かり、怖い顔をして、一日一炷香をやるか?!と云われ、ハイとお答えしました。こうして厚かましくも老師作の備前焼の線香立てを頂くことになりました。

 

 

 

 爾来40数年に亘り一日一炷香の文字通りの受け皿としてこの香炉は密接な相棒になりました。小生が師家になってしばらくして千鈞庵老師にこの香炉は譲り、その後は自分の作った香炉で朝晩坐っています。

 小生が師家になって最初の道号授与は当時の東京第二支部でしたが、その時に自分の若いときのことを思い出して、道号授与のお祝いに香炉を差し上げようと思い立ち、小生が中国から買って帰ってきていた香炉がいくつかありましたので、それを担当師家からのお祝いとして差し上げました。その後小生が総裁になり、道号授与者も増え、また自分の持っている香炉も手持ちがなくなったので、その当時の総務長(千鈞庵老師)と相談して、中央支部の陶芸家祖牛居士に香炉を作っていただき人間禅からの道号授与のお祝いとして差し上げることとして現在に到っております。

 昭和49年に潮来市に自宅を建て、近所の同じ住金勤めの数人の連中と静座会を始めました。そしてやはり各自宅でも一日一炷香をと云うことになり、香炉は何か使えるとして灰が欲しいということになり、小生が耕雲庵老師の香炉で貯めた灰を、雑念の塊だけどと云い、株分けを真似て「灰分け」と称し、その数人に差し上げました。その後この数人の連中と図って工事用の中古プレハブを買い、個人(姉崎大光居士)の屋敷の中に道場を立てさせて貰い、坂東支部を立ち上げることになりました。

 

2020.05.05 Tuesday

至誠の人

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至誠の人

佐瀬霞山

 禅の修行の究極は、至誠の人となるための「行」であると思います。

 至誠とは、絶対の誠です。嘘に対する誠というような相対的な意味ではありません。真っ向唯誠の固まり!!という意味です。

 剣道で言えば面です。心と身体と刀が一つになって、真っ向面一本を打つ。これは中々大変なことで、容易ではありません。

 剣と禅の奥義を極められた無得庵小川刀耕先生が、70才頃に、「自分は、まだこの面一本が打てない。」と言われたことがありました。そのときは深く思いをいたしませんでしたが、いま顧みますと誠にぞっといたします。私たちを戒められたお言葉です。

 禅の修行は、何か特別な人になるのではなく、至誠の人となるための「行」なのです。それがすばらしいと思います。

霞山拝

 

2020.04.30 Thursday

テレワークと教育

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テレワークと教育

丸川春潭

 4月2日、12日、15日のブログで、コロナ・パンデミックについて考察しました。

 12日(その2)のブログでは、コロナ・パンデミックが現代の地球人が未だかって経験したことのない「差別をしない社会現象」であるという切り口での考察でした。15日(その3)では、人と人の接触を断つコロナ対策から見えてくるものは、過密都市は人間が正常に生活できる環境では無い、すなわち正常なソーシャルディスタンスを大前提にした社会形態を考えなければならないのではないかという考察でした。

 今回は、IT化→AI化の進行が今回のコロナ・パンデミックによって加速されるであろう事は既に各方面から指摘されていますが、その抽象的な方向性から掘り下げて、何がAI化して何がAI化しないかを再検証してみたいと思います。

 再検証と云いますのは、既に人間禅HPのブログとして「A I 時代と禅」を昨年10月(2019.10.5)投稿し、また今年3月東京荻窪支部創立記念事業として発刊した拙著『A I 時代と禅』(2020.3.22)で考察しているからです。

 新型コロナの蔓延防止策として、在宅勤務すなわちテレワークという小生は聞き始めの仕事形態が試みられ、そして大都会で急速に普及して来ています。これはまさに前回のブログの問題提起を解決する有力な施策であり、この方向はパンデミック終息後もこれを契機に日本社会に定着すると考えられます。まさにIT化・AI化の走りが今回のパンデミックで加速されると思います。

 ここで先にも触れた問題提起ですが、テレワーク等を駆使して人間が接触しないでできる仕事とできない仕事をその理由も含めて整理しなければならないと考えます。既に前報のブログで、体に触れなければできない仕事ということで医療関係、整体関係、美容理髪関係など事例を挙げていますが、もっと全般的に鳥瞰し仕分ける必要があります。

 国や地方の立法・行政事務、裁判等の司法事務の大部分のテレワーク化は可能であると思います。これだけでも何百万人もの人が過密東京から離れることが可能になります。企業の本社が東京に集中していますが、立法・行政機能が東京から地方に分散されれば、東京に本社を置かねばならない必然性はなくなり、これまた膨大な人口の分散に繋がります。また東京には日本の半分くらいの学校が集中していますが、教育のテレワーク化は一概には言えない問題です。すなわち簡単に断定できない問題です。

 この教育問題を具体的事例として、人の接触の必要有無を考えてみたいと思います。教育対象をゼロ歳児保育から大学院教育まで広く検証するとして、義務教育までは実際に体に触れる必要があるので要接触型でしょう。高校生から大学院までは良い悪いは別にして現状ではほぼ知識教育であり、非接触でもほとんどが可能なので、非接触型に仕分けして妥当でしょう。これらに対して小・中学校の義務教育は接触か非接触かの線引きが難しい対象になります。その理由は、知識教育のみならず精神教育(心の教育・情操教育)がそのコンテンツとして求められているからです。

 精神教育(心の教育・情操教育)がテレワークでできない接触型であると定義するには少し説明を要します。

 

 この図の左の相対樹領域は知性の領域であり、知識の習得はこのジャンルでできますが、心の教育や情操教育は右側の絶対樹すなわち感性の場・人格の場に行かなければ実施できません。この感性教育の中でも非接触で相当まで進められる部分もありますが、物理的に身体に触れると云うことではありませんが、面と向かって対応しなければならないということでテレワークでは肝心なところはできないものです。人格形成に関わるところは接触型でなければ深いところには行けないのです。もちろん指導する先生の感性が深く磨かれていなければならないのはもちろんです。

 こういう接触型の精神教育に加えて体育などは物理的に身体に触れるとか、集団での修練も必要な場合もあり接触型でなければならないと考えられます。したがって、小・中学校の義務教育は生徒が学校に集まる必要があり、A I がいくら進んでも学校に生徒が集合してやる教育形態は残ると考えられます。また0歳児から小学校までもできるだけ地域に密着した施設が必要であり今後とも充実させて残す必要があります。そしてこれら以外の高校・大学はほとんどがテレワーク型に移行できると考えられます。したがって公立私立を問わず、大学を中心として都市から地方への移転は可能であります。これでまた大都市の分散化が進みます。

 人と人の繋がりにおいて非接触でも繋がりを保てるものはスマホのようなよりパーソナルな形で利便性や機能性をより充実させつつ過密を避けた生活圏の構築を進める一方、教育関係特に人格形成に関わる接触型の文明は今以上に分散地域毎に充実が図られてゆかなければならないと考えます。

 コロナ・パンデミックの災いを教訓として、人類の進むべき非密集地域作りの方向を考えこれを共有し歩み始めたいものであります。

 

2020.04.29 Wednesday

芭蕉『笈の小文』より 

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芭蕉『笈の小文』より

杉山呼龍

 

 

 『笈の小文』とは、芭蕉が、多くの人に見送られて江戸を発し、須磨・明石を経て京に至る旅日記である。この文章が重要であるのは、芭蕉が仏頂和尚に嗣法した直後の旅の文章であるからだ(書かれたのは旅の数年後)。

 

 途中故郷の伊賀上野で

 

    旧里や臍の緒に泣 としの暮

 

と詠んで懐旧の思いを凝らした。伊勢で落ち合った、万菊丸と名乗った弟子の杜国(とこく)と共に吉野の桜を見ようとする思いを、笠に落書きした。

 

    よし野にて桜見せふぞ檜の木笠  風羅坊

    よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸

 

(風羅坊は芭蕉のこと)そして途中荷物が多くてほとんど捨て去って軽くなったのだが、足弱く疲れて道ははかどらず

 

    草臥(くたびれ)て宿かる比や藤の花

 

と詠み、吉野の龍門の滝では

 

    ほろほろと山吹ちるか滝の音

 

の句を残し、吉野には三日滞在した。そして高野山に寄って和歌の浦まで来て、次の文がある。今回取り上げる一文である。

 

「跪(きびす)はやぶれて西行にひとしく、天龍の渡しをおもひ、馬をかる時はいきまきし聖(ひじり)の事 心にうかぶ。山野海浜の美景に造化の功を見、あるは無依の道者の跡をしたひ、風情の人の実(まこと)をうかがふ。猶、栖(すみか)をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の愁もなし。」

 

 芭蕉の文章には至るところに西行があり、至るところに禅の余薫がある。

 

 この文は解説を参考にしないとわかりにくい。「天龍の渡し」というのは、西行が天龍川の渡船場で、頭を鞭打たれて下船させられたが、仏道修行だとして少しも怒らなかったという「西行物語」の故事である。芭蕉は、かかとがやぶれて痛い時に、西行の「天龍の渡し」の苦しみを思って耐えているということである。

 

 また「馬をかる時は、いきまきし聖(ひじり)の事 心に浮かぶ」。これは、高野山の証空上人が、馬上から堀に落とされて大いに怒っていきまき、後に自らの愚かさに気付き恥じて逃げ帰ったという故事(徒然草百六段)を、自分が馬を借りて乗るときには思い出すということ。芭蕉はつねに、西行や徒然草によって自らを反省していることが窺われる。

 

 「山野海浜の美景に造化の功を見」とある造化とは、禅家においては仏性の言い換えであり、山野・海浜の美しい風景の背後に仏性を見て、大自然の成せるみごとさを思うということである。そして「あるは無依の道者の跡をしたひ」の中の「無依の道者」とは、臨済録にある「無依の道人」のことである。依って立つところを持たない真に独立した人間のことである。芭蕉は臨済録も読んでいたであろう。そのような人物を慕い、「風情の人の実(まこと)をうかがふ」ということであるから、風雅の人の真実に迫るということである。

 

 前者の「無依の道者」を「禅」と解釈し、後者の「風雅の人の真実」を「俳諧の道」と考えれば、禅と俳諧は一致し、「俳禅一味」が成り立つ。そしてその心は、次に「猶、栖(すみか)をさりて器物のねがひなし。空手なれば途中の愁もなし」と言うように、家も持たず、器物も持たず、手に何も持たずして旅を重ねて愁いもないという。まさにこれは禅者の境涯ではないか。

 

2020.04.15 Wednesday

コロナ・パンデミックと禅(その3)

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コロナ・パンデミックと禅(その3)

丸川春潭

 4月2日、12日につづき、コロナ・パンデミックについて考察します。

 12日(その2)のブログでは、コロナ・パンデミックが現代の地球人が未だかって経験したことのない「差別をしない社会現象」であるという切り口での評論でした。

 今日は、新型コロナ対策ということによって、人間社会全体で「人と人の接触を最小限にする社会現象」を現出させたという切り口で考えて見たいと思います。これまた現存する人類が経験したことがない事象ではないかと思います。

 人間は社会的動物であり、複数の集まりすなわち群れを形成してこその人間であり人類であります。新型コロナの蔓延を防ぐには人と人の接触を断つことだけが唯一の有効な施策であると為政者及び医系専門家が異口同音に言っています。安倍首相は非常事態宣言を発出し、できたら人の接触を80%削減したいと国民に訴えています。日本は他国と比べて拘束力を持たない甘いというか緩い政策で行こうとしています。欧米では軒並み拘束力を強めた施策を出しており、夜の宴会をした市長の奥さんでさえ禁固365日か数十万円の罰金刑になるかも知れないというニュースも出ています。

 夜の接待・宴会とかカラオケやパチンコなどはなくても生活できるし、コンサートとかライブは少しの間辛抱すれば良いけれど、そして官庁や大会社の本社機能は在宅勤務でのテレワークで7割の通勤出社は不可能では無いでしょうが、中小企業のメーカーの仕事は未だAI化にはほど遠く、機械を動かす職工がいなければ生産はできない。休業補償が喧々諤々論議されているところであります。

 このブログではこういう社会現象から少し離れてマクロ的に見て考えてみたいのです。こういう人の接触を極力少なくしなければならない、断たねばならないということによって、改めて人の接触の本質的な価値が問われてくると考えます。すなわち人と人の接触がなくても可能な事柄を全部洗い出しそぎ落とした後に、どうしても人と人の接触がなければならないものが残る、その残ったものをしっかりと見究めなければならない。

 これからの来たる社会を考えても、ITが発達し、AI(人工知能)が社会にどんどんはめ込まれて行けば、人と人の接触は大きく変容するでしょう。5G時代になって究極のテレワーク機器が行き渡れば、人が集まってしなければならない仕事は激減するでしょう。今、国や東京都が閉鎖を要請している学校や塾も遠隔授業が普及すると日常化してくるであろうし、映画館や劇場とか美術館もネット配信などを駆使しすれば、電車に乗って人の肩越しから見るのではなくゆったりと在宅でその目的が達せられると云うことになります。そうするともちろん箱物としての建物がかなりの割合で不用になってくるのみならず人が移動するためのインフラもスケールダウンが可能になってきます。人が集まらなければできない仕事や活動や娯楽を含めた都市機能の中でどうしても残るものは何なのか考察する必要があります。 

 体の機能に触れなければならない病院業務とか身体に触らなければならないマッサージや美容院や理髪店とかは接触をなくするわけにはいかない。シェフとか料理人のできたての料理はそこに行かねば食べられないでしょうが、昨今オンライン宴会があちこちでやられ始めており、オンラインバーまで出現してきています。

 このようにネットとかテレワークを最大限活用して、遠隔での人と人のコンタクトで事が済むものと、どうしても面と向かってすなわち人の接触がなければならない事をこの社会から洗い出し選別してみなければならない。そうすることによりその先に見えてくるものは、今のような過密な都市というものから大きく変容した社会が見えてくるのではなかろうか? すなわち新型コロナによるパンデミックは、人口の集中化の方向を逆転する切っ掛けを作ることになるのではないだろうか? という考えに到ります。

 さらに考えてみれば、朝晩の東京の満員電車は人間の自然の生活としては異常状態ではないか? 都会の人間はこういう異常な過密状態に慣れてこれが当たり前になっているけれども、人間の自然としてこういう都市での過密状態は不自然ではないかということです。ウイルスは自然であり自然に振る舞うだけなのが、人間があまりにも不自然な状態(過密すぎる生活)だからそこに他(ウイルス)の自然と軋轢が生じているのが、現在のコロナ・パンデミックではないか。人間はそれをウイルスとの戦争だと云いますが、ウイルスの方から見れば不自然(過密都会)は所詮長続きするものではなく何れは破綻するものであり、自然(非過密)に戻れば良いのだと笑っているのでは無いだろうか?

 地球上の人類の文化が中途半端な現段階では、人口集中という非自然・反自然・不自然な状態であるが、それが未だ中途半端な段階であるからであり、自然に戻れば(過密を避けた生活圏の構築ができれば)、自然(ウイルス)との折り合いも平和裏につくのではないか。まさに人類が次の段階に進む方向をウイルスという自然が指し示しているのではなかろうか? 皆さんのご意見をお待ちします。 合掌

 

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